いつも、アマゾンプライムの音楽聴きながら仕事をしている。
たまたま、目についたのが「吉田拓郎」33曲が無料で聴ける。といことで聞きながらお仕事。40年前の学生時代が頭に浮かんできた。そんなことを考える歳か、わしも・・・
ああ、懐かしい、大学のころ月4千円のバスなし、トイレ共同の間借り下宿でせんべいになりかけた布団にくるまり、合格祝いにもらったラジオでコッキーポップ、オールナイトニッポンを聞きながら朝まで夜更かしした頃をを思い出した。今の学生からは考えられない環境だったろうが、昔はみんなそんなものだった。わしの場合は、父が受験前になくなったもので、細々と奨学金をもらいながら通ったということもあるが。
吉田拓郎の曲「落葉」、「祭りのあと」、「明日に向かって走れ」、「人間なんて」・・・、みんな突っ張ってたな。髪を肩まで伸ばし(今、娘に話すと笑うが、当時は自分でもほれぼれする色白、細身のイケメンだった?と思う(^0^))、ベルボトムのジーパンはいていたし。下駄をはいて大学へ通って、足の裏がとんでもなく皮が厚くなったり、授業をエスケープして下駄の音で見つかったり、学校で酒飲んで、教室をゲロで汚したり、とんでものない自由な頃だったし、歯止めがなかった。
当時(昭和40年代の終わり頃)はほとんど学生運動が収まっていたがわしの通学していた頃は、不正入試問題がこの大学であって、まだまだ残り火がくすぶっていた。教室のロックアウト、校内のジグザグデモ、機動隊導入(あったかも知れないがわすれた)も経験、ロッカーの上にはヘルメットが常備されていた。年代的は「学生運動に乗り損ねた世代」で、人によっては鬱憤がたまっていた世代にあたる。
また、わしの通った大学は、単科工業大学だったため全学生は4,000人(当時の国立単科大学ではトップの人数だったと記憶しているが)くらいいたうち女性はたしか27人だけだったと記憶している。女っ気がないから、大学祭のときは名古屋の繁華街栄のテレビ塔、松坂屋の前で、ふんどし一丁でビラ配りもしたし、学内でもそれなりに男の匂いぷんぷんだった。たまに、当時の近隣の女子大との合同ハイキング、近くの大学病院の看護婦さんとの徹夜討論会、南山大学のガーデンパーティにお呼ばれしたり、また、ごくたまに友達が来たときなどは、彼の社会人の彼女らとグループで一緒に飲んでおごってもらったりしていたが(40年も前のことだからしゃべってもいいだろう)、まあ、それくらいの適当に貧乏で華やかさに欠ける大学生活だった?
ただし、そんな中で、進級にはずいぶん厳しい大学で、学科60人入学して、同時に卒業できたのは30人くらい。半分は、もうすこし長く頑張りましょう(留年)だった。授業でも、質問に答えられないと、1回の授業で5人くらい罵声を浴びせかけられ、「でていけ」で追い出された。かくいう、わしも1回追い出された。今となっては、いい思い出だ。追試も10回以上受けたし、最後はレポートで勘弁してと泣き落としで単位ももらったりもした。そのとき、世の中、あきらめたら終わりだと実感した (^。^;)。いい経験だった。
もう1回戻ってみたいけど、試験を受けるための勉強はもうご免。とにかく、この時期は、いろんなジャンルの本を読みふけり様々な妄想にひたり、たくさんの酒をのみ粗相をし、思い出しても恥ずかしくなることをしでかしたり、いろんな人に迷惑もかけ、ときには傷つけたりしたけど、それは若いという未熟から成熟への過渡期ということで許される特権だと思う。この時期を無駄に過ごさないことを若い人には望むばかり。
以上、久しぶりの昔話でした。