古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

吉備津の釆女挽歌考

2022年05月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻第二の挽歌に、宮仕えをしていた采女の死を悼む歌がある。稲岡1985.の訳を添え載せる。

  吉備津の釆女のみまかりし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首〈并せて短歌〉〔吉備津釆女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉〕
 秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲縄たくなはの 長き命を 露こそば あしたに置きて ゆふへは 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝は すといへ 梓弓 音聞く吾も おほに見し こと悔しきを 敷栲しきたへの 手枕たまくらまきて 剣太刀 身にへ寝けむ 若草の そのつまの子は 寂しみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと〔秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者何方尓念居可栲紲之長命乎露己曽婆朝尓置而夕者消等言霧己曽婆夕立而明者失等言梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎布栲乃手枕纒而劔刀身二副寐價牟若草其嬬子者不怜弥可念而寐良武悔弥可念戀良武時不在過去子等我朝露乃如也夕霧乃如也〕(万217)
  短歌二首〔短歌二首〕
 楽浪ささなみの 志賀津の子らが〈一に云はく、志賀の津の子が〉 罷道まかりぢの 川瀬の道を 見れば寂しも〔樂浪之志賀津子等何〈一云志賀乃津之子我〉罷道之川瀬道見者不怜毛〕(万218)
 そら数ふ 大津の子が 逢ひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき〔天數凡津子之相日於保尓見敷者今叙悔〕(万219)
 秋山の色づくように美しい妹、なよ竹のようにしなやかな妹は、どのように思ってか、栲縄のように長い命であるものを、露ならばこそ朝において夕方には消えるというが、霧ならばこそ夕方に立って朝は消えるというが、(梓弓)噂をきいているわたしも、生前にしみじみ見なかったことが悔まれるものを、(敷妙の)妹の手枕をして剣大刀のように添い寝をしたであろう(若草の)その夫の身としては、どれほどさびしく思って寝ているだろうか。どれほど悔しく思って恋い慕っているだろうか。思いがけない時にこの世を去って行った妹がまるで朝霧のように、夕霧のように。(万217)
 楽浪の志我津の采女のこの世を去る道とした川瀬の道を見ると心さびしい。(万218)
 (そら数ふ)大津の宮の采女と逢った時に心をとめず見たことが今になって悔やまれる。(万219)

