北の隠れ家

 総本家「ホームページ風又長屋」・本家「風又長屋」の別館もございますのでご訪問を。 SINCE 2008.12.19

「 吾輩は雀である 」    HP「kazemata劇場 第1幕」より

2017年08月17日 21時42分14秒 | 小説



  ☆吾輩は雀である☆


 
吾輩は雀である。 名前はまだ無い。どこで生まれたかは定かではない。

兄弟が大勢いたことだけは覚えている。しかし、気が付くとみんなどこかに行っちまっていた。この世に誕生して初めて人という名の動物を知った。

しかも後で聞くと、それはこの世で一番獰猛なわがままないきものだという。不思議なことに、この生き物は、俺たちのように空を飛べない。 雨や雪、強風のときは飛ぶ俺たちも一苦労するが、今日のようなこんな青空でさわやかな日の空を飛ぶことが出来ないとは、まったく可哀そうないきものである。




しかし、二本足のほかに二本の腕そして片手に五本の指を持っている。あれは便利なものだ。
二本足であるいたり、走ったりすることができる。二本の腕・片手で五本の指、両手で十本もの指でモノを作ったり、書いたり、打ったり、掻いたりしている。 あれは便利なものだ。目・耳・口などは俺たちと似たようなもんだ。しかし、顔の真ん中から、ときどき煙が出るのが不思議だ。いつもじゃないが。


俺達に毎朝、食事を用意してくれる人間は、また可笑しな顔をしている生き物だ。
目の上に、なにかをつけている。あれは目には便利が良い物らしい。見えない物も、見えるらしい。人間はこの世で一番獰猛・わがままな動物と聞いているが、それもいろいろな奴がおるらしい。俺達の中でも、えばる奴もいれば優しい奴もいる。それと同じみたいだ。




俺達に食事を用意してくれる人間は、時々、網戸を開けてくるが俺達が一斉に飛び立つのが、どうも不満らしい。
だれが食事を毎朝用意してくれているんだ、恩知らずと思っているらしい。俺達はただ、人間という生き物は獰猛な動物だ、ヤキトリにされるぞという認識しかない。だから捕まったら食われると、その気持ちだけなのだ。


俺達はなにも、あいつに感謝なんぞしていない。毎朝ここへ来ると、メシがあるから来るだけだ。それがあいつらにわからないのか。人間だって云うじゃねえか、「山があるから、登るんだ」と。山はゴミで散らかされて、迷惑しているんだ。きちんと後片付けもしない、わがままな動物たちだと。




俺達がここへやってくるのは、まずは食事があることが一番だが、気に行っているのは猫がいないことだ。犬もいない。昔は確かいたはずなんだが、あの世とやらへ行ってしまったのかも。
ここの人間は毎朝よく感心に食事を用意していてくれる。


ザァーザァー降りの雨の日以外は小雨でもちゃんと、用意していてくれる。感心な動物だ。庭も結構、きれいにしているようだ。去年までは、雑草をメインに植えている庭だと、俺達の仲間じゃもっぱらそんな噂だったのだが。今年はどうしたことか、なにか異変が起きたのか。




この前までは林檎が置いてあったが、今はない。
林檎を好物のヒヨドリを云う名前の鳥が来なくなったらしい。あいつがいると、俺達も安心出来ない。一度は仲間の一人が喧嘩したらしいが、やはりズータイのでかいやつには、かなわない。来なくなってホッとしている俺たちだ。


カワラヒワという鳥も時々やってくるが、こいつはまぁまぁ同じくらいの背格好だから、どうってことはない。あいつらも俺達の軍団には一歩遠慮しているらしい。



さて、いただくものはいただいたし、またあとで遊び方々やってくることにして退散とするか。
それにしても今日は良い天気になった。昨日の昼ころから夜まで降り続いた雨には、さすがにまいった。

さぁ、いつまでも漁っていないでご一同、いざまいるぞ。






★ご訪問ありがとうございます★


☆ランキングに参加中。クリックして応援お願いします。☆

にほんブログ村 写真ブログ デジタル一眼(Canon)へ
にほんブログ村


にほんブログ村
☆お願いネ☆


創作落語   「 般若の面 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2017年08月09日 13時58分09秒 | 小説



「 創作落語  般若の面 」


  
え~、一席お付き合いのほどをお願いもうしあげます
なんでございますが、かの大町桂月さんてぇお人がおられましてね、へぇ、左様でございます、ついこの先の「層雲峡」の名付け親さんでございます。この方が、日本人は五十音のア行とハ行で「笑う」と、ものの本に書かれているそうでございます。つまり、アハハ、イヒヒ、ウフフ、エヘヘ、オホホ、といった具合でございますな。

