北の隠れ家

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夢のまた夢 ・ 十四部

2016年04月30日 09時25分47秒 | 夢のまた夢
☆平成時代☆


      

【 家族初登山 旭岳・黒岳 】





翌月の平成三年三月にゃ、俊輔も小学校を無事卒業することが出来、四月には自宅から、徒歩十五分の「六合中学校」へ入学したのでごぜぇますだ。

この年の八月夏休み、家族での「初登山」をしたのでごぜぇます。
山は「大雪山連峰の旭岳」二千二百九十メートルでごぜぇましただ。ロープウェイで「姿見の池駅」を出発したのが丁度、十二時でございましたなぁ。
天気はあいにくと曇り空模様で、時折、霧が出るような天気具合でごぜぇました。最初は元気が良かったアッシでしたが、次第に、フーフー青息吐息の状態で頂上目指してがんばる羽目になったのでごぜぇますだ(笑)。

山頂に立ったのが二時五十五分でしたなぁ。晴れていれば、眼下に大雪連峰が見事に見れたのでしょうが、残念ながら、一面霧で全くそのパノラマを目にすることが出来なかったのでごぜぇましただ(笑)。
下りは、霧の中を下って参ぇりやしたが、五里夢中というのはあんな状態のことをいうのでしょうなぁ。わずか二、三メートル先が見えないんですからなぁ。天気に恵まれなかったのがとても悔やまれました家族初登山でございましたぁ。




次の週にはなんと今度は「大雪連峰の黒岳」に今度は、カミサンと二人で登山したのでごぜぇますだ。一千九百八十四メートルの山でごぜぇますだ。先週は登山開始がちょっと遅かったので、今回は少し早めの十時四十分に七合目から登り始めましたんで。
黒岳も七合目まではロープウェイで来ることが出来るんでごぜぇますだ。ジーパンに以前、陽子ちゃんから送って頂いた、勤めている保育園の名前が入ったぺアーのTシャツ姿で二人で登ったのでごぜぇますだ。

旭岳は、どちらかというとなだらかな山道でごぜぇましたが、黒岳はてぇと、そりゃ結構な坂道でして、ときには急な勾配の登山道でございましたなぁ。 山頂に立ったのが丁度、十二時十分でごぜぇまして、多く登山客がすでにおにぎり等を食べていやしたなぁ。

天気も素晴らしい真っ青な青空で、真夏だというのに所々に残雪が見られる大パノラマ風景でごぜぇましただ。夫婦で登山したのは、なんと長い夫婦生活でこの二回だけでごぜぇましただ。今、思えば行っておいて良かったと想っておりますでごぜぇます。


【 章人君来宅 】

明くる年、平成四年四月に次男坊の祐輔が、兄についで「六合中学校」へ入学したのでごぜぇますだ。
この年の二月には、東京の陽子ちゃんの一人息子の章人くんが大学受験合格の記念に旭川へ単身、スキーに来られた年でもごぜぇましたなぁ。ええっ?ちと合格には早い時期じゃねぇかって?へぇ、彼は成績優秀で「推薦入学」出来たんでさぁ。
そういう訳で、アッシん家で三泊されて行きなすったんでごぜぇますだ。「カムイリンクス」「サンバレー」「富良野 北の峰」スキー場へと毎日ご案内させていただいたんでごぜぇます。




アッシは勿論、休暇を取りやしたが、息子達も「富良野」へ行った時は特別、学校をさぼらせましたんで、へぇ。どう仕様もねぇ親父でございましたなぁ(笑)。
章人くんの日頃のおこないが良かったのでしょうね、連日好天に恵まれやしましたですなぁ。章人くんは、幼いときから、母親の陽子ちゃんから内地のスキー場へ連れていってもらっていたせいか、とても上手でごぜぇましたなぁ。

四日目に帰京の道についたときは、長男坊が「寂しくなるなぁ~」とポツリ、帰路の車の中でつぶやいていたのを覚えておりやす。彼にしても、兄貴みたいな感覚を章人くんを感じ始めていたのかも知れませんなぁ。  


【 ばぁちゃんの「還暦祝い」 】

この年、平成四年九月十九日は、カミサンの母親の「還暦」のお祝いを「旭岳 こまくさ荘」で盛大に行われ屋したんでごぜぇますだ。
カラオケで皆、多いに楽しみましたんで。翌日、旭岳ロープウェイで「姿見の池」まで上ったんでごぜぇますが、山はもう雪、雪、雪で真っ白、真冬並みでございました。まだ、九月だってぇのに。みんな、震えあがってやしたでやんすよ(笑)。




十二月には、妹の亭主の薦めで「ワープロ機器」を購入し、初めてキーボードと縁が出来た頃でごぜぇましたなぁ。
無論、現在のようなブラインドタッチじゃなく、「人指し指一本打法」でごぜぇましたんで(笑)。今、想うと、この時のワープロに接した経験が、後年のパソコンを扱うようになった時に、とてもスムーズにキーボードに接することが出来たんでないかと想っておりやす。

翌年、平成五年の春、それまでの空部屋状態だった一階の部屋を二十万円を掛けて、アッシの書斎部屋兼寝室に改造したんでごぜぇますだ。
歳をとって来ているのを肌身に感じたのかも知れませんなぁ(笑)。二階に上がるのがおっくうになってきていたんでさぁ。  


【 大阪の母 三回忌法要 】

この年は先年亡くなっていた実母の三回忌法要の年でごぜぇましただ。
六月十五日、山梨の身延山でおこなわれたんで。前日、深川の隣町「妹背牛町」に住む二つ違いの秀子姉と、妹の康子と三人で、浜松から急行「富士川六号」で静岡へ、そこで「身延」へと向かったのでごぜぇましただ。




身延へは二時十七分に到着いたしやした。日蓮宗の総本山であるだけに素晴らしく大きな由緒ある所でやしたなぁ。
この時も良い天気に恵まれまれ、その日は奈良から来てくださった母の弟の叔父と二人で、「信玄の隠し湯」で有名な温泉へ一泊いたしやした。秀子姉と康子は浜松へと帰りましたなぁ。翌日は叔父とも別れ、東京へ向かったアッシでごぜぇました。


【 一人旅 】

東京では、陽子ちゃんの所へお邪魔させていただいたんでごぜぇますだ。




この際だからということで「日光東照宮」、翌日は「鎌倉」へと一人旅をしたんでございやす。学生時代には全然関心がなかった二ヶ所でやしたが、とても素晴らしいところでごぜぇましただ。どちらも遠来の観光客でにぎわっておりましたなぁ。




日光の「陽明門」「眠り猫」「鳴き竜」など、また鎌倉の、文永の役、弘安の役の「元寇」の折りに戦死した敵、味方の兵士の菩提を弔うために、北条時宗が建立した「円覚寺」、そして彼の父親の墓所である「明月院」、このお寺は別名「あじさい寺」とも云われるように院内は紫陽花の花で包まれておりましたなぁ。




「建長寺」は丁度、普請中でごぜぇました。鎌倉の海が一望に見渡せる高台に建てられていた「長谷寺」、有名な「鶴岡八幡宮」そして美男で有名な「鎌倉の大仏」等々とて素晴らしい気さくな一人旅でごぜぇやした。

上京する度に内心想うのでございますが、今回で最後の上京になるやもと想うのでごぜぇますアッシでやんした(笑)。ですから、いろんな所へ行っておこうと想うアッシなんで。




【 夏の甲子園 】

この年の夏の「甲子園」は旭川にとって忘れる事の出来ない貴重な夏でございましたなぁ。
全国高校野球北北海道大会が、七月二十五日「旭川スタルヒン球場」で「旭大高」と「稚内大谷高校」の決勝戦がおこなわれたのでごぜぇますだ。
これで勝ったほうが「夏の甲子園」へのキップを手に入れることが出来るのでごぜぇましただ。
試合は、延長十回「二対一」で地元「旭大高」が優勝したのでごぜぇます。「夏の甲子園」八月十一日、いよいよ旭大高の緒戦が始りやした。相手は強豪「福井商業」でございましたなぁ。




この緒戦でなんと五対一で予想を裏切って相手を破ったのでごぜぇますだ。八月十六日、第二戦は、地元兵庫県代表「育英高校」に残念ながら十一対三で惜しくも惜敗したんでごぜぇます。
この年の北北海道代表校「旭大高」の甲子園の夏でごぜぇやしたなぁ。普段はそれほど郷土愛を感じない市民も、この時ばかりは郷土愛一色になるのは、本当に不思議な事でございますなぁ。

平成四年一月十七日から、一念発起して「年間百冊読書」の目標を掲げたアッシでごぜぇやした。が、十一月十七日の山本周五郎「おさん」での七四冊目で記録は幕を閉じたのを覚えておりやす。
しかし後年、六十歳のおり、この記録は大幅に増進いたし、百七七冊を一年間で読破いたしやしたのを覚えておりやす(笑)。。

つづく



夢のまた夢 ・ 十三部

2016年04月29日 09時46分08秒 | 夢のまた夢
☆再 会☆


      

【 下田・桃木家との再会 】




平成二年七月十九日、あの伊豆下田・桃木家の皆さんが北海道旅行へと来道され、この日「層雲峡グランドホテル」で十六年振りの再会を果たしたのでごぜぇますだ。

数日前に陽子ちゃんから自宅へ、北海道旅行に家族全員で行くので、是非お逢いしたいと電話があったので、へぇ。
それで日程を聞き、前日に明日、層雲峡に行くとの連絡が入ったので、当日は仕事を終えてから層雲峡まで車を走らせたアッシでごぜぇました。
一時間半程で層雲峡のグラウンドホテルに着きましたが、桃木家のみなさんはまだ到着されておられませんでしたなぁ。十五分ほどしてから、陽子ちゃん一行の観光バスが到着致しやした。観光バスから続々と降りて来る一行が、ホテルのロビーに入って来やして、その面々を見ながら桃木家の一行を目を皿のようにして捜しやしたアッシでごぜぇましただ。




あっ、居ました、先ず目に入ったのが和一朗小父さんでごぜぇましたなぁ。次に定子小母さんの姿を。そして陽子ちゃん、章人くんと。章人くんは、最初、誰なのかわかりませんでしたなぁ。それほど、大きくなっていやしたんで。16年ぶりでごぜぇますから、当たりまぇのことでやんしたが(笑)。

その夜はみなさん旅の疲れもあったので、そんなに長居はせず、翌日、札幌までお供することにして失礼いたしやした。
翌日は休暇を取って、会社の車を借用し、アッシの車に陽子ちゃん、定子小母さんが同乗して札幌までお供いたしましたんでごぜぇますだ。旭川では、「ユーカラ工芸館」を見学いたしました。

札幌では「北大」を先ず案内致しやした。季節的にちょうど恵まれていたのもありましたが、緑のキャンパス、ポプラ並木が鮮やかでございましたなぁ。
次に「ラーメン横丁」に一行を連れていきやした。陽子ちゃんが、その横丁入り口で、どこかの放送局の観光客相手のインタビューを受けていやしたなぁ。




ラーメンの味はアッシにゃ、旭川ラーメンのほうが美味いと感じましたがな(笑)。時間が経つのは早いもので、一行が千歳に向かう時間が迫ってめぃりやした。
観光バスが出発して、すぐにアッシは近くの陸橋に走りのぼり、その橋の上から去り行く観光バスを見送り致しましたことを昨日のように覚えておりやすんで。その時は、もう二度と逢えないような寂寞感がアッシを包みこんでいたんでごぜぇますだ。まさか翌年、再び逢えるなんて夢にも想っていませんでしたからなぁ。


【 大阪の母見舞い 】

平成の時代も三年目に入った一月の或る夜、一本の電話が鳴りやした。初めて聞く声でありやしたなぁ。
なんでも奈良に住むという叔父にあたる人からの電話であったんでごぜぇますだ。話しの内容は、大阪の実母が肺ガンでもう長くはない状況であるという事でありやした。

それで出来たら元気でいる内に、一度逢ってやってくれないかという事でありうやしたんで。実母とは、学生時代に二、三度大阪に逢いに行ったっきりで、もう何十年と逢ってはいないアッシでごぜぇやした。
でも、長男坊が産まれた時だけはそのことを手紙で教えておりやしたなぁ。アッシも四十半ばの歳になっておりやした。





そんな訳で二月二十二日、大阪北市民病院に入院している実母を見舞いに参りやしたんで。二月だというのに大阪はとても暖かく、春のようでごぜぇました。病院の前庭に、大きな紅梅の木が満開の梅を咲かせていたのを覚えておりやす。

想ったよりも元気な母を見て、もう長くない命だとは感じられませんでしたなぁ。母とは名ばかりの母では有りましたが、歳老いた姿を目の前にすると、一人の人間として波乱万丈の人生であったろうなぁと何故か、愛しい想いを感じたアッシでございやしたなぁ。初めて、母に逢った高校2年の頃を思い出しましたなぁ。


翌日、母の強い勧めで四国は徳島の母の姉、鶴子叔母さんに逢いに行ってめぃりやした。鶴子叔さんは80歳を過ぎているというのに、まだまだカクシャクとしてお元気でございやした。
息子の従兄にあたる方が、鳴門大橋を案内してくれやしたですなぁ。当時、出来たばかりでやん下でごぜぇますだ。二日ほどお邪魔して、すぐ大阪へ舞い戻り、再び母を見舞いに病院へめぃりやした。


【 妹との再会 】

大阪からの帰路、浜松へ嫁に行っていた妹、康子の顔を見たさに、新幹線を途中下車したアッシでごぜぇやした。住所のみを頼りに、妹の家をだいぶ時間を掛けて捜しやして、やっとたどり着きましたでごぜぇますだ。

妹の康子は、小豆餅町という珍しい町の名前のところに住んでおりやした。日も暮れ、一軒一軒表札を見ながら捜し当てましたなぁ。とうとう「橋本」という表札を見つけた時は「あったぁ~」という気持でしたなぁ。

「こんばんわぁ~」と声を掛けて、出て来たのが妹、康子でやんした。その時の、妹の驚いた顔を忘れることが出来やせん。





三十一年振りの再会でしたなぁ。娘が二人居て、長女が「かおり」、次女が「る美」という名前でごぜぇやした。上の娘が中学三年生、下の子が小学六年生で長男坊と同じ年でございやした。

妹は何前か前に離婚していて、一人で娘二人を育てていたのでごぜぇましただ。 娘二人は活発な子でございましたなぁ。いいだけ母親に甘えている感でございやした。きっと、妹も甘やかせて育ててしまったんでございましょう、アッシと同じように。一晩、話し明かして、翌日は東京に向かいやしたあっしでごぜぇますだ。






東京では、「三軒茶屋」に暮らしていた陽子ちゃんを訪ねやした。それこそ、住所のみで、また、その家を探したんでぜぇますだ(笑)。

昨年の北海道旅行では、もう再会はないかと想っていたアッシでやんしたが、まさか、こんなに早く再会出来るとは夢にも想いませんでしたなぁ。
そんなこんなで大阪の母の見舞いが、想いがけなくも四国にも行き、浜松の妹家族、そして東京の陽子ちゃんにも再会出来る旅になったんでごぜぇますだ。





つづく


夢のまた夢 ・ 十二部

2016年04月28日 12時54分42秒 | 夢のまた夢
☆マイホーム新築☆


       



 
【マイホームの新築】

昭和五十七年十一月、長男が五歳、次男坊が四歳、アッシが三十七歳、カミさんが二十五歳の時に、新築の新居に引っ越しをしたんでごぜぇますだ。
世帯を構えてから、二度目の引越しで、自分たちの持ち家に引越し出来たんでごぜぇます。

子供たちが、保育園に行っているときにマイホームを建てるのが、一応目標でごぜぇましただ。てぇのは、小学校へは保育園の仲間たちと同じ小学校へ進むのが多かったもんでやんすから、そうしてあげたいと思っていたのでごぜぇます。





学校の転校と云う事を出来るだけ避けたいと、思っていたんでやんす。そういう構想を持っておりやしたので、まぁまぁ人生設計通りに家を建てることが出来たのでごぜぇますだ。