 この一連の歌について問題点とされるのは、これがいつ歌われた歌なのか、万217番歌に「吾」と出てくるのと「夫」とあるのとの関係について、同じく「髣髴」は旧訓ホノカニをオホニと改めている点とその義について、また、吉備津采女の名が転じているところである(注1)。澤瀉1958.の検討は理解に資するものである。「飛鳥藤原の御代の采女が、たとひ辞任後といへども近江に住むといふ事は納得のゆきかねる事である。近江朝の采女が、廃都の後も夫と共に大津に住みついたといふのならば一応わかる。しかしそれだと天智十年に十七歳の妙齢であつたとしても持統元年には既に卅三歲になつてをり、情熱の歌人をして「秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは……時ならず 過ぎにし子らが……」と歎ぜしめる魅力はないはずである。まして同棲十幾年のふる妻となつては「露こそは 朝に置きて 夕は 消ゆといへ」といふはずもないのである。それに天下の名妓が美女として世にもてはやされるのは「妓」である間であって、何々夫人となってしまってはもはやニュースバリューは無くなり、「おほに見し 事悔しきを」などとは考へないのである。これはやはり現采女でなければならぬ。さて現采女とすれば飛鳥藤原の采女が近江に住むはずはなく、」(480頁)という推測は正しいであろう。
 澤瀉氏は、結論としては近江朝時のことについて仮託、創作した歌であるとしているが、そんなことはされない。記憶は風化するからである。伝説になっていたとする説があり、同類に真間娘子(ままのをとめ)、葦原処女(あしはらをとめ)の例を挙げるが誤りである。題詞に、「勝鹿の真間娘子の墓を過ぎし時に山部宿禰赤人の作る歌」(万430)、「葦原処女の墓を過ぎし時に作る歌」(万1801)などとあり、墓を見て想を得ている。万217番歌は、「吉備津の釆女の死りし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」と、死亡時点で作っている。すなわち、標目にある「藤原宮御宇天皇代」、持統天皇の御代のはじまる686年以降、亡くなったその時点で作られた歌である。長歌と短歌を別の時期とする根拠はなく、配列の理由が現代人にとって不審なばかりである(注2)。万葉集の編纂時点で不審であるなら、左注に説明があっても不思議ではないがそれもない。今日理解できていないだけのことを、人麻呂の表現の技法が巧みであったからとする議論をしてみても、虚構を積み重ねているばかりである(注3)
 題詞に説明がないのだから、采女は藤原京に生きていた人であり、同時代、同時期、死後数日のうちに歌にしたものが万217~219番歌であると考えなければならない。もとは「吉備津采女」と出身地をもって呼ばれていた者が、なぜか「志賀津の子ら」、「志賀の津の子」、「大津の子」と呼ばれるようになっていたということである。後者の呼び名群に冠せられた理由は、時代を遡って近江朝のことではないから、なぜならそれではわからないから、地名に由来するのではなく、彼女を抱いた相手の男性に関係してのことと考えるべきであろう。後宮に奉仕する采女と「手枕まきて」「身に副へ寝けむ」ことはあってはならないことであり、「その嬬の子」たる男性は罪人である。当時にあって該当する人物は一人しかいない。大津皇子である。この歌群は、オホを歌うための歌である。
 美人で評判の采女を大津皇子が姦通した。穏便に済まそうとすればできないことはないが、彼女は自殺してしまい事が露顕した。恋敵もいたようである。誰か。草壁皇子、時の皇太子である。その後の経緯は紀に端的に記されている。

 是の時に当りて、大津皇子、皇太子ひつぎのみこ謀反かたぶけむとす。(天武紀朱鳥元年九月)

 「是時」とは、天武天皇の殯(もがり)の時である。大津皇子は朝廷に対して謀反を起こしているのではなく、皇太子に対して謀反を起こしている。政権を傾けようとしたのではなく、兄弟げんかをしたのである。いずれも天武天皇の皇子であるが、大津皇子は早く亡くなった大伯皇女の子であり、草壁皇子は鸕野皇女、すなわち天武天皇の皇后で、持統天皇になる人の子である。大津が兄で、草壁は弟だが、皇后の子が皇太子の位に就いている。バックアップしてくれる人がいるのといないのとでは大違いである。公平に見ようとしていた父、天武天皇は亡くなってしまった。

 冬十月の戊辰の朔にして己巳に、皇子大津、謀反みかどかたぶけむとして発覚あらはれぬ。皇子大津を逮捕からめて、并せて皇子大津が為に詿誤あざむかれたる直広肆ぢきくわうし八口朝臣音橿やくちのあそみおとかし小山下せうせんげ壱伎連博徳ゆきのむらじはかとこと、大舎人おほとねり中臣朝臣臣麻呂なかとみのあそみおみまろ巨勢朝臣多益須こせのあそみたやす新羅沙門しらきのほふし行心かうじむ、及び帳内とねり礪杵道作ときのみちつくりたち、三十余人をからむ。庚午に、皇子大津を訳語田をさだいへ賜死みまからしむ。時に年二十四なり。みめ皇女ひめみこ山辺やまのへ、髪をくだしみだして徒跣そあしにして、はしりてきてともにしぬ。見るひと歔欷なげく。皇子大津は、天渟中原瀛真人天皇あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと第三子みはしらにあたりたまふみこなり。容止みかほたかさがしくして、音辞みことば俊れあきらかなり。天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことの為に愛まれたてまつりたまふ。ひととなるいたりてわきわきしくして才学かどす。尤も文筆ふみつくることこのみたまふ。詩賦のおこり、大津より始れり。丙申に、詔して曰はく、「皇子大津、謀反けむとす。詿誤かれたる吏民つかさひと・帳内は已むこと得ず。今皇子大津、已に滅びぬ。従者ともがら、当に皇子大津にかかれらば、皆ゆるせ。但し礪杵道作は伊豆にながしつかはせ」とのたまふ。又、詔して曰はく、「新羅沙門行心、皇子大津謀反けむとするに与せれども、われ加法つみするに忍びず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)

