神武天皇の東征において、エウカシを成敗して歌った歌として、ほとんど同じ形の記9番歌謡と紀7番歌謡が歌われている。
故爾くして、宇陀に兄宇迦斯・弟宇迦斯の二人有り。故、先づ八咫烏を遣して、二人に問ひて曰はく、「今、天神御子、幸行しぬ。汝等、仕へ奉らむや」とのたまふ。是に、兄宇迦斯、鳴鏑を以て其の使を待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちし地を訶夫羅前と謂ふ。「待ち撃たむ」と云ひて、軍を聚む。然れども、軍を得聚めねば、「仕へ奉らむ」と欺陽りて、大殿を作り、其の殿の内に押機を作りて待つ時、弟宇迦斯先づ参向ひて、拝みて白さく、「僕が兄、兄宇迦斯、天神御子の使を射返し、待ち攻めむと為て軍を聚むるに、得聚めねば、殿を作り、其の内に押機を張りて、待ち取らむとす。故、参向ひて顕し白す」とまをす。爾くして、大伴連等が祖道臣命・久米直等が祖大久米命の二人、兄宇迦斯を召して罵詈りて云はく、「いが作り仕へ奉れる大殿の内には、おれ先づ入りて、其の仕へ奉らむと為る状を明し白せ」といひて、即ち横刀の手上を握り、矛ゆけ、矢刺して、追ひ入れし時に、乃ち己が作れる押に打たえて死にき。爾くして、即ち控き出して斬り散しき。故、其地を宇陀の血原と謂ふ。然くして、其の弟宇迦斯が献れる大饗は、悉く其の御軍に賜ひき。此の時に歌ひて曰はく、
宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る 前妻が な乞はさば 立ち蕎麦の 実の無けくを こきし削ゑね 後妻が な乞はさば いち榊 実の多けくを こきだ削ゑね ええしやごしや 此はいのごふぞ ああしやごしや 此は嘲咲ふぞ(記9)
故、其の弟宇迦斯、此は宇陀の水取等が祖ぞ。(神武記)
秋八月の甲午朔にして乙未に、天皇、兄猾及び弟猾を徴さしむ。猾、此には宇介志と云ふ。是の両人は、菟田県の魁帥なり。魁帥、此には比登誤廼伽弥と云ふ。時に兄猾来ず。弟猾即ち詣至り。因りて軍門を拝みて告して曰さく、「臣が兄兄猾之の逆をする状は、天孫到りまさむとすと聞りて、即ち兵を起して襲はむとす。皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼ぢて、乃ち潜に其の兵を伏して、権に新宮を作りて、殿の内に機を施きて、饗らむと請すに因りて作難らむとす。願はくは、此の詐を知しめして、善く備へたまへ」とまをす。天皇、即ち道臣命を遣して、其の逆ふる状を察めたまふ。時に道臣命、審に賊害之心有ることを知りて、大きに怒りて誥び嘖ひて曰はく、「虜、爾が造れる屋に、爾自ら居よ」といふ。爾、此には飫例と云ふ。因りて、剣案り弓彎ひて、逼めて催ひ入れしむ。兄猾、罪を天に獲たれば、事辞る所無く、乃ち自機を蹈みて圧はれ死ぬ。時に、其の屍を陳して斬る。流るる血、踝を没る。故、其地を号けて菟田の血原と曰ふ。已にして、弟猾大きに牛酒を設けて、皇師に労へ饗す。天皇、其の酒完を以て、軍卒に班ち賜ふ。乃ち御謡して曰はく、謡、此には宇多預瀰と云ふ。
菟田の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る 前妻が な乞はさば 立ち蕎麦の 実の無けくを こきし削ゑね 後妻が な乞はさば いち榊 実の多けくを こきだ削ゑね(紀7)
是を来目歌と謂ふ。今、楽府に此の歌を奏ふときには、猶手量の大きさ小ささ、及び音声の巨き細き有り。此、古の遺式なり。(神武前紀戊午年八月)
これらの歌の歌意については、上代文学の研究においておよそ理解に程遠いのが現状である。佐佐木2010.による記9番歌謡の現代語訳を例示する(注1)。
宇陀の小高くなった所に、鴫を捕らえる罠を張る。【すると】私が待つ鴫はかからず、(いすくはし)鯨がかかっている。前妻がおかずを要求なさったら、立ち枛棱のように身のないところをたんまり削ぎ切ってやれ。後妻がおかずを要求なさったら、柃のように身の多いところをたんまり削ぎ切ってやれ。ええ、しやごしや(これは相手に敵意を示すことばである)。ああ、しやごしや(これは相手をあざわらうことばである)。(25~26頁)
言葉がいくつか未詳である。それ以上に、どうしてこの箇所にこのような歌があっておさまっているのか、その肝心のところが探究されていない(注2)。
神武天皇時代のことである。ウダ(宇陀・菟田)というところへ皇軍が進んだ時、在地の首領にエウカシ・オトウカシという兄弟がいて、オトウカシは恭順したが、エウカシは歯向かおうとした。エウカシは傭兵を募ったが集まらず、天皇方は強そうだったのでまともに戦うのはやめ、殿舎を建てて中に罠を仕掛けて圧死させようと謀った。その陰謀をオトウカシが進言したので、天皇は家来を遣わしてエウカシに先に殿舎の中へ入るように強いたため、自分で作った罠に嵌って絶命している。その時に歌われた凱歌が、記9・紀7番歌謡である。
オシ(押機・押・機)は動物用の罠で、熊から鼠まで圧死させたり動けなくする装置である。罠の話だから、歌に鴫罠のこととなっている。どうして鴫が出てくるのか。ひとつには、ウダという地名が関係するのだろう。紀の用字では「菟田」とある。「田」字は猟のことも表し、田猟ともいい、「畋」とも書かれる。耕作と狩猟とは同じような生産方法と捉えられていたという。名義抄に「田 音填、和名タ、トコロ、ミツ、ノフ、カリ 和デム」とある。ウサギ狩りの猟場のことになる。あるいは、ウサギのことは一羽二羽と数えるように取り扱いされるから、田に鳥がいると見て取ることもできる。田の鳥としては、シギが頭に浮かぶ。