土地は、頭金を全財産と、女房の実家から五十万、敏信兄から五十万、残りを今は姿を消した北海道拓殖銀行から五年間借入金したんでごぜぇますだ。その完済と同時に、現在の家を建てたんでごぜぇます。 
それまで、6畳間と4畳半という狭いところで暮らし続けていた反動でしたのでしょうか、この新築にゃ、なんと身分不相応な大きな家を建てちまったんでごぜぇます。


この家を建ててから気が付いたんでございますが、家てぇものは必要以上の大きな家は建てるもんじゃありませんなぁ。家てぇものは三度建てて、初めて、満足に値する家が出来るてぇ良く申しやすが、こりゃ本当のことだとつくづく想いましたなぁ。 





新築した折にゃ左側のお隣りさん、現在の佐藤さん宅がまだ空き地でごぜぇましたので、屋根は三角屋根にしたんで。十年は空き地でしょうと聞いていやしたんでね。
ところがなんと翌々年、その左側の空き地に家が建っちまったんでごぜぇますだ。矢張り心配していた通り、アッシんちの屋根の雪が隣の敷地内落ちてしまうんで。
慌てて屋根をスノーダクト、へぇ、無落雪の屋根に改造しましたんでごぜぇますだ。こりゃ、予算外のことでしたなぁ、へぇ。雪国てぇのはてぇへんお金が掛かることで。  



そんなこんなでアッシんちは、右二軒隣が保育園、五十メートルほど行ったところに、春光小学校が有るという、てぇへん恵まれた住宅街に有ったので、へぇ。

翌年の昭和五十九年四月、我が家の右二件隣の「蘭契保育園」に長男坊の俊輔が入園したのでごぜぇますだ。一年間の保育園でしたなぁ。
次男坊の祐輔も同じ保育園に入れたかったのですが、あいにくと満杯で入園出来ず、自転車で十分ほどのところにある「こまどり保育園」に入園したのでごぜぇます。確か、クラスは「たんぽぽ組」だったと記憶しておりやすが。





カミサンが毎朝、自転車で送っていっておりましたなぁ。翌年には兄が春光小学校へ入学しましたんで、兄の行っていた「蘭契保育園」に入る事が出来たんですでごぜぇますだ。
二人の保育園時代は良い時代でございましたなぁ。今の不透明な、そしてリストラ時代なんてぇ事は考えられなかった時代でございましたなぁ。

二人の保育園の「運動会」にゃ本町のばぁ様も来てくれて、そりゃ楽しい運動会でございましたんでごぜぇます。
なんと云っても、親の出番が多かったでございましたからでございましたでしょうからですかねぇ。息子たちよりも、張り切っておりましたなぁ。
そういえばカミサンが、「蘭契保育園」のPTA副会長をしておりやして、運動会じゃ挨拶なんぞぅしていおりましたなぁ。カミサンが人前で挨拶している光景を拝見したのはそれが最初で今の所、最後でごぜぇますだ。





そんなこんなで平凡ではありますが幸せな日々をすごしていた年でごぜぇやしたが、その年も暮れ、迫ってきた十二月二十五日、なんと京都に居る「文雄兄」が旭川へ遊びにやってきたのでごぜぇますだ。
九年振りの再会でしたなぁ。前回、逢ったときはまだ新婚時代の頃で息子たちも産まれていなかったんで、今回は息子達と初ご対面でごぜぇましただ。
クリスマスプレゼントといって、息子たちにレーシングカーを買ってくれたのを覚えておりやす。今想うと、文雄兄が四十七歳、アッシが三十九歳の時でごぜぇました。






つづく


夢のまた夢 ・ 十一部  

2016年04月27日 12時06分51秒 | 夢のまた夢
☆昭和の時代☆


      


【 息子の保育園・小学生時代 ポチコの家族仲間入り 】

昭和六十年四月五日長男俊輔、昭和六十一年四月五日祐輔が「春光小学校」へ入学したんでごぜぇますだ。小学生になると不思議なもので、なんとなく大人っぽく見えてまいりましたなぁ。
アッシの家に家族が増えたのは息子たちが小学四年、三年の時でございましたな。
名前は「ポチ子」と申しまして、雌、雑種の中型犬でごぜぇましただ。この一人娘は、その後十四年間アッシたちの家族の一員として過ごしましたんでごぜぇます。人間であればなんと九十八歳まで生きたんで、へぇ。
長男二十三、次男二十二歳のときに、老衰でこの世とお別れしちまったんでごぜぇますだ。つい先日の平成十三年十二月一日が命日でごぜぇますんで。偶然にも、天皇家の「愛子様」がご誕生なさった日でごぜぇましただ。

本当に家族の一人が居なくなったような気持ちでやんしたなぁ。この月は、敏信兄も十二月二十一日に亡くなったので忘れることの出来ねぇ月となりましたなぁ。





この「ポチ子」の想い出にこんなことがありましたなぁ。そう、あれはポチ子が三歳の頃でしたかなぁ、我が家から歩いて十五分の所に石狩川の河川敷があるんでございますが、或る夏の日に散歩がてらに連れて行ったんでごぜぇますだ。とても暑い日でございましたなぁ。結構、川幅の或る川でして、その川辺にポチ子を連れて行ったときの事でごぜぇます。

ポチ子も暑くてガマンが出来なかったんでしょう、アッシのリードを持っている手を振りきって突然、石狩川に飛び込んだのでごぜぇますだ。
アッシは流されていくポチ子を見て、慌ててしまい、ツルッと足が滑って川の中へ「ドボン!」と落っこちたんでごぜぇますだ(笑)。ポチ子のことも心配でしたが、自分の事も必死でしたなぁ(笑)。
アッシがようよう、川から這い上がって、さてポチ子はと見渡すと、土手のかなたからアッシのほうへ一目散にかけてくるポチ子の姿を見つけた時は、ほんとうにホッと致しやした。
二人でズブ濡れ姿で自転車に乗って、帰宅したことが忘れられない思い出でごぜぇますだ。





話が横道に反れましたが、こんなことも有って平凡な毎日を平和に過ごす日が続いていたのでごぜぇます。
この年、昭和六十年二月二十四日、カミサンの妹の綾子嬢が「華燭の典」をトーヨーホテル、三階「翡翠の間」にて執り行われたんでごぜぇますだ。
花束贈呈のセレモニーは最初、長男坊の俊輔が予定されていたんでごぜぇますが当日、風邪から肺炎を起こしかけ、その高熱の為、急遽、弟の祐輔が代行して行なったのでごぜぇます。そうですなぁ、その時の会費は、確か六千五百円でしたでごぜぇますだ(笑)。今よりずっと安かったんでやんすねぇ。


この息子達の「保育園時代」の思い出の一つに、忘れられないものがありやしてねぇ。あれは確か或る夏の夜の出来事でざいましたなぁ。
長男坊が夕方、帰宅してきたと想ったら、自慢げにポケットから「キンケシ」を次から次へと出したのでごぜぇますだ。「キンケシ」てぇのは当時子供の世界で一世を風靡したオモチャでごぜぇますだ。
その「キンケシ」が出るわ出るわ、さすがのアッシもそれには驚きやしたなぁ。話しを聞くと、なんと百円入れると、その機械から山のようにキンケシが次から次へと出てきたと云うんでごぜぇますだ。

アッシはこりゃ、てっきりその機械が故障していると想い、息子にそれを話し、その店屋さんに教えてあげなければと、その店はどこの店かと息子に案内させようと一緒に表に出たのでごぜぇますだ。
ところが、家から少し行ったところで息子の足が止まって歩こうとしないんでさぁ。訳を聴くと、なんと息子は嘘をついていたと云うじゃありませんか。アッシはびっくりして、どういうことかと問い詰めたら、母親が家の中の引き出しに入れておいた小銭を失敬してそのお金であれだけの「キンケシ」を買ったということでごぜぇましただ。




それでアッシも、あれだけの量のキンケシが出てきたことに納得したんでごぜぇます。親も悪いのでごぜぇますだ。子供が目にとまるところにお金を置いていたということが、悪意はないのに、子供に誘惑の気持ちを抱かせてしまったんですからなぁ。
話しを聞けば、兄だけにとどまらず、弟もちょろまかしていたというんですから、まいりましたなぁ、これにゃ。 

でも、この事はそのまま見過ごすことが出来ませんでな、家に戻ってきて兄弟二人並べて「お灸」を敢行いたしましんでごぜぇますだ。嘗て、自分がされたように。でも、その時初めて当時の愛子姉の気持ちがよくわかりましたなぁ。

「お灸」をされる息子たちの辛さもわかりますが、本当は「お灸」をすえる方のほうがもっともっと辛い気持ちだったてぇことを。アッシも正直申し上げますと、いざとなると子供たちが可愛そうになって何度もやめようかと内心想いやしたが、「息子」のためにと思い直し、心を鬼にして敢行いたしやした。
アッシがこの歳になるまで幼い頃、愛子姉にされたことをはっきり覚えているように、息子たちも生涯覚えているかどうかはわかりませんが、「心を鬼にする」ということを身を持って味わった思い出でございましたなぁ。





この年、昭和六十年三月二十六日俊輔が「蘭契保育園」第五回生卒業生となり、四月五日「春光小学校」へ入学したのでごぜぇますだ。
弟の祐輔は兄の卒業した「蘭契保育園」へとこれまた入園したのでごぜぇます。 息子の初めての入学式にゃアッシは仕事で出席出来なかったんでございますが、とうとう次男坊の入学式にも出席出来ず、二人の卒業式にも出れなかったんでごぜぇますだ。まぁ、ほとんどの父親がそうだったのでしょうがね。

この昭和六十年の俊輔が、小学校入学しての初めての春季大運動会が五月二十六日に行なわれたんでごぜぇますが、なんとお昼前にゃ大雨の天気になりまして中断、中止となっちまったんでごぜぁます。
翌日、再び続きをしたってぇ話しですが、親はほとんど仕事の関係で応援出来ず、そりゃ気の抜けた運動会だったそうでごぜぇますだ。

そんなこんなで、長男坊は徒歩五、六分の小学校へ、次男坊は徒歩二分の蘭契保育園へと各々新しい時代の生活が始っていったのでごぜぇます。





この年、息子たちの夏休みの或る日曜日に、家族全員で「嵐山サイクリング」に挑戦したんでごぜぇますだ。アッシもサイクリングなんてぇ代物は、生まれて初めての経験でごぜぇましただ。
おにぎり、水筒、おやつ等を各自のリュックサックに用意し、北の大地の澄み切った青空の下、軽快にペダルを踏み出発したんでごぜぇます。
我が家から嵐山まで何キロありましたでしょうかねぇ。石狩川の土手沿いに「サイクリング♪♪、サイクリング♪♪、ヤッホウヤッホウ♪♪」と鼻歌まじりにべダルをこいでいたまでは快調だったんでごぜぇますが、其の内お尻が次第に痛くなってきちまったのにゃ、内心参りましたなぁ(笑)。カミサンに聞くと同じだったようで(笑)。元気なのは子供たちばかりで、へぇ。

それにしても嵐山の頂上からの旭川街外を一望に眺望出来た時の気持ちは、それまでの汗が、一瞬のうちにどこかへ吹っ飛んで行きましたなぁ。
前方には北海道の屋根と称される大雪山連邦、その右手には十勝岳連峰の山々が連なり、下方には日本第二の長流を誇る石狩川の清流が、これこそ「山紫水明の地」という言葉が当てはまるような風景ではないだろうかと思わせた郷土の風景でごぜぇましたなぁ。





昭和六十一年四月五日、次男坊祐輔が、昨年の兄についで春光小学校へ入学したのでごぜぇますだ。その日は、北の大地は素晴らしい青空でございましたなぁ。

この年の次男坊の初めての学芸会には忘れられないものがごぜぇますだ。
この日は日曜日に開かれたの、でアッシも出席することが出来ましたんで。屋内運動場で行なわれたので皆、座布団持参でごぜぇましただ。
次男坊のクラスの出番がとうとうやってまいりやした。双眼鏡片手にアッシは、息子の雄姿を探したんでごぜぇますが、何度さがしてみても姿を見つけることが出来やせん。
時間はドンドンと進んで参ります。とうとう最後まで次男坊の姿は舞台の上には見つけることが出来やせんだったのでやんす。カミサンと二人で、がっかりして帰宅したのを覚えておりやす。

カミサンとも話ししたんでごぜぇやすが、次男坊のこと、出番寸前でなにか気に入らない事が有ったのだろう、それでヘソを曲げて学芸会に参加しなかったんだろうと。そんな頑固な所がある息子でしたんで、へぇ。先生には本当に迷惑を掛けたことと想いましたなぁ。


昭和六十三年、息子たちが小学校三年、二年生の夏休みに二泊三日で「ルスツ、洞爺」へ始めての泊まりがけの家族旅行に行ってめいりやしたぁ。家族旅行なるものが、これが最初で最後になるとは夢にも思いまやせんでしたな。子供は楽しかったでしょうが、親は少し疲れましたなぁ。
でも、子供たちの幼い頃の思い出作りをとの想いで挙行した強行スケジュールでございやしたが、行ってきて良かったと想いましたなぁ自分の幼い頃は、一度もこんな経験が無かったのもアッシの心の中のどこかにあったんでやんしょうねぇ。



先に申し上げましたが、この年の十一月二十五日に我が家に一人娘が増えたのでございますだ。前述した「ポチ子」でごぜぇます。
雑種犬でごぜぇやしたが、生後三ヶ月で我が家にやってきたんで、へぇ。
来た頃はキャンキャンと泣き騒ぐだけのうるさい子犬でございましたなぁ。丸々と太ったお世辞にも可愛い犬だとは云えないポチ子でやんしたですなぁ。アッシは、ダンボールでポチ子専用の家を作りやしたんで。

でも寝るときは、キャンキャンと泣いてうるさいので、とうとうアッシの寝床で一緒に寝ましたんで、へぇ(笑)。
これが癖になっちまったのか、しばらく二人で寝床を共にいたしやしたなぁ。
或る朝、冷たい感覚で目覚めたことがありましてな、そうなんでごぜぇますだ。ポチ子がオネショしたんでごゼます(笑)。

一歳頃までは、まだ小さかったので放しがいにしていたのでございますが、少し身体が大きくなって来たころには繋がれるようになりましたなぁ。可愛そうではありましたが止む終えませんでやんした。 
半日家の中で、半日は外でのポチ子ライフの生活でごぜぇやしたですなぁ。夜は、鳴き声が近所迷惑をかけると想い、家の中で寝かせやしたで。


ポチ子が我が家の一員になってから、我が家の空気もなにかしら変わったように感じましたなぁ。
何がってぇ申しますと、一口で云いますてぇと、優しい雰囲気になったてぇ事でしょうかねぇ。それまでは、息子たちへのガミガミした怒りがちな言葉が多かったような毎日が、なんとなく少なくなっていったような気がするんでごぜぇますだ(笑)。

ポチ子も我が家へ来た頃は丸々とした子犬だったんでごぜぇやすが、一年もする頃にゃ、もう立派な中型犬に成長しておりやした。
一年前までは留守にしていた我が家に帰宅すると、ポチコの大、小便が至るところでしていたんでやんすが、それが嘘のようになくなりましたんで、へぇ。
一年後にゃ小便をしたい時にゃ、ちゃんと教えるようしやしたんで。犬って利巧なもんでございますなぁ。

ポチ子には、玄関フードのあの厚いガラスを割られ、またベランダに通じる和室のガラスも割られましたなぁ。とにかく元気の良い一人娘でございやしたよ(笑)。
アッシとは、良く石狩川の河川敷に散歩がてら出掛けましたなぁ。時折、アッシと部屋の中でかくれんぼをして遊んだのも、今じゃ懐かしい思い出でとなりやした、へぇ。
カーテンの中やら、押し入れの中やら、机の下やらに隠れて「ポチ子~」と名前を呼んで捜させるんでさぁ。ポチ子が声をした方を一所懸命にアッシを捜しているんでごぜぇますだ。
その様子をカーテンの隅から覗いては、笑っていたアッシでございやした。随分知らねぇ間に、癒されていたんでやんすなぁ。


