北の隠れ家

 総本家「ホームページ風又長屋」・本家「風又長屋」の別館もございますのでご訪問を。 SINCE 2008.12.19

夢のまた夢 ・ 中 完

2016年05月04日 08時09分11秒 | 夢のまた夢
☆心筋梗塞 妹葬儀☆


       


平成十年九月二十日、会社から帰路、パソコンショップに寄り道し、いろいろ見ていたら、急に目の前が真っ暗になり火花が散り、胸が苦しくなりましただ。
おもわずその場にしゃがみこむこと数分、よほど店員に救急車の手配を頼もうかと思ったほどの苦しさであった。が、数分後、どうにかその苦しみも治まり、顔色は恐らく真っ青に花って威ただだろうが、胸を右手でおさえつつ、ジムニーを片手運転して帰宅したアッシでごぜぇましただ。

帰宅して、そのまま寝床に潜り込んで寝ましたんでごぜぇますが、翌朝、どうも普通ではない感じがしたので、会社を休んで、カミさんと一緒に旭川市立病院へ。数時間待合室で待たされ、ようやく診察室へ。
昨夜の状態を医師に説明すると、即、車椅子が用意され、そのまま緊急入院。IGQに三日間も入れられたんでごぜぇますだ。
診察の結果はなんと「心筋梗塞」とのこと、検査々の連日 そのうちカテーテル検査をし、カテーテル手術を済ませ一カ月、明日は退院だと云うときに浜松で暮していた妹、康子が肺癌で死んだとの凶報が入りましたんでのでごぜぇますだ。

担当医師に、葬儀に出席したいんだがと相談したところ、浜松を「浜益」と、どうも聞き違いしたらしく、即、了承していただいたんでごぜぇますだ。手術後一週間で、浜松の葬儀に出席したのでごぜぇます。



矢張り、少し、精神的にも肉体的にもつらい日々でごぜぇましたなぁ。旭川空港から羽田空港まで、そこから新幹線で浜松の妹の家へ。
葬儀場を借りずに、自分の家で葬儀を行ったのでごぜぇますだ。娘が二人おりやして、長女が高校一年生、次女が中学二年でごぜぇましただ。亡くなった妹は数年前に離婚しており、母子家庭でございやして頑張っていたようでやんした。

5日ほどで、葬儀その後の手続きなどを終え、あっしはまた、病室へ戻ってきたのでごぜぇますだ。数日後には、退院するということも決まり、その日が目前に迫ってきた或る日、医師から、いろいろな検査の結果、胆嚢にポリープが発見されたとのこと、悪性の腫瘍か良性のものかは、手術して細胞を接種し、検査してみなければ何とも云えないとのことで、さすがにあっしも内心、青くなったのを覚えておりやすでやんすよ。



今まで、病気らしい病気で入院したことがあったのは「盲腸」のときだけのアッシだっただけに、このときは心底まいりかけましたなぁ。 というわけで、五階の内科より、三階の外科に病室が変わりましただ。
そんなこんなで、あっしは万が一のことを考え、「墓」を購入いたしましたんでやんすよ。外出許可をもらって、墓を購入してきたあっしでやんしたよ。場所は、観音霊園でごぇますだ。自分が死んでしまったら、墓が無かったら、カミさんが大変だろうと思いましてな。「死」のことばかり、考えていたアッシでございましたなぁ。いろいろな検査の結果、開腹手術になったのが、十二月の頭でございましたなぁ。

全身麻酔の手術でございましたんで、全く手術の様子は覚えておりませんだ。ただ、手術を終えたあとの二日間は高熱にうなされ、つらい思いをしたのは鮮明に覚えておりやす。手術までの期間が二ヶ月ほどありましたので、その間、もし悪性腫瘍の癌だったらと何度脳裏を掠めたことでござんしょう。今、思うとやはり若かったせいもあったんでやんしょうねぇ、マイナス思考の考えばかり繰り返し考えておりやしたですなぁ。


手術したおりの、尿道カテーテルからの血がなかなか止まらず、この出血が止まらない限りは退院は許可出来ねぇと云われやしえねぇ。何日経っても、出血が止まりやせんでやんしたよ。そこで、ハッとあっしは気がついたんでやんすよ。もしかしたら、心臓の薬のなかで、血液をサラサラにするのがありやしたので、ドロドロの血液にしたら出血が止まるんじゃねぇかと。。。そこで、外科の医師に心臓の薬を三日ほど飲むのをやめても大丈夫かと、心臓の担当医師に問い合わせてくれと頼んのでやんすよ。

心臓の担当医師は、三日なら薬は止めても大丈夫だと返事がきたんで、さっそく心臓の薬を飲むのをとめたんでやんすよ。なんと、三日目で見事に出血が止まったじゃござんせんか。外科の担当医師がヤブ医者だと初めてそのとき知ったあっしでやんした(笑)。
もしかしたら、年末年始は病室で過ごすことになるのではと思っておりやしたが、十二月二十日無事退院し帰宅することが出来たアッシでごぜぇましただ。年末年始を我が家で過ごし、四日からもう会社へ出勤した自分でごぜぇましただ。


この話は、ここらへんで一息入れたいのだがなぁ~。
これ以降の、50代60代にまたまた、波乱万丈の出来事が起こったんじゃがのう(笑)。
一応、ここらへんで一息つきたいと思ってのう。また、機会があったら「続編」を話ししてみたいがな(笑)。 

中 完
 

 後 記 


平成11年の正月明けの仕事始めのところで、筆を置いたのだが、それから数十年、
なんと筆は再び執ることなく、平成28年の春を迎えてしまっている現在なり。
一端、筆を置いてしまうと、なかなか再び筆を執るということが
如何に困難であるかが良く身に浸みたなり。

今月5月28日でもって、マイHPがサーバーの事情で閉鎖されることになってしまった為、
この「夢のまた夢」が、
このまま陽の目を見ることなく姿を消されることが惜しい気持ちから、
この「北の隠れ家」に載せた次第でございます。
果たして、続編が綴る日が到来するかどうかはわかりませんが、
その折はまた、一見のほどよろしくお願い致します。

平成28年5月4日筆
       

夢のまた夢 ・ 十七部

2016年05月03日 11時08分36秒 | 夢のまた夢
☆ライダー時代2☆


      


【 平成八年 温泉めぐり 】




平成八年の一月に、珍しい人と再会しましたなぁ。新婚時代、本町の静香荘から、春光町の「雇用促進住宅」の団地へ移転し生活していた頃に、我が家の向かいの部屋に住んでおられた及川さん夫婦の奥さんに再会したんんでごぜぇますだ。

風の便りに、数年前にすでに離婚されていたとかで、気にはなっていたのでごぜぇますが、及川さんの奥さんとは、なんと十四年振りの再会でやんしたなぁ。そんなこんなで、二月二十五日に初めて「層雲峡 氷爆まつり」に家族一緒で、行ってまめいりましたでごぜぇますだ。

夕方四時頃、旭川を出発し、五時半頃層雲峡の会場に着きやしたんで。アイスバーンの道路を心配しておりやしたんですが、道路は完全に乾いてアスファルトが出ている状態でごぜぇまして助かりやした(笑)。
風は吹いておりませんでしたが、結構シバレがきつく、夜空には見事な、まんまるなお月さまが浮かんでおりやしたですなぁ。何十年と地元に居ながら、初めてきた「氷爆まつり」、カラフルな照明に怪しくも浮かび上がる氷の彫刻、まるでメルヘンの世界へ足を踏み入れた感でごぜぇやしたなぁ。

シバレている中での屋台のラーメンがとてもおいしかったのを覚えておりやす。 雪に囲まれた北の大地の冬は、どうしてもスキー、スケート以外にゃアウトドアが、いまいちといった感でごぜぇやしたので、今年の冬はひとつ外へ出ることにチャレンジしてみようと思い、休日はできる限り「脱旭川」を心がけようと思いましたなぁ。






そこで、二月十八日、近郊愛別の「協和温泉」へカミサンと一緒に行ってめいりました。あいにくと、小雪がちらつく天気模様でございましたが、ユッタリ、のんびりと温泉に浸かってまめいりました。 三月三日「桃の節句」にやぁ、沼田町の「幌新温泉」へと夫婦で行って参りました。地図片手に、途中道を間違えながらも無事にたどり着き、気持ち良い湯にのんびり浸かってまいりました。

三月十日の休日には、富良野の「道の下温泉」へと出かけてめいりました。家を出るときは、芦別近郊の「湯の花温泉」に行く予定だったのでごぜぇますが、地図上には確かに「湯の花温泉」と有るのでごぜぇますが、なかなか見つかりませんで、或る家で問合せましたところ、なんと十数年前にもう廃湯となって現在は存在しないということでございました。やぁ~、まいりましたなぁ~(笑)。

そういうわけで、せっかく来たので、富良野まで足を伸ばして、「道の下温泉」へ行くことにいたしやした。翌週の日曜日の三月十七日にゃ、下川の「五味温泉」へと夫婦で行ってめいりましたでやんす。道がよくわからず、やっとの思いで到着したのを覚えておりやす。
その翌週の日曜日三月二十四日にやぁ、深川の「沖里河温泉」へ行ってまいりました。昭和初期頃に建てられたような湯治専門のような温泉宿といった感じの建物でしたなぁ~。中に入って湯に浸って、驚きましたなぁ。あまり、客がこないようで、湯はあまりきれいとは云えない感じで、シャワーも蛇口も無いといった浴室でした。

翌週の四月六日は、もう旭川近郊の温泉もほとんど行ってしまった感で、残されていた「塩狩温泉」、そう、あの三浦綾子での小説にもなった塩狩温泉へと、それも夜になってから出発してしまい、温泉に着いたときはちょうど、九時になっており、宿の玄関ガラスには、九時までで閉館の張り紙が。まいりましたなぁ~。せっかく来たので、頼み込んで、温泉に浸らせていただきましたでやんすよ(笑)。



【ゴールデンウイーク  函館 大沼公園へ 】  

平成八年五月四日前日の夜中の三時に自宅を出発、一路「函館」を目指して車を走らせましたんでごぜぇますだ。が、札幌近くになって夜も明け、空は真っ青に青い空、しまった、こんな素晴らしい天気だったらどこかバイクでツーリングするんだったと、運転していながら考えておりましたなぁ。




よっぽど旭川へ引き返してバイクに乗ろうかなぁと思いましたですなぁ(笑)。そんなこんなで、駒ケ岳を右目にのぞみながら車を走らせていたアッシ達でしたが、途中で横道に入り、駒ケ岳に上り始めていた愛車ジムニーでやんした(笑)。
登り口に鎖が引いて入れないようになっていたんでやんすが、鎖をはずして、車を乗り入れましたんで。結構、上ったところで、もうそれ以上は、車では無理というところで断念したんでごぜぇますが、快晴に恵まれて、駒ケ岳は素晴らしい景色というか、風景でごぜぇましただ。

そうそう、この二,三カ月ほど前に何年かぶりに駒ケ岳が噴火していたんでごぜぇます、それで鎖が張ってあっていた訳でやんす。 そうこうしながら、大沼公園に着いていましたなぁ。ゴールデンウイークということで、すごい人出でしたなぁ。
天気も快晴で、春の到来だなぁと感じさせた気候で、本当に良かったですなぁ。当初の予定では、新婚旅行以来の函館での一泊を考えていたんでごぜぇますが、あまりにも天気が良いので、バイクに乗りたくなり、急遽、日帰りの旅となってしまい、帰路、ニセコ方面を回りました函館の旅でごぜぇやした(笑)。なんと、宅した時間が夜中の十二時でございましただ。

早速、翌日は「朱鞠内湖」へソロツーリングに行ってめいりました。朱鞠内湖近くになると、雪が三メートルほど道路の両側に壁を作っておりやした。このあたりは、まだまだ積雪が多く、朱鞠内湖はまだ凍結しておりやした。春遠からじといった感でごぜぇましたなぁ。
カミさんは車で、アッシはバイクでというツーリングでありやした(笑)。翌日の最後の連休は、あいにくと曇り空といった天気で、近郊の富良野、「北の国から」の麓郷にソロツーリングに行ってまいりました。こんな三連休のゴールデンウイークは幕を閉じたのでごぜぇますだ。