飛び翔る鴫を見て作る歌一首〔見飜翔鴫作歌一首〕
春まけて もの悲しきに さ夜更けて 羽振き鳴く鴫 誰が田にか住む〔春儲而物悲尓三更而羽振鳴志藝誰田尓加須牟〕(万4141)
鸗 玉篇に云はく、鸗〈音は籠、漢語抄に之岐と云ひ、一に田鳥と云ふ〉は野鳥なりといふ。(和名抄)
鸗シキ、野鳥也 鴫 同(色葉字類抄)
田鳥 シギ(鎮国守国神社蔵本名義抄)
「鴫」という字は国字であるが万葉集に例が見える。この字が上代から常用されていたとは言い切れないものの、田の鳥として認められていたことは確かなようである。シギが田鳥であると思われているということは、すなわち、猟で狩る鳥である。狩猟の方法としては、矢を射ることや鷹狩がある。ところが、記9・紀7番歌謡においては、鴫罠を張って捕まえようとしている。罠となる霞網や鳥黐を使って獲ることが行われていたようである。ちょっとした言葉のあやが生まれている。
この説話の初めに、記では「是に、兄宇迦斯、鳴鏑を以て其の使を待ち射返しき。」とある。「鳴鏑」は鏑矢のことで、穴をあけて音が鳴るようにした骨角器を矢の先に取り付けた矢である。戦を始める合図に使われた。天皇方の偵察である八咫烏に対して鳴鏑を射ているということは、最初から敵対すると宣言していることになっている。この鏑矢には、犬追物で使われるような先端に仕掛けのないもののほか、先がV字状で末広がりに反りかえった刃を備えたものがある。よく似たものに、鏑に孔を持たない目無鏑の矪矢がある。鏑部分は桐か檜製で、先は矪根と呼ばれる半月形の小雁股をつけている。水面を跳ね進むので水鳥や魚を射るのに用いるとされているが、元来は矢に糸をつけて鳥の体に巻きつき飛べなくして落とすことを狙ったものであった。弋射であり、いぐるみにして捕獲した。鳥の動きを封じ込めて捕獲するところは、霞網や鳥黐と原理を同じくする。獲物として動物を得ることは同じだが、狩りと罠とではその方法が違う。
左:鳴鏑矢(江戸時代、19世紀、水野かね子氏寄贈、東博展示品)、中左:鏑矢(伊勢貞丈・貞丈雑記、国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/610をトリミング接合等)、中右:矪矢(同https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/590をトリミング)、右:ソリハシセイタカシギ(東京ズーネット「動物図鑑」https://www.tokyo-zoo.net/encyclopedia/species_detail?species_code=404)
刃が反っている矢が使われている。ふつうの矢の先端、鏃は尖っていて突き刺さるようにできている。端が反っているのは例外的、特徴的である。そんな端を持っているものとして、嘴の反っている鳥がいる。ソリハシシギである。シギは田の鳥である。狩り、田猟にふさわしい鳥だと思しいから、罠を仕掛けていても、実際はともかく理屈の上ではかかるはずがないということになる。鏑矢を射ってくるほどだから、目には目を、歯には歯を、ハ(端)の反っている鳥にはハ(刃)の反っている矢を、で対処しなければならない。そういうジョークを言っている。
エウカシが皇軍に反抗していることを、クチバシが反っていることとして捉えている。歯向かうところがクチバシに現れているとしてエウカシの特徴を見てとっている。そんなクチバシの曲がった輩を罠に捕まえようとしても、田の鳥である鴫は捕まえられなかったが、自らが仕掛けたオシ(押機)にかかっている。当初、傭兵を集めようとして「将二待撃一」(記)と口走っていた。クチバシは災いの元である。
鴫罠にシギがかからなくてもかまわないのである。代わりにクヂラがかかっている。小山に作った城のところに張っている罠となる霞網に鯨がかかるはずはないのであるが、クチとの語呂合わせでかかりっこしない海の大きな魚を持ち出している(注3)。どうしてそれで話が通じるのか。
クチバシをモチーフとした話をしている。鯨の口の特徴としては、マッコウクジラのように口の中に歯を持つもの(ハクジラ)以外に、シロナガスクジラやザトウクジラのように口の中に歯がない代わりに歯ぐきが変化してできた鯨髭を持つもの(ヒゲクジラ)がいる。鯨髭でプランクトンをすき取って食べている。そのことは昔の人もよく知っていたことであろう。クジラ(鯨)の枕詞に「いすくはし」とあるのは、イ(接頭語)+スク(漉)+ハシ(嘴・喙)によると思われる。
そして、そんな鯨髭は古代から人に利用されていた。民芸品以外に実用品として使われた例として、鵜飼のツモソがある。鯨髭のばねのような反発性を活用し、鵜の首結いと手縄との間につなぎ入れ、縄が絡まないようにしていた(注4)。鵜が絞首しないための仕掛けに用いられていたのである。
左:ツモソ(セミクジラのヒゲ製、くじらの博物館デジタルミュージアムhttps://kujira-digital-museum.com/ja/categories/16/articles/)、右:手縄実測図(『長良川鵜飼習俗調査報告書』154頁)