この年に八月に、カミサンの母親のお兄さんである旭川郊外「江丹別」に住む「織田久松」氏の米寿のお祝いが高砂台の温泉で開かれたのでごぜぇやした。
盛大なお祝いでごぜぇましたんで。久松氏は八十八歳にもかかわらず、壮健で百歳まで長生き出来るんではないかと想ったアッシでございやしたよ。
この年の十二月には、昭和天皇が危篤状態に陥ったんでごぜぇますだ。新しい年、昭和六十四年一月半ばにとうとう天皇陛下の、その波乱万丈の人生を終えられたのでごぜぇます。


昭和の時代から「平成」の時代へと流れて行ったのでごぜぇましただ。この年にカミサンの姉が嫁いでいる室崎家が市内、豊岡に新居を新築したんでやんしたなぁ。
平成二年、長男坊の俊輔が札幌方面へ一泊の修学旅行に行ったんでごぜぇますだ。そしてこの年、記念すべき忘れられない年ともなったのでごぜぇますだ。

つづく


夢のまた夢 ・ 十部

2016年04月26日 09時38分07秒 | 夢のまた夢
☆新婚時代☆


    





それからのアッシは信用を挽回せんと一生懸命仕事にがんばりやしたなぁ。
そうすることによって彼女のことを忘れようとしたのも本当のことでごぜぇましたなぁ。

旭川へ戻ってきたのが二十六でごぜぇましたが、四年間は仕事一途でござんした。三十の声を聞くようになってから、見合いの話もチラホラ出てくるようになりましたが、アッシは「純子」以外にゃ眼も向けませんでしたなぁ。一緒に慣れねぇとわかっちゃいましたがねぇ。


そうこうしている内に、店にアルバイトにきていた高校三年生の子と親しくなっていったんで。
歳が離れすぎていたのでアッシもそんな気は毛頭なかったんで気楽に相手になっていたんでやんがねぇ。まぁ、おめぇが結婚するまでは、失恋でも良いから、一度は恋愛を経験してから結婚しろよなんて、昔話をしてたんでごぜぇますだ(笑)。まさか、一緒になるとは夢にも思っていなかったやんすからねぇ~。
そんなこんなで、いろんなことを話して行く内に或る日、突然 「オイラと一緒になるか?」てぇ聞きますと「うん」と頷くじゃございませんか。正直内心、ビックリしたアッシでやんしたでごぜぇますだ(笑)。

そんな訳で話はトントン拍子に進み、半年後にゃ世帯を持ってしまいましたんで。へぇ、勿論今どき、はやりの「出来ちゃった結婚」じゃごぜぇませんですよ。正真正銘の純愛結婚で(笑)。
アッシがその子のご両親に気に入れられた最大の理由は、きっと、両親不在、兄弟とも交流は盛んなほうでないアッシだったので、まぁまぁとおメガネにかなったんでないでやんしょうかねぇ(笑)。
今、思うと笑ってしまうんでやんすが、当時にのアッシは、この子に手を出しちまって所帯を持つめぇにてめぇが交通事故かなんかで、急死することもあると考えておりやしてね、キズものにはしたくねぇと手を出さなかったんでやんすよ(笑)。信じられねぇでしょうが、そんなアッシだったんでごぜぇますだ(笑)。
アッシが三十歳、オカミさんが十八歳てぇ若さで結婚したんでごぜぇますだ。丁度、干支が一緒で、一回り歳の差が有ったんでごぜぇます。おはずかしい話で、へぇ~(笑)。





結婚式は、会社の仕事関係から、花咲町の「友愛会館」てぇところであげましたんで。
東京から、敏信兄が、地元からは清子姉、秀子姉の三人の身内が出席してくれやした。
敏信兄が、最も喜んでくれているようでござんしたなぁ。小学校の入学式で、アッシの父親と間違われたくらいですから(笑)。

新居はてぇますと、カミさんの実家が本町にありまして、そこから徒歩三分てぇ近くにある民間アパート「静香壮」てぇいうアパートで、四畳半と六畳間という新居でごぜぇましただ。
あまりにも、義両親の家が近くだったもんで、毎日のように顔を出していたアッシでございましたなぁ。そんなアッシをカミさんは、やっぱり面白くなかったでしょうなぁ。いってぇ、誰と結婚したんだってね、へぇ。家庭愛に飢えていたアッシでやんしたから、どうもご両親の所へ行くのが多かったようで(笑)。


そんなこんなで、アッシも、歳が歳だから一日も早く子供が欲しかったんでごぜぇますが、なかなか出来なかったんでごぜぇますだ。あせればあせるほど出来ませんでしたなぁ。仲の良いほど子は出来ぬてぇのは本当のことでござんすな。
そのうちお前さんの身体が、出来そこないんじゃねぇかとお互いに言い出す始末で。
先ずカミサンを病院に行かせたアッシでごぜぇましただ。なんでもねぇとの診断で今度ぁ、アッシの番だということになっちまって。
アッシは病院へ行くのが嫌でねぇ。なんだかんだと引き伸ばしていたんでごぜぇますだ。その内とうとうカミサンの堪忍袋の緒が切れちまって、まいりましたななぁ。
あん時は。アッシは苦肉の策をたてましてね。こう云って、どうにか病院行きを逃れる事が出来たんでさぁ。

それはどうしたかてぇとね、「病院へ行くことは造作もねぇことだ。ちと検査での痛みをこらえりゃ良いんだから。だがなぁ、問題は検査の結果のことでぇ。もしもだ、もしものことだぜ、この自分に子が造ることが出来ねぇ身体だとわかったらどうなさる。
養子縁組でもするのか、孤児院から子を引き取るてぇのか。そんなしちめんどうくさいことよりも、その内、コウノトリがオイラたちに可愛い子供を運んできてくれるかも知れねぇと希望を持っていたほうが、よっぽど幸せなんじゃねぇか」ってね。
へぇ、アッシも病院へ行くのが嫌で嫌でカミサンをこのようにして説得したんでごぜぇますだ(笑)。 そうこうしているときに、この新婚ホヤホヤの時に、なんと珍しい人が旭川へ見えたんでございます。あれはもう、師走になっていた頃でやんしたなぁ~。

アッシの兄貴の文雄兄が、京都から遊びがてらやってきたんでさぁ。きっと、弟の嫁さんの顔を見に来たんでございましょう。旭川の清子姉のところで、年末年始を過ごし、清子姉の子供がいる函館に寄って、京都に戻ってまいりましたなぁ。





そうこうして、もし子供が出来なかったら、将来世界一周に行こうとお互いに話ししていた矢先に長男坊が出来たんでさぁ。
そんな中、長男坊の俊輔が誕生したのは、昭和五十三年六月二十八日でごぜぇましただ。、その日旭川は猛暑で、一足早く真夏がおとづれたような日でございましたなぁ。今でもはっきりと覚えているあっしでごぜぇます。
そして、ガラス越しに見た産まれたてのアッシの子は、猿の子のようでございましたなぁ(笑)。
次男坊はてぇ云いますとね、アッシがカミサンが、ごろりと寝転がっていたところをひょいと跨いだだけで、アッというまに出来ちまいましたんで。へぇ、そうなんでさぁ。昭和五十四年九月二十二日、一つ違いの兄が誕生した同じ「森産婦人科病院」で産まれたんでごぜぇますだ。

年子の兄弟なんでごぜぇますだ。あれだけ待って、三年も掛かって出来たてぇのに不思議なことも有るもんでぇ。
神さまのちょっとしたいたずらだったのかも知れませんなぁ。きっと神様がカミサンが余りにも若いので気をつかって、時間をかけたのでございましょう。
ちょうどご時世が、バブル全盛期に入ろうとしていた時期でごぜぇましたなぁ。物は、作れば作るほど売れましたなぁ。今の時代にゃ、信じられねぇような時代でござんしたでやんすよ。もう二度とあのような時代はやってこねえものなのでしょうかねぇ。

長男の名付親はアッシなんでごぜぇますだ。それがどんなことから付けたかてぇと申しますと、名前を色々と考えていた頃のことでございます。或る夜、夢を見たんでございます。その夢の中で長男坊の名前をこの名前にしなさいてぇような夢を見ましてな。
そうでございます、名前は「俊輔」(シュンスケ)と命名したんで。
敏信兄にそのことを電話でいいますと「そりゃ伊藤博文の名前じゃねぇか」っておっしゃられましてね。さすが博学の敏信兄でございましたなぁ。
そうでございます。「俊輔」てぇ名前は、伊藤博文の若かりし頃の名前だったんでごぜぇますだ。アッシもそれは知っていましたがね、敏信兄が開口一番にそのことをおっしゃったのには驚きましたやしたなぁ。

次男坊の名前もアッシが付けたんでございます。「祐輔」(ユウスケ)てぇんでございます。
アッシはどうも「輔」の文字が好きでございまして次男坊にも付けさせてもらったてぇ訳でごぜぇますだ。
年子の子供でしたでんで、女房は育てるのに大変だったらしいですがね。良く自転車で、長男を前に、弟はおんぶして走っておりましたなぁ。若かったから出来たんでしょうなぁ。良く、やってくれましたなぁ。

一年後に、春光町に有る、公営の「北海道雇用促進住宅」てぇ鉄筋コンクリート造り四階建ての団地に当選しましてね、そこへ引越ししたんでごぜぇますだ。
重い玄関の戸を開けると、石炭を入れる納戸、三畳間ほどの台所、そして「ペチカ」がありましてね、六畳間と四畳半の畳部屋で。それまでのアパートとは広さはそれほどの変わりはなかったんでございますが、アッシ達にしてみれば月とスッポンくれぇの差を感じましたねぇ。しかもペチカなんですぜ。最初に狭い狭いアパートで暮らしていたからこの時、あれほどの感激をした我々だったんでございましょうねぇ。

この団地生活の時に長男、次男が誕生したんでごぜぇますだ。団地の役員もやりましたなぁ。カミさんと夜、一緒に交通安全のタテ看板を何箇所かに立てた想い出がごぜぇます。
子供たちが、少し大きくなってきた頃にゃ、奥の四畳半に二段ベッドを置きましたなぁ。
ある夜、隣の六畳間でビリビリてぇ紙を破る音が聞こえましたんで。何だろうと思って、ふすまを開けると、兄弟そろって、なんと押入れのふすまの張り紙を破っているじゃございませんか(笑)。
ニコニコしながら、二人で面白そうに破っている姿を見て、苦笑いをするしか無かったのを覚えていやす(笑)。今じゃ、良い思い出になっておりやすがね(笑)。

この団地に八年間もお世話になったんでございます。入居した頃の家賃はたしか三千円でしたかな、出居した時はそれが八千円くらいだったと記憶してございますなぁ。この低家賃のお陰で、家を新築出来る貯金が出来たんでごぜぇますだ。

つづく



夢のまた夢 ・ 九部

2016年04月25日 11時04分39秒 | 夢のまた夢
☆失踪事件☆


      




一年後、遅くても二年後には迎えに行こうと想っていたアッシでごぜぇましただ。

旭川へ戻って一ケ月位してからだったでごぜぇましたでしょうか、彼女から電話が掛かってきたんでさぁ。
話を聞くと、それまで何度も電話を掛けたとのこと、店から工場に居るアッシに取り次いでくれなかったらしいんでごぜぇますだ。
電話の用件は、自分は今、東京の従兄の経営する会社の事務をやっているんだが、東京へ出てこないかとの内容でごぜぇました。

アッシは迷いましたなぁ。弘前で修業してきたものを、この育ての家である旭川千秋亭で、発揮しょうと意気盛んに戻って来たのでごぜぇますが、残念ながら、アッシの出番はなく旧態以前のままの経営でござんした。
そんなこんなで、修業してきたことが何の意味もなかったのでごぜぇますだ。

そんなことも関連していやして、アッシの気持ちも凹んでおったのでごぜぇます。。何の為に三年もの修業に行って来たのかと、悩みはじめていたときでごぜぇましたんでやんす。そんな気持ちになっているときに、彼女から電話が来たのでごぜぇますだ。

思案に思案して、彼女の居る東京へ行く決心をしたアッシでごぜぇました。が、どうしても東京へ行くという話を義父にできませんでしたなぁ。

今まで育ててくれた恩義を感じれば感じるほど云えませんでやんした。それでとうとう、何の断りも無く、列車に飛び乗ったアッシでございましたんで。
列車に乗る前に、駅前の赤いポストに前夜に書いた手紙を投函したのでごぜぇますだ。若かったんですなぁ。後先何も考えずに行動できたてぇことは。 

正直に申しますてぇと、津軽海峡を渡り終えるまで、内心、戻ろうか東京へ行こうかと迷っていたアッシでごぜぇましただ。
ですが、青函連絡船が、青森に着いた時にゃそんな気持ちも吹っ切れておりやした。前だけを見ていましたなぁ。津軽の海を渡りきるてぇことは色々な気持ちを踏ん切りさせるなにものかがあったんでございますなぁ。連絡船だったからでしょうねぇ。飛行機だと、こうは行かなかったでしょうなぁ。 





東京は、彼女の従兄が経営している小さな会社の敷地内にある、田端の安アパートで暮らし始めましたなぁ。
彼女もそのアパートにおりましたんでごぜぇますだ。でも、一緒の部屋では暮らしませんでやんした、昔の事でごぜぇますから、けじめってぇ物が大事でやんしたからなぁ。そんなこんなで、彼女の従兄の会社で働くようになりやした。

東京には敏信兄、愛子姉がおりやしたが、勝手気ままに行動してしまった以上、逢うことは出来ないと決心していたアッシでございました。


そんなこんなで、東京・田端での生活が始まりだしたのでごぜぇますだ。
最初の頃は、もう慣れない仕事に気持ちを集中して生活しておりやした。三ケ月を過ぎた頃ようやく気持ちも落ち着いてきて、彼女とも楽しい日々を過ごすゆとりが出来てきたアッシでございました。

ところが、一年を迎えようとした頃、アッシの心の中に育ての義父の事が急激に思い出されてきたのでごぜぇますだ。その頃、義父は七十代だったのでは。その事も気になりだしてきていたのでございます。
矢張り、黙って出てきたという事が一番気になっていたんでやんすねぇ。きちんと話をして東京に来ていたならば、あんなに想いわずらうことは無かったかも知れませんなぁ。

このままじゃ、「人の道」にはずれている、お天道さまに堂々と胸を張って生きてはいけねぇ、このまま育ての義父が亡くなっちまったらアッシは一生取り返しのつかねぇ親不孝者になっちまう。

このままで果たして良いのだろうかと悩み始めてしまったんでごぜぇますだ。 
こんなアッシが板ばさみに苦しみだした姿を見て、彼女は「国へ帰ったほうが良い、別れましょう」と言い出したんで。
そんなこんなでアッシは一年後、北の大地へ一人で戻ったんでごぜぇます。彼女とはそれっきりになっちまいました。





数年後、風の便りに、その後、結婚したけれども一人息子が小学校一年の頃、子供を置いて離婚しちまったらしい話を小耳にはさみましたなぁ。
アッシはてぇと、育ての家にゃなかなかすんなり戻ることが出来ませんでやんしたが、苦しんで苦しんで、悩んで悩んで彼女と別れて帰ってきた意味がないので、思い切って育ての家の玄関を開けましたんで。

義父は何も云わず迎えてくださいましたなぁ。

つづく


夢のまた夢 ・ 八部

2016年04月24日 10時48分02秒 | 夢のまた夢

☆弘前時代☆




昭和四十二年春、大学を卒業したアッシは青森は弘前の人となっていましたんでごぜぇますだ。

育てられた老舗のお菓子屋を手伝う道に進んで行ったんでごぜぇます。本心は、社会に出ていきたかったのですが、世の「しがらみ」がそれを許さなかったのでございます。そんな時代だったのでございます。


なんだかんだで、取引先の問屋さんの紹介で青森は弘前市の或るお菓子屋さんで「修業」させて頂く事になりましたのでごぜぇますだ。
弘前は城下町でございました。アッシは、北海道育ちのため城下町にはとてもあこがれを抱いていたんで。