【 静内 二十間道路 】  

五月十九日の休日に、カミさんと一緒に日高、静内二十間道路にドライブしてめいりましてなぁ。ちょうど、桜の花が満開の時期で、お花見の客でとても混雑しておりやした。朝、八時に自宅を出て、到着したのが十一時四十五分でしたなぁ。帰路、占冠の「湯の沢温泉」で、温泉に浸ってめいりやした。  



【 平成八年のツーリングあれこれ 】





なんだかんだいって、本格的にツーリングできるようになったのは、五月の末頃でございやしたなぁ。
五月二十六日、「上湧別 チューリップ畑」「滝上 芝桜公園」とソロツーリングに出かけてめいりました。好天に恵まれ素晴らしい久しぶりのツーリングでごぜぇましただ。

「上湧別 チューリップ畑」「滝上 芝桜公園」共に、すごい人出でとても、見事なチューリップ畑、芝桜公園でごぜぇました。滝上芝桜公園では、たまたま「ミス芝桜」の催しがあり、多くの人たちが、彼女らにカメラを向けておりましたなぁ。えっ?もちろん、アッシもその一人でしたがね(笑)。でも、公園入り口の、あの急な坂をバイクで登るときは内心、コケナイなようにと必死の運転でしたなぁ(笑)。  

翌週の日曜日にゃ、日高山中の「管野温泉」へツーリングしてめいりやした。バイク雑誌に載っている有名な歴史のある温泉で、数種類の温泉の湯船がございましたなぁ。




朝六時半に自宅を出て、少し曇り空の下でしたが、午後から晴れるとの天気予報を信じて、かじかむ手を我慢しながら富良野経由で、目的地の管野温泉に向かいやしたんで。管野温泉の手前、十四キロはダートの砂利道で、オフバイクでないと無理な道でやしたなぁ
温泉の浴室が五つもあり、露天風呂もありましたが、難点は、浴室の移動が裸で行ったり来たりといった状態でした(笑)。帰りは、美瑛のパッチワークの丘を通って戻ってめいりました。





六月九日は、支笏湖の「丸駒温泉」「伊藤温泉」とツーリングしてまめいりましただ。朝六時半に出発し、快晴の天気に恵まれ、札幌経由で支笏湖に進路を取ったのでごぜぇます。日曜日のせいもあり、ドライブの車がとても多く、その中をスイスイとかいくぐってまいりましたんで。

途中での、残雪におおわれた恵庭岳を正面に見てのツーリングは快適そのものでごぜぇましたなぁ。丸駒温泉に着いたのが、十一時頃で、なんと入浴料が大人千円には驚きましたなぁ。真っ青な青空の下、水上ジェットモーターが走る支笏湖、残雪の恵庭岳を見ながらの露天風呂は最高に気分でしたなぁ。
帰路、すぐ近くにある「伊藤温泉」にも寄り、一風呂浴びてめいりました。そこの入り口も、すごい急な坂道で、運転は内心必死でしたなぁ(笑)。走行距離、三百七十二キロのツーリングでごぜぇました。


六月二十三日の日曜日は、少し曇り空の天気でしたので、遠出は止め、近くの富良野、「吹き上げ温泉」へツーリングしてめいりましただ。何度も行っている「吹き上げ温泉」でやんしたが、相変わらず多くの人で、混雑していましたですなぁ。帰途、「望岳台」に寄り道をしてめいりました。  

六月三十日の日曜日は、念願の「離島 ツーリング」に行ってめいりましただ。目的地は「焼尻島」、朝五時頃に起床、カーテンを開けると、前日の好天が一転し、どんよりとした厚い雲が。一瞬ツーリングに行くかどうか迷いの気持ちが、でも矢張り、決行することに。

思考している時間が無かったので。と、いうのは予定している焼尻島へのフェリーの時間が決まっていたからでごぜぇますだ。五時三十五分、自宅を出発、留萌でコンビニを経営している友人にちょっと逢い、羽幌に着いたのが八時十分頃でごぜぇました。

八時五十分発のフェリー「おろろん」に乗り、五十五分の船旅で「焼尻島」に到着。まぁまぁカモメが、船に寄ってきて、その鳴き声のにぎやかなこと(笑)。人間一人の運賃が、千五百円なのに、なんとバイクは二千五百円、しかも片道ですぜよ(笑)。
島周囲が、わずか十二キロしかないんですから、あっという間に走り回ってしまい、お金があったら、隣の「天売島」まで行きたい気持ちでごぜぇましたですなぁ(笑)。わずか一時間ほどの島滞在でごぜぇました。 

翌週は、幌加内の「せいわ温泉」へツーリングしてめいりやした。この七月、長男坊がなんと二度目の停学処分を受け丸坊主にさせられましたんで。アッシも、長男坊の恥ずかしい思いを一緒に味わってやろうと、三十三年ぶりに坊主頭に刈ってめいりましたが、果たしてこのアッシの気持ちが息子に伝わったことでしょうかなぁ(笑)。






七月七日、枝幸の「カニ祭り」ツーリングへ出かけてめいりやした。朝、五時二十分目覚め、即、部屋のカーテンを開け、空を見上げるとなんと、昨日までの厚い、今にも振り出しそうな空が、真っ青な青空になっているではありませんか。前夜、諦めていた枝幸の「カニ祭り」ツーリングへ行くのに即、決定いたしやした(笑)。

準備を全くしていなかったので、自宅を出発したのは六時半頃でしたなぁ。旭川は素晴らしい天気でごぜぇましたが、美深あたりから、厚い曇天模様の天気に変わってまいり、ユーターンしようかと考えましたが、せっかくここまできたのだからと、雨が降り出さないことを祈りつつ、一路枝幸を目指したアッシでございました。

気温も低めで身体も冷え込み、何度かトイレタイムを要しやしたですなぁ(笑)。そんなこんなで、枝幸の「カニ祭り会場」へ着いたのが、十一時頃でしやんした。その頃には、天気も、少し明かりが出てきた空模様でごぜぇましただ。
会場はすでに多くのひとが来ており、カニなべなどフーフー言いながら楽しんでおりやしたですなぁ。帰路に、枝幸の「三笠山展望台」、「千畳岩」へ寄り道し、その後は美深の「道の駅」までノンストップ。
和寒で丁度、開催されていた「全日本モトクロス第六戦」が開かれていたので、道路ぎわの草むらで一時間ほど観戦し、帰宅したのは、五時手前でごぜぇましただ。走行距離三百三十九キロでしたなぁ。  


翌週の7月七日は、それまで念願だった日高の「トムラウシ温泉」と「ヌプントムラウシ温泉」へと行ってめいりました。朝七時、自宅を出発、空は曇り模様でしたが、ようやく前日の天気予報通り、陽が射してきて晴れ模様に。旭川二十七度、帯広三十度になるという天気予報、狩勝峠を過ぎた頃から、気温が上がってきた様子でごぜぇました。

新得、屈足、岩松、東大雪湖を経由して、ようやく「曙橋」へ到着。右十三mキロ先は「ヌプントムラウシ温泉」、左九キロ先は「トムラウシ温泉」への別れ道でごぜぇましただ。

「トムラウシ温泉」へ先ず行くことにし、ダートな砂利道九キロを走破、目的地の東大雪荘へ到着。時刻は十一時半頃で、バイク雑誌に載っていた、大浴場、露天風呂へ浸り、一時頃に別れを告げ、今度は「ヌプントムラウシ温泉」へ。
「曙橋」まで戻り、そこから右折、十三キロのダートなヘアピンカーブが多い砂利道林道へ。狭い林道で、途中二台のオフバイクとすれ違うなり。きっと、内地からのライダーであったでごぜぇましょう。

ようようにして、秘湯「ヌプントムラウシ温泉」へ着いたのが、二時半頃でごぜぇましただ。念願の秘湯に浸ったが、すぐそばに硫黄が噴出しておりその匂いといい、そばを流れているヌプントムラウシ川のせせらぎの音といい、全く大自然に囲まれた秘湯でごぜぇました。
三時過ぎに再び「曙橋」に進路を取り、帰路は天気予報が当たり、真夏の気温のなか、帰宅したのは八時頃でごぜぇましただ。走行距離四百三十九キロ。燃料十三、ニリットル、(千四百六十二円)でやんしたですなぁ。  





八月二十五日には、快晴のもと、室蘭の「地球岬」「測量山」ツーリングへ出かけやした。朝四時半起床、五時自宅を出発、未だ夜が明けたばかりで、空は厚い雲におおわれておりガスがかかっておりやしただ。
途中、ガスでゴーグル、ウェアーなどがびっしょり濡れ始め、ユーターンしようかとも思ったほどの天気でごぜぇましただ。岩見沢あたりで、青い空が顔を見せはじめ、ホッといたやした。岩見沢より国道ニ百三十四号線を経由して、苫小牧へ。そこから、三十六号線で一路室蘭を目指氏やしたのでごぜぇます。

目的地の「地球岬 幸福の鐘」に立ったのが、ちょうじ十時でごぜぇました。快晴の青空の下、穏やかな太平洋の海、見渡せばはるか駒カ岳、恵山などが望まれ,最高の気分でごぜぇやしただ。 それから、「測量山」に進路を取り、細い市街地の坂道を走り、展望台に立つやしたんで。
そこからは、室蘭市街、室蘭港、新日鉄製作所、日本製鋼所、建設中の白鳥大橋などが一望の下に見渡せましたでごぜぇます。十二時に室蘭に別れを告げ、苫小牧を経由し、日高紋別に進路を取りやした。
日高紋別より国道ニ百三十七号線に進路を取り、日高,占冠を通り、途中「湯の沢温泉」の温泉で疲れを取り、自宅に着いたのが六時半でごぜぇましただ。臀部が痛くなるほどの長距離ツーリング,走行距離五百五十二キロでごぜぇました。  

九月八日、「塩別つるつる温泉」へツーリング。前夜の天気予報で今日は快晴とわかっていたので、九時半に自宅を出て層雲峡、ようやく完成したばかりの「銀河トンネル」を通過し、二十年ぶりの石北峠を越え、以前に通ったときとは、比較にならないほど立派に舗装された道路を走り、ようやく温根湯温泉の手前にある「塩別 つるつる温泉」にちょうど十二時に到着いたしやした。

バイク雑誌に載っていた雄大な露天風呂にユッタリ浸ってのんびりしやしたせいか、本当に肌がツルツルになったようでごぜぇましましただ。一時頃、帰路に月、途中層雲峡で、大函小函で休憩し自宅に着いたのは、四時頃でごぜぇましただ。  

次男坊が、十月五日に「韓国 修学旅行」へと出発し、二十一日に帰宅しやした。次男坊も、最後の学生生活も来年を残すのみとなりやした。   



【 平成九年 長男坊実高卒業 就職 】  

平成八年から平成九年のウインターシーズンは、大雪に見舞われ、我が家の庭から雪の姿が見えなくなったのは、四月二十日でごぜぇましただ。長男坊は、二月二十八日に「卒業式」を終えホッとシテいたのでやんすが、なんと、三月に購入した車「シーマ」を二週間で物損事故を起してしまいやしたんで。

親の言うことを聞かずに、燃費の悪い高級車を買ってしまった天罰ではなかったかと想わざるを得ない心境でごぜぇましただ。わが子ながら、こんなわがままな子に育ててしまったことを今さらながら悔いを残しているといっても過言ではごぜぇませんでやんした。甘やかししすぎた結果、と反省しやしたが手遅れの感でごぜぇましただ。

四月一日、真新しいスーツ姿で、初出勤した長男坊でごぜぇましたが、スーツ姿は、これが最初で最後になる職場であることを本人は自覚していたことでごぜぇましたでしょうかなぁ。 
カミさんは、二月一日にアッシが購入した新車「ジムニー」で、パンと電話帖の宅配の仕事に頑張っていやした。アッシはてぇと、それまで、育ての親・その長男・その子供と三台に渡って、努めておりやしたが、不景気のため、リストラの波がとうとう、勤め先の千秋亭の店にまで波及してきたのでごぜぇますだ。