 9月24日に「大津皇子謀-反於皇太子」、10月2日に「謀反発覚」、あざむかれた関係者三十余人を逮捕、翌3日に大津皇子は自宅で自害させられている。そのとき、夫人の山辺皇女は錯乱して後追い自殺している。10月29日には関係者のほとんどを免赦している。流罪になったのは帳内の礪杵道作と新羅の沙門の行心である。礪杵道作はその名から采女との密通に導いた人物と目され、行心も同様であったということであろう(注4)。采女を姦淫したのは罪であるが、死なせるほどのことかどうか意見は分かれたであろう。山辺皇女まで巻き込んでしまった。大津皇子にあざむかれたとされる関係者三十余人も、ほとんどが事情を知ったときにもみ消そうとした人だったのであろう。采女自身の自殺によって知れ渡ることになった。その“記録”が万217~219番歌である。
 そう言い切れるのは、上にあげた「吉備津采女」→「志賀津の子ら」、「志賀の津の子」、「大津の子」という名の変更ばかりではない。万217番歌の歌い始めの「秋山の下へる妹」にある。この句には類句がある。万16番歌の「春秋競憐歌」の「秋山の木の葉を見ては」、「秋山吾は」であり、それは応神記に所載の説話を典故としていた。「秋山之下氷壮夫あきやまのしたひをとこ」と「春山之霞壮夫はるやまのかすみをこと」の兄弟げんかの話である(注5)。秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫は兄弟の間柄である。「伊豆志袁登売いづしをとめ」という女神がいて、大勢の神々がプロポーズしてはみな振られていた。兄の秋山之下氷壮夫もその一人であった。兄は弟の春山之霞壮夫に向って、もしお前が伊豆志袁登売と結婚することができたら何だって呉れてやるよと言った。春山之霞壮夫はそのことを一部始終母親に話し、その晩、母は「藤のかづら」を使って衣服や弓矢を作った。そして次の日に、春山之霞壮夫を伊豆志袁登売のもとへやった。すると衣服も弓矢も藤の花に変わった。藤の花を洗面所に掛けておいたところ、不思議に思った伊豆志袁登売は部屋に持って入った。あとをついて行って契りを交わし、一人の子が生れた。
 帰ってきて兄の秋山之下氷壮夫に婚姻がうまくいったことを話したが、兄は約束を果たさなかった。弟の春山之霞壮夫は母親に相談した。母は、神々にならって行動しない兄を怨み、石に塩をまぶして竹の皮にくるんだ。そして、弟に呪(のろ)いの言葉を言わせた。この竹の葉が青いように、妻えてしおれるように衰えてしまえ、塩に水気が奪われて干からびるように痩せこけてしまえ、石が沈むように病に臥せてしまえというのであった。兄の秋山之下氷壮夫は八年にわたって病み衰え、泣いて許しを請うた。母は呪いの石を取り除き、兄の体は元通りになったという。
 この三者関係に基づいて天智天皇と大海人皇子(後の天武天皇)、母親の斉明天皇のことが位置づけられて万16番歌、春秋競憐歌は額田王によって歌われていた(注6)。天智天皇の気持ちを代弁するように「判之歌」となっていた。誰が事を割ったか。「吾」であった。額田王が天智天皇自身が口憚られることを代弁し、神の言葉のように下していた。お題に沿った解答を提示している。
 いま、大津皇子、草壁皇太子、持統天皇の三者関係も同じ型にすっぽりとおさまる。兄に対して恨みを持った弟が母親に泣きついてその助力を得て兄を苦しめるというものである。秋山之下氷壮夫に当たる兄なる大津皇子と床を共にした吉備津采女は、周りの人、同僚の采女たちや草壁皇太子から責められることになって自殺した。何事があったかと事情が尋ねられて事が明るみになった。事態は重大であった。柿本人麻呂は、かつての額田王のように「吾」として登場し、「おほに見し」と遠くから見たように歌っている。万219番歌に、「大津の子」→「おほに見し」とつなげているのは、実のところ「おほ」と歌うことで「大津の子」を導きたいからである。真犯人告発の様相を呈している。「いかさまに 思ひをれか」は、交わってはならない決まりをなぜ破ったかという意味でもある(注7)。敬語表現を伴わずに述べているのは采女の身分が低かったからであろう。さらには事の顛末として、伊豆志袁登売に対応すべき人がいなくなってお話にならなくなっている。スキャンダルの情報拡散に大いに与った作と言えるだろう。