弘前は仮の住まいでございました。てぇいうのは、アッシは故郷の育ての親の家業を手伝うための「修行」にきていたのでごぜぇます。


修行期間は三年間、なんでも義父が、石の上にも三年なんてぇことを云いやして、へぇ。

その会社は、弘前市内になんと十二社もの支店があった躍進中の伸び盛りの会社であったんでごぜぇましただ。


「ラグノオささき」てぇ名前の会社でごぜぇました。ちょうどアッシが入社した時は二代目にバトンが渡された頃でございました。

なんでも二代目は、東京で「ビクター」てぇ音楽関係の会社に勤めていたサラリーマンだったんでございますが、親の跡を継ぐために退めてきたてぇ話で。こりゃ真偽のほどは定かじゃありませんが、なんでも上役と喧嘩をしたのがきっかけだったそうで。


その喧嘩の原因てぇのがまたふるってましてねぇ。ビクターてぇ会社のマークはご存知でございましょう、蓄音機と犬のマークでさぁ。そのマークで、犬の向きがいつも、一定なんで色々と変化をさせた方が良いと進言したことが上司と喧嘩した原因だってぇ、もっぱらの噂でごぜぇましただ。


最初に配属されたのが、本店の二階にある喫茶部でごぜぇましただ。そこで、先輩にコーヒーのいれかた、ホットケーキの焼き方なんぞを教えて戴いたんでごぜぇます。

そこを半年経験させていただきやして、その後は駅前のスーパーの中にある駅前支店に配属となりやしたんでごぜぇます。




その支店はたまたま業績が振るわず、なんとかせにゃならんと経営陣が考えていたところでやんした。そこにアッシが配属されたんでやんす。きっと、修業の身とはいえ、一応、大卒だということでテストパターンとしてほおりこまれたような感じでごぜぇましただ。


名目は支店長として配属されたのでやんすが、売り上げの少ねぇことには驚いたアッシでやんした。経費を差し引くと、トントンと云った内容でごぜぇましただ。

こりゃ、支店長として立場上、なんとか売り上げを伸ばさなきゃなりませんでしたでやんすよ。そこで、いろんな本も読み、思い立ったことをやりだしたアッシでごぜぇましただ。


まず、やったことは、ほとんど売れない商品を置かないことにしたんでやんす。売れ筋のものばかりを置くようにしたのでごぜぇますだ。

これが、思ったより当たりやして、商品の回転率が上がり始めやしたんで、へぇ。次に、考えたのが、素通りしていた客の足をなんとか、店の前で止めさせることでごぜぇましただ。


そこで、プライスカードのところに、学生時代に杵柄を取った落語のセンスを生かして、川柳的なひとことを書き添えたんでごぜぇますだ。これも以外と当たりまして、商品は買っていただかずとも、ケースの中にあるプライスカードのひとことCMを読んでいくような客が増えて云ったのでごぜぇますだ。


そこで、客との込みニューケションが取れるようになっていったのが、大きかったでやんすねぇ。或る日、そのスーバーの経営者に呼び出しを喰らい、売り上げが右肩上がりに進んでいっていることをほめられやしたんでごぜぇますだ。そこで、北の大地から修行にきている身だと云う事を初めて、知ったようでごぜぇます。


それからしばらくして、今度は本店の社長から呼び出しがあり、なんと、駅前支店の社員に大入り袋・特別ボーナスが支給されたのでごぜぇますだ。二人しかいない部下の女の子は、ここ数年、大入り袋は出ていなかったと驚いておりや下でごぜぇますだ。





一年を無我夢中で経験し二年目に入った頃でありましたかな、アッシは持ち前の性格でみんなに可愛がられ、その会社初まって以来の社内報を発行することになり、その初代編集長に抜擢されたんでごぜぇます、へぇ。

無論、この仕事は本業以外のものであったのは勿論のことで。そんな中、アッシは毎週休日に、月一度の社内報発行資料のため各支店を訪問、それが又幸いしてアッシの名前を覚えていただく結果になった一つになったんでごぜぇますだ。


原稿はなかなか集まらなかったんでやんすが、その空白を埋めるためにアッシは、ひとり下宿先で、自分で原稿記事を作らざるを得なかったのでごぜぇます。

その一つに「ヨモヤマ噺」という雑感でアッシは、会社のオリジナル商品名を使って短編ものをおもしろ、オカシク綴ったんで。

この記事が、みんなに「喝采」を浴びることになり、その後の仕事にとても活きたのでごぜぇますだ。つまり、仕事上で、ちよっとの無理が快く引き受けられるようになっていったんで。


そんなある日、アッシはフト、このお菓子はいってぇ、なにからどうやって出来上がっているのだろうという単純な疑問に突き当たったのでごぜぇますだ。それで、社長に、販売に当たる者が、そのことを知らずして販売するのはいかがかと直訴して、現場の工場へ配属してくれるようお願いしたのでごぜぇますだ。


その時は、人が間にあっていたので現場には配属可能にならなかったのでやんすが、そのうち、欠員が出来やしてアッシが白羽の矢にあたりやして、念願の現場配属になったのでごぜぇますだ。


洋菓子部に配属され、なんだかんだ一年半の現場経験の勉強をさせていただきやした。

特に、好きだったのがデコレーションケーキのデザインでごぜぇましただ。パチンコをしていながらも、パチンコ台の枠のデザインをデコレーのデザインに応用したものでごぜぇます。それほど、面白かったのでござんすなぁ。

クリスマスケーキの、薔薇の花をバタークリームでこしらえるのでごぜぇますが、これがけっこう難しいもんでやんしてマスター出来たときゃ、そりゃ嬉しかったことを覚えていやすよ。
春の桜の季節にゃ、全国から数十万という観光客がまいりまして、アッシも同僚と毎晩のように仕事帰りに、夜桜見物にまいったもんで、へぇ。あのときの酒は、美味買ったでごぜぇますだ。





そんな中、アッシは「経理」の勉強に関心を抱き、市内の夜間簿記学校に通い始めたんでごぜぇますだ。

二週間ほどしてから、その学校で筆記用具を忘れてきたのに気がついたアッシでごぜぇました。フト隣の席に座っている女性、女性と云っても十七、十八歳位の髪が肩ほどまで伸びていた若い子であったんでございますが。その彼女にアッシは声を掛けたんで、へぇ。


「すいませんが、エンピツを忘れてきました。良かったら貸していただけないでしようか」

「ええっ、かまいませんよ。どうぞお使いください」

と、一本のエンピツをアッシに。この日から二人は、いつも同じ席に座るようになり帰路も一緒に帰るようになっていったんでごぜぇます。それは自然な成り行きでございましたなぁ。


彼女の名前は、「鈴木 純子」(純子と書いて「スミコ」と読みやしただ)。歳は十八、仕事は「事務」でございました。

家は弘前から弘南電車に乗って行かねばならない「大鰐温泉」でごぜぇましただ。アッシが仕事のため学校に来れなかった日にゃ、アッシの下宿先にノートを見せにやってくるようになっておりましたなぁ。下宿のオバサンはそんな二人を温かい目で見守ってくださっておりましたんで。


彼女は、母一人子一人の身の上であったんでごぜぇますだ。気が付いたら学校が終わってからはいつも「大鰐温泉」の彼女の家まで送って行くようになっておりましたアッシでした。

終電車が十時二十分、その時間までわずかしかない時を二人は大事に育てまやしたんで、へぇ。彼女が何かの都合で学校へ来れなかった時は、かならずアッシは彼女の家まで行ったものでしたなぁ。二人の間は自然と密になっていったのも自然でございましたんで。



そして、とうとう「修行期間」も、来春に迫ってきた十二月の或る夜、いつものように彼女の家を訪れていたアッシでしたんでやんすが。その日、開口一番、彼女の母親から「娘はやれない! でも貴方が弘前にずっと住んでくれるのならば喜んで一緒にさせて上げる」と云われたんでやんすよ。

娘は泣いておりやした、ポロポロと流れる涙を拭こうともせず。。。。

彼女は、彼女なりに母親とアッシとの板挟みになり苦しんでいたのでごぜぇますなぁ。母親は、アッシの家庭の事情までを調べ上げていたんでございます。


母親としては無理からぬ事だったと想いますんで。「そんな肩身の狭い想いのするところへ娘はやれない」と。しかも、母親も自分も今更ながら海を渡って、だれも知らない地に行きたくねぇと、へぇ。

アッシは、二人の気持ちが痛いほどわかりやした。でやんすから、無理矢理、連れていけなかったんでごぜぇますだ。


そんな話をしているさなか、突然、急に彼女が雪の降る表に飛び出して行ってしまったんで。裸足のままでございますよ。アッシは夢中でおもわずあとを追い掛けました。

彼女はどんどん降ってくる牡丹雪の中、しゃがみこんで、泣きに泣いておりやした、へぇ。アッシが傍へ行くと、泣きながらムシャブリついてきやしたなぁ。そして、ただ泣くだけでやんした。。。。

「おスミ・・・おスミ・・・・来年は必ず迎えに来るから辛抱して、待っていてくれ」その言葉しか云えなかったアッシでごぜぇでやんした。雪がシンシンと降り続いていた夜の出来事でありました。

それからはってぇと、逢っていてもお互いに眼と眼を見詰め合うだけの時間が多くなっていきました。眼と眼で話をしていたんでしょうなぁ。



 そんな辛い思い出が出来ちまった弘前時代でございましたんでごぜぇますだ。ええっ?彼女とはそれからどうなったんでぇって?へぇ、結局アッシはどうしても「家庭の事情」てぇいう「義理」を破ることが出来ずに、一年後に迎えにくる約束をして、一人で三年の修行期間を終えて北の大地へと戻っていったんでごぜぇます。


彼女はアッシとの思い出がこもっている弘前に一人居るのが辛くて東京の甥が経営している小さな会社に行ってしまったのでごぜぇますだ。。。。。。

つづく


夢のまた夢 ・ 七部

2016年04月23日 11時12分38秒 | 夢のまた夢

☆大学時代☆


       


明治大学ではアッシ、部活動は「落研」に入部しちまいました。

人を笑わすのに喜びを感じるようになっていたアッシだったんでござんすねぇ。高校時代のあの「勧進帳」の爆笑の渦がアッシの何かを目覚めさせてしまったようで。部活動といってもほとんど神田界隈の雀荘で麻雀の毎日でしたなぁ。


「噺」はてぇと各自、それぞれ独学でものにしていきましたなぁ。電車の中でぶつぶつと口づさんで噺を覚えていましたでやんすよ(笑)。毎年恒例の高座はてぇと、秋の大学祭と分校舎の和泉祭の二回でしたな。

アッシはてぇと、「柳家小さん」が好きで「与太郎物」を好んで演じておりました。人情噺も好きで「心眼」てぇ盲目の噺も演じたこともごぜぇますだ。


毎年、春休みに何班かに分かれて全国の老人ホーム、療養所に慰問旅行に行くんでさぁ。

アッシは家庭が家庭でござんしたので一年の時は参加を断念したんでございますが、同僚がこの慰問旅行に参加してきてから芸に一段と磨きがかかったのを目の当たりにして、二年の時からアルバイトで得た収入でこの慰問旅行に参加するようになったんで、へぇ。

楽しかったですなぁ、この慰問旅行は。


そうそう、三年生の春休みに和歌山に慰問旅行に行った時のことでございます。

「心眼」てぇ人情噺を演じたんでございますが、なんとここはみなさん盲目の方ばかりの老人ホームでございまして、噺を選ぶとき、ちと迷ったのでございますが、アッシの好きな人情噺でしたのでやっちまいました。

身振り手振りは全然効果がないので受けるかどうか心配でしたが、演じ終えると温かい拍手の波をいただいた時にゃこっちが驚き、感動いたしやした。良い思い出でごぜぇますだ。

アッシの芸名はスクールカラーから採った「紫紺亭与ん生」てぇのがアッシの芸名でさぁ。 


ちなみにペンネームは「風の又三郎」てぇ申し上げますんで(笑)。略して「風又」と申し上げますんでございます(笑)。もっともこのペンネームはアッシが四十代の頃に使い始めたもんですがね。






アッシの持ち噺は「地球の裏表」(桂枝太郎)「首屋」(三遊亭圓喬)「我が生い立ちの記」(三遊亭歌笑) 「唐茄子屋」(柳家小さん)「時そば」(桂三木助)「道具屋」(柳屋小さん)「大工調べ」(柳屋小さん)「心眼」(桂文楽)「王子の狐」(?)これくらいでごぜぇました。


卒業する四年生の時、日本橋三越前の第一證券ホールでおこなわれた「歓送落語会」、この高座が最後のものになるのでございますが、この時は「大工調べ」の噺を前編、後編と演じましたなぁ。時間にして四十分も務めましたんで、へぇ。

普通は、皆、十五分ものの噺をするんですがね、アッシは最後の高座でしたので、へぇ。
じゃ、ちょっと高座の気分でも味わっていただきましょうかね。ひとつ、昔のきねづかで小噺の一つを。


 「お風呂屋さんに飛行機が落ちたんだってね」

 「やっぱり何かい、自衛隊の飛行機かい?それとも旅客機かい?」

 「なぁに、風呂屋だけに戦闘機(銭湯)だい」


 「なんだってねぇ、この前、山へ行って道に迷ったんだってねぇ」

 「ああ、そうなん(遭難)でぇ」


 「うまかったなぁ、今夜の酒は」

 「旦那、銭はあんでしょうね?」

 「ああ、それは直し立ての屋根だ」

 「なんです、その直し立ての屋根てぇのは?」

 「漏ってこねぇ(持ってこねぇ)」


 「うちの近所の奥さん、お産の時にいい女の写真を見てりゃいい女の子が産まれるてんで、週刊誌のグラビアの山本富士子さんの写真をビリビリっと破いて

「どうぞ神様、こういういい女の子が産まれますように」とお祈りしたら、産まれたのは山本富士子そっくり、だけど、この子が大きくなるにつれて髪の毛が一本もはえてこねぇんで。

「どうしてかしら、おかしいわねぇ」てぇんで、ビリっとはがしてパッと裏を見たら、裏は柳家金語楼の写真だったりして」


 とんだお粗末な小噺で失礼いたしました。

お後がよろしいようで。






アッシの大学時代には丁度「大学紛争」がたけなわの頃でございまして、アッシも過激派じゃありませんでしたが、神田お茶の水界隈をスクラム組んで機動隊ともめたこともありましたねぇ。


そこで初めて体験したのが「群集心理」の恐ろしさでございましたなぁ。よくわかんねぇ状態で、「安保反対!」「安保反対!」と機動隊と衝突しておりましたアッシでござんしたぁ。

「東京オリンピック」「祖父の死」「ケネディ大統領暗殺」そして我が郷土の女性作家誕生、三浦綾子氏の処女作「氷点」などの出来事があったアッシの青春時代のヒトコマでの大学時代でございました。



【 伊豆下田・桃木家との出会い 】


アッシが大学二年のゴールデンウィークの時のことでさぁ。その頃、アッシは練馬区の大泉学園町、北海道学生会館てぇいわゆる学生寮に居たんでさぁ。

その寮にゃ北海道出身の学生、いろんな大学の学生が二人一部屋の部屋で寝起きを共にしていたんで。相部屋となった同僚は、同じ大学に入った方でやんしたなぁ。へぇ、今でもお付き合いをさせていただいておりやす。


その時の日大生の後輩とゴールデンウィークに伊豆下田に行ったんでございます。この旅がその後のアッシに不思議な縁をもたらすことになろうとは夢にも想わずに、へぇ。


伊豆急下田へ小田急「踊り子号」で向かったのは五月三日でございましたなぁ。一泊の予定でありました。

果たして、いざ下田へ着いて一夜の宿をと探したんですが、ちょうどゴールデンウィークということでどのホテル、旅館も満杯でごぜぇましただ。

途方にくれてアッシ達は、「寝姿山」のふもとをとぼとぼと宿を探していたんでさぁ。

とその時、道ですれ違った一組の親子連れに「この下田で一泊できる所はありませんか」とアッシが尋ねたんで。「そうですね、シーズンもシーズンですから無いかも知れませんねぇ」との返事に、やっぱり駄目かと一瞬肩の力が抜けたとき、中学生の娘さんが母親にコソコソと耳打ちしていたんで。そして、母親の次に出た言葉でアッシたちは救われたんでございます。






「もし良かったら、自宅の二階にお泊りになりませんか」って。アッシ達は地獄で仏に出会った気持ちでしたねぇ。

遠慮なくその温かい言葉に甘えさせていただく事にしたんでございます。なんと中学生の娘さんが見るにみかねて母親に助け舟を出してくださったのでございます。このお方がなんと「小百合さん」だったのでごぜぇますだ。