そんな状況で、リストラの見本を身内で示さねばと一大決心をして、辞職願を出したのでごぜぇます。それからの2年間は、職を変えること二度、苦難の時代でごぜぇましただ。

そうこうしているうちに、52歳の時、四月二十一日から、義弟の誘いで自分の親が経営している「中林機械鉄工」へと勤めることとなりやした。職業がまったく180度違うもんで随分迷ったのでやんすが、経理事務をするということで努める事になりやしたんでごぜぇます。

ゴールデンウィークの五月三日に、中林家の家族と、我々夫婦は一緒に上川にある「アイスパビリオン」「熊牧場」「エスポワールの鐘」「アンガス牧場」と出かけやしたんでごぜぇます。裏大切にあたるアンガス牧場は、まだまだ残雪が多うごぜぇましただ。 





平成九年7月、「納沙布岬」まで一泊二日のキャンプツーリングに行ってめいりやした。上川神社祭で、連休となったんで、泊まりがけのツーリングに行けたんでごぜぇますだ。
朝五時に自宅を出て、狩勝峠を通過し、帯広、釧路を横目に一路、根室の「納沙布岬」を目指しやした。途中、霧多布岬に寄り道、東京から来ていて女性ライダーと知り合いやした。パソコンの表計算ソフトの「ロータス社」に勤めているとのことで、ちょうどアッシもパソコンもやり始めていた時だったので、話に花が咲きやしたのを覚えておりやす。

そんなこんなで、目的地の「納沙布岬」に到着したのは、予定よりも二時間遅れの午後二時でごぜぇましたなぁ。かなりの観光客が訪れていやした。しばらく休息してから、今夜の野宿地、屈斜路湖の「砂湯」を目指しやして到着したのは、陽が暮れかかった夕方でごぜぇましただ。





キャンプ場で、キャンプを張り、翌日は「美幌峠」を経由し、網走を目指しやした。「網走」では、「網走刑務所」「北都山」へと寄り道をし、興部経由で帰路に着きやした。  
九月八日のお盆休暇には、義弟と「洞爺湖・函館」一泊キャンプツーリングに行ってきやした。天気に恵まれ、岩見沢、千歳、支笏湖、洞爺湖とツーリングしてめいりやした。洞爺湖で、キャンプを張り、一泊、夏休みのせいか家族連れがとても多かったのを覚えておりやす。

翌日は、昭和新山を見に寄り道し、長万部、森、駒ケ岳、大沼公園とコースを取り、函館「五稜郭」、函館市街を経由し、恵山を通り、函館半島を横断し、帰路に着きやしたんで。途中、伊達あたりで、義弟が先に走っており、アッシはその姿を見失ってしまい、そのまま日高紋別まで走り、富良野経由で帰宅しやした。  

九月十四日、九人でグループツーリング「襟裳岬」へ行ってきたんでごぜぇますだ。グループツーリングは、初めての経験でございましたですなぁ。男性五名、女性四名のグループでしたなぁ。
何度も行っていた襟裳岬でしたが、岬付近は相変わらずのすごい風でごぜぇましたなぁ。グループツーリングは、集団行動を共にしなくてはならねぇので、スピードも合わせなければならず、やはりアッシにはソロツーリングのほうが向いているような感じが致しやしたなぁ。そんなこんなで、平成九年も幕を閉じていきましたですなぁ。   


【 平成十年 】  




護国神社祭の連休、会社の同僚と「ニセコ、積丹半島」一泊ツーリングに行ってめいりましたですなぁ。 快晴の天気に恵まれ、最高のツーリングでごぜぇました。旭川~由仁町~千歳~支笏湖~喜茂別~ニセコ~五色温泉とツーリングし、そこで一泊しやした。
翌日、五色温泉~倶知安~岩内~神恵内~神威岬~積丹岬~余市~小樽~石狩~新十津川~深川~旭川のコースで帰宅しやしたのが、夕方でやんしたなぁ。  

7月は、「十勝岳温泉」へツーリングしてめいりやした。七月五は、念願の「岩間温泉」へソロツーリング行ってめいりやした。快晴に恵まれ、糠平温泉の手前、何度かツーリングで訪れてことのある「幌加温泉」の少し手前、三股橋を右折、林道を数キロ走ったところで、川幅五メートルほどの小さな川が流れており、ここを渡らないと目的地の「岩間温泉」へは行けねぇンでごぜぇますだ。





この「川渡り」の情報は、バイク雑誌ですでにつかんでいたので、驚くには値しやせんでやんしたが、浅瀬の川とはいえ、川の中は大きな石がゴロゴロと重なり合っていやすんで、うまく運転しないと、川の真ん中で横転する恐れは十分にごぜぇますだ。
一瞬、転倒のシーンが脳裏をかすめやしたが、この「初川渡り」は予定の中に入っていたので、思い切って、川の流れの中へ。一心に、転倒だけは避けなければの内心必死の心境であったアッシでごぜぇやした(笑)。

バイクの左右に、川の水しぶきが跳ね上がり、爽快な気分、この気分も向こう岸にようやく辿り着いたときに初めて味わった気分ではごぜぇましたがね(笑)。そこから、目的地の「岩間温泉」はすぐでごぜぇましただ。

先着していた東京から来たというライダーと話を交わしていると、そのライダーは、さっきの川でなんとバイクが転倒したとのこと、服、ブーツが水浸しになっておりやした。温泉前に流れる川にかかっている丸木橋を渡り、「岩間温泉(露天風呂)」へ入ろうとしたら、なんと熱過ぎて入れないでねぇですか(笑)。

ちょうど先に来ていたライダー二人にアッシも含めて、三人でそばに流れている川の水を何度もすくっては湯船にいれ、ようやく露天風呂の中へ。自己満足ではありやしたが、初めての川渡りを無事成功してでの露天風呂の湯は、最高の気分でごぜぇました。このツーリングが、まさか最後のツーリングになるとは夢にも想わず・・・・。 

つづく

夢のまた夢 ・ 十六部

2016年05月02日 12時03分43秒 | 夢のまた夢
☆ライダー時代☆


        


【 ツーリング時代 】




 こんな中、平成6年の夏の終わり頃からスタートしたアッシの「バイク行脚」がいよいよ幕が上がったのでごぜぇますだ。前述した話と、少し重複いたしやすが、まぁ、我慢して聞いていてくだせぇ~。
自分じゃ「バイク」なんてぇ柄じゃなかったんでごぜぇますが、或る日、義弟が自宅に遊びにきて,アッシにバイクの誘いの話しに来たのでござぇます(笑)。
アッシは、その話にまぁまぁつきあっていたんでやんすがね、これが又、毎週の休日にやってまいりましてね、バイクの話をするんでごぜぇますだ(笑)。
しまいにゃ、近所のバイク屋まで連れていかれましてねぇ。あまりに熱心さにとうとう根負けしてしまいましてね、柄にもなく「ライダーマン」になる羽目になりやした(笑)。




最初は、中古の「アメリカン」を購入したんでやんすがね、倒れたときにバイクをおこすのに必死の力がいることがわかり、1ヶ月ほどでこのアメリカンを諦めやしてねぇ~(笑)。
今度は、オフバイクの「セロー」を新車で購入いたしやしたんで(笑)。今度は、アメリカンに比べてとても軽いので、自分にはぴったりでしたですなぁ。
ところで、バイクの免許は持っていたのかって?へぇ~、それがアッシが車の免許を取った時代にゃ、自動的にバイクの免許も一緒に付いてきたんでさぁ。と、いうわけで、アッシは一度もバイクの運転はしたことがなかったんでごぜぇますだ。それで、バイクを買ってしまったんですから、今、考えると驚きますですねぇ(笑)。

そういうわけで、運転は義弟に教わったんでごぜぇますだ。ただし、教えてくれたのは、「発進」「ブレーキ」のみで、へぇ(笑)。
そんなこんなで、まだ肌寒い北国の春の五月八日、富良野の「十勝岳温泉」へ義弟と共に、初ツーリングに出掛けたのでごぜぇます。まだまだビギナーのアッシのバイク経験での状態で、あの急勾配の十勝岳温泉への走りは矢張り無謀でしたなぁ(笑)。しかも四十九歳で(笑)。ほとんど技術的な事は皆無という状態で、ただ走る事が出来るという状態でしたからなぁ。
富良野に先ず向かい、「北の国から」で一躍有名になった「麓郷ロクゴウ」へと目指しましたアッシ達でごぜぇましただ。その「麓郷」で、東京からツーリングに来ていた女性ライダーと知り合いになり、三人で「十勝岳温泉」へと向かったのでごぜぇます。まさかアッシにだけ悲劇が待ち受けているなんてぇ事をちっとも知らずに(笑)。


十勝岳温泉の目前てぇ所は、急勾配のカーブの多い個所でごぜぇましてなぁ、義弟のほうは、バイクの運転技術はまぁまぁでしたがアッシの方はてぇと、初心者もいい所でしてそんな急勾配のカーブの多い坂道を走る技術なんてぇものはこれっぽちも持ち合わせていねかったんで(笑)。




てぇ訳で、アッシ一人置いてけぼりを喰らいましてなぁ、あせる気持ちも有ったんでしょうかねぇ、途中の坂道でエンジンが止まっちまったんでごぜぇますだ。
坂道でござんしょ、アッシは内心、必死でブレーキを掛けながら短けぇ両足で踏ん張ったんでさぁ。その内、ちょっとの気の緩みで、とうとうコケちまったんでごぜぇます(笑)。俗に申します「立ちゴケ」てぇ奴でございましたなぁ。

頭をガーンとおもいっきりぶつけましたな。ヘルメットが無けりゃ一巻の最後でしたなぁ。それほど強烈でございましたなぁ(笑)。 右肩を強打していたんでございますが、無我夢中の時てぇのは恐ろしいもんで、そんな痛みはちっとも感じませんでしたなぁ。
そんな所へ、先に登ってしまっていた義弟が、あまりアッシが遅いので様子を見に戻ってきたんでごぜぇますだ。アッシのバイクを傍らに寄せておいて、義弟のバイクのうしろに乗っかって頂上の十勝岳温泉へ行ったアッシでごぜぇやした。
そういう訳でアッシだけ温泉に浸ることが出来なかったんでごぜぇますだ(笑)。帰路はアッシのバイクをふもとまで、その女の子と交互に乗ってどうにか、ふもとから自力で乗ることが出来ましたんでございますがね(笑)。

アッシのバイクのブレーキハンドルは、折れちまってわずか三センチくらいしか無かったでやんすなぁ。そんな状態で、ようよう旭川へ戻ったてぇ訳で。
帰宅してからは夕食も食べずにすぐ寝床に潜りましたなぁ。翌朝のことでごぜぇますだ。寝床から起き上がることが出来ねぇんでごぜぇます。あれにはさすがのアッシも驚きましたな。カミサンに手伝ってもらってようよう起き上がる事が出来ましたが、こりゃただ事じゃねえと感じまして、すぐ病院へ駆けつけたところ、なんと強打した右肩が骨折していたんでさぁ(笑)。




でも医者の云うことにゃ、この状態では、ほおっておいて自然に肉が固まり治るのを待つしかないと云われ、唖然としたアッシでごぜぇましただ(笑)。そんな為、会社は二週間も休みましたでやんすよ。
それからでしたなぁ~、本屋へ行って、バイクの運転に関する本を買って、真剣に勉強したアッシでごぜぇやした(笑)。 ちょうど、バイクの魅力がわかりかけてきた頃のことでごぜぇますだ。肩を怪我してから、一か月過ぎた頃の六月十二日にゃ、もうバイクに乗っていたアッシでございました。

七月にゃ、名寄から林道に入り、「ピアシリ林道」と言う有名な道北の林道へ挑戦したのでごぜぇますだ。ソロツーリングでごぜぇやしたが、今思うと怪我も治ったばかりだというのに良く一人で山の中を一人で走ったもんで、へぇ。