歌では、「鴫罠張る …… 鴫は障らず いすくはし 鯨障る」と事情が連係されて表されている。鯨が鯨髭のことを暗示しているとすれば、鴫罠に鴫はかからないで、ツモソを付けた鵜がかかったと言っているのだと知れる。ソリハシシギのように上に反った嘴をしているのとは反対に、ウの嘴は下に曲がっている(注5)。シギが狩りに対応する鳥であったのに対して、ウは鵜飼を示している。鵜飼が鵜を操ることで、鵜が魚を捕ったものを人が横取りする。狩りをしようとした者が自ら狩られていることを自己撞着的に表した動物、それが鵜である。鵜は動的な罠のことなのだと言える。
鴫罠に目的の鳥はかからず、鳥ではなく鯨がかかったことを言うのに鵜が媒介となっている。自ら墓穴を掘ったのはエウカシという人物である。鵜は、鵜飼の猟をするために首結いや腹掛けでつながれている。まるで刑具につながれているようである。エ(枝)+ウ(鵜)+カシ(枷)から浮かぶイメージは、一人の鵜匠につながれて束ねられながら複数の鵜が枝分かれしている。個体ごとにそれぞれ別々に動くから、エウカシという人物は「待ち撃たむ」と言ってみたり「仕へ奉らむ」と言ってみたりしていたのだった。一貫性がなかったのは複数羽がつながれているさまを伝えようとするものである。
左:ウのくちばし(環境省「カワウとウミウの見分け方」https://www.biodic.go.jp/kawau/d_hogokanri/hunt_leaflet.pdf)、右:複数羽でする鵜飼(穐里籬島編・西邨中和画『木曽路名所図会』「長柄川鵜飼舩」、国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200017972/137をトリミング合成)
全体に、敵意や嘲笑を示す「しやごしや」の歌として、ひどく誇張した表現となっている。
すなわち、この歌は「しやごしや」の歌である。後半部の「前妻」「後妻」が「な乞はさば」について、「な」を「肴(菜)」と考えられてきた。しかし、「前妻」「後妻」と対に出てきているのだから、私のことを、私のことをと懇願しているものと見たほうが適当である。自分のことを「己」と言っていた形跡があり、旦那に取り入ろうとしているとしている言葉と考えられる。それに対して、主人はいずれの相手であれ求めに素直に答えないことを述べ、「しやごしや」の歌となっている。「前妻」「後妻」とも、その要求にまともに応じないことを歌っている。「立ち蕎麦の 実の無けくを」、「いち榊 実の多けくを」与えたといういずれも、嫌がらせをしているものと考えられる。名ばかりのものを与えることで、「己」の懇願に応えているというのである。
蕎麦の実が落ちてしまった後の蕎麦がらのついた枯枝は、食べることはできずにただ枕の中身ばかり充実させるものである。夜の相手だけしていればよいということである。榊にたくさん実がついているといっても食用にはならない。榊の実用性としては椿と同じく葉を焼いて媒染剤に使うことがある。しかし、実がたくさん着いていては焼き残った灰に媒染剤として役に立たない。おしゃれなどにうつつを抜かさず、お供えの木にふさわしく、主人を神と崇めて仕えていればよいということを言っている。年をとった女性の食べることばかりの欲望や、若い女性がおしゃれにうつつを抜かすことをさせないように対応し、相手の思惑を潰えさせようとしている。とても感じの悪い口答えをしていて、エウカシが曲がった口で曲がったことを言っていたことに対するに、目には目を、歯には歯を、くちばしにはくちばしをで応じたことに照応する。自ら仕掛けた罠に落ちた様子に対照しており、きわめて論理学的な問答として記9・紀7番歌謡は案出されていたとわかる。
(注)
(注1)近年著された口訳は次のとおり。
宇陀の高い砦に、鴫を捕る網を仕掛けて私が待っているとね、鴫は懸からずにね、いすくはし鯨が懸かったよ。前の妻がね食べ物を欲しいといったら、立っている蕎麦の木の実の少ないのをあげるよ。こきしひゑね。後添いがね、食べ物を欲しいといったら、いちさかきの実の多いのをあげるよ。こきだひゑね。ええ〈音を延ばす〉しやごしや。こはいのごふそ〈この五字は音を用いる〉。ああ〈音を延ばす〉しやごしや。これはまあ、こんなことでね、大声上げて馬鹿笑いすることだよ。はい。(記9、古事記歌謡注釈66~67頁)
菟田のうずたかい地にシギを捕る罠を張った。私が待っていたシギはかからず、(いすくはし)クジラがかかった。古女房がおかずに欲しがったら、立木のソバの実のように肉の少ないところをうんとそぎ取ってやれ。新しい女房がおかずに欲しがったら、サカキの実のように肉の多いところをうんとそぎ取ってやれ。(紀7、新釈全訳日本書紀308・310頁)
宇陀の高みに鴫わなを仕掛けて、私が待っていると、鴫はひっかからず、いさましい見事な鯨がひっかかった。もとからの妻が、ご馳走をご所望とあらば、立ちそばの(どのような植物か不明)ように、実のないところを、たくさん削ぎ取ってやれ。新しい妻が ご馳走をご所望とあらば、いちさかき(不明)のように、実のたくさんあるところを、存分に削ぎ取ってやれ。ええ、このやろうめ。これは敵を威嚇する声だ。ああ、このやろうめ。これは嘲笑する声だ。(記9、多田2020.257~259頁)