これが「小林家」との縁が出来たきっかけでございました。案内された家は近所で「お大師様」と呼ばれているお宅でございました。

八十歳はすでに越しておられたのじゃないでしょうか、お大師様こと、おばぁちゃんを筆頭に大工さんの和一朗小父さん、明るい小太りにふっくらととした定子小母さん、頭脳明晰の感じがする中学三年生の小百合ちゃん、小学校六年生の元冶くんの五人家族でございましたなぁ。


その夜は小父さんの案内で近くの公衆温泉場へ。なんと素朴な掘建て小屋のような、つつましい自然味あふるる温泉でありましたでしょうか。すっかり温まった身体での帰り道、夜空を見上げると素晴らしいお月さまで有ったのを覚えているアッシでごぜぇますだ。


そんな伊豆下田での一夜の旅をあとに翌日、東京へと戻ってきたアッシ達でございましたが別れ際、小母さんが「もしよかったら、夏休みにまたおいでください」と云われた一言がアッシの心に何故か強く残っておりましたんで。

そんなこともあって、夏休みに池袋の西武デパートでしばらくアルバイトをし、費用を捻出し八月へ入ってから三週間、再び下田へおとづれお世話になったアッシでごぜぇましたんで。へ~。



毎日のように「白浜海岸」へバスに揺られて小学六年生の元治君と泳ぎにまいりましたなぁ。

桃木さんの小母さんの妹さんの、浅沼さん宅で水着に着替えて、元冶君と毎日のように泳ぎに参りましたなぁ。

そのうち、真っ黒に日焼けしまして、あんなに焼けたのは最初で最後でしたでやんすよ。そうそう小百合ちゃんの学校の先生たちと小林家家族一同と「須崎」へも行きましたなぁ。楽しい毎日でございました。






アッシがあんな素晴らしい夏休みを過ごしたのは初めてでございましたなぁ。そんな訳で、五十半ばを越えた現在でもはっきりと当時のことを覚えているんですなぁ。きっと家庭の味てぇものを知らずに育ったアッシが、「小林家」にその夢を肌で感じたからなのかもしれませんなぁ。


この「下田」での思い出がまさかその後、現在にいたるまでのご縁が続くことになるとは、当時は夢にも想いませんでしたなぁ。嬉しいことでごぜぇますだ。アッシの人生のうちで、天がアッシにプレゼントしてくれた最高の贈りものですなぁ。



その後、再び下田を訪づれたのはいつだったのかてぇと申しますと、確かアッシが二十七歳くれぇの時だったと記憶しているんですが定かじゃありません。

突然、訪づれたんでございます。「こんにちは~」て玄関先で云うアッシに「はぁ~い」ってぇ返事が。玄関へ出てきた人を見てアッシは驚きましたねぇ。明美さん、その人だったんですから。


まさか、下田の家に来ているとは夢にも想っていなかったですからなぁ。しかも、なんと可愛い赤ん坊を抱いていらしゃるじゃありませんか。二度驚ろかされたアッシでござんした。明美ちゃんが結婚していたなんてぇ事はちっとも知らなかったアッシでございましたから。


話しを聞けば、明美ちゃんは高校卒業後、「全日空」の「スチュワーデス」になっていたとのことでごぜぇましたでやんすよ。中学生の頃の夢を実現していたんでさぁ。

その時は「お大師さま」のおばぁちゃんはこの世を去っておられましたが、きっと、おばぁちゃんがアッシに明美ちゃんと巡り逢わせてくれたんだなぁと想いましたでやんすよ。

その赤ん坊が、なんと高校生の時と、大学生の時に北の大地の我が家に遊びに来てくれるとはそれこそ夢にも想いませんでしたな。「縁」とは不思議なものですなぁ。


その赤ん坊であった「章人君」が、これまた小百合ちゃんの弟の、あの元冶君と同じ教職の道へ進んで行かれたんですからなぁ。しかも最初の赴任地が、北の大地の稚内に近い「斜内小学校」だったんですから、どこまで縁が有るものやら。

今はもう一児の父親になっておられますんで。そうなんでございます、冒頭の「おハル坊」が章人君の可愛い娘さんなんでごぜぇますだ。


大学1・2年は大泉学園「北海道学生会館」、3年は「阿佐ガ谷」、4年が「吉祥寺」と転々とした学生時代でごぜぇましたなぁ。中でも、「吉祥寺」の下宿時代は、北海道学生会館当時の仲間7人での合同生活をしておりやしたんで。

先輩が2名で、後は同期生でござんした。炊事生活も、二人一組での一週間交代でこしらえておりやしたんで。まぁ、いろいろと楽しい時代でございましたでやんすよ。






大学四年になって、周囲がいよいよ就職活動へと入っていきましたのでごぜぇますだ。

アッシも地元、北海道の「雪印乳業」に就職したく、その書類を旭川の義父でないとわからない箇所等があり、記載して頂くべく書類を郵送したのでごぜぇますだ。

待てど暮らせどその書類が送られてきません。書類郵送期限が目前に迫ってまいりましたので、アッシはとうとう「書類シキュウオクレ」と電報を打ったのでございました。

即、書類が郵送されてまいりました。喜んだのもつかの間、書類を見てびっくり、唖然といたしましたアッシでございました。何も記入されておらず、こちらから送った状態のままで送り返されてきていたのでございます。


敏信兄に、就職の件で相談に乗ってもらったものの、兄は旭川へ戻り、育ての親の家業を手伝え、それが今まで育てて頂いた恩返しであり、人の道と説得され、とうとう就職することを諦めざるを得ませんでしたのでやんすよ。

そんなこんなんで、アッシも無事大学を卒業し、いよいよ社会の荒波へと巣立っていったのでございます。

つづく


夢のまた夢 ・ 六部

2016年04月22日 13時05分58秒 | 夢のまた夢
☆高校時代2☆




そんな青春時代を謳歌していた高校二年の頃でしたかな。フトしたことで戸籍謄本が入用になることがあり、そこで初めてアッシに妹が居るという事を知ったのでございます。


当時、大阪に居た文雄兄の所へ夏休みに入ったときに行ってみたんでございます。文雄兄は、当時奈良だったでしょうか、或る病院に何かの病気で入院生活をしておりやした実父の「栄司」の病室に連れて行ってくれたんで。


まず、最初に感じたのが、父が、写真で見ていた顔と同じだったことでございます。実父のアッシに云ってくれた最初の最後の言葉が「あ~、吾朗か~」の一言でございました。自分はってぇと、何も云えず、じっと黙ったままでいたのを覚えておりやす。文雄兄とは、結構話をしておりやしたですなぁ。


まもなく、病院を後にしたのでございますが、実父とは、この時が、最初で最後の対面でございました。やはり、いくくら実父と言っても、心にやぁ「オヤジ」てぇ想いがジ~ンと感じてこなかったのを覚えておりやす。生まれの父より、矢張り育ての父でしたなぁ。


病院を出たのは、もう陽が暮れていましたなぁ。それから、文雄兄は、実母のところへ連れて行ってくれましたなぁ。

生まれて初めて逢う「母」、気持ちは複雑でしたなぁ。恨みたい気持ちと、甘えたい気持ちが入り混じっておりましたなぁ。そして、とうとう初対面、写真の顔と同じでしたですなぁ。その夜は、緊張していたのでしょうか、とうとう一言も会話をしなかった、いや、出来なかったというのが本当だったでしょうかねぇ。

「吾朗かい、大きくなったねぇ~」といわれても、アッシにしちゃ始めての人でございます、言葉が出なかったですなぁ。





ところが、不思議なもんでございますなぁ。一夜明けると、なんと自然と言葉がスムーズに出ていたんでございます。16年間、甘えたくとも甘えられなかった想いが、出たのでございましょうか。


わがままをいってみたくなりやしたなぁ。これが、俗に言う「血の繋がり」てぇもんだったんでしょうかねぇ。結構、甘えたことをかすかに覚えておりやす。

そんなこんなで、一晩の初対面でしたが、四国徳島に居るという実妹に逢いに翌日、大阪をあとにしたんでございまず。



いってぇどんな妹だろうと想像しながら、和歌山県のどこかから船に乗って、ひとり徳島に向かったんでさぁ。。若かったんですなぁ。
千葉から四国徳島まで逢いたさ一念で行ったんですから。勿論、北海道の義父には内緒でしたなぁ。

徳島の鴨島てぇ所にお袋の姉の鶴子叔母さんが住んでおられましてな、先ずそこをおとづれたんで。鶴子叔母さんはアッシが二歳の頃、お袋に連れられて行ったアッシを良く覚えていてくだすって、涙をこぼして歓迎してくださいましてね。アッシは全然覚えちゃいませんでしたがねぇ~。


ちょうどアッシがその家にお邪魔していたのがお昼頃でしたかね。そんなときに「こんにちは~」てぇと云いながら家の中に飛び込んできた子が居たんでさぁ。


その子がなんとアッシの妹「康子」だったんでございます。劇的な兄妹の初対面のシーンで懐かしい光景でしたなぁ。

鶴子叔母さんが「康子、お前のお兄さんだよ」って云ってくだすったが、お互いにこの人がお兄さん、この子がオイラの妹、そんな想いでお互いにただ、じっと見詰め合うだけでございましたなぁ。

二つ違いの妹でしたから十四歳、中学三年生だったでしょうかねぇ。このころ、妹はすでに自分の兄弟がほかに居るてぇ事を薄々知っていたらしいんで。その日は兄妹が枕を並べて寝たのを想いだしまさぁ。

ほとんど話しらしい話はしなかったのを覚えておりやす。お互いに照れくさかったのでござんしょう。



翌日、康子の家である芳男叔父さんの家に挨拶方々お邪魔したのを覚えていますぜよ。

とても良い叔父さんでこんな突然やってきたアッシを歓迎してくだすって、「康子に何かがあった時には力になってやってくれ」といわれた時は本当に頭が下がりました。


普通なら突然やってきたアッシをけむたがって当然であったのに親身に接してくだすったのにはアッシも感激しちまいましたなぁ。偉いお方でしたな。お袋のお兄さんにあたる方だということでしたな。

アッシといい、康子といい、とても恵まれた育てのオヤジさんでしたなぁ。




 
腹違いの弟たち、賢司くん、優司くんの存在を知ったのは記憶が定かじゃありませんが、恐らく文雄兄から教えてもらったんでござんしょう。

このまだ見ぬ弟たちに逢いたくてこれまた、住所のみを頼りに単身尋ねていったのが大学時代でしたなぁ。

実は先日まで高校時代の頃と記憶していたんでございますが、ついこないだの東京の敏信兄の葬儀の後日、優司くんからその折の写真を送っていただき、それを見ると大学時代でございましたなぁ。

当時、弟達が暮らしていた奈良県橿原市の「妙法寺」を探し当てたのも弟逢いたさの一心からだったのでしょうなぁ。真っ暗闇のあぜ道を、怖さをしりぞけるために大声で唄を歌ってポツンとかなたに灯る明かりをめざして歩いていったのを良く覚えているのでございます。


これまた何の前触れも無く突然押しかけたアッシを静子おばさんは温かく迎えてくだすったのを良く覚えております。初めて逢った賢司くん、優司くんにアッシを兄として紹介していただいた事を昨日のように覚えてございます。


賢司くん、優司くんともたった一夜の逢瀬ではありましたが血のつながりは恐ろしいもので、兄弟感覚を覚えたのをはっきりと覚えているアッシでございます。

賢司くんはその後、25歳頃に一度旭川へきたことがあり再会しておりやしたが、優司くんとは先日の敏信兄への見舞いの時に逢ったのがその時以来であったんでございます。

昔、たった一度逢っていたことが、再会してもすぐ打ち解け兄弟感覚がよみがえってきたのでございます。その折りにいみじくも賢司くんがもらした一言がアッシの胸を打ちましたんで。

「オヤジは仕様もあらへんかったが、子供を仰山作ってくれた事だけは感謝しなきゃならんかもなぁ」と・・・・。





そんなこんなで高校三年を迎えたアッシだったんでさぁ。

アッシは大学進学だけは辞退しようと想っておりやして、義父にやぁ、もう高校に行かせていただいただけで充分でございますと、言ったんですが、育ての親父さんのあまりにも熱心な進学の勧めの心意気に負け、いつしか応えてしまい進学してしまったのでございます。

この進学がその後のアッシの一生に大きく関わってくるとはその時のアッシには想いもしなかったのでございます。それにしても進学させていただいたことは感謝しているアッシでございます。

大学は「上智大学」と「明治大学」二校を受験いたしましたが、第一志望の上智大学は見事落ちてしまいましたなぁ。かろうじて第二志望の明治大学にゃ引っかかって助かりましたんで。


でも今でも忘れられないのが、第一志望校の合格発表の日のことでございます。

帰宅すると愛子姉が「お赤飯」を炊いて用意していたんでさぁ。あの時の「お赤飯」の味は辛いものがありましたなぁ。今じゃ、笑い話になっちまったが。

へぇ、アッシは受験寸前の頃、東京の敏信兄、愛子姉のアパートに転がり込んでおりまして、 あん時は「尾久」のアパートに住んでいましたなぁ。受験ということで、兄姉には、こちらが気を使ってしまうほど、気遣いしてもらって、まいりましたですなぁ~。

つづく



夢のまた夢 ・ 五部

2016年04月21日 11時36分28秒 | 夢のまた夢
☆高校時代1☆




まだ北の大地には残雪の光景が見受けられる四月、アッシは千葉の高校へと北の大地をあとにしたんでございます。

上野から常磐線で三十分ほどの南柏というところにその高校が有ったんでさぁ。「広池学園麗沢高等学校」というその高校は男女共学、全寮制の学校であったんでございます。

敷地面積は何万坪とゴルフ場も有する広大な敷地でござんした。桜並木が構内にあって入学の頃はちょうど満開であったのを覚えておりますんで。


一学年三クラス編成で、全学年でもわずか九クラスしかなかった高校であったんでさぁ。北は北海道から、南は鹿児島まで学生が日本中から集まっていた学校でございました。


時は昭和三十五年四月でございましたなぁ。アッシのクラスは一年C組でしたな。寮は六号舎で別名「清涼殿」と。そうでございます、あの「源氏物語」の「清涼殿」でございます。

寮長は藤田さんという温厚な先輩でございましたなぁ。寮内は先輩後輩の上下関係が厳しく一部屋十二畳間、三年生一人、二年生二人か一人、一年生が二人か一人の四人制で三年生は「部屋長」、一年生は「部屋っ子」と呼ばれていたんでございます。一年生は部屋の掃除から小間使いの役割でございましたな。




寮は平屋の萱葺きで一寮十二室有り、男子寮六寮、女子寮は三寮あったと記憶しておりますがもう定かじゃねぇ(笑)。

寮生活での生活は六時起床、毎朝雨天以外、各寮六時半迄に洗顔、部屋、廊下の掃除を済ませそれぞれの寮の前に整列、先頭には各寮の寮旗を掲げグラウンドまで掛け声をかけながら走ったもので。


そこで「ラジオ体操」を済ませた後、食堂で全員朝食を。食事の支度は一週間置きに一部屋が当番にあたり朝、昼、晩の各寮生の食事の支度、後片付けをしたのでございます。

八時半に登校し授業から開放されたのが午後三時、それから各自、部活動へとわかれていったんで。夕食は六時食堂にて。学習時間が七時から九時まで二時間あり、それから大浴場の風呂へと出掛けたんでございます。


十時消灯で部屋の明かりは消され、勉強する者は、部屋に備え付けられた各自の座り机のスタンドの明かりにて勉強したのでございます。これが寮生活の大体の一日の生活サイクルであったんで。




 
「チッ、チッ、チッ・・・・」

朝靄の中で小鳥のさえずりが瞼を開けさせた。ここは、男子寮の一室である。目覚めたアッシは、今日が日曜日であったことを想いだした。

しばらく煎餅布団の中でボンヤリと物思いに浸る坊主頭の若者。ふと寝床の中から窓の外に目を向けるとサクラの花びらがヒラヒラと散り始めていた。こんな風景の寮生活でございましたなぁ。