 このいさかいは謀反であると見なされた。見なしたのは草壁皇太子である。草壁皇太子が大津皇子による采女密通は謀反だと騒ぎ立て、いたたまれなくなって采女はほどなく入水自殺した。怒っている草壁皇太子のために詮議は始められ、10月2日に関係者一同は逮捕されている。万217~219番の人麻呂作歌は、挽歌として美貌で知られた采女の死を悼み、愛し合った大津皇子の気持ちを汲んでいるようでありながらよそよそしいものとなっている。作られたのは2日の日か、あるいはそれ以前で、この歌によって事件は人々に知れ渡ったのであろう。この辺の時間的な前後関係はなお明瞭に定められないが、草壁皇太子は、称制している実母の持統天皇にあらん限りの助力を求めたものと思われる。結果、天武天皇の子の長兄に「賜死」するに至っている。大津皇子は優秀で教養に長け、イケメンでもあった(注8)から、血筋上で皇太子の地位に就いていた草壁皇子には劣等感があったとも思われる。一時的な衝動から「賜死」と言ったら本当に自刃してしまった。それが3日のことである。妃である山辺皇女までとり乱し、後追い自殺することになった。大津皇子のことを心から愛していたのであろう。夫は謀反人として死罪になった。わが身は夫を満足させてあげられなかった。だから采女に手を出したのだ。捉えようによっては謀反の共謀者とさえ言えてしまう。これらはみな皇室内のもめごとである。誰も口出しできず、ただ「見者皆歔欷。」ばかりとなっている。歌においても、「音聞く吾も おほに見し こと悔しきを」(万217)、「見れば寂しも」(万218)、「おほに見しかば 今ぞ悔しき」(万219)などと言っているのは、低い身分の出でありながら、手出しのかなわないところにいる采女という存在の哀れさについて、適度な距離感を保って挽歌仕立てに歌っている。
 万217番長歌の冒頭、「秋山の したへる妹」は、秋山之下氷壮夫の捩りから生まれた詞である。シタフは色づく意と慕う意とを掛け合わせて用いられている。また、歌中の「音聞く吾も」思う「こと悔しき」と、「その嬬の子は」思う「悔しみ」とは、その内容に相違があると考えられる(注9)。「吾も……こと悔しきを」の「を」は接続助詞で、逆接に使われることが多い。「吾」は「おほに見し」と傍観者となりつつ、相手であったオホツノミコを引き出すためにかけ渡している。この歌において秀逸な表現法を見出すとするなら、その語呂合わせこそあるといえる。
 万219番の反歌は、訓みに再検討が必要であろう。一句目の「天數」は旧訓にアマカゾフとあったのをソラカゾフとしている。暗算をするかのようにソラで数えると大雑把になるから、オホ(凡)に掛かるのだという考えである。しかし、カゾフという語は、声を出してひとつひとつ数えあげていくことをいう。一対一対応で数え出していっているわけだから、間違えることはない。ソラという語とカゾフという語は、相性のいい語ではない。万葉集で「天」字をソラと訓む例は「天尓満そらにみつ」(万29)が一例あるが、多いのは「天雲あまくも」、「天漢あまのがは」のようなアマ、「天下あめのした」、「天地あめつち」のアメ、また、万葉仮名の「」で、ほかにはわずかに「天皇おおきみ・すめろき」の例が散見される。この「天數」はアメカゾフと訓むべきと考える。「天之四具礼能あめのしぐれの」(万82)とあり、アメ(雨)とアメ(天)は同根の語である。雨を数えること、雨粒を数えることは漠としていて厖大であり、オホ(大)であり、オホ(凡)である。しかも、この歌は万217番歌の反歌である。万217番歌の長歌に用いているのは方便で、秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫にある「氷」や「霞」に由来している。それが万218番歌では、「川瀬」となって急流を作り、万219番歌では河口の「大津」に集約している。
 