この五通りの笑いによって、笑いの内容が変わってくるんでございますな。アハハは陽気な笑い、イヒヒはちょっと下げかかった卑俗な笑い、ウフフはふくみ笑い、エヘヘは太鼓持ちや番頭さんが見せる対従笑い、オホホはたもとで・・・・・ということでござんすな。

しかしですな、実は、何の音声も伴なわない「不可能な笑い」をわれわれ日本人は、生活手段の一部として持っているのでございます、へぇ。これが、俗にいう「ジャパニーズスマイル」てぇ云われる「微笑」てぇ奴でございます。「微笑」わかりますな、「微笑み返し」てぇ歌がございましたが、その「微笑」でございます。週刊誌の名前にも、ありましたな。

まぁ、前置きはこのくらいにしておきまして、へぇ。




「般若のお面」てぇもんを、皆様ごぞんじのはずでございますな?へぇ、あのこわ~い女性の角をはやした、珍しいお顔をしたお面でございます。なんでも、話を聞くと、現在でも、福井県の吉崎てぇところに、【肉づきの面】てぇ名の般若の面があるということでございます。


昔、この地に大変意地悪な姑さんと、心の優しい信仰心の厚いお嫁さんがおりましたそうで。このお嫁さんは、信仰心の厚いお方だけありまして、どんなことでも姑さんの言うことを聞いていたそうでございます。このお嫁さんのたった一つの楽しみは、毎晩仕事が終わった後での「お寺まいり」でございました。


姑さんは、何とかして、この嫁をいじめてやろうと思っていたんでございますが、いつも何をいっても逆らわずに、「はい、はい、おかあさま」「はい、かしこまりました」と言うことを聞くもんでございますから、いじめる機会がなかなか無かったのでございます。
それで、或る日、嫁を呼んで、「私はなぁ、こういう下の句を作ったんじゃが、どうじゃな、お前、これに上の句をつけて読んでごらん。下の句はな、

【世に鬼婆と人の言うなり】
というのじゃが」



すると、嫁はしばら~く考えておりやしたが、やがて顔をあげると、
「おかあさま、出来ました。
【仏にも、まさる心をしらずして】

というのは、いかがでございましょうか」と云ったんでございます。
その上の句を聞いた姑は、びっくりいたしやした。せっかく、嫁をへこませてやろうと、わざわざ自分の悪口を言い易いような下の句を作ってやったのに、

  ほとけにも  まさる心を知らずして

  世に鬼婆と  人の言うなり

 となれば、文句をつけようが全然無いではございませんか。


姑は、いよいよ嫁が憎くなり、今度は、嫁のたった一つの楽しみである「お寺まいり」をやめさせようと、考えたのでございます。或る晩、嫁が「お寺まいり」に出掛けてから、恐ろしげな般若の面を持ち、嫁が帰ってくる途中の暗闇にかくれて、嫁の来るのを待ち伏せしていたんでございます。



そのうち、やがて嫁が、真っ暗な道を提灯も持たずに、念仏をとなえながら、たった一人でやってきのでございます。般若の面をつけた姑は、突然、嫁の前に飛び出すと、「こらぁ~、とって食うぞ~」と、大声をあげたんでございます。それを見た嫁は、平然として
「私には、み仏がついておられます。この世の何が怖いでしょうか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続けたのでございます。



拍子ぬけした姑は、急いでとってかえすと、嫁の戻らぬうちにと、鬼の衣装をぬぎ、面をとろうとしたのでございます。ところが、どうでしょう。なんとしても面が取れないのでございます。
そこへ、嫁が帰ってまいったのでございます。面がとれないで苦しんでいる姑の姿を見たとき、さっきの鬼は、姑が化けたものであったことに気がついたのでございます。



が、そのようなことには頓着せず、力を合わせて面をとろうとしたのでございます。どうしても取れないことがわかると、
「さぁ、おかあさま、一緒にお寺へ参ってきましょう。そうしたら、きっと面がとれますよ」と、やさしくなだめると、手を取り合って寺へむかったのでございます。
寺へ行って説教をきかせてもらった姑は、それまでの行為を恥じて、ぼろぼろと涙を流し、心から嫁に許しを乞うたのでございます。嫁は、姑の心がやっと信仰に向かったことを知って、共に手を取り合って喜んだのでございます。
そのとき、あれほど、どうしても取ることが出来なかった般若の面がぽろりをはずれて、下に落ちたのでございます。



この話を聞いた「お地蔵長屋」の連中は

ハチ公「聞いたかい、熊さんよ。えれぇ、嫁さんじゃねぇか。」

熊 公「そうだなぁ、おめぇのかみさんに比べりゃ、天女と鬼のちげぇだ~(笑)」

ハチ公「まちげぇね~、確かにアハハッ。それにしても、すげぇ上の句だなぁ」

熊 公「大家さん、どうお思いなさりました~?」

大 家「人間てぇのは、お互いに欠点がございます。それをあばきあったのでは嫁と姑どころか、夫婦、兄弟、職場の同僚においても、憎しみ会うだけでござんしょう。 それを「ほとけにもまさる」と受け止めるところに拝み合う世界てぇものがあるんですねぇ。」