  
この寮生活で面白かったのが「ストーム」というものでございましたな。それが「嵐」という意味だということだとわかったのはアッシが一年の夏頃でございました。英語の力が無かったんですなぁ。(笑)。


「ストーム」というのはどんなものかと申しますとね、寮生活で勉強時間というのが決められていましてね。あっ、これは先ほど説明いたしやしたね。

この七時から九時までの勉強時間が終わろうとする5分前におこなわれたものでございます。


どんなものかてぇというと、或る寮の寮生全員三十五名~四十名がこっそり八時四十五分に外へ忍び出て、他の寮の各部屋の窓の下に抜き足差し足の忍び足で、それぞれ配置につくので。

寮というのは、平屋建てであったので各部屋の窓は背丈の高さのところにあったのでございます。この行動はすべてすみやかに沈黙無言の元で行なわれたのでございます。


そうそう、この学習時間の七時から九時までは部屋の明かりは消されており各自の机のスタンドだけが灯りでございました。

この勉強時間が終了する五分前、(九時には自習時間の終了の鐘がなるのでございます)。窓の下にこっそりと忍び寄っていた寮生が、寮長の合図で一斉に窓のサンを両こぶしでひたすら、ガタガタと叩き出すのでございます。



ガタガタガタ!ガタガタガタ!という音が突然にシーンと静まり返っている敷地内にいっせいに鳴り出すのでございます。その部屋で静かにそれまで勉強していた寮生達を驚かすのが 目的なのでございます。

これが「ストーム」でございました。寮と寮との親睦を図るのも一つの目的だったので。

この「ストーム」なるものは、たしかイギリスの寮生活を送っている学生たちが始めたものであるとか先生から聞いたことがございます。



アッシ達も「ストーム」を他寮に仕掛けたり、また他寮からも仕掛けられたんでございます。

傑作だったのは、どこからか他寮が今夜自分たちの寮に「ストーム」を仕掛けてくるという極秘ニュースが漏れてくるときがあったんでさぁ。そんな時は、その時のために「バケツ」に水をマンタンに満たしておき、「ストーム」を仕掛けられた瞬間にガラッ!と窓を開け、そのバケツの水を窓のサンをたたいていた相手に頭から掛けてやるのでございます。


掛けられたほうがビックリ!ズブヌレ状態になるので。すべて、若いから出来たことでございましたなぁ。そんな素晴らしい青春時代をアッシは過ごして居たんでございます。これもすべて育ての親のお陰でございました。感謝しなけりゃなりませんな。

この行事「ストーム」は、季節的には新入生が入学したばかりの四、五月に集中しておりました。新入生は初めての経験でびっくりするのでございましたが、そのうちにこの行事が快感となってくるのでさぁ。






夏が近づいてくる頃にゃ寮毎に、「新入生歓迎肝試し大会」が行われるのが恒例行事の一つでございました。

その夜は出発する前に先輩が「怖い怖い話」をするのでございます。そして九時半頃、一人一人時間を置いて寮を出発、決められたコースを通過証明書を先輩からもらってくるのでありました。

中にはコースを間違えて夜が白白と明けてくる頃ようやく寮に戻ってくる寮生もございましたなぁ。何Kmも歩くコースで、それも十分置きに一人ずつ出発するという、とても凝った「肝試し大会」だったので。


何ケ所かの関門を通過し、その証拠を手にし帰寮するのでさぁ。とにかく、学校の敷地以外に夜中、出発するのでございますから、所は街の中なんかじゃない、山の中に建っている学校で。敷地外も、もちろん草深き山の中でございます。

懐中電灯一個持参で、ジャージ姿で出発するのでございます。灯りなどは道の周囲などには全然なく、月の灯りだけが頼りでありました。道といってもけもの道に近いものでございましたなぁ。





ちなみにアッシは、この「肝試し大会」で神社の石段につまずいて転倒し、右足のサラの部分を複雑骨折し三ケ月の入院治療に当たる羽目になったんで。

転んだ時は周囲の暗闇の怖さに気を取られ、痛みはそれほどでもなかったのでございますが、翌朝の日曜日に、東京から敏信兄と愛子姉が入学後初めてアッシの顔をわざわざ東京から見にきてくださった時にゃ起きあがることが出来なかった重症でございましたんで。


即、兄たちに連れられて兄たちの住まいの近くの東京の個人病院へ入院したアッシでございました。 

東京で入院生活していた時は、このときとばかり愛子姉に甘え、しまいには怒られるほどの甘えん坊を発揮したアッシでございました。
そりゃ無理もなかったんでぇ。姉たちと再会出来たのは何年振りかのことで、甘えることが出来たのはこの時だけだったんですから。でも十五の歳にしちゃ確かにふがいなかったアッシでござりましたねぇ。


この東京での入院生活は一ケ月は有ったでしょうかね。学園に戻っても一ケ月は療養所で入院していましたなぁ。寮に完全復帰するまで三ケ月近くもかかったようで。入学早々、こんな状態で授業もほとんど受けないままに試験に臨む羽目になっちまって。ええっ?問題は解けたかったかって?勿論、ほとんど出来なかったでございますよ。





 
こんな中、一ケ月に一度大食堂で男女混合の「会食」が行われるのが恒例であったんでさぁ。

この「会食」てぇのは、普段は寮毎にそして各部屋毎に席があり食事を採るのですが、「会食」の時だけは、女子が男子席の間間に席を取って一緒に食事をするのでございます。


この一ケ月に一度の会食の時は、一つの寮が寸劇を行うのが恒例となっていたんで。これがまた非常にユニークのものが多く順番にあたった寮は一ケ月も前から密かに練習を開始するのでございます。

アッシが一年の時、この「会食寸劇」で主役を諸先輩から命令されたんで。先輩の命令にゃ絶対服従の不文律が。なんと寸劇のタイトルは当時 一年生の国語の教科書に載っていた「勧進帳」でございました。 


そう歌舞伎で有名なあの「勧進帳」でございます。この晴れ舞台?のお陰でアッシの名は翌日には全校生徒に知らぬ人は居ないというほどの有名人?になっちまったんでございます、へぇ。

アッシが演じたのは「代官 富樫」でしたなぁ。相手役の弁慶役には三年生の柔道部の猛者、大柄の先輩が演じたんでございます。有名なあの白河の関所越えでのシーンをほとんどこの二人で演じたので。


今でもそのときのセリフの一つを鮮明に 覚えているアッシでございます。 「頭上にいただくときんはいかに?」という有名なセリフを、「頭上にいただく、ハットはいかに?」と英語を各所に入れ、セリフをアレンジし、面白おかしく演じたのでございます。

この丁々発止のやりとりが、会場に大爆笑の渦を引き起こし爆笑につぐ爆笑で、いっぺんに名前を売ってしまったのでございます。それからは「学年対抗弁論大会」「応援団団長」等さまざまな体験をさせていただいたアッシでございました。



 
そんなこんなで青春時代の高校時代を、上野まで三十分という千葉県下の、とある田舎で過ごしたアッシでございました。

その高校も今や時代の波に勝てず全員寮生活であった昔の姿も年々少なくなり、現在は半分以上の学生は通学となっているとの事でございます。もちろん当時の木造平屋建ての六つの萱葺きの寮も鉄筋コンクリート造りに変貌しているとか……。てぇいうことはあの「ストーム」行事も今や、 伝説的なものとなっているのやも知れませんなぁ。


また、当日にパンツを洗濯していた洗面器で「焼き飯」を作って部屋の住人みんなで食べたのも懐かしい思い出でございます。箸なんてぇものは使わずにスプーンでガツガツ食べていやしたんでやんすよ。

そうそう缶詰も缶きりなんぞは使わずにスプーンで開けていましたなぁ。そんなことも今の時代は姿を消しているのかも知れませんなぁ。。

つづく


夢のまた夢 ・ 四部

2016年04月20日 11時10分23秒 | 夢のまた夢
☆中学時代☆

  

ナンダカンダ月日は流れアッシも気が付いたら、詰襟の学生服を着ていたんでございます。

中学一年の秋、クラスから生徒会副会長に立候補した者がいて先生から「お前、応援弁士をやってくれ」と云われ、何の躊躇も抱かずその大役をすんなり引き受けてしまったんで。どうにか立候補者の人格のお陰で一年生ながら生徒会の副会長に当選してくれたのでホッとしたのを覚えていますんで。

それ以来クラス対抗弁論大会やらに抜擢されまいった次第でございます、へぇ。そうそう、そのクラス対抗弁論大会じゃ弁論タイトルがなんと、「我れは思う!交通道徳に一言」だったんですから笑ってしまいますよなぁ。中学生の問題としては的がはずれていましたから。でも、考えてみればその頃から交通事故が大きな社会問題だったんですなぁ。見事、落選しましたがね、クラスの級友に申し訳なかったでござんすねぇ。



アッシが中学三年の頃、「黒い花びら」「有楽町で逢いましょう」の流行歌が一世を風靡した頃でござんした。アッシも丁度、変声期の時期にあたり級友から「低音の魅力」と、もてはやされたんでさぁ。我ながら渋い低音の声でございましたなぁ。


良く口ずさんでいたのが、石原裕次郎、フランク永井の唄でしたねぇ。特に裕次郎の唄はその後も良くうたったもんで。その頃でしたかねぇ、アッシの初恋てぇものをしたのは。ええっ、無論淡い淡い「片思い」で終わりましたがね。

小学校六年の時からの片思いで、我ながらよく四年間も一途に想いを抱きつづけていたもんだと一面呆れる感じも無きにしも有らずで(笑)。

卒業式のあとで、卒業証書を片手にクラス全員で、アッシ達が最後の教え子となっちまって定年退職された担任の古田達蔵先生の自宅に押し掛けたのがついこないだのように想えまさぁ。この恩師も今や亡くなっちまいましたがねぇ。





そうそうこんな思い出もございますなぁ。
アッシが生意気盛りの中学一年生の頃のことで。東京から何年振りかで愛子姉が旭川へ来た時のことでさぁ。

何かだったかは忘れちまいましたが、愛子姉がアッシに何か聞いたんで。それは大したことではない質問であったんでございます。それでアッシが、なんでぇそんな事も知らねぇのかという酷い態度をしてしまったんでございますなぁ。


なにしろ、生意気盛りの頃のことでして今、思い出しても赤面するくらいでございます。そんなアッシを見て愛子姉は「物事を知らないということは恥ではない。それを馬鹿にするような人間こそ恥を知らない人間だ」と。

子供心にこの言葉にゃ応えましたなぁ。今でもそのときの光景をはっきり覚えているんでさぁ。 この教訓はその後のアッシに大きな教訓を与えてくださいましたなぁ。 後年、若い人に良くこの話しをするアッシでございました。

「知らない事は決して恥ずかしいことではない。それよりも知らない事を聞くということこそ大切な事だ」とね、へぇ。





そうそうアッシは、地元の高校を受験せずに千葉県の南柏にある全国から集まっていた全寮制の高校へ受験したんでございます。

何故、級友たちが行った地元の高校へ行こうとしなかったてぇと申しますと、家から離れたかったからなんで。ただそれだけの事だったんでぇ。

受験が二月に札幌のとある家でおこなわれたんでございます。そうですなぁ、受験生は三十人くらい居たでしょうかねぇ。全道から集まっていましたなぁ。

その中で、室蘭から受験に来ていたとても可愛い女の子が居たのを覚えていますわい。四月に受験校で逢えるかもと楽しみにしていたアッシでしたが、残念ながら再会は出来なかったんで。合格しなかったんでやんすよ。今でいう「中山美穂」に似ていた子でしたなぁ。


そうそう、この受験で思い出すことが有るんでぇ。国語の試験で、問題に「はかせ」を漢字にするのが有ったんでございます。

その問題で「博士」の「博」に点が有ったかどうかで、点を書いては矢張り無かったような気がして消しては書き、書いては消しの繰り返したのを良く覚えているんでぇ(笑)。

そんなこんなで、旭川への帰路の列車の中では完全に滑ったと想って、冴えない顔で帰宅したアッシでございました。


合格発表の日、てっきり「桜散る」の電文が届くとばかり想っていたアッシだったんでございますが、なんと「合格おめでとう」の文字であった時は正直嬉しかったですなぁ。

三月始めにそれがわかって担任にその旨を報告すると「お前が我が校で、一番早い合格者だ」と云われたのを覚えていますぜよ。級友が一生懸命に最後の追い込みを掛けているときアッシは一人我が世の春といった気分だったんでぇ、へぇ。




 
そんな上気分でいた或る日の夕方、伊達紋別に引き取られていた守兄が、三年ほど前に旭川の清子姉に引き取られ、姉家族と一緒に生活していたのでございますが、その守兄がひょっこりアッシを尋ねて来てくだすったんでぇ。

それまでは一度もわざわざ尋ねて来てくれることなどなかった兄だっただけにとても嬉しかったのを覚えているんで。お店の隣にあった小さな喫茶店で一時間ほど話をしていきましたかなぁ、

その話の中に「かあさんに逢いたいか?」って聞かれた一言を忘れることが出来ねぇアッシでございます。そして、マンちゃんは「じゃな~」と云って去っていったんで。

まさか、それが今生の別れになろうとは夢にも想わなかったアッシでございました。その後、守兄は京都の文雄兄、東京の敏信兄、愛子姉と逢って行ったと後日聞かされやした。

それじゃあの時は密かに別れの気持ちでアッシに逢いにきてくれたんだということが後日わかったアッシでございました。





守兄が、室蘭で服毒自殺を図ったという話を聞いた時、アッシは一瞬「このまま死んだ方が兄貴の為に良い」と心の中で想ったんでやんすよ。

このまま助かったら、兄貴はなお辛いんじゃねぇかと想っちまったんでぇ。なんとも冷てぇ弟だったと想うんでございますよ。でもあの時は正直そういう気持ちでございましたなぁ。


守兄を自殺まで追い詰めた原因はてぇと、親父なんでございます。兄が亡くなった時はアッシもまだ子供で、誰もその訳を教えてくれなかったんでございます。

高校二年の折り、当時芦屋で暮らしていた文雄兄の下宿に一泊した時、文雄兄の誰かに書きかけた手紙をなにげなく見付け、その内容で初めて守兄を自殺に追い込んだ訳を知ったアッシだったんでございます。

それまで何も感じなかった親父を初めてうらんだのもその時でございましたな。
ナンダカンダ有りやしたアッシの幼児期、小学校、中学校時代でございましたが、一番悲しかったのはこの「守兄」の亡くなったことでございましたなぁ。。

つづく



夢のまた夢 ・ 三部 

2016年04月19日 19時35分04秒 | 夢のまた夢
☆小学校時代☆





そんな中、「親は居ずとも子は育つ」てぇ訳でアッシも「旭川市立青雲小学校」へ入学したんでさぁ。アッシを入学式へ親代わりに連れて行ってくんなすったのが先日亡くなった敏信兄だったんでございます。へぇ。

今でも、その時の入学記念写真がアルバムの中に有るんで。学校の先生が兄に「山本君のお父さんですか?」って聞いたってぇ逸話が残ってるほど、歳の差があった兄貴だったんでございます。
二十一も離れてちゃ、先生がそう想ったのも無理ねぇやな。兄貴にゃ気の毒なこたぁしちまったぁ。その兄貴もとうとう生涯、独身で子供もいなかったんでさぁ。
其の頃はまだまだ終戦の気配が濃厚だった頃のことで、街にゃ馬橇がシャンシャンと大きな態度で走っていた時代でございます。

そうそう小学校へ入学して初めての運動会だという時に、アッシは当事流行していた「ハシカ」に掛かっちまいましてね、
学校も休みがちで級友たちが運動会の練習をしているのを愛子姉におんぶされて、グラウンドのそばで良く見ておりましたで。へぇ、アッシの家は学校から四、五分のところに有ったんで。
そんなアッシを見て清子姉、愛子姉たちが運動会に出れねぇのは可愛そうだと少し良くなりかけていたアッシを運動会に出させてくれたんでさぁ。うれしかったねぇ。一生懸命、走ったっけ。 
「月の砂漠」「ギンギンギラギラ」の遊戯はもう一生、忘れられねぇ唄になっちまったもんな。「ギンギンギラギラ、夕日が光る、まっかかっか空の雲・・・・」懐かしいもんでございますねぇ。
この運動会に出たのが悪かったのか、そのあとハシカの症状は悪化の一途をたどったんで。足のかかとの皮が面白いほどむけましたなぁ。