(注2)記をヤマトコトバで理解しきれずに漢籍の知識を外注することで納得しようとする考えは、上代文学の一派として続いている。書いてあるから書いてある漢籍を引いているとの考えである。先行研究として以下に石田2023.の議論と典拠とする漢籍を載せる。ただし筆者は、あるいはシギを「鴫」と国字に書いたかもしれない点で文字と説話、歌謡との関係を見ることはあっても、漢土の思想を援用して成立しているとは考えない。話も歌も聞いて理解して受け継がれている。聞いてわからなければそこで途絶える。仏教も思想的に把握されたのではなく新しい別の神、「他神」(用明紀二年四月)として受け容れられている。そういう形でなければ理解できないからである。当時の知識層が読んだかさえ不明な漢籍の注部分を根拠に据えることはラージミステイクではないか。
鯨鯢大魚名。 以喻三不義之人吞二-食 小国一。(「古者、明王伐二不敬一、取二其鯨鯢一而封レ之、以為二大戮一。於レ是乎有二京観一、以懲二淫慝一。」(春秋左氏伝・宣公・十二年夏)についての春秋経伝集解(古注十三経・巻十一・宣王下・十二年秋))
䲔鯢、大魚為レ害者也。以レ此比二敵人之勇桀者一。(「蓋聞古者伐二不敬一、取二其䲔鯢一築二武軍一、封以為二大戮一」(漢書・列伝第五十四)についての顔師古注(正史全文標校読本))
古之伐レ国、誅二其鯨鯢一而已。(晋書・帝紀第一・高祖宣帝)
赫赫王旅。鯨鯢既平、功冠二帝宇一。(宋書・志第十楽二・晋江左宗廟歌十三篇)
豫、掃二-除凶逆一、翦二-滅鯨鯢一、迎二帝西京一。(三国志・魏書二十・武文世王公伝第二十の「評」に裴松之注が引く魏氏春秋)
(注3)クヂラについては鯨のこととばかり考えられていたわけではない。クチラととって猛禽類のタカの百済語、「俱知」(仁徳紀四十三年九月)に接尾語ラの付いた形とする説(度会延佳・鼇頭古事記、京都大学貴重資料デジタルアーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011149(72/183))や、「鯨鯢」は悪人のかしらの喩であり、斉明紀六年十月条では「鯨鯢」をアダと訓んでいるものをクヂラと訓んだとする説(吉永1981.307~309頁)、罠にかかるかどうかのこととして鴫を天皇、クヂラを兄宇迦斯のことを言うものとし、具体的にはサンショウウオを指すとする説(宮川1983.25~31頁)が挙げられている。
(注4)手縄は、「鵜をあやつる縄。手縄本体とツモソ、腹掛、首結いからなる。手縄本体は鵜匠の手元と鵜を結びつける縄(桧製)。実測品は固い縒り。手縄本体の先にツモソ。ツモソはセミクジラのエラヒゲを棒状に削ったもの。ツモソのうち、手縄本体と結びつける部分をクジラモトといい、切れ込みを入れて麻の細縄で両者を巻きとめる。反対側はシマダといい、鈎状に曲げて麻で先端をくくっている。れは固めだが、縒りは左縒りでゆるやか。首結いはシマダから首元に巻かれる麻製の縄で右縒り。」(『長良川鵜飼習俗調査報告書』200頁)と説明されている。
鵜と鵜匠をつなぐ手縄を絡みにくくするために、長さ30~40㎝、径3~4㎜ほどのツモソと呼ばれる細棒を間に入れている。クジラヒゲの独特の弾力としなりが好まれて使われていたという。
(注5)鵜飼の鵜は、獲物のアユにあまり傷がつかないように嘴を少し削っている。歌に、「こきし削ゑね」、「こきだ削ゑね」と「削」ことが歌われているのは、鵜飼の鵜の嘴加工からの連想でもあろう。
(引用・参考文献)
可兒1966. 可兒弘明『鵜飼─よみがえる民族と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
川端1997a. 川端善明『活用の研究Ⅰ』清文堂出版、1997年。
川端1997b. 川端善明『活用の研究Ⅱ』清文堂出版、1997年。
古事記歌謡注釈 辰巳正明監修、大谷歩・大塚千紗子・小野諒巳・加藤千絵美・神宮咲希・鈴木道代・高橋俊之・室屋幸恵・森淳著『古事記歌謡注釈─歌謡の理論から読み解く古代歌謡の全貌─』新典社、2014年。
佐佐木2010. 佐佐木隆『古事記歌謡簡注』おうふう、平成22年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
多田2020. 多田一臣『古事記私解Ⅰ』花鳥社、2020年。
『長良川鵜飼習俗調査報告書』 岐阜市教育委員会社会教育室編『長良川鵜飼習俗調査報告書(新版)』岐阜市教育委員会、平成19年。
宮川1983. 宮川久美「古事記「いすくはしくぢら」について」『叙説』第8号、昭和58年10月。
吉永1967. 吉永登『万葉─その探求─』現代創造社、昭和56年。
故爾くして、宇陀に兄宇迦斯・弟宇迦斯の二人有り。故、先づ八咫烏を遣して、二人に問ひて曰はく、「今、天神御子、幸行しぬ。汝等、仕へ奉らむや」とのたまふ。是に、兄宇迦斯、鳴鏑を以て其の使を待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちし地を訶夫羅前と謂ふ。「待ち撃たむ」と云ひて、軍を聚む。然れども、軍を得聚めねば、「仕へ奉らむ」と欺陽りて、大殿を作り、其の殿の内に押機を作りて待つ時、弟宇迦斯先づ参向ひて、拝みて白さく、「僕が兄、兄宇迦斯、天神御子の使を射返し、待ち攻めむと為て軍を聚むるに、得聚めねば、殿を作り、其の内に押機を張りて、待ち取らむとす。故、参向ひて顕し白す」とまをす。爾くして、大伴連等が祖道臣命・久米直等が祖大久米命の二人、兄宇迦斯を召して罵詈りて云はく、「いが作り仕へ奉れる大殿の内には、おれ先づ入りて、其の仕へ奉らむと為る状を明し白せ」といひて、即ち横刀の手上を握り、矛ゆけ、矢刺して、追ひ入れし時に、乃ち己が作れる押に打たえて死にき。爾くして、即ち控き出して斬り散しき。故、其地を宇陀の血原と謂ふ。然くして、其の弟宇迦斯が献れる大饗は、悉く其の御軍に賜ひき。此の時に歌ひて曰はく、
宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る 前妻が な乞はさば 立ち蕎麦の 実の無けくを こきし削ゑね 後妻が な乞はさば いち榊 実の多けくを こきだ削ゑね ええしやごしや 此はいのごふぞ ああしやごしや 此は嘲咲ふぞ(記9)
故、其の弟宇迦斯、此は宇陀の水取等が祖ぞ。(神武記)
秋八月の甲午朔にして乙未に、天皇、兄猾及び弟猾を徴さしむ。猾、此には宇介志と云ふ。是の両人は、菟田県の魁帥なり。魁帥、此には比登誤廼伽弥と云ふ。時に兄猾来ず。弟猾即ち詣至り。因りて軍門を拝みて告して曰さく、「臣が兄兄猾之の逆をする状は、天孫到りまさむとすと聞りて、即ち兵を起して襲はむとす。皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼ぢて、乃ち潜に其の兵を伏して、権に新宮を作りて、殿の内に機を施きて、饗らむと請すに因りて作難らむとす。願はくは、此の詐を知しめして、善く備へたまへ」とまをす。天皇、即ち道臣命を遣して、其の逆ふる状を察めたまふ。時に道臣命、審に賊害之心有ることを知りて、大きに怒りて誥び嘖ひて曰はく、「虜、爾が造れる屋に、爾自ら居よ」といふ。爾、此には飫例と云ふ。因りて、剣案り弓彎ひて、逼めて催ひ入れしむ。兄猾、罪を天に獲たれば、事辞る所無く、乃ち自機を蹈みて圧はれ死ぬ。時に、其の屍を陳して斬る。流るる血、踝を没る。故、其地を号けて菟田の血原と曰ふ。已にして、弟猾大きに牛酒を設けて、皇師に労へ饗す。天皇、其の酒完を以て、軍卒に班ち賜ふ。乃ち御謡して曰はく、謡、此には宇多預瀰と云ふ。
菟田の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る 前妻が な乞はさば 立ち蕎麦の 実の無けくを こきし削ゑね 後妻が な乞はさば いち榊 実の多けくを こきだ削ゑね(紀7)
是を来目歌と謂ふ。今、楽府に此の歌を奏ふときには、猶手量の大きさ小ささ、及び音声の巨き細き有り。此、古の遺式なり。(神武前紀戊午年八月)
これらの歌の歌意については、上代文学の研究においておよそ理解に程遠いのが現状である。佐佐木2010.による記9番歌謡の現代語訳を例示する(注1)。
宇陀の小高くなった所に、鴫を捕らえる罠を張る。【すると】私が待つ鴫はかからず、(いすくはし)鯨がかかっている。前妻がおかずを要求なさったら、立ち枛棱のように身のないところをたんまり削ぎ切ってやれ。後妻がおかずを要求なさったら、柃のように身の多いところをたんまり削ぎ切ってやれ。ええ、しやごしや(これは相手に敵意を示すことばである)。ああ、しやごしや(これは相手をあざわらうことばである)。(25~26頁)
言葉がいくつか未詳である。それ以上に、どうしてこの箇所にこのような歌があっておさまっているのか、その肝心のところが探究されていない(注2)。
神武天皇時代のことである。ウダ(宇陀・菟田)というところへ皇軍が進んだ時、在地の首領にエウカシ・オトウカシという兄弟がいて、オトウカシは恭順したが、エウカシは歯向かおうとした。エウカシは傭兵を募ったが集まらず、天皇方は強そうだったのでまともに戦うのはやめ、殿舎を建てて中に罠を仕掛けて圧死させようと謀った。その陰謀をオトウカシが進言したので、天皇は家来を遣わしてエウカシに先に殿舎の中へ入るように強いたため、自分で作った罠に嵌って絶命している。その時に歌われた凱歌が、記9・紀7番歌謡である。
オシ(押機・押・機)は動物用の罠で、熊から鼠まで圧死させたり動けなくする装置である。罠の話だから、歌に鴫罠のこととなっている。どうして鴫が出てくるのか。ひとつには、ウダという地名が関係するのだろう。紀の用字では「菟田」とある。「田」字は猟のことも表し、田猟ともいい、「畋」とも書かれる。耕作と狩猟とは同じような生産方法と捉えられていたという。名義抄に「田 音填、和名タ、トコロ、ミツ、ノフ、カリ 和デム」とある。ウサギ狩りの猟場のことになる。あるいは、ウサギのことは一羽二羽と数えるように取り扱いされるから、田に鳥がいると見て取ることもできる。田の鳥としては、シギが頭に浮かぶ。
飛び翔る鴫を見て作る歌一首〔見飜翔鴫作歌一首〕
春まけて もの悲しきに さ夜更けて 羽振き鳴く鴫 誰が田にか住む〔春儲而物悲尓三更而羽振鳴志藝誰田尓加須牟〕(万4141)
鸗 玉篇に云はく、鸗〈音は籠、漢語抄に之岐と云ひ、一に田鳥と云ふ〉は野鳥なりといふ。(和名抄)
鸗シキ、野鳥也 鴫 同(色葉字類抄)
田鳥 シギ(鎮国守国神社蔵本名義抄)
「鴫」という字は国字であるが万葉集に例が見える。この字が上代から常用されていたとは言い切れないものの、田の鳥として認められていたことは確かなようである。シギが田鳥であると思われているということは、すなわち、猟で狩る鳥である。狩猟の方法としては、矢を射ることや鷹狩がある。ところが、記9・紀7番歌謡においては、鴫罠を張って捕まえようとしている。罠となる霞網や鳥黐を使って獲ることが行われていたようである。ちょっとした言葉のあやが生まれている。