どちらかというてぇと、アッシはグループツーリングよりもソロツーリングのほうが好きでしたなぁ。大勢で走るのも楽しかったことは楽しかったんでございますが、自分のペースで走ることが出来ないことが多かったせいでしょうかなぁ、一人で風の吹くまま気の向くままに走る方が好んでいたアッシでしたなぁ。 




そろそろ涼しい秋風が肌に感じ始めた九月の四日、念願の「宗谷岬ツーリング」にチャレンジしたアッシでごぜぇましただ。この頃はかなりバイクの運転技術も上がり、へぇ、アッシもそれなりに本などで勉強した成果が出て来た頃でごぜぇやす。
お陰で自己流でやんしたが、随分コツがわやかるようになりまして結構上手くなっていたアッシでござんしたなぁ。自宅を出発したのが夜中の三時十五分でごぜぇましたんで。真っ暗闇の道路を走ったのはこの時が初めてでごぜぇやした。走って三十分もしないうちにゴーグルが、夜露で曇って参りましたなぁ。ジャケットも夜露に濡れ重く感じやした。

そんな中、一路、宗谷岬を目指して走りやしたんで。夜が白々と明けはじめたのはどの辺でしたかなぁ、忘れちまいましたが、完全に明けたのが、「音威子府オトイネップ」の駅で、そこで一時間ほど休息したのを覚えておりやす。

駅舎にゃ二人の学生さんがテントを張って寝ていやしたなぁ。予想外に長く休息しちまったので、それからは少し飛ばしましたなぁ。中頓別、浜頓別を経由してオホーツクの海風を感じたときはなんともいえぬ気持ちでごぜぇやしたぁ。

空はあいにくと、曇り空でありましたが、どうにか雨は避けられた感でごぜぇやしただ。ようよう目的地の「宗谷岬」に立ったのが、八時四十分でごぜぇやしたなぁ。感無量でしたなぁ。
はるか彼方に島影が・・・・。そうなんでございます、「樺太」が見えたのでごぜぇます。今でもその時の光景を、はっきり覚えているアッシでごぜぇやす。それから「ノシャップ岬」をおとづれ、その後は日本海側のオロロンラインを、「サロベツ原野」を左に、そして右に霊峰「利尻島」を望みながら一路、帰路を。

日帰りの強行軍のツーリングでごぜぇましたが、思い出に残るツーリングの一つになりましたのでごぜぇますだ。 アッシは、ツーリングした月日、コースなどをそのツーリングに行った際に、撮った写真を貼ったアルバムに「北海道地図」を描き、コース上に赤鉛筆でたどっておりやす。




この三年間で、北海道の東西南北の岬は制覇いたしやした。北海道の夏は短いので、ツーリングシーズンも限られておりやして、毎週の日曜の休日にゃ、天気が雨で無い限り、ツーリングにでかけていたアッシでごぜぇましただ。

このツーリングは、アルバムにその全ツーリングのコースなど一覧表にしてアルバムの裏に貼り付けているんでごぜぇますだ(笑)。  「宗谷岬」「襟裳岬」「納沙布岬」「霧多布岬」「地球岬」等々、全道くまなくツーリングいたしやしたが、心に残っているのは、「知床 カムイワッカの湯」「洞爺湖 函館ツーリング」「宗谷岬」「納沙布岬ツーリング」でございましたなぁ。



ライダーになってから、最も良かったのは、それまで旭川からほとんど出たことのなかったアッシが、バイクに乗ることによって、行動範囲がとても広くなったことでごぜぇましたなぁ。そして、車のドライブとはまた違った、バイク独特のあの「風を切る」、あの気分はとても車じゃ味わえないものでしたですなぁ。 

観光地へ「車」で行っても、他人に話し掛けれないものですが、「ライダー」同士であれば、それが気安く出来るのには驚きのアッシでしたでやんすなぁ。 初めて、バイクに乗って、わずか時速60キロしかスピードを出せなかったアッシが、120キロのスピードを出して乗るようになったんですからなぁ(笑)。

平成五年の秋から、平成十年までの短い年数のライダー生活でございましたが、あの「心筋梗塞」の病気にさえかからなければ、現在でもきっと「風」をきっていることでございましたでしょう(笑)。






つづく


夢のまた夢 ・ 十五部

2016年05月01日 11時38分55秒 | 夢のまた夢

☆バイクの夜明け☆


     




平成五年、この年からアッシの「バイク人生」が始ったのでごぜぇますだ。
カミサンの妹の亭主がこれまた、その頃バイクに凝っておりやして、アッシにも乗ってみろと強く勧めたのがきっかけでごぜぇましたなぁ。

なんと毎週の休日に、我が家に押しかけて来てはバイクの面白さ、楽しさを、そして終いにゃ、近くのバイク屋に連れて行く始末でごぜぇまして。
ええっ、おめぇさんはところでバイクの免許を持っていなさるんですって?へぇ、アッシが車の免許を取ったのが二十歳の時でごぜぇましたが、その頃は普通自動車免許を取得いたしますてぇと、自動的にバイクの免許も付いて来たんでごぜぇますだ。




ですから、今の時代のように、車の免許のほかにバイクの免許を取らなければならねぇ時代じゃなかったんでごぜぇます。良い時代でしたなぁ(笑)。 八月三十日、とうとうバイクを買っちまいましてね、へぇ。義弟の熱心さといううか、しつこさというか、とうとう根負けちまったと云ったほうがようござんすねぇ(笑)。

「アメリカン」というオンバイクの中古でござんしたなぁ。免許は持っているものの、運転は初めてでやんしてねぇ。若い頃は「スクーター」てぇもには乗ったことがあるんですがね(笑)。
なんとか発進と、止まることだけは義弟に伝授していただいたんですがね、後は独学てぇ奴でして(笑)。
とにもかくにも初心者なもんで、よく「立ちゴケ」をいたしやしたなぁ。アッシは力もねぇ方なもんで、倒したバイクを起こすのにゃ大変な力を要したんでごぜぇますだ(笑)。
そういう訳でして、一カ月でこの重いアメリカンを手放し、今度は軽いオフバイクの「セロー」を買ったてぇ訳で、へぇ。バイクに「オン」と「オフ」が有るてぇこともこの時、わかったアッシでごぜぇますだ(笑)。




旭川市内の道路は、まだまだ走る度胸がなく、よく近郊の「鷹栖」「江丹別」へ練習しに参りましたなぁ。そんな初心者のアッシが義弟と、「初ツーリング」へ富良野の十勝岳温泉へと向かったのでやんすが、温泉への登り道でエンジンが切れ、立ちゴケしてしまったんでごぜぇますだ。
肩を強打し、ブレーキハンドルは半分折れるし、もう肩の痛みで温泉どころじゃごぜぇませんでしなぁ(笑)。ようようにして戻ってきたんでごぜぇますが、翌日病院へ行くてぇと、強打した右肩が複雑骨折していやしたでやんすよ(笑)。


国道は、車の流れが大体七十キロくらいでやんしたが、アッシはなんと六十キロしか出せず、迷惑を掛けちまいましたなぁ。あと、10キロのスピードが出せなかったんでやんすよ(笑)。それが、1年後にゃ、もう百キロで走るようになったんですからなぁ(笑)。

【 藤本家一族旅行 】

こんな中、九月四日に、昨年に引き続いて旭岳温泉一泊藤本家一族旅行」がおこなわれたんでごぜぇますだ。ところが、運の悪い事に前日になって、祖母が急性肺炎になっちまいまして、森山病院に緊急入院されちまって参加できなかったんでごぜぇます。

しかも、当日、深夜は台風十三号が北海道に上陸し、夜中は風雨激しく、一時はどうなることやらと心配しやしたが、翌朝は台風一過の素晴らしい青空が々を迎えてくだせぇましたんで。祖母も大事に至らず無事に退院いたし、胸をなでおろしましたなぁ。 





また、この平成五年は、我が家で、アッシと息子二人の三人マージャンが始まったのを覚えておりやす。

息子達は、なんと、その頃流行していた「ゲーム機」で、マージャンを覚えていたんでごぜぇますだ。親父と一緒に遊んだという思い出づくりにと始めたこの「三人マージャン」、なんと平成八年頃までやっていたのでごぜぇます(笑)。  



【 長男・次男 旭川実業高校入学 】

平成六年は、長男坊の俊輔が高校受験という十五の歳でもありましたなぁ。成績はてぇと問われると、返す言葉がありません状態でしたなぁ(笑)。親が見ていても机に向かっている姿を見たことがなかったほどですからなぁ。
そんな訳で高校進学は、「公立」は最初から諦めておりやしたんで、へぇ。私立一本で勝負に出た長男坊でごぜぇましただ。お陰でどうにかその一本に合格出来たんでごぜぇます。 

いよいよアッシの息子たちも、「青春」のまっただ中へと入って行こうとしていた頃でごぜぇやしたなぁ。
北の大地にもようやく春の気配が感じられるようになってきた弥生の「別れの季節」から、卯月の「出会いの季節」へと季節は変わっていきやしたでやんすなぁ。




長男坊が、「旭川実業高校」へと入学したのでごぜぇますだ。三月二十二日、合格発表の日、アッシは心配で心配で勤務中、車を飛ばして実業高校の発表掲示板を見に行ったもんでござんす。親馬鹿だったんでやんすねぇ(笑)。

息子の受験番号をそこに見つけた時てぇのは、もうホッとするか安心するというか、無常の喜びを感じましたなぁ。自分の当時の若かりし頃を思い出しやしたなぁ。
旭川実業高校「建築学科」へ、入学いたしやしたのは四月九日でごぜぇましただ。何故,建築科を選んだかと申しますてぇと、アッシは内心、将来息子に「大工」の道へ進んで欲しかったからなんでぇ。
アッシは相変わらず、仕事柄休めず、カミサンだけが参列するいつもの入学式でございましたなぁ。へぇ、アッシはてぇと、息子たちの「入学式」「卒業式」にゃ一度も参列したことがねぇんでごぜぇますだ。

今のご時世じゃ、両親揃っての入学式、卒業式が多いようでごぜぇますがアッシの時代じゃ、両親揃っての参列てぇのは珍しい事でごぜぇましただ。時代が変わって行っているんでございますなぁ。
でも今、思えば「卒業式」てぇのには、一度出席してみたかったでやんすなぁ。アッシは卒業式で歌われる「蛍の光」「仰げば尊し」、これが好きでしたもんでね、へぇ。  

翌年の平成七年、今度は次男坊が、兄に続いて同じ「旭川実業高校」の「電子機械科」へ入学したのでごぜぇますだ。兄と同じ「科」じゃ、嫌だろうと思いましてなぁ(笑)。
よく、先生から「あの山本の弟か?」って聞かれたそうでごぜぇやす(笑)。それが、果たして良い方だったのか、悪い方だったのかはわかりやしませんがね(笑)。恐らく、後者の方だったことでしょう。 




「この息子達の「高校時代」の中で、忘れられないのが長男坊が、高校三年の秋、「学校を止めたい」と言い出したことでごぜぇますだ。それまで、二度の「停学処分」をくらっており、三度目の停学処分の時でごぜぇました。

もう半年で「卒業」だと言う時期に、正直、まいりましたなぁ。説得するのに、三日掛かりましたなぁ。中学時代からヤンキーぶっていた息子でしたが、自分の息子に限って、という世間一般の親の思いで、育て方の甘かったことがこの時ほど、悔やまれたことはありませんでしたなぁ。 

でも、なんとか、言い包めて三月の「卒業式」に出席させることが出来やしたんでごぜぇますだ。就職の方も、なんとか職に付くことが出来やした。
次男坊の方は、これといって、大きな問題も起すことなく、無事「卒業」することが出来やした。 
これで、一応二人とも、社会人として世間に巣立っていったと思って安心していたのでごぜぇますが、この思いがなんと、その後、いかに甘かったかということが、身に沁みて感じるようになるとは、さすがのアッシも想像出来なかったのでごぜぇますなぁ(笑)。 

子供てぇもんは、小さいうちが花で、大きくなるに連れて、心配の種が同じように大きくなっていくものだとは、こればかりはその経験者ではわからないもんでございましょうなぁ。