ハチ公「へぇ、そんなもんで。拝み合うねぇ・・・。」

熊 公「まぁ、ハチ公にはとうてい無理だろうがねアハハッ。」

大 家「熊さん、そんなことを言っちゃいけねぇ。お互いに拝み合わなきゃなぁ。」

ハチ公「そうそう、そうなんでござんすよ、熊公。お互いてぇところがでぇじなんでさぁ、ねぇ、大家さん。」

大 家「そうですよ。この長屋の名前が、店子のみなさんにその意味をわかっていただける良いお話しでしたよ。怨憎会苦てぇ言葉があるのをご存知かい?」



熊 公「なんです?そのオンゾウエクてぇのは?」

大 家「つまり、この世で生きていくには、嫌な奴と会う苦しみ。わたしにも経験がある。嫌な奴の声を聞くだけでも心がいらいらする。この苦しみを克服するにゃどうしたらいいか悩んでもんでございます。
或る夜、夢の中に、お釈迦様があらわれて「許してやれ、許してやれ、お前が出来ることは助けてやれ、誰しも経験のないことはわからないものだ。お前にも非はある。それを反省して仕事に励め」といわれわたしの心は、すっきりと霧が晴れた。」

ハチ公「へぇ~、夢の中にお釈迦様がねぇ。まゆつばもんの話でござんすが、つまり、こう思えって、お釈迦様がおっしゃってるんで。自分のほうが悪かった、相手は悪くないのだと、心から思えたとき、さっき大家さんが云っていた「怨憎会苦」てぇ奴が克服することが出来るだと、こう、おっしゃってるんで。」

大 家「そういうことだな、八っつぁんもわかってきたじゃありませんか。」

熊 公「ハチ公、今の話とは関係ねぇが、この前、おめぇがこの長屋に引っ越して来たとき、いろいろなことおかみさんから聞いてるぜぇ。
引越しのとき、おめぇ、かみさんに今迄どこほっつき歩いていたんだっていわれたろう。大家さん、聞いてやっておくなせぇ。」

大 家「いったい、何があったんでございます?」



熊 公「この野郎、かみさんにそう云われたら、人力車と自転車が突き当ったんだといったでさぁ。それで、かみさんが、危ないねぇ、怪我しなかったかい?って、聞いたら、こん畜生、おれが突き当たったんじゃねぇ、向こう同士で、突き当たったんだって、云ったんでぇ。
引越しで忙しいのに、のんきに交通事故を見物していたんでさぁ。それから、まだ、あるんでさぁ、おめぇ、かみさんにほうきをかける長い釘を打ってくれって言われて、間違ってカワラ釘を打っちまったんだって。」

ハチ公「そうなんでぇ、その釘が運の悪いことに隣の家へ抜けてしまったんでぇ。
それで謝りにいくてぇと、相手の奴が、お前さんは本当にそそっかしい人だ。お宅は、ご家族は何人おられるんだって、聞かれたんで、自分と女房と、それから78になる親父になる親父がいまして、これがまた、身体の具合が悪いんで、年中、二階で寝たっき りで。と答えたんでさぁ。」

大 家「そこで、お前さん、引越しする前の家から、その親父さんを連れてくるのを忘れてきたことを思い出したんだろう。
あきれて、ものが云えねぇ。冗談じゃねぇ。なんぼなんだって、親父を空き家に忘れてくる奴があるもんじゃねぇ。あきれた奴だ。」



ハチ公「なぁに、親父を忘れるくれぇはおろか、酒の上じゃ、我れを忘れる。」

お後がよろしいようで。

                          平成19年6月26日執筆





創作落語   「 寅さん 」

2010年08月06日 09時29分47秒 | 小説

吾朗の友人に寅さんという男がいた。

なんとも下駄を履いたような四角な顔つきの男であったが、人一倍純粋で人を疑うことなんぞちっとも知らないような男であった。吾朗とは保育園時代からの幼馴染である。

どうしたんでぇ、寅さん! 深刻な顔をしているじゃないかい?なにか、有ったのかい?それとも、身体の具合でも悪くなっちまったのかい?
(う~ん、身体の方はこれと云って、どうってこたぁないんだが。。。太郎、なにか酒でもあるかい? いやいやなんでも良いんだ、ウイスキーでも焼酎でも)

あ~、無いことはねぇが、一体どうしたんだい! 酒の力でも借りなきゃ、話、出来ないようなことなのかい?随分、顔色が悪いぜ。
(まぁ、そういうこったぁ~。とにもかくにも、いっぱいご馳走してくんねぇかい)