この説話の初めに、記では「是に、兄宇迦斯、鳴鏑を以て其の使を待ち射返しき。」とある。「鳴鏑」は鏑矢のことで、穴をあけて音が鳴るようにした骨角器を矢の先に取り付けた矢である。戦を始める合図に使われた。天皇方の偵察である八咫烏に対して鳴鏑を射ているということは、最初から敵対すると宣言していることになっている。この鏑矢には、犬追物で使われるような先端に仕掛けのないもののほか、先がV字状で末広がりに反りかえった刃を備えたものがある。よく似たものに、鏑に孔を持たない目無鏑の矪矢がある。鏑部分は桐か檜製で、先は矪根と呼ばれる半月形の小雁股をつけている。水面を跳ね進むので水鳥や魚を射るのに用いるとされているが、元来は矢に糸をつけて鳥の体に巻きつき飛べなくして落とすことを狙ったものであった。弋射であり、いぐるみにして捕獲した。鳥の動きを封じ込めて捕獲するところは、霞網や鳥黐と原理を同じくする。獲物として動物を得ることは同じだが、狩りと罠とではその方法が違う。
左:鳴鏑矢(江戸時代、19世紀、水野かね子氏寄贈、東博展示品)、中左:鏑矢(伊勢貞丈・貞丈雑記、国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/610をトリミング接合等)、中右:矪矢(同https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/590をトリミング)、右:ソリハシセイタカシギ(東京ズーネット「動物図鑑」https://www.tokyo-zoo.net/encyclopedia/species_detail?species_code=404)
刃が反っている矢が使われている。ふつうの矢の先端、鏃は尖っていて突き刺さるようにできている。端が反っているのは例外的、特徴的である。そんな端を持っているものとして、嘴の反っている鳥がいる。ソリハシシギである。シギは田の鳥である。狩り、田猟にふさわしい鳥だと思しいから、罠を仕掛けていても、実際はともかく理屈の上ではかかるはずがないということになる。鏑矢を射ってくるほどだから、目には目を、歯には歯を、ハ(端)の反っている鳥にはハ(刃)の反っている矢を、で対処しなければならない。そういうジョークを言っている。
エウカシが皇軍に反抗していることを、クチバシが反っていることとして捉えている。歯向かうところがクチバシに現れているとしてエウカシの特徴を見てとっている。そんなクチバシの曲がった輩を罠に捕まえようとしても、田の鳥である鴫は捕まえられなかったが、自らが仕掛けたオシ(押機)にかかっている。当初、傭兵を集めようとして「将二待撃一」(記)と口走っていた。クチバシは災いの元である。
鴫罠にシギがかからなくてもかまわないのである。代わりにクヂラがかかっている。小山に作った城のところに張っている罠となる霞網に鯨がかかるはずはないのであるが、クチとの語呂合わせでかかりっこしない海の大きな魚を持ち出している(注3)。どうしてそれで話が通じるのか。
クチバシをモチーフとした話をしている。鯨の口の特徴としては、マッコウクジラのように口の中に歯を持つもの(ハクジラ)以外に、シロナガスクジラやザトウクジラのように口の中に歯がない代わりに歯ぐきが変化してできた鯨髭を持つもの(ヒゲクジラ)がいる。鯨髭でプランクトンをすき取って食べている。そのことは昔の人もよく知っていたことであろう。クジラ(鯨)の枕詞に「いすくはし」とあるのは、イ(接頭語)+スク(漉)+ハシ(嘴・喙)によると思われる。
そして、そんな鯨髭は古代から人に利用されていた。民芸品以外に実用品として使われた例として、鵜飼のツモソがある。鯨髭のばねのような反発性を活用し、鵜の首結いと手縄との間につなぎ入れ、縄が絡まないようにしていた(注4)。鵜が絞首しないための仕掛けに用いられていたのである。
左:ツモソ(セミクジラのヒゲ製、くじらの博物館デジタルミュージアムhttps://kujira-digital-museum.com/ja/categories/16/articles/)、右:手縄実測図(『長良川鵜飼習俗調査報告書』154頁)
歌では、「鴫罠張る …… 鴫は障らず いすくはし 鯨障る」と事情が連係されて表されている。鯨が鯨髭のことを暗示しているとすれば、鴫罠に鴫はかからないで、ツモソを付けた鵜がかかったと言っているのだと知れる。ソリハシシギのように上に反った嘴をしているのとは反対に、ウの嘴は下に曲がっている(注5)。シギが狩りに対応する鳥であったのに対して、ウは鵜飼を示している。鵜飼が鵜を操ることで、鵜が魚を捕ったものを人が横取りする。狩りをしようとした者が自ら狩られていることを自己撞着的に表した動物、それが鵜である。鵜は動的な罠のことなのだと言える。
鴫罠に目的の鳥はかからず、鳥ではなく鯨がかかったことを言うのに鵜が媒介となっている。自ら墓穴を掘ったのはエウカシという人物である。鵜は、鵜飼の猟をするために首結いや腹掛けでつながれている。まるで刑具につながれているようである。エ(枝)+ウ(鵜)+カシ(枷)から浮かぶイメージは、一人の鵜匠につながれて束ねられながら複数の鵜が枝分かれしている。個体ごとにそれぞれ別々に動くから、エウカシという人物は「待ち撃たむ」と言ってみたり「仕へ奉らむ」と言ってみたりしていたのだった。一貫性がなかったのは複数羽がつながれているさまを伝えようとするものである。