アッシが、学生時代を経て、周囲にそれほど心配を掛けた思いが少なかったせいもあり、社会に出た息子達を信用していたのでしょうねぇ。
今の時代は、「車」「携帯電話」と、アッシの時代にや、その必要性は全く無かった時代でしたからねぇ~。でも、すべてこれ、時代のせいに出来ねぇとアッシは思うんでごぜぇやすが。こうした時代でも、コツコツ真面目に生きていっている人が大勢居いらしゃるんですからねぇ。要は、本人の考え方ひとつなんじゃないかと思うんですがねぇ。

つづく


夢のまた夢 ・ 十四部

2016年04月30日 09時25分47秒 | 夢のまた夢
☆平成時代☆


      

【 家族初登山 旭岳・黒岳 】





翌月の平成三年三月にゃ、俊輔も小学校を無事卒業することが出来、四月には自宅から、徒歩十五分の「六合中学校」へ入学したのでごぜぇますだ。

この年の八月夏休み、家族での「初登山」をしたのでごぜぇます。
山は「大雪山連峰の旭岳」二千二百九十メートルでごぜぇましただ。ロープウェイで「姿見の池駅」を出発したのが丁度、十二時でございましたなぁ。
天気はあいにくと曇り空模様で、時折、霧が出るような天気具合でごぜぇました。最初は元気が良かったアッシでしたが、次第に、フーフー青息吐息の状態で頂上目指してがんばる羽目になったのでごぜぇますだ(笑)。

山頂に立ったのが二時五十五分でしたなぁ。晴れていれば、眼下に大雪連峰が見事に見れたのでしょうが、残念ながら、一面霧で全くそのパノラマを目にすることが出来なかったのでごぜぇましただ(笑)。
下りは、霧の中を下って参ぇりやしたが、五里夢中というのはあんな状態のことをいうのでしょうなぁ。わずか二、三メートル先が見えないんですからなぁ。天気に恵まれなかったのがとても悔やまれました家族初登山でございましたぁ。




次の週にはなんと今度は「大雪連峰の黒岳」に今度は、カミサンと二人で登山したのでごぜぇますだ。一千九百八十四メートルの山でごぜぇますだ。先週は登山開始がちょっと遅かったので、今回は少し早めの十時四十分に七合目から登り始めましたんで。
黒岳も七合目まではロープウェイで来ることが出来るんでごぜぇますだ。ジーパンに以前、陽子ちゃんから送って頂いた、勤めている保育園の名前が入ったぺアーのTシャツ姿で二人で登ったのでごぜぇますだ。

旭岳は、どちらかというとなだらかな山道でごぜぇましたが、黒岳はてぇと、そりゃ結構な坂道でして、ときには急な勾配の登山道でございましたなぁ。 山頂に立ったのが丁度、十二時十分でごぜぇまして、多く登山客がすでにおにぎり等を食べていやしたなぁ。

天気も素晴らしい真っ青な青空で、真夏だというのに所々に残雪が見られる大パノラマ風景でごぜぇましただ。夫婦で登山したのは、なんと長い夫婦生活でこの二回だけでごぜぇましただ。今、思えば行っておいて良かったと想っておりますでごぜぇます。


【 章人君来宅 】

明くる年、平成四年四月に次男坊の祐輔が、兄についで「六合中学校」へ入学したのでごぜぇますだ。
この年の二月には、東京の陽子ちゃんの一人息子の章人くんが大学受験合格の記念に旭川へ単身、スキーに来られた年でもごぜぇましたなぁ。ええっ?ちと合格には早い時期じゃねぇかって?へぇ、彼は成績優秀で「推薦入学」出来たんでさぁ。
そういう訳で、アッシん家で三泊されて行きなすったんでごぜぇますだ。「カムイリンクス」「サンバレー」「富良野 北の峰」スキー場へと毎日ご案内させていただいたんでごぜぇます。




アッシは勿論、休暇を取りやしたが、息子達も「富良野」へ行った時は特別、学校をさぼらせましたんで、へぇ。どう仕様もねぇ親父でございましたなぁ(笑)。
章人くんの日頃のおこないが良かったのでしょうね、連日好天に恵まれやしましたですなぁ。章人くんは、幼いときから、母親の陽子ちゃんから内地のスキー場へ連れていってもらっていたせいか、とても上手でごぜぇましたなぁ。

四日目に帰京の道についたときは、長男坊が「寂しくなるなぁ~」とポツリ、帰路の車の中でつぶやいていたのを覚えておりやす。彼にしても、兄貴みたいな感覚を章人くんを感じ始めていたのかも知れませんなぁ。  


【 ばぁちゃんの「還暦祝い」 】

この年、平成四年九月十九日は、カミサンの母親の「還暦」のお祝いを「旭岳 こまくさ荘」で盛大に行われ屋したんでごぜぇますだ。
カラオケで皆、多いに楽しみましたんで。翌日、旭岳ロープウェイで「姿見の池」まで上ったんでごぜぇますが、山はもう雪、雪、雪で真っ白、真冬並みでございました。まだ、九月だってぇのに。みんな、震えあがってやしたでやんすよ(笑)。




十二月には、妹の亭主の薦めで「ワープロ機器」を購入し、初めてキーボードと縁が出来た頃でごぜぇましたなぁ。
無論、現在のようなブラインドタッチじゃなく、「人指し指一本打法」でごぜぇましたんで(笑)。今、想うと、この時のワープロに接した経験が、後年のパソコンを扱うようになった時に、とてもスムーズにキーボードに接することが出来たんでないかと想っておりやす。

翌年、平成五年の春、それまでの空部屋状態だった一階の部屋を二十万円を掛けて、アッシの書斎部屋兼寝室に改造したんでごぜぇますだ。
歳をとって来ているのを肌身に感じたのかも知れませんなぁ(笑)。二階に上がるのがおっくうになってきていたんでさぁ。  


【 大阪の母 三回忌法要 】

この年は先年亡くなっていた実母の三回忌法要の年でごぜぇましただ。
六月十五日、山梨の身延山でおこなわれたんで。前日、深川の隣町「妹背牛町」に住む二つ違いの秀子姉と、妹の康子と三人で、浜松から急行「富士川六号」で静岡へ、そこで「身延」へと向かったのでごぜぇましただ。




身延へは二時十七分に到着いたしやした。日蓮宗の総本山であるだけに素晴らしく大きな由緒ある所でやしたなぁ。
この時も良い天気に恵まれまれ、その日は奈良から来てくださった母の弟の叔父と二人で、「信玄の隠し湯」で有名な温泉へ一泊いたしやした。秀子姉と康子は浜松へと帰りましたなぁ。翌日は叔父とも別れ、東京へ向かったアッシでごぜぇました。


【 一人旅 】

東京では、陽子ちゃんの所へお邪魔させていただいたんでごぜぇますだ。




この際だからということで「日光東照宮」、翌日は「鎌倉」へと一人旅をしたんでございやす。学生時代には全然関心がなかった二ヶ所でやしたが、とても素晴らしいところでごぜぇましただ。どちらも遠来の観光客でにぎわっておりましたなぁ。




日光の「陽明門」「眠り猫」「鳴き竜」など、また鎌倉の、文永の役、弘安の役の「元寇」の折りに戦死した敵、味方の兵士の菩提を弔うために、北条時宗が建立した「円覚寺」、そして彼の父親の墓所である「明月院」、このお寺は別名「あじさい寺」とも云われるように院内は紫陽花の花で包まれておりましたなぁ。




「建長寺」は丁度、普請中でごぜぇました。鎌倉の海が一望に見渡せる高台に建てられていた「長谷寺」、有名な「鶴岡八幡宮」そして美男で有名な「鎌倉の大仏」等々とて素晴らしい気さくな一人旅でごぜぇやした。

上京する度に内心想うのでございますが、今回で最後の上京になるやもと想うのでごぜぇますアッシでやんした(笑)。ですから、いろんな所へ行っておこうと想うアッシなんで。




【 夏の甲子園 】

この年の夏の「甲子園」は旭川にとって忘れる事の出来ない貴重な夏でございましたなぁ。
全国高校野球北北海道大会が、七月二十五日「旭川スタルヒン球場」で「旭大高」と「稚内大谷高校」の決勝戦がおこなわれたのでごぜぇますだ。
これで勝ったほうが「夏の甲子園」へのキップを手に入れることが出来るのでごぜぇましただ。
試合は、延長十回「二対一」で地元「旭大高」が優勝したのでごぜぇます。「夏の甲子園」八月十一日、いよいよ旭大高の緒戦が始りやした。相手は強豪「福井商業」でございましたなぁ。




この緒戦でなんと五対一で予想を裏切って相手を破ったのでごぜぇますだ。八月十六日、第二戦は、地元兵庫県代表「育英高校」に残念ながら十一対三で惜しくも惜敗したんでごぜぇます。
この年の北北海道代表校「旭大高」の甲子園の夏でごぜぇやしたなぁ。普段はそれほど郷土愛を感じない市民も、この時ばかりは郷土愛一色になるのは、本当に不思議な事でございますなぁ。

平成四年一月十七日から、一念発起して「年間百冊読書」の目標を掲げたアッシでごぜぇやした。が、十一月十七日の山本周五郎「おさん」での七四冊目で記録は幕を閉じたのを覚えておりやす。
しかし後年、六十歳のおり、この記録は大幅に増進いたし、百七七冊を一年間で読破いたしやしたのを覚えておりやす(笑)。。

つづく



夢のまた夢 ・ 十三部

2016年04月29日 09時46分08秒 | 夢のまた夢
☆再 会☆


      

【 下田・桃木家との再会 】




平成二年七月十九日、あの伊豆下田・桃木家の皆さんが北海道旅行へと来道され、この日「層雲峡グランドホテル」で十六年振りの再会を果たしたのでごぜぇますだ。

数日前に陽子ちゃんから自宅へ、北海道旅行に家族全員で行くので、是非お逢いしたいと電話があったので、へぇ。
それで日程を聞き、前日に明日、層雲峡に行くとの連絡が入ったので、当日は仕事を終えてから層雲峡まで車を走らせたアッシでごぜぇました。
一時間半程で層雲峡のグラウンドホテルに着きましたが、桃木家のみなさんはまだ到着されておられませんでしたなぁ。十五分ほどしてから、陽子ちゃん一行の観光バスが到着致しやした。観光バスから続々と降りて来る一行が、ホテルのロビーに入って来やして、その面々を見ながら桃木家の一行を目を皿のようにして捜しやしたアッシでごぜぇましただ。




あっ、居ました、先ず目に入ったのが和一朗小父さんでごぜぇましたなぁ。次に定子小母さんの姿を。そして陽子ちゃん、章人くんと。章人くんは、最初、誰なのかわかりませんでしたなぁ。それほど、大きくなっていやしたんで。16年ぶりでごぜぇますから、当たりまぇのことでやんしたが(笑)。

その夜はみなさん旅の疲れもあったので、そんなに長居はせず、翌日、札幌までお供することにして失礼いたしやした。
翌日は休暇を取って、会社の車を借用し、アッシの車に陽子ちゃん、定子小母さんが同乗して札幌までお供いたしましたんでごぜぇますだ。旭川では、「ユーカラ工芸館」を見学いたしました。

札幌では「北大」を先ず案内致しやした。季節的にちょうど恵まれていたのもありましたが、緑のキャンパス、ポプラ並木が鮮やかでございましたなぁ。
次に「ラーメン横丁」に一行を連れていきやした。陽子ちゃんが、その横丁入り口で、どこかの放送局の観光客相手のインタビューを受けていやしたなぁ。




ラーメンの味はアッシにゃ、旭川ラーメンのほうが美味いと感じましたがな(笑)。時間が経つのは早いもので、一行が千歳に向かう時間が迫ってめぃりやした。
観光バスが出発して、すぐにアッシは近くの陸橋に走りのぼり、その橋の上から去り行く観光バスを見送り致しましたことを昨日のように覚えておりやすんで。その時は、もう二度と逢えないような寂寞感がアッシを包みこんでいたんでごぜぇますだ。まさか翌年、再び逢えるなんて夢にも想っていませんでしたからなぁ。