 雨数ふ 大津の子が 逢ひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき〔天數凡津子之相日於保尓見敷者今叙悔〕(万219)

 歌人としてデビューし始めたころの作とおぼしき柿本人麻呂の「吉備津釆女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」は、朱鳥元年9月24日から10月2日に作られ披露されたのであろう。それが世情にどのような、そしてどれほどの波紋を呼んだのかわからないが、さらに人を死なせることにつながっている。門付けの御用歌人としての役を担った人麻呂としては、歌を貴人の用命で歌ったものが多く残されており、自らのための歌、また、数多くの習作が、万葉集中に入り乱れている。この歌は、その内容からみれば、吉備津采女が入水自殺したことを嘆き、遺された「夫」君である大津皇子のことを詠みこんだものではある。けれども、大津皇子の周辺から望まれて作られたというよりは、宮廷の中枢、持統天皇や草壁皇太子の命を受けたものに思われる。それがうまくいけばいくほど、そのなかで歌われている「言」は「事」として顕現化した。秋山下氷壮夫の運命に大津皇子は渦巻かれて行った。宮廷社会の人々は、そういう三者関係にあるとつねづね捉えていたから、歌が歌われたときにすぐ受けいれられ、まったくそのとおりだと世間に確認され、事態は急展開して行ったのであろう。
 問題の三者関係へのなぞらえは、政権、草壁皇太子にも禍根を残した。痴話話から律令の定めを厳格に当てはめるような度量の狭い人間に人望は集まらない。皇太子であったが即位には至らず、天武天皇の皇后が称制を続け、草壁皇太子自身は先に亡くなってしまった。朱鳥三年四月のことで、持統天皇は翌四年正月に正式に即位している。
 歌はうまければいいというものではない。政治的にさえ影響力を持つ。注文主の意向を汲みさえすればいいというものでさえないようである。歌の表現方法について今日の人の立場から傍観して評価することはいくらでも可能であるが、当時の人の現実の受け取り方とは次元が異なることも間々あるであろう。「わかる」とは何かについて考えなければならない。

(注)
(注1)他にも問題とする論考は見られるが、本稿の主旨と関わってこない。例えば、長歌に霧や露の譬喩がある。はかなくも美しいところが美人薄明にかなっているといった評がされている。
(注2)佐佐木2000.は、「作者が、なぜそのような大きな時間の幅を設定するかたちで長歌と短歌を組み合わせたのか、そのような時間の幅をふくむ三首が「吉備津の采女の死にし時に、…」という題詞のもとにかかげられることに問題はなかったのか、などといった疑問は依然として未解決のままに残っていると見なければならず、その点は今後の研究に待つしかない。」(143頁)としている。
(注3)身﨑1982.、神野志1992.、菊川1999.、高桑2016.、飯泉2020.など参照。
(注4)拙稿「大津皇子辞世歌(「ももづたふ 磐余の池に」(万416))はオホツカナシ(大津悲し・覚束なし・大塚如し)の歌である論」参照。
(注5)応神記の秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の兄弟の確執話は次のとおりである。