こんなことも有りましたっけ、アッシが入学したての頃でございました、へぇ。
すぐ上の「守」兄がアッシを教室まで連れて行ってくださったんでぇ。「じゃぁな~」と兄が教室を離れて行くと、アッシは心細くなっちまって「マンちゃん、マンちゃん行かないで」と泣いたらしいんで(笑)。
きっと兄弟が大勢居たから、他の子供たちと一緒に遊んだことがなかったからなんでございましょう。
ちょっと話が横道にそれちまいやしたが、初めての運動会が終わってから「ハシカ」が悪化してきたので、アッシは愛子姉と二人で「ハシカ」を治すために温泉へ湯治に行ったのをかすかに記憶しているんでさぁ。
どこの温泉だったかは忘れましたが、青森の湯治場だったかじゃねぇかと想いますがね。
とにかく木造造りの大きな湯治場温泉だったのをかすかに覚えているんでございます。愛子姉と一緒に二人でしばらく湯治していたことを覚えているんでさぁ。




そうこうして、小学一年も終わろうとしていた頃、あまりにもハシカで休んでいたため、先生から、学校への出席日数が少ないので残留させる話が家の方へあったらしいんで。
春もいまだ感じられない北国の弥生の三月の或る日、アッシは清子姉か愛子姉だったか忘れちまいましたが、こう云われたらしいんで。「落第したくなかったら、一週間で「アイウエオ」を完全に覚え、読み書き出来るようになりなさい」てぇと。
アッシも子供心に級友たちと一緒に進級したく必死になって「アイウエオ」を覚えたらしいんでございます。その甲斐あってどうにか無事進級出来たらしいんで、へぇ。

 だが、この青雲小学校では二年生に進級できなかったんでごぜぇますだ。この三月になんと、家族が一家離散する羽目になっちまったんでございますだ。敏信兄は愛子姉、秀子姉を連れて東京へ、清子姉はすでに結婚していたのでそのまま旭川に。文雄兄は大阪の母の元へ、守兄は伊達紋別の親戚の家へ(オヤジの姉夫妻、青果店)、アッシは旭川の老舗「旭川千秋亭」(オヤジの姉夫妻、菓子店)へと三々五々ひきとられたのでございます。
アッシが小学校二年生になろうとしていた弥生の月の頃でございました。アッシが小学校一年坊主の春休みの頃のことでございましたなぁ。

愛子姉に連れられて旭川の叔母の家、後年、老舗のお菓子屋となった「旭川千秋亭」へ連れて行かれたのは確か日の暮れた春の夜のことであったように記憶しております、へぇ。
「今夜はこの家で泊まっていくんだよ」と愛子姉に云われ、何の不思議さをも感じず素直にしたがったアッシでございましただ。全く無垢の子供のアッシでございましたな~(笑)。
次の日も次の日も、愛子姉が迎えに来てくれるとばかり想って待っていたんでござんすが、とうとうその日は訪れることはなかったので、へぇ。あ~、やはりあの前夜の話は本当のことだったのだなと合点したアッシでございました。叔母の家へ連れて来られるその前夜の事でしたなぁ。
愛子姉から栄町での兄弟姉妹一族が、みんなバラバラに離散することになったという話があったのは。
アッシは結局その時、叔母の家に引き取られることになったと説明を受けたような記憶が・・・。


「千秋亭」のお菓子屋の叔父は「国津貞次」、叔母は「国津アサ子」といわれたお方でございましたなぁ。叔父は、明治生まれの方でございましたが、今想えば、血のつながっていた叔母よりも親身に育てて頂いたようでごぜぇますだ。
そんな数日後、叔母夫婦に呼ばれ「今日から叔父さん叔母さんを、「お父さん」「お母さん」と呼びなさい」と言われたのを今でも鮮明に覚えているアッシでごぜぇやす。
お恥ずかしきことながら、それまでアッシは「お父さん・お母さん」って一度も口にしたことがなかったんでございます。それは当たり前の事でござんしたよ、七人の兄弟の中で育ったんでございますから、へぇ。
でも、子供心にも叔父、叔母の気持ちがなんとなく理解することが出来たアッシでございましたなぁ。そんな訳で、使った言葉を初めて口にするのも、なんとも云えない複雑な気持ちであった事を覚えておりやす。

子供ってぇのは不思議なもので、新しい環境にはすぐ慣れていくもので、一カ月ほど経った頃のことでしょうか?
ちょうどその時も近所の子供と一緒に駈けずり回って遊んでいたとき、ふと見るといつ来たのか、愛子姉と秀子姉がその家の玄関前でアッシの方をじっと見ているじゃござんせんか。
すぐに駆け寄ったアッシに「ほらっ、下駄をもってきてあげたよ」ってアッシに下駄を。想えばきっとそれがアッシとのしばしの別れと一目逢って行っておくだったんだと後日わかりやしたがねぇ。
姉たちはアッシが近所の子供たちと一緒に仲良く遊んでいる姿を見て安心すると同時にどこか寂しさを感じていたのかも知れませんなぁ。そういえば、あの下駄はどこへ行ってしまったんでしようなぁ。

この頃に、旭川で「まさかり事件」がありましたんでございます。その頃、衣料品の販売店をしていた敏信兄の店の従業員がなんと強盗にまさかりで殺されたんでさぁ。大事件だったんでございますだ。
当時の闇市マーケットで殺人事件であったんで。へぇ。兄がちょうど大阪へ仕入れに出掛けていた留守に起きた事件だったんでございますだ。この事件が、まだ小さかったアッシの脳裏に何故か、強烈に焼き付いているんでございますだ。その時はまさか兄の店での事件だったとは夢にも思いませんでしたなぁ。



 
「青雲小学校」から「日新小学校」へ転校したアッシは「毛利勝二先生」という男の先生が担任でございましたなぁ。毛利勝二先生は、温和な三十五くらいの先生であったように記憶しておりますだ。長身でメガネを掛けていましたな、確か。

転校早々、二年生になった進級記念写真にゃ、最前列の椅子に腰かけたアッシの左足がわからねぇに微妙に隠されて写っているんでぇ。これには想い出が、ちょっと苦い想い出があるんでぇ(笑)。この記念写真を撮るという当日、アッシはクラスの石炭運びの当番だったんで。
そう、当時はまだ四月とはいえ、北の大地の教室じゃ「ダルマストーブ」を焚いていたのでございます。その石炭運びでアクシデントが(笑)。
石炭小屋の床がもう古く脆かったんでございますだ。それで石炭を運ぶ時に、とうとう床の穴が開いちまってアッシの左足がその穴に落ちたんでございますだ。その時アッシの左上靴がその穴に落っこちてしまったという訳で。
その上靴が、落ちた所が深くて、手が届かずとうとう諦めて記念写真の撮影にいどんだという訳で。いつもこの写真を見ると想い出すんでさぁ。(笑)。


三年、四年の担任の先生は「斎藤英子先生」、五年、六年生のクラス替えのときは、またしても女の先生「中村初子先生」へと担任が変わりましたなぁ。この先生はまだ独身で二年後に同僚の同じ姓の先生と結婚したんで。
この小学校三年の時、文化祭の劇「十二号空き地」でタヌキ役を演じたのが劇出演の初体験であったでございましたなぁ。五年生の時は「杜子春」の劇に出演したんでさぁ。ええっ?主演だったのかって?へへぇ、一介の通行人で。主演は学年一の秀才が。


小学校でもっとも楽しかったのは「修学旅行」だったですかねぇ。なんか子供心に親戚の家での生活に、遠慮しいしいというか、縛られていた思いのする生活から、自由になれたてぇのが一番の嬉しさだったのを覚えていますんで。
自分の子と同じように育てていただいた明治生まれの義父には申し訳けなかったでございますが。もしかするってぇと、自分で自分を縛っていたのかも知れませんなぁ。

そんな不謹慎な思いを抱いていたアッシを温かい心で見守っていた義父の気持ちを今だからその心情がよくわかるようになった気がするんで。修学旅行は札幌一泊旅行でやんしたが、アッシにとっては思い出深き旅行でございましたなぁ。

その頃、「明智小五郎」という子供向きの探偵物の読み物が、小学生高学年の間でブームとなっていたんで。そこで仲間で「天馬探偵団」という名前の探偵団を結成して遊んだ思い出がございますだ(笑)。
この時の一番仲が良かった「俊夫」が、結婚して二十年後に妻子を置いて蒸発してしまうとは夢にも想像出来ませんでしたなぁ。もう二十年にもなりますかなぁ。

小学校時代の思い出には、お金の掛からねぇ趣味てぇことで、新聞の「題字収集」をやったことがあるんでございますだ。この趣味はとても社会勉強になりましたなぁ。
全国の新聞の題字を切り抜いてノートに貼り付けて何冊も出来ましたなぁ、へぇ。終りにゃ、旭川駅のゴミ収集箱に頭を突っ込んで懸命に新聞の題字を収集していましたなぁ。全国からの荷が届くのでその時に使用した新聞紙が、駅のゴミ箱に沢山投げられていたんでさぁ。その「収集ノート」が何冊とできましたなぁ。とにかく或る面ではとても良い時代でしたなぁ。


こんな小学校時代、五年生頃でしたかなぁ、アッシは日記を付けていたんでございますが、或る日、学校から帰宅して机の引出しを開けたところ、どうも日記帳が誰かに読まれた気配がしたんで。
読んだんじゃねぇかと想う人は、すぐ思い当たったのでございますがねぇ。なんかアッシの心の中を土足で踏みにじられたような感じがしてたまらなく嫌だったのを覚えているんでさぁ。
それで、それから日記帳は読まれても困らないようにローマ字で書いたんでございますだ。(笑)。
ですがね、今のアッシにゃその人の気持ちが良くわかるような気がするんでぇ。きっとアッシが、どんな気持ちで毎日過ごしているのか気になさっておいでだったんだろうねぇ。
それだけ心配かけていたんでやんすねぇ。だから、今じゃこっそり読まれた事なんぞう何も気にしちゃいねぇアッシでございますだ。
確かその頃の日記帳にゃ、「てめぇが将来、家庭を築くことが出来たらワンパクでもいい、親に言いたいことが云える子供に育てたい」とこんなことを書いていたような気がしやすが、記憶が定かじゃございませんがね(笑)。



こんな事もありましたなぁ。育ての家はお菓子屋さんという事もありましてね、昔、「三時のおやつ」てぇいうものがあったんでございますだ。その家は昔のことでやんすから子沢山でね、確かこの育ての家にゃ九人兄弟姉妹も居られたんで。
でも当時、家にいたのは男一人女四人でしたなぁ。そんな中でアッシを引き取って我が子同様に育ててくださったんですから本当に感謝いたしますねぇ、そんなことは小さかったアッシにゃ全然わかりませんでしたがね。
「三時のおやつ」に関係していた年頃の従兄は二人でしたな。二つ上の従姉と、四つ上の従兄、その二人とそのお友達がおやつを手にしてしまってから、最後に遠慮しいしい手を出していたアッシの姿の毎日でしたなぁ。いつも部屋の隅っこに小さくなっていたアッシでござんした。

こんな思い出もございましたなぁ。その頃家業がお菓子の製造販売業でしたので昔のことですから、地方からの住み込みの方が大勢おられやした。それで毎回の食事も、家族と共にしておられたんで。
義父が偉かったのは、この食事が家族と同じ物だったてぇことで。しかも同じテーブルで一緒に食事をしたてぇことでさぁ。
でも夕食が五時てぇのにはまいりましたな。まだ喰い盛りのアッシでしたから八時頃にゃもうお腹が減っちまって。
そんなことで或る日、余りにも空腹でとうとうお店の羊羹を一本盗んでしまったんでぇ。でもさすがに一度に一本は食べきれず、残りを机の中に入れて翌日学校へ行ったんでさぁ。
学校から戻るや否や、義父に呼ばれ、食べかけの羊羹を突き出されちまって。あの時はまいりましたなぁ。コンコンと例の如く説教されたのを覚えておりやす。アッシは一言も弁解しませんでしたなぁ。
まさか、晩めしが早過ぎるので腹が減ってかなわんなんてぇ事云えませんしなぁ。懐かしい思い出の「羊羹事件」ですわい。

子供同士でも、すぐ上の従姉にはいじめられましたなぁ。或るときこんなことを言われましてな。「お前はうちの子じゃないんだから出て行け!」ってね。
でもその時にゃほかの従姉、寿美子さんてぇお方でしたが、「そんなこと、云うもんじゃない」ってアッシをかばってくだすってね。
アッシはもう、その言葉でどんなに救われたことか、そのシーンを今でも鮮明に覚えていますんで、へぇ。想いだしたら瞼が熱くなってまいりやした。

血が繋がっていた叔母にも同じようなことを云われたことが有りましてね。さすがにその時は、相手が叔母だけに出て行かねばならないと子供心に想ったんでしょうかねぇ。家出したんでさぁ。
近くに旭川駅があったんで、取りあえず駅に向かったんでございますだ。それから行くところがねぇんで、困っちまって、当時結婚して所帯を構えていた清子姉の所に駅から電話を掛けたんで。
姉はびっくりして「その場所を動くな、すぐ迎えに行くから」って。まもなく旭川駅に清子姉がやってきたんでぇ。
結局、コンコンと説得されて再び育ての家に戻っていったアッシだったんでございますだ。清子姉はそれでもアッシがまた飛び出して来るんじゃねぇかと心配で、一時間も様子を見ていたと後日聞かされましたんで。
心配掛けちまって本当に申し訳ねぇ事でしたなぁ、でもアッシも本気だったんでございます。


そんな中、明治生まれの育ての親父さんにはよく怒られもしましたが、可愛がられましたなぁ。
自分の子供同様に育てられましたなぁ。いや、それ以上の愛情を注がれたように想いますですなぁ。当時の庶民の唯一の娯楽であった映画に時々、連れていってくださいましたな。
大映の長谷川一夫の「忠臣蔵」の映画を見に連れて行ってくださった時は、上映中に「吾朗、あれは悪い奴なのか?良い奴なのか?」ってよく聞かれましたなぁ。そんな親父さんでしたが、よく説教もされましたなぁ。
板の間に正座をさせられ、二時間、三時間延々と説教されましたなぁ。アッシのことをそれだけ心配だったんでございましょうな。でも、実父のことを悪しざまにいわれた時はくやしかったですなぁ。事情が全然わからなかったからもございますがな。
今じゃ云われて当然の父だったこたぁわかりますがね。アッシも意地ぱりのところも有りやして、将来「山本家」を再興してみせるなんてぇ啖呵も切ったことも有りましたなぁ。いやはや、お恥ずかしいお話で。

この親父さんは根っからの商売人でしたな。当時としては当たり前のことだったのかも知れませんが、ノート、鉛筆、消しゴムなどを買ってもらう時にゃ現物を見せて、もう使えないと納得してもらってから買ってもらったもんでございますだ。
こんな親父さんでしたから、お菓子の主原料の鶏卵など毎日買っていたのでございますが、毎朝日本経済新聞に目を通していなすったから、卵屋さんの云い値にゃ買いませんでしたな。
そりゃ高い、安いと今朝の新聞を見せてはっきり云って仕入れておられやしたなぁ。現金購入でしたので、鶏卵屋さんは、親父さんの言い値で納得しておりましたなぁ。

つづく


夢のまた夢 ・ 二部 

2016年04月18日 19時27分12秒 | 夢のまた夢
☆幼少時代☆




へぇ、アッシはね、北の大地の室蘭に近い「豊浦」てぇ田舎で産声を上げたらしいんでさぁ。

正確にゃ、虻田郡豊浦村字〇〇町てぇ云いますがね。父親「山本栄司」母親「山本ヨシ」てぇんで。五男坊でござんした。

先年のあの有珠山爆発のすぐそばのところなんで。山がすぐ後ろに迫ってくる、小さな小さな海辺の村だったそうで。夜、海の波の音を子守唄代わりに育ったらしいてぇんですが、本人は全然覚えちゃいねぇんですがね。戸籍謄本にそう記してあるんで。