【 大阪の母見舞い 】

平成の時代も三年目に入った一月の或る夜、一本の電話が鳴りやした。初めて聞く声でありやしたなぁ。
なんでも奈良に住むという叔父にあたる人からの電話であったんでごぜぇますだ。話しの内容は、大阪の実母が肺ガンでもう長くはない状況であるという事でありやした。

それで出来たら元気でいる内に、一度逢ってやってくれないかという事でありうやしたんで。実母とは、学生時代に二、三度大阪に逢いに行ったっきりで、もう何十年と逢ってはいないアッシでごぜぇやした。
でも、長男坊が産まれた時だけはそのことを手紙で教えておりやしたなぁ。アッシも四十半ばの歳になっておりやした。





そんな訳で二月二十二日、大阪北市民病院に入院している実母を見舞いに参りやしたんで。二月だというのに大阪はとても暖かく、春のようでごぜぇました。病院の前庭に、大きな紅梅の木が満開の梅を咲かせていたのを覚えておりやす。

想ったよりも元気な母を見て、もう長くない命だとは感じられませんでしたなぁ。母とは名ばかりの母では有りましたが、歳老いた姿を目の前にすると、一人の人間として波乱万丈の人生であったろうなぁと何故か、愛しい想いを感じたアッシでございやしたなぁ。初めて、母に逢った高校2年の頃を思い出しましたなぁ。


翌日、母の強い勧めで四国は徳島の母の姉、鶴子叔母さんに逢いに行ってめぃりやした。鶴子叔さんは80歳を過ぎているというのに、まだまだカクシャクとしてお元気でございやした。
息子の従兄にあたる方が、鳴門大橋を案内してくれやしたですなぁ。当時、出来たばかりでやん下でごぜぇますだ。二日ほどお邪魔して、すぐ大阪へ舞い戻り、再び母を見舞いに病院へめぃりやした。


【 妹との再会 】

大阪からの帰路、浜松へ嫁に行っていた妹、康子の顔を見たさに、新幹線を途中下車したアッシでごぜぇやした。住所のみを頼りに、妹の家をだいぶ時間を掛けて捜しやして、やっとたどり着きましたでごぜぇますだ。

妹の康子は、小豆餅町という珍しい町の名前のところに住んでおりやした。日も暮れ、一軒一軒表札を見ながら捜し当てましたなぁ。とうとう「橋本」という表札を見つけた時は「あったぁ~」という気持でしたなぁ。

「こんばんわぁ~」と声を掛けて、出て来たのが妹、康子でやんした。その時の、妹の驚いた顔を忘れることが出来やせん。





三十一年振りの再会でしたなぁ。娘が二人居て、長女が「かおり」、次女が「る美」という名前でごぜぇやした。上の娘が中学三年生、下の子が小学六年生で長男坊と同じ年でございやした。

妹は何前か前に離婚していて、一人で娘二人を育てていたのでごぜぇましただ。 娘二人は活発な子でございましたなぁ。いいだけ母親に甘えている感でございやした。きっと、妹も甘やかせて育ててしまったんでございましょう、アッシと同じように。一晩、話し明かして、翌日は東京に向かいやしたあっしでごぜぇますだ。






東京では、「三軒茶屋」に暮らしていた陽子ちゃんを訪ねやした。それこそ、住所のみで、また、その家を探したんでぜぇますだ(笑)。

昨年の北海道旅行では、もう再会はないかと想っていたアッシでやんしたが、まさか、こんなに早く再会出来るとは夢にも想いませんでしたなぁ。
そんなこんなで大阪の母の見舞いが、想いがけなくも四国にも行き、浜松の妹家族、そして東京の陽子ちゃんにも再会出来る旅になったんでごぜぇますだ。





つづく


夢のまた夢 ・ 十二部

2016年04月28日 12時54分42秒 | 夢のまた夢
☆マイホーム新築☆


       



 
【マイホームの新築】

昭和五十七年十一月、長男が五歳、次男坊が四歳、アッシが三十七歳、カミさんが二十五歳の時に、新築の新居に引っ越しをしたんでごぜぇますだ。
世帯を構えてから、二度目の引越しで、自分たちの持ち家に引越し出来たんでごぜぇます。

子供たちが、保育園に行っているときにマイホームを建てるのが、一応目標でごぜぇましただ。てぇのは、小学校へは保育園の仲間たちと同じ小学校へ進むのが多かったもんでやんすから、そうしてあげたいと思っていたのでごぜぇます。





学校の転校と云う事を出来るだけ避けたいと、思っていたんでやんす。そういう構想を持っておりやしたので、まぁまぁ人生設計通りに家を建てることが出来たのでごぜぇますだ。

土地は、頭金を全財産と、女房の実家から五十万、敏信兄から五十万、残りを今は姿を消した北海道拓殖銀行から五年間借入金したんでごぜぇますだ。その完済と同時に、現在の家を建てたんでごぜぇます。 
それまで、6畳間と4畳半という狭いところで暮らし続けていた反動でしたのでしょうか、この新築にゃ、なんと身分不相応な大きな家を建てちまったんでごぜぇます。


この家を建ててから気が付いたんでございますが、家てぇものは必要以上の大きな家は建てるもんじゃありませんなぁ。家てぇものは三度建てて、初めて、満足に値する家が出来るてぇ良く申しやすが、こりゃ本当のことだとつくづく想いましたなぁ。 





新築した折にゃ左側のお隣りさん、現在の佐藤さん宅がまだ空き地でごぜぇましたので、屋根は三角屋根にしたんで。十年は空き地でしょうと聞いていやしたんでね。
ところがなんと翌々年、その左側の空き地に家が建っちまったんでごぜぇますだ。矢張り心配していた通り、アッシんちの屋根の雪が隣の敷地内落ちてしまうんで。
慌てて屋根をスノーダクト、へぇ、無落雪の屋根に改造しましたんでごぜぇますだ。こりゃ、予算外のことでしたなぁ、へぇ。雪国てぇのはてぇへんお金が掛かることで。  



そんなこんなでアッシんちは、右二軒隣が保育園、五十メートルほど行ったところに、春光小学校が有るという、てぇへん恵まれた住宅街に有ったので、へぇ。

翌年の昭和五十九年四月、我が家の右二件隣の「蘭契保育園」に長男坊の俊輔が入園したのでごぜぇますだ。一年間の保育園でしたなぁ。
次男坊の祐輔も同じ保育園に入れたかったのですが、あいにくと満杯で入園出来ず、自転車で十分ほどのところにある「こまどり保育園」に入園したのでごぜぇます。確か、クラスは「たんぽぽ組」だったと記憶しておりやすが。





カミサンが毎朝、自転車で送っていっておりましたなぁ。翌年には兄が春光小学校へ入学しましたんで、兄の行っていた「蘭契保育園」に入る事が出来たんですでごぜぇますだ。
二人の保育園時代は良い時代でございましたなぁ。今の不透明な、そしてリストラ時代なんてぇ事は考えられなかった時代でございましたなぁ。

二人の保育園の「運動会」にゃ本町のばぁ様も来てくれて、そりゃ楽しい運動会でございましたんでごぜぇます。
なんと云っても、親の出番が多かったでございましたからでございましたでしょうからですかねぇ。息子たちよりも、張り切っておりましたなぁ。
そういえばカミサンが、「蘭契保育園」のPTA副会長をしておりやして、運動会じゃ挨拶なんぞぅしていおりましたなぁ。カミサンが人前で挨拶している光景を拝見したのはそれが最初で今の所、最後でごぜぇますだ。





そんなこんなで平凡ではありますが幸せな日々をすごしていた年でごぜぇやしたが、その年も暮れ、迫ってきた十二月二十五日、なんと京都に居る「文雄兄」が旭川へ遊びにやってきたのでごぜぇますだ。
九年振りの再会でしたなぁ。前回、逢ったときはまだ新婚時代の頃で息子たちも産まれていなかったんで、今回は息子達と初ご対面でごぜぇましただ。
クリスマスプレゼントといって、息子たちにレーシングカーを買ってくれたのを覚えておりやす。今想うと、文雄兄が四十七歳、アッシが三十九歳の時でごぜぇました。






つづく


夢のまた夢 ・ 十一部  

2016年04月27日 12時06分51秒 | 夢のまた夢
☆昭和の時代☆


      


【 息子の保育園・小学生時代 ポチコの家族仲間入り 】

昭和六十年四月五日長男俊輔、昭和六十一年四月五日祐輔が「春光小学校」へ入学したんでごぜぇますだ。小学生になると不思議なもので、なんとなく大人っぽく見えてまいりましたなぁ。
アッシの家に家族が増えたのは息子たちが小学四年、三年の時でございましたな。
名前は「ポチ子」と申しまして、雌、雑種の中型犬でごぜぇましただ。この一人娘は、その後十四年間アッシたちの家族の一員として過ごしましたんでごぜぇます。人間であればなんと九十八歳まで生きたんで、へぇ。
長男二十三、次男二十二歳のときに、老衰でこの世とお別れしちまったんでごぜぇますだ。つい先日の平成十三年十二月一日が命日でごぜぇますんで。偶然にも、天皇家の「愛子様」がご誕生なさった日でごぜぇましただ。

本当に家族の一人が居なくなったような気持ちでやんしたなぁ。この月は、敏信兄も十二月二十一日に亡くなったので忘れることの出来ねぇ月となりましたなぁ。





この「ポチ子」の想い出にこんなことがありましたなぁ。そう、あれはポチ子が三歳の頃でしたかなぁ、我が家から歩いて十五分の所に石狩川の河川敷があるんでございますが、或る夏の日に散歩がてらに連れて行ったんでごぜぇますだ。とても暑い日でございましたなぁ。結構、川幅の或る川でして、その川辺にポチ子を連れて行ったときの事でごぜぇます。

ポチ子も暑くてガマンが出来なかったんでしょう、アッシのリードを持っている手を振りきって突然、石狩川に飛び込んだのでごぜぇますだ。
アッシは流されていくポチ子を見て、慌ててしまい、ツルッと足が滑って川の中へ「ドボン!」と落っこちたんでごぜぇますだ(笑)。ポチ子のことも心配でしたが、自分の事も必死でしたなぁ(笑)。
アッシがようよう、川から這い上がって、さてポチ子はと見渡すと、土手のかなたからアッシのほうへ一目散にかけてくるポチ子の姿を見つけた時は、ほんとうにホッと致しやした。
二人でズブ濡れ姿で自転車に乗って、帰宅したことが忘れられない思い出でごぜぇますだ。





話が横道に反れましたが、こんなことも有って平凡な毎日を平和に過ごす日が続いていたのでごぜぇます。
この年、昭和六十年二月二十四日、カミサンの妹の綾子嬢が「華燭の典」をトーヨーホテル、三階「翡翠の間」にて執り行われたんでごぜぇますだ。
花束贈呈のセレモニーは最初、長男坊の俊輔が予定されていたんでごぜぇますが当日、風邪から肺炎を起こしかけ、その高熱の為、急遽、弟の祐輔が代行して行なったのでごぜぇます。そうですなぁ、その時の会費は、確か六千五百円でしたでごぜぇますだ(笑)。今よりずっと安かったんでやんすねぇ。


この息子達の「保育園時代」の思い出の一つに、忘れられないものがありやしてねぇ。あれは確か或る夏の夜の出来事でざいましたなぁ。
長男坊が夕方、帰宅してきたと想ったら、自慢げにポケットから「キンケシ」を次から次へと出したのでごぜぇますだ。「キンケシ」てぇのは当時子供の世界で一世を風靡したオモチャでごぜぇますだ。
その「キンケシ」が出るわ出るわ、さすがのアッシもそれには驚きやしたなぁ。話しを聞くと、なんと百円入れると、その機械から山のようにキンケシが次から次へと出てきたと云うんでごぜぇますだ。

アッシはこりゃ、てっきりその機械が故障していると想い、息子にそれを話し、その店屋さんに教えてあげなければと、その店はどこの店かと息子に案内させようと一緒に表に出たのでごぜぇますだ。
ところが、家から少し行ったところで息子の足が止まって歩こうとしないんでさぁ。訳を聴くと、なんと息子は嘘をついていたと云うじゃありませんか。アッシはびっくりして、どういうことかと問い詰めたら、母親が家の中の引き出しに入れておいた小銭を失敬してそのお金であれだけの「キンケシ」を買ったということでごぜぇましただ。