お安い御用だい、ほら、日本酒男山でもぐいと、飲んでおくれ。
(あ~、うめぇ。五臓六腑に沁みわたらぁ~)


さぁ、少しは酔いもまわったきたことだし、問題の話をしてごらんよ。
(実はなぁ、太郎。おいら、つくづく女ってぇのが信じられなくなっちまったんでぇ。)

おやおや、人を疑うことを知らない寅さんが、そんなことを云うなんて。いったい、何が有ったんでぇ?。いつもの寅さんとはちと、今日は違うぜ。
(恥を云うようだが、おいら、結婚したい女が出来たんだい。心底、ホの字になっちまって、まったくだらしがねぇったら。こんな下駄みてぇなつらをしたおいらだが。)

そんなことは結婚にゃ関係ねぇよ。結婚は容姿じゃねぇ、心で一緒になるもんでぇ。
(おいらもそう思って、清水の舞台から飛び降りた気持ちで、それを伝えたんだよ。)

うんうん、それでどうなったい?
(おいらの家族の話になってな、おいらにゃ、大資産家の伯父さんが居て、その伯父さんは奥さんも子供もいねぇから、いずれおいらがその遺産を相続することになるってね。だから、きみには苦労をかけないよって。)

うんうん、彼女、喜んだろう?
(それがね、その数カ月後、その彼女はおいらの伯母さんになっちまっていたんだ~)


伊豆の踊子   「 完結編 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年09月03日 19時23分01秒 | 小説

吾朗が上京したのは、52歳のころであった。

池袋の西武デパートから、陽子のところに今、東京に来ている旨の電話をかけた。留守だったら、それでもかまわない、運命だろう故と割り切ってダイヤルを回した。なんと、陽子が電話口に出た。すぐ、吾朗だとわかったらしく、ぜひ自宅に来るように言われた吾朗であった。

運良く、陽子の自宅は池袋のすぐ近くの板橋にあった。
駅まで迎えにきてくれ、徒歩で行けるほどの近くの家であった。東京の家は隣との間がほとんど無いと言っても過言でないくらい、隣合わせであるのに吾朗は改めて気がついた。
陽子・再婚したご主人の二人暮らしだった。陽子は、息子の誠が大学を卒業させてから、再婚していたのである。ご主人は、なんと初婚だった。温厚な優しい方であった。

陽子は、その夜ぜひ泊まっていけと吾朗にせがんだ。夫婦・息子夫婦を紹介したかったからだ。誠は大学を卒業し、小学校の教師になっていた。最初の赴任地はなんと、北海道の稚内に近い片田舎の小学校に赴任していたのだった。

東京の大都会から、北の大地の果てに赴任してきた誠は、しばらく北国の生活や人間関係になじむことが出来ずに、東京に戻りたいと陽子に電話で何度も、云ってきたらしい。その時も陽子は、吾朗のところへ電話してきて、なんとかなだめて欲しいと頼まれた吾朗であった。車で3時間半のその片田舎の一郎のもとへ車を走らせた吾朗である。

いろいろ話を聞くと、どうやら環境が問題なのではなく、人間関係が問題だったようだ。一生、この片田舎にいるものでもなく、いずれは母親のいる東京勤務への希望が必ず叶うからと、説得に努めた吾朗、その甲斐あって、辛抱して頑張ってくれることを約束して、彼のもとを去った吾朗であった。そんな昔のことを思い出しながら、誠との再会を楽しみに待っていた。


 夜になって、誠夫婦と娘が来宅してきた。1歳になったばかりだという。めんこい娘さんで、じいちゃんばあちゃんになった、陽子夫婦は満面笑みが絶えなかった。陽子の発案で、吾朗の来宅記念ということで記念写真を撮ることになった。

なんと、中央に吾朗がその誠夫婦の一粒種を膝の上に抱いて記念写真を。
そういえば、一郎も生後3か月のころ、吾朗の膝の上で写真を撮っていたのを思い出した吾朗であった。陽子の息子・その息子の娘を膝に上に抱いての記念写真を撮るとは夢にも思ったことのない吾朗であった。遠い北国に暮らしている吾朗にとって、それは奇跡に等しい出来事であった。

川端康成の名作「伊豆の踊り子」の名は「薫(かおる)」、主人公の書生と出合った時は14歳、ちょうど吾朗が陽子に出会った時の、陽子の歳であった。天城峠で二人は出会い、下田まで、彼女ら旅芸人と一緒に旅をする話が、どこか、吾朗と陽子がその後の薫と、その書生のその後の物語を継いでいるかのように想えるのは、吾朗のみの心の奥深くであったであろうか。
このような吾朗と陽子のつながりは、純粋であった故に、陽子が14歳からいまの58歳にいたるまで、切れない糸がつながっているのであろう。