ただね、なんでも四国徳島から夢を抱いて北の大地に渡ってきた祖父が一代で築いたものを、アッシの親父さんが潰してしまったようなんでございますよ。しかも、かみさんを三人も変えたってぇ、とんだ親父でございやして、生まれてきた子供はてぇへんな目にあいやしたんで(笑)。



 アッシが三歳のころ、放蕩三昧のオヤジにとうとう愛想が尽きてアッシのお袋さんは、実家の四国、徳島へ一番小さかったアッシを連れて行ったそうで。

しかもお袋のお腹の中にゃ、アッシのたった一人の妹が居たんでさぁ。そんで何ケ月か徳島のお袋さんの実家に居候していたらしいんで。そのとき一緒に遊んだ従兄のお袋の姉にあたる鶴子叔母さんがそう云うんでごぜぇますだ。もう、随分前にお亡くなりになりましたがね。

そんなこんなで徳島でアッシは、暮らしていたらしいんですがね、とうとう生活が困窮してアッシだけ再び、父親に北の大地に連れ戻されたらしいんで。
そして、北海道旭川の栄町(サカエマチ)にアッシをポイっと置いてまた、内地に戻っていったオヤジだったとのことでごぜぇますだ(笑)。

栄町にゃ、豊浦から当時旭川へ移住して暮らしていたんでごぜぇますが、祖父を筆頭に兄三人、姉三人の七人の家族にアッシが放り込まれたてぇ訳で、へぇ。祖父「永蔵」兄「敏信」「文雄」「守」姉「清子」「愛子」「秀子」そしてアッシだったんで。これが旭川栄町時代の我が家の家族でございましてね、へぇ。




 アッシの家の家族構成はちと珍しくてね、オヤジは一人なんでございますが、お袋さんが三人いましてね。いえいえ、同時に居た訳じゃごぜぇませんよ。最初のお袋さん「ユキノ」さんがお亡くになり、次に「ヨシ」と再婚し、この人がアッシのお袋さんなんでございますがね。最後に「静子」さんてぇお方がと三人いたってぇ訳でございます、へぇ。


このアッシのオヤジさんのことからお話いたしましょうかねぇ。

オヤジは明治三十六年三月八日、父「山本永蔵」母「アサ」の長男として誕生、姉が三人おりまして、たった一人の男の子だったそうで、そりゃ昔のことでごぜぇますから、「跡取り」ということで大事に甘やかされて育ったんじゃないでしょうかねぇ。

最初の妻「ユキノ」さんとはいつ結婚したのかはわかりませんが、大正十三年七月十五日長男「敏信」出産、次いで長女「清子」、そして昭和六年三月四日にゃ二女「愛子」を出産したんで。

「ユキノ」さんてぇお袋さんがいつ亡くなったのかはわかりませんが、残された写真を見ると相当の美人だったようでございます。それで兄、姉が美男美女であることに合点がいったアッシでございましたでやんすよ(笑)。



 その「ユキノ」さんがお亡くなりになり、昭和十二年六月二十八日、オヤジはアッシのお袋さんである「山本ヨシ」と再婚したんでございます。

お袋さんはオヤジとは親戚にあたり、当時密かに好きな人が居なすったらしいんで。が、父親の「栄司のところへ嫁に行け」の鶴の一声で泣く泣く北の大地へ渡って来たってぇ話でごぜぇますだ。

当時は父権が絶対的な時代であった故に、お袋さんも可愛そうな人でございましたでやんすよ。お袋さんは父「山本長兵衛」母「キョウ」二女として徳島県麻植郡〇〇町で誕生、「雪雄」「文雄」「守」「秀子」「アッシ」「康子」四男二女をもうけたのでございます。

「雪雄」ってぇ兄貴が長男で居たんでやんすが、残念ながら赤ん坊のときに亡くなったそうでごぜぇます。

妹の「康子」は昭和二十三年六月二五日徳島県〇〇町で誕生、お袋さんの兄である隣町の芳男叔父のところで育ったんでございます。

本人が自分の兄弟がいるということを知ったのは中学一年の頃であったらしいんでごぜぇますだ。それまでは全く知らなかったらしいんで。知らなかったほうが幸せであったのか、知ってしまったほうが幸せだったのかは本人のみぞ知るでございますなぁ。

アッシ自身、てめぇの妹・弟が居るってぇことを知ったのは16歳の時でやんしたからねぇ~(笑)。

このたった一人の妹も結婚後数年で離婚し、母親一人で娘二人を育て上げたのでございます。五十歳のとき、まだまだ若いというのに娘二人を残して肺癌で先立ってしまいましたのでごぜぇますだ。



三番目のお袋さんに当たる「静子さん」てぇお方は、父「鈴木富太郎」母「カメノ」の三女としてご誕生されましたのでごぜぇます。そして「賢司」「優司」という立派な二児をもうけられたのでございます。まぁ、アッシとは腹違いの弟になりやすんで。初めて逢ったのは、アッシが16歳の夏の時でやんした。この時の話は後ほどに。。。。

オヤジの籍に入ったのがアッシのお袋さんと正式離婚した昭和三十七年六月六日であったんでございます。この間、「静子お袋さん」「賢司」「優司」兄弟の心境は、なんとも言葉に言い表すことが出来ねぇアッシでございます。

そういう訳でやんすから、アッシが所帯を持って、抜ける以前の戸籍謄本は、すごいもんでやんしたよ(笑)。姉が良く、恥かしい戸籍謄本だって云っていたのを思い出しやすよ(笑)。




アッシが生まれる以前の、「豊浦時代」は優雅な生活だったらしいんでやんすが、なんでもオヤジさんが食い潰してしまってからは、旭川の栄町時代はドン底の生活状態になっていたようでございます。

アッシはまだまだオキャンの頃で、そんなことはちっともわからず毎日が面白く、沢山いる兄弟同士でにぎやかに毎日遊びにふけっていたんでごぜぇますだ。

思い出しても本当に懐かしい良い幸せな時代でやんした。ですから、オヤジ、お袋が居なくても全然寂しいなんて一度も感じなかったアッシでごぜぇますだ。

また今、想えば両親のいねぇアッシに寂しい想いをさせねぇで育ててくれた兄姉が本当に偉かったんでごぜぇますなぁ。本当に、にぎやかだったんでさぁ。アッシは、でやんすから「とうさん」「かあさん」ってぇ言葉を知らなかったんでやんすよ(笑)。楽しいかった時代でやんした。へぇ。。。。


こんな我が家を支えていた大黒柱の一番上の兄が、五日前に先立たれた兄貴なんでぇ。

「敏信」てぇ名前で一家をオヤジ代わりに養ってくんなすった兄なんでごぜぇますだ。豊浦時代は祖父の力量で大きな海産物工場を持っていたほど裕福だったらしいんでやんすが、出来の悪い一人息子のオヤジがとうとう食いつぶしたらしいんで。

この優雅な時代に育ったのが今、云った敏信兄、そして清子姉、愛子姉三兄姉らしいんで。

その次の妻になった子供が、文雄兄、守兄、そして秀子姉といて 一番バッチがアッシだったんでさぁ。アッシが物心つく頃はもう旭川にいたんでごぜぇますだ。豊浦時代の子供時代を過ごされたのは一世代上の敏信兄、清子姉、愛子姉の時代だったんでごぜぇますだ。




 祖父は九十七か九十八歳まで長命だったんで。丁度、東京オリンピックが開かれていた時に東京の娘の家で世話になっていたときに、亡くなっちまったんでごぜぇます。なんでも若い頃は故郷、徳島の田舎で町史に残るほどの偉い人だったらしいんでごぜぇますだ。

商売の才覚も抜きん出て、素晴らしいものを持っていたとのことで。こりゃ、みんな四国の従兄から聞いた話なんですがね。


余談でごぜぇますが、なんでもアッシの先祖ってぇお方は、「神主」さんだったらしいんで。敏信兄からアッシが学生時代に聞いた話なんですがね。

四国徳島の或る田舎に「山本神社」てぇシロモノが有るんだとか。この話を聞いたときにゃなんか信じられなかったんですがね。へぇ、実は今も半信半疑で(笑)。それがなんと小さな祠だというじゃありませんか(爆)。


この祖父にアッシはとても可愛がっもらったそうで。とにかく、祖父は信心深いお人で暇さえあれば、仏壇の前でお経をあげていたお方でごぜぇます。

その後ろに、アッシがいつも、チョコンとくっついていたらしいんで(笑)。きっとお供えしていたお菓子が目的だったんじゃないでしょうかねぇ(笑)。

それと記憶に残っているのが、祖父が「株」のラジオをいつも聞いていたということでさぁ。「何円高、何円高、何円安・・・」てぇ放送でさぁ。




 アッシが五つか六つの時だったでしょうかねぇ、冬の或る日に守兄、秀子姉と三人並ばされて「お灸」をされた思い出があるんでさぁ。ええっ?誰にされたんだって?へぇ愛子姉にでさぁ。


てぇいうのは、実はアッシがその悪さの原因だったんで。

そのころぁ、冬の雪の中でよく兄弟たちと遊んでいたんでごぜぇますだ。一番小さなアッシが、長靴のなかによく雪が入っちまって靴下やズボンなんぞうビショ濡れになって遊んでいたのでごぜぇます。


こりゃ、愛子姉に怒られると幼い心に想ったのでござんしょう、一緒に遊んでいた守兄、秀子姉の脱いだ長靴の中にせっせと雪ン子を入れていたというんでさぁ。

悪いこたぁ出来ねぇもんでぇ、それを運悪く、鬼より怖い愛子姉に見つかっちまったという訳でさぁ(笑)。

即、「お灸」、今の時代にゃもう、お目にかかることも珍しくなっちまいましたが、本物の「お灸」をすえられたんでございます。何も悪いこたぁしていねぇ守兄、秀子姉と一緒にで。へぇ~。


兄弟の連帯責任てぇやつでね。守兄、秀子姉はじっとアッシをかばって、その熱さにがまんをして耐えていたらしいんでごぜぇますが、アッシはてぇと、すぐアッチ~アッチ~と云ってもぐさをさっさと 払いのけてたてぇんで話でさぁ(笑)。

このシーンは幼かったアッシでしたが、ぼんやりと覚えているんでさぁ。とにかくその頃から、辛抱出来ねぇアッシだったらしいんで。でもまさか、こんなアッシが後年、てめぇの息子二人に同じ歳頃の時に「お灸」を同じようにすることになろうとは夢にも想いませんでやんしたなぁ(笑)。その時の愛子姉の、お灸をすえる方が、どれだけ辛かったかをその時に知りやしたもんでやんすよ(笑)。

何せ、三つくれぇで母親と「さよなら」しちまったアッシでござんしょ、清子姉、愛子姉がこのピーピー云っていたアッシをおんぶして育ててくれたらしいんで。この頃のことはうすぼんやりと覚えているアッシなんで。

でも、母親の顔はまったく覚えていやしませんでやんしたアッシで(笑)。ちょうど年頃の姉だった清子姉、愛子姉は、アッシの世話で何度もデートを棒に振ったそうで。ほんとに申し訳ねぇこたぁしちまっていたアッシだったんですなぁ。


つづく

                                     

夢のまた夢 ・ 一部 

2016年04月17日 17時54分29秒 | 夢のまた夢
☆夢のまた夢  序章☆




この自叙伝を前々から機会があれば書き残したいと想っていたアッシでござんした。

それが或るきっかけでとうとうペンを採ることになったんでございます。


そのきっかけてぇのが、つい先日あの世に旅立っていった長兄のなきがらを見たときに「アッシが尊敬している兄の一生のほとんどの部分が影のように何も見えないことに寂しさを感じた」のがこの自叙伝?を記述するきっかけであったと云うのが正直なところでござんす。

人生は長いようでとても短いと昨今感じ入る歳のアッシとなってまいったのもひとつのきっかけともなっているのも事実でござんしょうかねぇ。


一寸先は闇と申します、人間いつお迎えが参るかぁわかりゃしません。若い若いと思っていましても「定命」こればかりは天のみぞ知ることでござんすからねぇ。へぇ。


二十一世紀の初めてのクリスマスだというのに、今年のクリスマスはなんとなく手放しでジングルベルの気分に浸りきれない悲しいアッシでございます。

尊敬してやまない敏信兄ちゃんがクリスマスを目の前にした二十一日に、あの世に旅立っちまったんでございます。こればかりは、だれもがいつかは出会うことだから仕方がねぇもんだとはわかっているものの、寂しい気持ちになるのはどう仕様もねぇもんでございます。
年齢の順番でいけれるのはまだ恵まれているのかも知れねぇとはわかっちゃおりますが。交通事故で若いもんが突然いなくなっちまうこともあんだからねぇ。




それはそうと、本当にありがたいもんだねぇ。若いころにフトしたことがきっかけで知り合ったお方が今だにその縁を大事にしてくださっていてねぇ。

ちょうど連休にあたっていた一昨日も突然押しかけてしまったのにもかかわらず、温かく迎えてくださってね。連休だからきっと予定を組んでいたと想うんでさぁ、それを素振りにも見せずこのアッシを歓迎してくだすったんで。しかも一晩お世話になっちまったんでございます。

ええっ?そりゃアッシが図々しいって?へぇ、アッシもそう想ったんでございますが、こんだぁ、いつ逢えるかわかんねぇし、もしかしたら今生の別れになるかも知んねぇと想ったらついついお言葉に甘えさせて頂いたてぇ訳で。

こったら田舎もんをですよ、ほんとうにもったいない話でさぁ。



この方のご主人も温厚なお方でしかも真面目な方でそうそう、この方は明美さんとおっしゃるんですが、まだ五十路に入ったばかりだというのに早やお孫さんがおられるんでございます。


驚いたでござんしょう。また、このお孫さんのメンコイことったら、他人のオイラでさえ、てめぇの孫みたく感じるくらい可愛いんでさぁ。

そりゃ相手がきっと迷惑に想っていなさるって?(笑)。「おハル坊」てぇお名前なんでさぁ。もう少しで一歳の誕生日がやってきなさるんでぇ。なんでも、「ハルちゃんパワー」ってぇ素晴らしい神通力を生まれもっていなさるらしいんで。どんなパワーかてぇいうと、元気のない人を元気にしてくださるってんでさぁ。

かくいうアッシも、少しばかりお裾分けしてもらってきたんですがね(笑)。



そうですかい、この歳になるまでの思い出噺聞いてくださるか。何せ、ずいぶんと長い間のことだから、忘れたことやら、うろ覚えのことやら、いろいろあるけんど、それでもかまわんかねぇ。

ええっ?おハル坊が大きくなったら「伝説の人」として聞かせて上げるんですって?


                       平成13年12月24日


つづく


追 記


先日半月ほど前に、HPを開設しているサーバから5月28日を以って、各HP・ブログ等を閉鎖する連絡通知を受けました。そこで、HPの引っ越しをも考えたのですが、
あいにくその方法が無知なため、HP引っ越しを断念しました。

が、HP内の「kazemata劇場」第四幕の「夢のまた夢」をこのブログに移転することに致しました。
この作品は、或る人物の半生を綴ったもので、かなりの日数を費やして出来た作品でありましたので、HPの消去とともに姿を消すことが惜しい気がした次第です。
良かったら、全編覗きにくださることを期待しております。        2016.04.17記




熊本地震

2016年04月16日 14時20分21秒 | 花&庭

昨日から 熊本県を襲った震度7.3の大地震で TVにくぎ付けとなった
熊本城の 天守閣しゃちほこの姿は無くなっていた
石垣も 至るところで崩壊 あの1600年以来の名城が

震源地はなんと 熊本県益城町地下わずか十数キロだという
しかも 今朝未明にも震度6強の地震があったと朝刊に
今の所 死者12名 負傷者1000人を超えるという
余震が いまだに続いているという


今夜から 激しい雨が降ってくるという天気予報
二次災害の土砂崩れが 方々で発生する可能性が大の予想
避難されている方々の人数 なんと7300人とか

熊本県では 初めての大地震だと住民の声
ひとごとではない 当地もいまだかって 大地震は発生したことがない
いつ何時 此の地にも 未曾有の大地震が来るやも


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