それでアッシも、あれだけの量のキンケシが出てきたことに納得したんでごぜぇます。親も悪いのでごぜぇますだ。子供が目にとまるところにお金を置いていたということが、悪意はないのに、子供に誘惑の気持ちを抱かせてしまったんですからなぁ。
話しを聞けば、兄だけにとどまらず、弟もちょろまかしていたというんですから、まいりましたなぁ、これにゃ。 

でも、この事はそのまま見過ごすことが出来ませんでな、家に戻ってきて兄弟二人並べて「お灸」を敢行いたしましんでごぜぇますだ。嘗て、自分がされたように。でも、その時初めて当時の愛子姉の気持ちがよくわかりましたなぁ。

「お灸」をされる息子たちの辛さもわかりますが、本当は「お灸」をすえる方のほうがもっともっと辛い気持ちだったてぇことを。アッシも正直申し上げますと、いざとなると子供たちが可愛そうになって何度もやめようかと内心想いやしたが、「息子」のためにと思い直し、心を鬼にして敢行いたしやした。
アッシがこの歳になるまで幼い頃、愛子姉にされたことをはっきり覚えているように、息子たちも生涯覚えているかどうかはわかりませんが、「心を鬼にする」ということを身を持って味わった思い出でございましたなぁ。





この年、昭和六十年三月二十六日俊輔が「蘭契保育園」第五回生卒業生となり、四月五日「春光小学校」へ入学したのでごぜぇますだ。
弟の祐輔は兄の卒業した「蘭契保育園」へとこれまた入園したのでごぜぇます。 息子の初めての入学式にゃアッシは仕事で出席出来なかったんでございますが、とうとう次男坊の入学式にも出席出来ず、二人の卒業式にも出れなかったんでごぜぇますだ。まぁ、ほとんどの父親がそうだったのでしょうがね。

この昭和六十年の俊輔が、小学校入学しての初めての春季大運動会が五月二十六日に行なわれたんでごぜぇますが、なんとお昼前にゃ大雨の天気になりまして中断、中止となっちまったんでごぜぁます。
翌日、再び続きをしたってぇ話しですが、親はほとんど仕事の関係で応援出来ず、そりゃ気の抜けた運動会だったそうでごぜぇますだ。

そんなこんなで、長男坊は徒歩五、六分の小学校へ、次男坊は徒歩二分の蘭契保育園へと各々新しい時代の生活が始っていったのでごぜぇます。





この年、息子たちの夏休みの或る日曜日に、家族全員で「嵐山サイクリング」に挑戦したんでごぜぇますだ。アッシもサイクリングなんてぇ代物は、生まれて初めての経験でごぜぇましただ。
おにぎり、水筒、おやつ等を各自のリュックサックに用意し、北の大地の澄み切った青空の下、軽快にペダルを踏み出発したんでごぜぇます。
我が家から嵐山まで何キロありましたでしょうかねぇ。石狩川の土手沿いに「サイクリング♪♪、サイクリング♪♪、ヤッホウヤッホウ♪♪」と鼻歌まじりにべダルをこいでいたまでは快調だったんでごぜぇますが、其の内お尻が次第に痛くなってきちまったのにゃ、内心参りましたなぁ(笑)。カミサンに聞くと同じだったようで(笑)。元気なのは子供たちばかりで、へぇ。

それにしても嵐山の頂上からの旭川街外を一望に眺望出来た時の気持ちは、それまでの汗が、一瞬のうちにどこかへ吹っ飛んで行きましたなぁ。
前方には北海道の屋根と称される大雪山連邦、その右手には十勝岳連峰の山々が連なり、下方には日本第二の長流を誇る石狩川の清流が、これこそ「山紫水明の地」という言葉が当てはまるような風景ではないだろうかと思わせた郷土の風景でごぜぇましたなぁ。





昭和六十一年四月五日、次男坊祐輔が、昨年の兄についで春光小学校へ入学したのでごぜぇますだ。その日は、北の大地は素晴らしい青空でございましたなぁ。

この年の次男坊の初めての学芸会には忘れられないものがごぜぇますだ。
この日は日曜日に開かれたの、でアッシも出席することが出来ましたんで。屋内運動場で行なわれたので皆、座布団持参でごぜぇましただ。
次男坊のクラスの出番がとうとうやってまいりやした。双眼鏡片手にアッシは、息子の雄姿を探したんでごぜぇますが、何度さがしてみても姿を見つけることが出来やせん。
時間はドンドンと進んで参ります。とうとう最後まで次男坊の姿は舞台の上には見つけることが出来やせんだったのでやんす。カミサンと二人で、がっかりして帰宅したのを覚えておりやす。

カミサンとも話ししたんでごぜぇやすが、次男坊のこと、出番寸前でなにか気に入らない事が有ったのだろう、それでヘソを曲げて学芸会に参加しなかったんだろうと。そんな頑固な所がある息子でしたんで、へぇ。先生には本当に迷惑を掛けたことと想いましたなぁ。


昭和六十三年、息子たちが小学校三年、二年生の夏休みに二泊三日で「ルスツ、洞爺」へ始めての泊まりがけの家族旅行に行ってめいりやしたぁ。家族旅行なるものが、これが最初で最後になるとは夢にも思いまやせんでしたな。子供は楽しかったでしょうが、親は少し疲れましたなぁ。
でも、子供たちの幼い頃の思い出作りをとの想いで挙行した強行スケジュールでございやしたが、行ってきて良かったと想いましたなぁ自分の幼い頃は、一度もこんな経験が無かったのもアッシの心の中のどこかにあったんでやんしょうねぇ。



先に申し上げましたが、この年の十一月二十五日に我が家に一人娘が増えたのでございますだ。前述した「ポチ子」でごぜぇます。
雑種犬でごぜぇやしたが、生後三ヶ月で我が家にやってきたんで、へぇ。
来た頃はキャンキャンと泣き騒ぐだけのうるさい子犬でございましたなぁ。丸々と太ったお世辞にも可愛い犬だとは云えないポチ子でやんしたですなぁ。アッシは、ダンボールでポチ子専用の家を作りやしたんで。

でも寝るときは、キャンキャンと泣いてうるさいので、とうとうアッシの寝床で一緒に寝ましたんで、へぇ(笑)。
これが癖になっちまったのか、しばらく二人で寝床を共にいたしやしたなぁ。
或る朝、冷たい感覚で目覚めたことがありましてな、そうなんでごぜぇますだ。ポチ子がオネショしたんでごゼます(笑)。

一歳頃までは、まだ小さかったので放しがいにしていたのでございますが、少し身体が大きくなって来たころには繋がれるようになりましたなぁ。可愛そうではありましたが止む終えませんでやんした。 
半日家の中で、半日は外でのポチ子ライフの生活でごぜぇやしたですなぁ。夜は、鳴き声が近所迷惑をかけると想い、家の中で寝かせやしたで。


ポチ子が我が家の一員になってから、我が家の空気もなにかしら変わったように感じましたなぁ。
何がってぇ申しますと、一口で云いますてぇと、優しい雰囲気になったてぇ事でしょうかねぇ。それまでは、息子たちへのガミガミした怒りがちな言葉が多かったような毎日が、なんとなく少なくなっていったような気がするんでごぜぇますだ(笑)。

ポチ子も我が家へ来た頃は丸々とした子犬だったんでごぜぇやすが、一年もする頃にゃ、もう立派な中型犬に成長しておりやした。
一年前までは留守にしていた我が家に帰宅すると、ポチコの大、小便が至るところでしていたんでやんすが、それが嘘のようになくなりましたんで、へぇ。
一年後にゃ小便をしたい時にゃ、ちゃんと教えるようしやしたんで。犬って利巧なもんでございますなぁ。

ポチ子には、玄関フードのあの厚いガラスを割られ、またベランダに通じる和室のガラスも割られましたなぁ。とにかく元気の良い一人娘でございやしたよ(笑)。
アッシとは、良く石狩川の河川敷に散歩がてら出掛けましたなぁ。時折、アッシと部屋の中でかくれんぼをして遊んだのも、今じゃ懐かしい思い出でとなりやした、へぇ。
カーテンの中やら、押し入れの中やら、机の下やらに隠れて「ポチ子~」と名前を呼んで捜させるんでさぁ。ポチ子が声をした方を一所懸命にアッシを捜しているんでごぜぇますだ。
その様子をカーテンの隅から覗いては、笑っていたアッシでございやした。随分知らねぇ間に、癒されていたんでやんすなぁ。


この年に八月に、カミサンの母親のお兄さんである旭川郊外「江丹別」に住む「織田久松」氏の米寿のお祝いが高砂台の温泉で開かれたのでごぜぇやした。
盛大なお祝いでごぜぇましたんで。久松氏は八十八歳にもかかわらず、壮健で百歳まで長生き出来るんではないかと想ったアッシでございやしたよ。
この年の十二月には、昭和天皇が危篤状態に陥ったんでごぜぇますだ。新しい年、昭和六十四年一月半ばにとうとう天皇陛下の、その波乱万丈の人生を終えられたのでごぜぇます。


昭和の時代から「平成」の時代へと流れて行ったのでごぜぇましただ。この年にカミサンの姉が嫁いでいる室崎家が市内、豊岡に新居を新築したんでやんしたなぁ。
平成二年、長男坊の俊輔が札幌方面へ一泊の修学旅行に行ったんでごぜぇますだ。そしてこの年、記念すべき忘れられない年ともなったのでごぜぇますだ。

つづく


夢のまた夢 ・ 十部

2016年04月26日 09時38分07秒 | 夢のまた夢
☆新婚時代☆


    





それからのアッシは信用を挽回せんと一生懸命仕事にがんばりやしたなぁ。
そうすることによって彼女のことを忘れようとしたのも本当のことでごぜぇましたなぁ。

旭川へ戻ってきたのが二十六でごぜぇましたが、四年間は仕事一途でござんした。三十の声を聞くようになってから、見合いの話もチラホラ出てくるようになりましたが、アッシは「純子」以外にゃ眼も向けませんでしたなぁ。一緒に慣れねぇとわかっちゃいましたがねぇ。


そうこうしている内に、店にアルバイトにきていた高校三年生の子と親しくなっていったんで。
歳が離れすぎていたのでアッシもそんな気は毛頭なかったんで気楽に相手になっていたんでやんがねぇ。まぁ、おめぇが結婚するまでは、失恋でも良いから、一度は恋愛を経験してから結婚しろよなんて、昔話をしてたんでごぜぇますだ(笑)。まさか、一緒になるとは夢にも思っていなかったやんすからねぇ~。
そんなこんなで、いろんなことを話して行く内に或る日、突然 「オイラと一緒になるか?」てぇ聞きますと「うん」と頷くじゃございませんか。正直内心、ビックリしたアッシでやんしたでごぜぇますだ(笑)。

そんな訳で話はトントン拍子に進み、半年後にゃ世帯を持ってしまいましたんで。へぇ、勿論今どき、はやりの「出来ちゃった結婚」じゃごぜぇませんですよ。正真正銘の純愛結婚で(笑)。
アッシがその子のご両親に気に入れられた最大の理由は、きっと、両親不在、兄弟とも交流は盛んなほうでないアッシだったので、まぁまぁとおメガネにかなったんでないでやんしょうかねぇ(笑)。
今、思うと笑ってしまうんでやんすが、当時にのアッシは、この子に手を出しちまって所帯を持つめぇにてめぇが交通事故かなんかで、急死することもあると考えておりやしてね、キズものにはしたくねぇと手を出さなかったんでやんすよ(笑)。信じられねぇでしょうが、そんなアッシだったんでごぜぇますだ(笑)。
アッシが三十歳、オカミさんが十八歳てぇ若さで結婚したんでごぜぇますだ。丁度、干支が一緒で、一回り歳の差が有ったんでごぜぇます。おはずかしい話で、へぇ~(笑)。