左:ウのくちばし(環境省「カワウとウミウの見分け方」https://www.biodic.go.jp/kawau/d_hogokanri/hunt_leaflet.pdf)、右:複数羽でする鵜飼(穐里籬島編・西邨中和画『木曽路名所図会』「長柄川鵜飼舩」、国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200017972/137をトリミング合成)
全体に、敵意や嘲笑を示す「しやごしや」の歌として、ひどく誇張した表現となっている。
すなわち、この歌は「しやごしや」の歌である。後半部の「前妻」「後妻」が「な乞はさば」について、「な」を「肴(菜)」と考えられてきた。しかし、「前妻」「後妻」と対に出てきているのだから、私のことを、私のことをと懇願しているものと見たほうが適当である。自分のことを「己」と言っていた形跡があり、旦那に取り入ろうとしているとしている言葉と考えられる。それに対して、主人はいずれの相手であれ求めに素直に答えないことを述べ、「しやごしや」の歌となっている。「前妻」「後妻」とも、その要求にまともに応じないことを歌っている。「立ち蕎麦の 実の無けくを」、「いち榊 実の多けくを」与えたといういずれも、嫌がらせをしているものと考えられる。名ばかりのものを与えることで、「己」の懇願に応えているというのである。
蕎麦の実が落ちてしまった後の蕎麦がらのついた枯枝は、食べることはできずにただ枕の中身ばかり充実させるものである。夜の相手だけしていればよいということである。榊にたくさん実がついているといっても食用にはならない。榊の実用性としては椿と同じく葉を焼いて媒染剤に使うことがある。しかし、実がたくさん着いていては焼き残った灰に媒染剤として役に立たない。おしゃれなどにうつつを抜かさず、お供えの木にふさわしく、主人を神と崇めて仕えていればよいということを言っている。年をとった女性の食べることばかりの欲望や、若い女性がおしゃれにうつつを抜かすことをさせないように対応し、相手の思惑を潰えさせようとしている。とても感じの悪い口答えをしていて、エウカシが曲がった口で曲がったことを言っていたことに対するに、目には目を、歯には歯を、くちばしにはくちばしをで応じたことに照応する。自ら仕掛けた罠に落ちた様子に対照しており、きわめて論理学的な問答として記9・紀7番歌謡は案出されていたとわかる。
(注)
(注1)近年著された口訳は次のとおり。
宇陀の高い砦に、鴫を捕る網を仕掛けて私が待っているとね、鴫は懸からずにね、いすくはし鯨が懸かったよ。前の妻がね食べ物を欲しいといったら、立っている蕎麦の木の実の少ないのをあげるよ。こきしひゑね。後添いがね、食べ物を欲しいといったら、いちさかきの実の多いのをあげるよ。こきだひゑね。ええ〈音を延ばす〉しやごしや。こはいのごふそ〈この五字は音を用いる〉。ああ〈音を延ばす〉しやごしや。これはまあ、こんなことでね、大声上げて馬鹿笑いすることだよ。はい。(記9、古事記歌謡注釈66~67頁)
菟田のうずたかい地にシギを捕る罠を張った。私が待っていたシギはかからず、(いすくはし)クジラがかかった。古女房がおかずに欲しがったら、立木のソバの実のように肉の少ないところをうんとそぎ取ってやれ。新しい女房がおかずに欲しがったら、サカキの実のように肉の多いところをうんとそぎ取ってやれ。(紀7、新釈全訳日本書紀308・310頁)
宇陀の高みに鴫わなを仕掛けて、私が待っていると、鴫はひっかからず、いさましい見事な鯨がひっかかった。もとからの妻が、ご馳走をご所望とあらば、立ちそばの(どのような植物か不明)ように、実のないところを、たくさん削ぎ取ってやれ。新しい妻が ご馳走をご所望とあらば、いちさかき(不明)のように、実のたくさんあるところを、存分に削ぎ取ってやれ。ええ、このやろうめ。これは敵を威嚇する声だ。ああ、このやろうめ。これは嘲笑する声だ。(記9、多田2020.257~259頁)
(注2)記をヤマトコトバで理解しきれずに漢籍の知識を外注することで納得しようとする考えは、上代文学の一派として続いている。書いてあるから書いてある漢籍を引いているとの考えである。先行研究として以下に石田2023.の議論と典拠とする漢籍を載せる。ただし筆者は、あるいはシギを「鴫」と国字に書いたかもしれない点で文字と説話、歌謡との関係を見ることはあっても、漢土の思想を援用して成立しているとは考えない。話も歌も聞いて理解して受け継がれている。聞いてわからなければそこで途絶える。仏教も思想的に把握されたのではなく新しい別の神、「他神」(用明紀二年四月)として受け容れられている。そういう形でなければ理解できないからである。当時の知識層が読んだかさえ不明な漢籍の注部分を根拠に据えることはラージミステイクではないか。