 故、玆の神のむすめ、名は伊豆志袁登売神いづしをとめのかみいましき。故、八十神やそかみ、是の伊豆志袁登売を得むと欲へども、皆ふこと得ず。是に、ふたはしらの神有り。は秋山之下氷壮夫とひ、おとは春山之霞壮夫とふ。故、其の兄、其の弟に謂はく、「あれ、伊豆志袁登売を乞へども婚ふこと得ず。なれ、此の嬢子をとめを得むや」といふ。答へて曰く、「易く得む」といふ。爾くして、其の兄曰く、「若し汝、此の嬢子を得ること有らば、上下かみしも衣服ころもり、身のたけを量りてみかの酒を醸み、亦、山河の物をことごと備設けて、うれづくをむ」といふ。云ふことしかなり。
 爾に、其の弟、兄の言の如、つぶさに其の母に白す。即ち其の母、ふぢかづらを取りて、一宿ひとよの間に、きぬはかましたぐつくつとを織り縫ひ、亦、弓・矢を作りて、其の衣・褌等をせ、其の弓・矢を取らせて、其の嬢子の家につかはせば、其の衣服と弓・矢と、悉藤の花に成れり。是に、其の春山之霞壮夫、其の弓・矢を以て嬢子の厠にけき。爾に、伊豆志袁登売、其の花をしと思ひてち来る時に、其の嬢子のしりへに立ちて其の屋に入り即ち婚ひき。故、一の子を生みき。
 爾に、其の兄に白して曰はく、「吾は伊豆志袁登売を得つ」といふ。是に、其の兄、弟の婚ひしことを慷愾うれたみて、其のうれづくの物をつくのはず。爾に、愁ひて其の母に白す時に、御祖の答へて曰く、「我が御世の事、能くこそ神を習はめ。又、うつしき青人草を習へや、其の物を償はぬ」といひて、其の兄の子を恨みて、乃ち其の伊豆志河いづしかはの河島の一節竹ひとよだけを取りて八目やめ荒籠あらこを作り、其の河の石を取り、塩にへて其の竹の葉につつみ、とごはしむらく、「此の竹の葉の青むが如、此の竹の葉のしなゆるが如、青み萎えよ。又、此の塩の盈ちるが如、盈ちよ。又、此の石の沈むが如、沈み臥せ」といふ。如此かく詛はしめてかまどの上に置きき。是を以て、其の兄、八年の間、萎え病み枯れぬ。故、其の兄、患へ泣きて其の御祖にまをせば、即ち其の詛戸とごひとを返さしめき。是に、其の身は本の如、安く平らけし。此は、かむうれづくのことの本なり。(応神記)

(注6)拙稿「額田王の春秋競憐歌について─万葉集16番歌─」参照。万16番歌は次のとおりである。

 近江大津宮御宇天皇代〈天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことおくりなして天智天皇てんちてんわうと曰ふ〉〔近江大津宮御宇天皇代〈天命開別天皇謚曰天智天皇〉〕
 天皇の内大臣うちつおほまへつきみ藤原朝臣に詔して、春山の万花ばんくわうるはしきと、秋山の千葉せんえふいろどりとをきそあはれましめたまふ時、額田王ぬかたのおほきみの、歌を以てこれをことわる歌〔天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌〕
 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山そあれは〔冬木成春去来者不喧有之鳥毛来鳴奴不開有之花毛佐家礼杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曽思努布青乎者置而曽歎久曽許之恨之秋山吾者〕