                                       【 完 】


伊豆の踊子   「 第四部 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年09月02日 15時21分51秒 | 小説

吾朗が37歳になった夏の或る夜、一本の電話が鳴った。

なんと、10年近くも逢っていなかった陽子からの電話であった。明日、下田の家族も入れてみんなで、層雲峡温泉に行くとの内容であった。明日、東京を発って北海道家族旅行に出掛けるという。とりあえず、明後日の夜は層雲峡温泉で一泊するので、逢えたら逢いたいということであった。

吾朗は6時半に、層雲峡温泉グランドホテルロビーで桃木家の家族のツアーバスが到着するのを待っていた。予定時刻より20分遅れでようやく、ツアーバスがホテルに到着。吾朗は、目をさらのようにして、バスからホテルへ入ってくるツアー客の中にいるはずの桃木家の家族を追った。

桃木家の一同が目に入ってきた。ご主人・奥さん・陽子・一郎・そして陽子の一人息子の三郎の姿が。。。。。10年ぶりの再会であった。その夜は、10時ころまで昔話に花が咲いた一夜であった。その日吾朗は1時間半ほどの車で帰宅する車中、まるで10年も前に戻っている自分を感じた。

翌朝、札幌に向かう途中吾朗の街で、休息時間があるということで、吾朗は仕事の休みをとり、車で奥さん・陽子・一郎を載せてツアーバスの後ろについていったのだった。車中は、昔話から現在に至るまでのよもやま話に尽きる話題はなかった。
吾朗は卒業後、弘前に3年間暮らしていたことや、今の家庭のことやら、また桃木家では陽子が数年前に離婚して、今は、保母さんの仕事をしながら一人息子と暮らしていることなど、知らなかったことが沢山あった。スチュワーデスの仕事は結婚を機に辞めていたとのこと、なんとももったいないことであった。

あっという間に札幌につき、自由時間が数時間あったので、一行をあまり詳しくはわからない札幌の街を案内した吾朗である。希望を聞いて、北大構内を案内した。ポプラ並木・大学構内のキャンパスの芝生の上で寝転がって、旅の疲れを少しでも取ってもらおうと吾朗は、あまりあちこちと連れまわすを控えた。
あと、案内したのは「時計台」「ラーメン横町」であった。ラーメン横町では、ちょうど、ラジオの番組で、観光客のインタビューをされていた。陽子にマイクが回ってきて、なにか旅の感想を語っていたようであった。自由行動の時間もあっというまに過ぎ去り、再び別れの時間が迫ってきた。ひとりひとりと、固い握手を交わしながら、今度再開出来るのはいつになることやらと、心中、とても寂しくなりその想いで熱いものが瞼に浮かんでくるのを必死に抑えていた吾朗であった。

逢うは別れの始めとやら、再会は本当に嬉しいが、別れがまたその倍辛いものであることを痛切に感じた吾朗であった。

                               つづく。。。。。。。。。


伊豆の踊子   「 第三部 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年09月01日 13時40分38秒 | 小説

 


伊豆から戻ってきた吾朗は、しばらく伊豆での桃木家での思い出が忘れられなくなっていた。

彼にとっては、今まで生きてきた中で、最高の夢のような夏休みであった。堂ヶ島へ家族で遊びに行った日・陽子が浴衣を着て行った下田のお祭り等々、長いようであったが短い三週間であった。
吾朗は、帰京するや否や、すぐ桃木家に礼状をしたため投函した。まもなく、奥さんから写真を多数同封した便りが届いた。

貴方がお帰りになられたあの日、娘息子が送りに行った駅から戻ってきてから、その日は一日、何もしゃべらず何か寂しい様子でしたよ。わずか三週間の間ではございましたが、陽子・一郎は貴方をおにいさんのように感じてきていたのではないかと察します。私どもも、息子がひとり増えたような感覚にさせていただいておりました。また、来年もぜひお越しくださいませ。。。。。。。
吾朗が感じていたように、桃木家の家族も同じような想いをしていたのであった。

この三週間のご縁がまさか、その後35年も続くとは彼も桃木家も夢にも思っていなかった吾朗である。

翌年は、結局お邪魔することなく過ぎていった吾朗最後の学生時代の夏休みであった。その間、四季折々の時候の挨拶等の便りの交流があったが、次第にその思い出も忘れ去っていった彼であった。

 再び、桃木家を訪れたのは吾朗が28歳のときであった。そう、あの三週間の夏休み以来、8年ぶりの夏であった。桃木家の道筋は、もうはっきりと覚えていた吾朗である。
「ごめんくださ~い」「はぁ~い」と、玄関に出てきたのは、なんと大人になった陽子であった。まさか、陽子が居るとは思ってもみなかった吾朗はびっくりした。
桃木家も同じ思いであったろう。8年ぶりに訪れた桃木家は、家族がひとり減っていた。お大師様と近所から呼ばれていたおばあちゃんがすでに他界していた。
吾朗は仏壇に手を合わせながら、8年前のお礼を心の中で、そして今日こうして再び訪れることができたのはお大師様のおばあちゃんが引き寄せてくれたのでしょうと。。。。。