記九歌の「久治良」は、承前の文脈上エウカシを指すとともに、『春秋左氏伝』を典拠とする右のような「鯨鯢」の用例、すなわち不敬にして淫慝なる逆賊を指す「鯨」を想起させたと考えられる。八咫烏を鏑矢で射返したことや、押機を作ってイハレビコを騙し討ちにしようとしたエウカシのふるまいは、「天神御子」(アマテラス直系の子孫神)たるイハレビコに対する「不敬」にほかならず、そのようなエウカシは「淫慝(不正不義のやから)」に相当するというように、人間関係ならびにその状況の符合が、そうした読みを導くのである。さらにまた、ミチノオミとオホクメがエウカシを「伊賀・意礼」(いずれも卑称の二人称代名詞)と呼んで「罵詈」を重ね、罠で打ち殺した後その遺体を「斬散」するという徹底的な処し方を伝えるのは、『左伝』や『漢書』に謂う「大戮(徹底的な殺戮)」に相当するであろう。『記』における「罵」字は孤例で、「詈」は当該箇所のほかに、「故、其国主之子、心奢詈妻」(中巻応神代)ならびに「於是大長谷王其兄言」(下巻安康代)など、対者への憎悪を表す発語にみえ、後段における当時者の死もしくは人物関係の破局に関連づけて用いられるという共通点がある。そうした訓字表現の連繫が伝えるエウカシ討伐の強烈な意志は、歌中の「久治良」を介して『左伝』の「鯨」「鯨鯢」と照応し、あいまってエウカシ討伐の必然性を浮かび上がらせている。「天神御子」たるイハレビコが大和で即位を果たす過程で、在地勢力を支配下におさめゆく熾烈な局面があったことを伝えるこの場面において、討った側が討たれた側を「久治良」に寓意する歌が定位されていることには、こうした漢語への連想が予定されているとみられるのではないだろうか。(288~289頁)
鯨鯢大魚名。 以喻三不義之人吞二-食 小国一。(「古者、明王伐二不敬一、取二其鯨鯢一而封レ之、以為二大戮一。於レ是乎有二京観一、以懲二淫慝一。」(春秋左氏伝・宣公・十二年夏)についての春秋経伝集解(古注十三経・巻十一・宣王下・十二年秋))
䲔鯢、大魚為レ害者也。以レ此比二敵人之勇桀者一。(「蓋聞古者伐二不敬一、取二其䲔鯢一築二武軍一、封以為二大戮一」(漢書・列伝第五十四)についての顔師古注(正史全文標校読本))
古之伐レ国、誅二其鯨鯢一而已。(晋書・帝紀第一・高祖宣帝)
赫赫王旅。鯨鯢既平、功冠二帝宇一。(宋書・志第十楽二・晋江左宗廟歌十三篇)
豫、掃二-除凶逆一、翦二-滅鯨鯢一、迎二帝西京一。(三国志・魏書二十・武文世王公伝第二十の「評」に裴松之注が引く魏氏春秋)
(注3)クヂラについては鯨のこととばかり考えられていたわけではない。クチラととって猛禽類のタカの百済語、「俱知」(仁徳紀四十三年九月)に接尾語ラの付いた形とする説(度会延佳・鼇頭古事記、京都大学貴重資料デジタルアーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011149(72/183))や、「鯨鯢」は悪人のかしらの喩であり、斉明紀六年十月条では「鯨鯢」をアダと訓んでいるものをクヂラと訓んだとする説(吉永1981.307~309頁)、罠にかかるかどうかのこととして鴫を天皇、クヂラを兄宇迦斯のことを言うものとし、具体的にはサンショウウオを指すとする説(宮川1983.25~31頁)が挙げられている。
(注4)手縄は、「鵜をあやつる縄。手縄本体とツモソ、腹掛、首結いからなる。手縄本体は鵜匠の手元と鵜を結びつける縄(桧製)。実測品は固い縒り。手縄本体の先にツモソ。ツモソはセミクジラのエラヒゲを棒状に削ったもの。ツモソのうち、手縄本体と結びつける部分をクジラモトといい、切れ込みを入れて麻の細縄で両者を巻きとめる。反対側はシマダといい、鈎状に曲げて麻で先端をくくっている。れは固めだが、縒りは左縒りでゆるやか。首結いはシマダから首元に巻かれる麻製の縄で右縒り。」(『長良川鵜飼習俗調査報告書』200頁)と説明されている。
鵜と鵜匠をつなぐ手縄を絡みにくくするために、長さ30~40㎝、径3~4㎜ほどのツモソと呼ばれる細棒を間に入れている。クジラヒゲの独特の弾力としなりが好まれて使われていたという。
(注5)鵜飼の鵜は、獲物のアユにあまり傷がつかないように嘴を少し削っている。歌に、「こきし削ゑね」、「こきだ削ゑね」と「削」ことが歌われているのは、鵜飼の鵜の嘴加工からの連想でもあろう。
(引用・参考文献)
可兒1966. 可兒弘明『鵜飼─よみがえる民族と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
川端1997a. 川端善明『活用の研究Ⅰ』清文堂出版、1997年。
川端1997b. 川端善明『活用の研究Ⅱ』清文堂出版、1997年。
古事記歌謡注釈 辰巳正明監修、大谷歩・大塚千紗子・小野諒巳・加藤千絵美・神宮咲希・鈴木道代・高橋俊之・室屋幸恵・森淳著『古事記歌謡注釈─歌謡の理論から読み解く古代歌謡の全貌─』新典社、2014年。
佐佐木2010. 佐佐木隆『古事記歌謡簡注』おうふう、平成22年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
多田2020. 多田一臣『古事記私解Ⅰ』花鳥社、2020年。
『長良川鵜飼習俗調査報告書』 岐阜市教育委員会社会教育室編『長良川鵜飼習俗調査報告書(新版)』岐阜市教育委員会、平成19年。
宮川1983. 宮川久美「古事記「いすくはしくぢら」について」『叙説』第8号、昭和58年10月。
吉永1967. 吉永登『万葉─その探求─』現代創造社、昭和56年。