(注7)村田2004.は、「「おほに見」たことを「悔し」と感じる話者は決して女性の死を嘆いていない。生前の女性をわずかしか見られなかったことへの自己完結した感情といってよかろう。……女性の死を嘆くことが前提となっている夫[=嬬]の嘆きが冒頭からの表現に託されているとすると、「我[=吾]」はそれに同調することなく、「おほに見し」ことを悔やむ存在として夫の嘆きから異化しているのである。」(170頁)と指摘する。ただ、「「思ひ居れか」は敬語をともなうことなく使用されており、女性[=采女]と当該歌の話者との間の近親性を証する。」(168頁)とある点は、「おほに見し」だけの間柄であった点と矛盾する。一般に采女は、天皇(大王)所有の女性であることから、姦淫のみならずプラトニックな心情を含め、かかわりを持てば 「姦」 の罪に問われたとされている。紀では允恭紀四十二年十一月、雄略紀九年二月、同十二年十月、同十三年三月、舒明紀八年三月に記述が見られ、万葉集では巻第四、万534・535番歌左注に、「右は、安貴王あきのおほきみ、因幡八上釆女をきて、係念おもひ極めて甚しく、愛情尤も盛りなりき。時に勅して不敬の罪にさだめ、本郷もとつくに退却まからしむ。是に王、こころを悼みかなしびて聊か此の歌を作れり。」とある。
 村田2004.は、「結果的には、当該歌の話者は女性の死を歌うことはあってもその死を嘆くことはなく、自己完結した心情表現に終始することになり、とある男が愛する女性を死なせてしまったという出来事そのものを嘆く歌として成立する。それは、これまでの挽歌とは一線を画しているといわざるを得ない。人の死を悼むものであったはずの挽歌が人の死を歌う歌へと変質する相貌を見て取れる。当該歌は偲ひの文学としての挽歌からの離陸と位置付けられよう。挽歌という表現の枠組みが歌の方法として相対化された瞬間といってもよい。」(182頁)とする。当該歌に対する捉え方はともかく、「挽歌」概念が当初に人の死を悼むものであったのか、実は当時の人に聞いてみなければわからないことである。万葉集に初めて記載されている「挽歌」は、巻第二の有間皇子自傷歌である。謀反の廉で捕らえられた人が、政権に対して歌った皮肉な歌である。拙稿「「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について」参照。死罪となり、結果的に辞世の歌になっている。
(注8)持統紀以外には、懐風藻に描写されている。「[大津]皇子は浄御原の帝の長子なり。状貌魁悟じやうぼうくわいご器宇唆遠きうしゆんゑん、幼年にして学を好み、博覧にして能く文をしよくす。壮なるに及びて式を愛し、多力にして能く剣を撃つ。性頗る放蕩にして法度に拘らず、節を降して士を礼す。是に由りて人多く附託す。時に新羅の僧行心といふもの有り、天文ト筮を解す。皇子に詔げて曰く、「太子の骨法、是れ人臣の相にあらず、此れを以て久しく下位に在るは、恐らくは身を全うせざらん」と。因りて逆謀を進み、此の詿誤かいごに迷ひて遂に不軌を図る。嗚呼惜しいかな。彼の良才をつつみて忠孝を以て身を保たず、此の姧豎かんじゆに近づきて、つひ戮辱りくじよくを以て自ら終る。古人交遊を慎しむの意、因りておもひみれば深きかな。時に年二十四。」。同じ懐風藻には、大津皇子の「逆」について、河島皇子が変を告げたと記されている。 「[河島]皇子は淡海帝の第二子なり。志懐温裕しくわいをんゆう局量弘雅きよくりようこうが、始め大津皇子と莫逆ばくぎやくの契りを為し、津の逆を謀るに及びて、島則ち変を告ぐ。朝廷其の忠正を嘉し、朋友其の才情を薄んずこと、議者未だ厚薄を詳かにせず。」
(注9)村田2004.参照、すでに(注7)に触れている。

(引用・参考文献)
飯泉2020. 飯泉健司『王権と民の文学─記紀の論理と万葉人の生き様─』武蔵野書院、2020年。
稲岡1985. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第二』有斐閣、昭和60年。
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身﨑1982. 身﨑壽「吉備津采女挽歌試論─人麻呂挽歌と話者─」『国語と国文学』第59巻第11号、1982年11月。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。

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