 陽子は、なんと生まれて三か月ほどの赤ん坊を抱いていた。彼女の傍には夫らしき人物が。吾朗は陽子と、彼女の息子ばかり見ていて、その男性のことはほとんど記憶がない。吾朗と陽子は6歳違い、睦まじい歳の差と覚えていた吾朗であった。その後、いろいろ話をしていくうちに、陽子があの頃の夢であったスチュワーデスになり、しかも女性雑誌に写真入りで載ったことがあると、奥さんがその本を見せてくれた。やはり、中学生のころの彼女とは違い、大人っぽい陽子のスチワーデスの征服姿が載っていた。

そのころ、彼女に惚れた夫となる男性が、彼女のフライトが終え戻ってくるといつも、迎えにきておりそのうち結婚したのだということであった。今日はたまたま里帰りをしたということであった。その日に、偶然吾朗が訪れ、彼女の息子を膝の上に抱くとは。やはり、お大師様のおばあちゃんが引き合わせてくれたように想った吾朗であった。彼女たちは、まもまく東京へ戻っていった。

一郎は中学生のころ、三週間の滞在していた折に、吾朗が教えてあげた落語をすっかり覚えて、落語にはまっていたとのことで、学校の人気者になったという。彼もその頃は、東京で大学生になっていて、その時は逢う事はできなかった。

吾朗は陽子が、結婚し、子供まで出来ていたことに内心驚き、まだ若いのに。青春時代をもっと謳歌しても良かったのにと、吾朗は複雑な心境で、桃木家を後にしたのだった。 その後、桃木家と再会したのは吾朗が37歳のときであった。                                 

                                つづく。。。。。。。。。


伊豆の踊子   「 第二部 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年08月31日 15時15分15秒 | 小説

抜けるような夏の青空のもと、吾朗は伊豆急下田駅に降り立った。
二か月半ほど前にきた、寝姿山の麓にある桃木家の道を、確かこの道だったなぁと想いだしながら。。。。

 

そうだ、この家だ!おもわず心の中で歓声をあげていた吾朗であった。懐かしい家であった。「ごめんくださ~い」「はぁ~い」。。。。。懐かしい声が聞こえた。その夜はつつましくも、ささやかな歓迎会を開いてくれたのだった

二階は12畳間であったろうか、否、それ以上の広い畳間である。そこに一人貸切状態で三週間もの長い間、寝起きした吾朗であった。
翌日、小学六年生の息子・一郎君に案内されてバスに乗って、砂が白一色に埋もれている白浜海岸へ。ちょうど、その海岸の近くに桃木家の親戚の家があり、そのお宅で水泳着に着替えさせてもらい、目の前の真っ青な海に走っていった二人であった。まるで、歳の離れた兄弟のように。

 

海は穏やか、最高の海水浴日和りである。
次第に、海水浴客も増えだし、これぞ夏の海といった光景である。泳いでは休み、休んでは泳いだ二人であった。吾朗がかつて知っている海水浴の海とは、まったく異なっていた伊豆の海である。白い砂、これは吾朗が初めてしった砂浜であった。ほんとうに、夢のようなすばらしい海水浴場である。

赤く日焼けして、桃木家に戻ってきた二人、否、赤く日焼けしていたのは吾朗だけ、一郎君はすでにもうクロンボのようにまっ黒に焼けていた。帰宅して、冷えた西瓜を御馳走になり、夜には以前にお邪魔したときに連れていってもらった、掘立小屋の温泉へ。なんともはや、こんな贅沢な、かつて経験したことのない夏休みを吾朗は過ごしていくのであった。

 

時々はあの田舎道で、声を掛け、母親にささやいてくれた吾朗にとっては救いの女神・陽子も一緒に、海に出掛けた。なんでも、将来はスチワーデスになるのが夢だと語っていた彼女であった。
学校では一・二番の成績を収める優秀な子であった。その娘が、高校を出てから進学もせずに本当にスチワーデスになるとは、露とも思わなかった吾朗である。まるで三人兄弟のように、楽しい毎日を過ごした、吾朗にとっては最高の思い出になる夏休みであった。

 

吾朗が滞在した間に、台風が襲来したことがあった。その時は強風で、ご主人は雨戸を閉め、風雨に備えていたのを覚えている吾朗である。それまでは、台風直撃の経験をしたことのなかった吾朗にその様子は、珍しくも映った。すごい雨風の一夜が明け、翌朝は文字通りの台風一過の青空であった。

 

そんなこんなで、楽しい日々もあっという間に過ぎ去っていった三週間であった。もう、家族の一員にでもなったような吾朗の気持であっただけに、別れがまた格別なものであった。来年もまた、おいで!と、温かい言葉を背になごり惜しくも、伊豆下田を後にした吾朗であった。

                          つづく。。。。。。。。


伊豆の踊子   「 第一部 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年08月30日 17時40分50秒 | 小説

或る日或る時、突然の一本の電話のベルが鳴った。
その電話は、すぐる昔々の出来事を吾朗に思い出させるものであった。

吾朗と後輩の二人は、GWを利用して伊豆の下田へ、ぶらり旅に来ていた。

一泊の予定で来てた二人、GWであったのをすっかり忘れていたのだった。泊まる宿は勿論、ホテルも予約客で満員で、全部門前払いであた。しかし、間の抜けた二人である。GWに、目玉観光地の下田の宿・ホテルが空いているはずがないということを考えつかなかったのであろうか?若い若い二人ゆえ、それも致し方がなかったであろうか。

伊豆急下田駅の目の前にそびえたつ寝姿山の麓の砂利道をとぼとぼと、二人はあてもなく、歩いていた。 前方から、中学生くらいの娘さんと、その母親らしき女性が歩いてきた。吾朗は躊躇なく声を掛けたのだった。

 「自分たちは東京から、GWを利用してこちらへ観光方々訪れて来た者ですが、GWであったことをうっかり忘れておりまして、宿の予約をしておりませんでしたために、どこも予約客で満員で泊まることが出来ません。どこか、泊まれるようなところをご存じないでしょうか。」

 「そうですね~、時期が時期ですからもう、どこも満員でございましょうね~」

そういう母親に、傍らにいた中学生の娘さんがなにか母親に耳打ちをしていた。

 「良かったら、狭いうちですけど、うちの二階が空いておりますので、お泊りになっていかれませんか?」

 「ええっ?ほんとうですか。本当によろしいのですか?」

そんな訳で、二人はすっかりお邪魔させていただくことになったのであった。お大師様と近所から呼ばれているおばあちゃん・ご主人・奥さん・娘さん・息子さんの五人家族のうちであった。

吾朗はすっかり、お大師様のおばあちゃんに気に入れられ、可愛いがられた。たった一夜ではあったが。その夜は、ご主人に連れられて、その地区での共同浴場へ連れていってもらった二人であった。
共同浴場といっても、畑の真ん中にある掘立小屋の温泉である。すっかり、その湯で、旅の疲れをとることが出来た二人であった。

 

一夜明け、帰京した吾朗は、さっそくお礼状をしたため投函した。そのうち、予想もしていなかった便りが吾朗のもとへ届いたのだった。差出人は、下田の奥さんからであった。「良かったら、夏休みにでもどうぞお出でください。」との内容であった。

吾朗はさっそく、その手紙を持って、同じ郷土の学生寮にいる後輩のところへ。良かったら、夏休みに行かないかとの誘いに。残念ながら、後輩は夏休みは予定が既に入っており、行くことができないとのこと。その旨を記し、自分一人でもかまわないかと返信。まもなく、その返事が届いた。内容は「O・K」とのことであった。

 

夏休みの前半、池袋の西武デパートの裏仕事のアルバイトで、滞在費を捻出した吾朗は、夏の或る日、伊豆急下田「踊り子号」の車中の人となっていたのだった。

                              つづく。。。。。。。。。。。。。。
     


カルピスの味   「 最終幕 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年07月29日 16時59分10秒 | 小説

そうこうしているうちに 月日の流れは早く 修行期間は半年を残すのみ

三郎と彼女は 次第に 喫茶店で逢っても お互いの目をみつめるだけ

会話は 次第に少なくなっていった

目で会話していたようなものであった 別れの日が近づいてきていた

 

 

12月の或る夜 いつものように 彼女の家を訪れた三郎

そこで目にした光景は なんともいえないものであった

彼女が泣きじゃくっていたのである その前には母親が厳しい顔を

三郎は 母親から告げられた あなたがこの地にとどまるのならば

一緒にさせてあげましょう  でも 北の大地に帰るのならば 一緒には出来ないと

母親は いまさら 見知らぬ土地で 暮らしていく気はなかったのである

彼女は 母一人娘一人 板挟みになって どうしようもなかったのであった

 

 

突然  雪降る中 素足のまま 外へ飛び出した彼女

三郎は あとを夢中で追った 彼女は雪の中 泣き崩れていたのだった

三郎は 彼女の名前を呼ぶのみしか 抱きしめるしか方法がなかった

どう 母親を説得しても とうとう受け入れてくれなかった

一年したら 迎えに来ると 言い残して北の大地に戻って行った三郎であった

半年後 彼女は東京のいとこの会社へ行ってしまった

想い出多き 弘前におれなかったのだという

一年後 母親を問い詰めても とうとう連絡先は教えてくれなかった

彼女は 三郎が北の大地に帰って行った時に すでに決心していたと云う

一緒には なれないと  そんなことを露知らず 三郎は懸命に仕事に精をだしていたのだった  一年後 迎えに行ったつもりが 逆に傷心を抱いて 北の大地に戻って行った三郎であった

 

それから 数十年 風の便りに 彼女は東京で結婚し 息子が小学3年のときに  息子を置いて 

離婚したそうな  そんな噂が耳にはいってきた三郎

甘ずっぱくも ほろ苦い三郎の 「カルピスの味」であった


カルピスの味   「 第三幕 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年07月27日 16時37分51秒 | 小説

三郎が 弘前にきて2度目の夏がやってきた

支店経験も 早や1年半を 経過していた やるだけのことはやりつくした想いをしていた三郎であった

これは どんな原材料から出来ているのだろう ふと そんな素朴な疑問が彼の心に芽生えた

原材料もわからぬ状態で 自分は販売していたのかと 改めてそのことを思い知らされ 冷汗が流れるのを覚えた

即、機会を見つけて 社長に現場の仕事任務につかせて欲しい旨の直訴をした三郎であった

たまたま現場に欠員が生じた 彼の要望は運が良い時期であった

初めて 現場を経験し なあるほど これはこういう原材料で こういう手順で 完成していたことを 知った

彼は 現場の物を創造する喜びに のめり込んでいったのだった

その時代は まだ現在のような ベルトコンベアーで品物が出来あがっていくような 時代ではなかった いわゆる 手職技術の頃であった

ここで 三郎はこういう技術は「年期」というものが 必要であるということを身をもって 実感した

営業は営業なりに  製造現場は製造現場なりの 「年期」がいかに大事なものであることかを

つづく


カルピスの味   「 第二幕 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年07月26日 11時15分45秒 | 小説

三郎は仕事にもようやく慣れ 余裕が出てきた

そんな夏の或る日 ふと 簿記の勉強をしたくなった彼だった

夜間の簿記学校へ  入学手続きをすませ  その初日であった

 

或る若い娘が  たまたま三郎の席の隣に腰掛けたのが きっかけであった

「すみません 筆記道具をうっかり忘れてきたのですが 鉛筆を貸してくださいますか」

「はい、遠慮なくお使いください」

これが 二人が巡り合った瞬間の会話であった

 

それから 学校ではいつも一緒の席に座るようになった二人だった

夏の 「ねぷた祭り」も浴衣で 出かけた二人

すごい人出の中 離れ離れになりそうに感じた三郎は

おもわず 彼女の手を握った 自然であった

彼女は 別になんとも感じていないのか それから手を握り合ったままであった

 

彼女の家は  母子家庭で 弘前の奥座敷 「大鰐温泉」にあった

弘前からは  電車で15分くらいであったろうか

気がつくと 学校のある夜は かならず 送っていくようになっていた彼であった

最終便の電車で  弘前の下宿先に戻るのが 日課となっていた

 

学校を仕事の都合で休むと  彼女は下宿先にその日の授業の内容を

教えにくるようになっていた  下宿のおばさんは そんな二人をあたたかく 

見守っていてくれた 

つづく


カルピスの味   「 第一幕 」     HP「kazemata劇場 第2幕」より

2009年07月25日 11時21分43秒 | 小説

 タヌ太郎さんと、ワニ五郎さんが夏休みを採ったようで それで しばらく 或る物語を

「 カルピスの味 」

北の大地から 津軽の海を渡って青森は 弘前の地に降り立った若者がいた

ときは春 或る家業の修行のため 三郎はこの地にやってきた

三年の修行期間であった なんでも石の上にも三年とか

そんなこんなで 三郎は学生生活を終え 初の社会人として生きはじめた

 

一年目は 無我夢中で 過ぎ去ってしまった

最初は営業から そのうち 或る支店を任されるようになった三郎であった

なんだかんだ売上を伸ばせねばと 四苦八苦 試行錯誤の日々が過ぎた

客の身になって どうしたら 足を止めさせることが出来るかと

まずは その基本的なことから 始めた三郎であった

 

或る日 本社の社長に呼び出しを受けた

金一封が 渡された  売上が倍増したのが理由であった

ちょうど その頃 社内報の発行問題が生まれ 

初代編集長に 抜擢された三郎であった

支社が 市内に8社もあった会社である

休日は各支店の取材で チャリンコで駆け巡った三郎であった

なかなか原稿が集まらない 三郎はその記事の穴を埋めるため

自分で 原稿をつづった 深夜遅くまで 下宿のちゃぶ台で

つづく