結婚式は、会社の仕事関係から、花咲町の「友愛会館」てぇところであげましたんで。
東京から、敏信兄が、地元からは清子姉、秀子姉の三人の身内が出席してくれやした。
敏信兄が、最も喜んでくれているようでござんしたなぁ。小学校の入学式で、アッシの父親と間違われたくらいですから(笑)。

新居はてぇますと、カミさんの実家が本町にありまして、そこから徒歩三分てぇ近くにある民間アパート「静香壮」てぇいうアパートで、四畳半と六畳間という新居でごぜぇましただ。
あまりにも、義両親の家が近くだったもんで、毎日のように顔を出していたアッシでございましたなぁ。そんなアッシをカミさんは、やっぱり面白くなかったでしょうなぁ。いってぇ、誰と結婚したんだってね、へぇ。家庭愛に飢えていたアッシでやんしたから、どうもご両親の所へ行くのが多かったようで(笑)。


そんなこんなで、アッシも、歳が歳だから一日も早く子供が欲しかったんでごぜぇますが、なかなか出来なかったんでごぜぇますだ。あせればあせるほど出来ませんでしたなぁ。仲の良いほど子は出来ぬてぇのは本当のことでござんすな。
そのうちお前さんの身体が、出来そこないんじゃねぇかとお互いに言い出す始末で。
先ずカミサンを病院に行かせたアッシでごぜぇましただ。なんでもねぇとの診断で今度ぁ、アッシの番だということになっちまって。
アッシは病院へ行くのが嫌でねぇ。なんだかんだと引き伸ばしていたんでごぜぇますだ。その内とうとうカミサンの堪忍袋の緒が切れちまって、まいりましたななぁ。
あん時は。アッシは苦肉の策をたてましてね。こう云って、どうにか病院行きを逃れる事が出来たんでさぁ。

それはどうしたかてぇとね、「病院へ行くことは造作もねぇことだ。ちと検査での痛みをこらえりゃ良いんだから。だがなぁ、問題は検査の結果のことでぇ。もしもだ、もしものことだぜ、この自分に子が造ることが出来ねぇ身体だとわかったらどうなさる。
養子縁組でもするのか、孤児院から子を引き取るてぇのか。そんなしちめんどうくさいことよりも、その内、コウノトリがオイラたちに可愛い子供を運んできてくれるかも知れねぇと希望を持っていたほうが、よっぽど幸せなんじゃねぇか」ってね。
へぇ、アッシも病院へ行くのが嫌で嫌でカミサンをこのようにして説得したんでごぜぇますだ(笑)。 そうこうしているときに、この新婚ホヤホヤの時に、なんと珍しい人が旭川へ見えたんでございます。あれはもう、師走になっていた頃でやんしたなぁ~。

アッシの兄貴の文雄兄が、京都から遊びがてらやってきたんでさぁ。きっと、弟の嫁さんの顔を見に来たんでございましょう。旭川の清子姉のところで、年末年始を過ごし、清子姉の子供がいる函館に寄って、京都に戻ってまいりましたなぁ。





そうこうして、もし子供が出来なかったら、将来世界一周に行こうとお互いに話ししていた矢先に長男坊が出来たんでさぁ。
そんな中、長男坊の俊輔が誕生したのは、昭和五十三年六月二十八日でごぜぇましただ。、その日旭川は猛暑で、一足早く真夏がおとづれたような日でございましたなぁ。今でもはっきりと覚えているあっしでごぜぇます。
そして、ガラス越しに見た産まれたてのアッシの子は、猿の子のようでございましたなぁ(笑)。
次男坊はてぇ云いますとね、アッシがカミサンが、ごろりと寝転がっていたところをひょいと跨いだだけで、アッというまに出来ちまいましたんで。へぇ、そうなんでさぁ。昭和五十四年九月二十二日、一つ違いの兄が誕生した同じ「森産婦人科病院」で産まれたんでごぜぇますだ。

年子の兄弟なんでごぜぇますだ。あれだけ待って、三年も掛かって出来たてぇのに不思議なことも有るもんでぇ。
神さまのちょっとしたいたずらだったのかも知れませんなぁ。きっと神様がカミサンが余りにも若いので気をつかって、時間をかけたのでございましょう。
ちょうどご時世が、バブル全盛期に入ろうとしていた時期でごぜぇましたなぁ。物は、作れば作るほど売れましたなぁ。今の時代にゃ、信じられねぇような時代でござんしたでやんすよ。もう二度とあのような時代はやってこねえものなのでしょうかねぇ。

長男の名付親はアッシなんでごぜぇますだ。それがどんなことから付けたかてぇと申しますと、名前を色々と考えていた頃のことでございます。或る夜、夢を見たんでございます。その夢の中で長男坊の名前をこの名前にしなさいてぇような夢を見ましてな。
そうでございます、名前は「俊輔」(シュンスケ)と命名したんで。
敏信兄にそのことを電話でいいますと「そりゃ伊藤博文の名前じゃねぇか」っておっしゃられましてね。さすが博学の敏信兄でございましたなぁ。
そうでございます。「俊輔」てぇ名前は、伊藤博文の若かりし頃の名前だったんでごぜぇますだ。アッシもそれは知っていましたがね、敏信兄が開口一番にそのことをおっしゃったのには驚きましたやしたなぁ。

次男坊の名前もアッシが付けたんでございます。「祐輔」(ユウスケ)てぇんでございます。
アッシはどうも「輔」の文字が好きでございまして次男坊にも付けさせてもらったてぇ訳でごぜぇますだ。
年子の子供でしたでんで、女房は育てるのに大変だったらしいですがね。良く自転車で、長男を前に、弟はおんぶして走っておりましたなぁ。若かったから出来たんでしょうなぁ。良く、やってくれましたなぁ。

一年後に、春光町に有る、公営の「北海道雇用促進住宅」てぇ鉄筋コンクリート造り四階建ての団地に当選しましてね、そこへ引越ししたんでごぜぇますだ。
重い玄関の戸を開けると、石炭を入れる納戸、三畳間ほどの台所、そして「ペチカ」がありましてね、六畳間と四畳半の畳部屋で。それまでのアパートとは広さはそれほどの変わりはなかったんでございますが、アッシ達にしてみれば月とスッポンくれぇの差を感じましたねぇ。しかもペチカなんですぜ。最初に狭い狭いアパートで暮らしていたからこの時、あれほどの感激をした我々だったんでございましょうねぇ。

この団地生活の時に長男、次男が誕生したんでごぜぇますだ。団地の役員もやりましたなぁ。カミさんと夜、一緒に交通安全のタテ看板を何箇所かに立てた想い出がごぜぇます。
子供たちが、少し大きくなってきた頃にゃ、奥の四畳半に二段ベッドを置きましたなぁ。
ある夜、隣の六畳間でビリビリてぇ紙を破る音が聞こえましたんで。何だろうと思って、ふすまを開けると、兄弟そろって、なんと押入れのふすまの張り紙を破っているじゃございませんか(笑)。
ニコニコしながら、二人で面白そうに破っている姿を見て、苦笑いをするしか無かったのを覚えていやす(笑)。今じゃ、良い思い出になっておりやすがね(笑)。

この団地に八年間もお世話になったんでございます。入居した頃の家賃はたしか三千円でしたかな、出居した時はそれが八千円くらいだったと記憶してございますなぁ。この低家賃のお陰で、家を新築出来る貯金が出来たんでごぜぇますだ。

つづく



夢のまた夢 ・ 九部

2016年04月25日 11時04分39秒 | 夢のまた夢
☆失踪事件☆


      




一年後、遅くても二年後には迎えに行こうと想っていたアッシでごぜぇましただ。

旭川へ戻って一ケ月位してからだったでごぜぇましたでしょうか、彼女から電話が掛かってきたんでさぁ。
話を聞くと、それまで何度も電話を掛けたとのこと、店から工場に居るアッシに取り次いでくれなかったらしいんでごぜぇますだ。
電話の用件は、自分は今、東京の従兄の経営する会社の事務をやっているんだが、東京へ出てこないかとの内容でごぜぇました。

アッシは迷いましたなぁ。弘前で修業してきたものを、この育ての家である旭川千秋亭で、発揮しょうと意気盛んに戻って来たのでごぜぇますが、残念ながら、アッシの出番はなく旧態以前のままの経営でござんした。
そんなこんなで、修業してきたことが何の意味もなかったのでごぜぇますだ。

そんなことも関連していやして、アッシの気持ちも凹んでおったのでごぜぇます。。何の為に三年もの修業に行って来たのかと、悩みはじめていたときでごぜぇましたんでやんす。そんな気持ちになっているときに、彼女から電話が来たのでごぜぇますだ。

思案に思案して、彼女の居る東京へ行く決心をしたアッシでごぜぇました。が、どうしても東京へ行くという話を義父にできませんでしたなぁ。

今まで育ててくれた恩義を感じれば感じるほど云えませんでやんした。それでとうとう、何の断りも無く、列車に飛び乗ったアッシでございましたんで。
列車に乗る前に、駅前の赤いポストに前夜に書いた手紙を投函したのでごぜぇますだ。若かったんですなぁ。後先何も考えずに行動できたてぇことは。 

正直に申しますてぇと、津軽海峡を渡り終えるまで、内心、戻ろうか東京へ行こうかと迷っていたアッシでごぜぇましただ。
ですが、青函連絡船が、青森に着いた時にゃそんな気持ちも吹っ切れておりやした。前だけを見ていましたなぁ。津軽の海を渡りきるてぇことは色々な気持ちを踏ん切りさせるなにものかがあったんでございますなぁ。連絡船だったからでしょうねぇ。飛行機だと、こうは行かなかったでしょうなぁ。 





東京は、彼女の従兄が経営している小さな会社の敷地内にある、田端の安アパートで暮らし始めましたなぁ。
彼女もそのアパートにおりましたんでごぜぇますだ。でも、一緒の部屋では暮らしませんでやんした、昔の事でごぜぇますから、けじめってぇ物が大事でやんしたからなぁ。そんなこんなで、彼女の従兄の会社で働くようになりやした。

東京には敏信兄、愛子姉がおりやしたが、勝手気ままに行動してしまった以上、逢うことは出来ないと決心していたアッシでございました。


そんなこんなで、東京・田端での生活が始まりだしたのでごぜぇますだ。
最初の頃は、もう慣れない仕事に気持ちを集中して生活しておりやした。三ケ月を過ぎた頃ようやく気持ちも落ち着いてきて、彼女とも楽しい日々を過ごすゆとりが出来てきたアッシでございました。

ところが、一年を迎えようとした頃、アッシの心の中に育ての義父の事が急激に思い出されてきたのでごぜぇますだ。その頃、義父は七十代だったのでは。その事も気になりだしてきていたのでございます。
矢張り、黙って出てきたという事が一番気になっていたんでやんすねぇ。きちんと話をして東京に来ていたならば、あんなに想いわずらうことは無かったかも知れませんなぁ。

このままじゃ、「人の道」にはずれている、お天道さまに堂々と胸を張って生きてはいけねぇ、このまま育ての義父が亡くなっちまったらアッシは一生取り返しのつかねぇ親不孝者になっちまう。

このままで果たして良いのだろうかと悩み始めてしまったんでごぜぇますだ。 
こんなアッシが板ばさみに苦しみだした姿を見て、彼女は「国へ帰ったほうが良い、別れましょう」と言い出したんで。
そんなこんなでアッシは一年後、北の大地へ一人で戻ったんでごぜぇます。彼女とはそれっきりになっちまいました。





数年後、風の便りに、その後、結婚したけれども一人息子が小学校一年の頃、子供を置いて離婚しちまったらしい話を小耳にはさみましたなぁ。
アッシはてぇと、育ての家にゃなかなかすんなり戻ることが出来ませんでやんしたが、苦しんで苦しんで、悩んで悩んで彼女と別れて帰ってきた意味がないので、思い切って育ての家の玄関を開けましたんで。

義父は何も云わず迎えてくださいましたなぁ。

つづく


夢のまた夢 ・ 八部

2016年04月24日 10時48分02秒 | 夢のまた夢

☆弘前時代☆




昭和四十二年春、大学を卒業したアッシは青森は弘前の人となっていましたんでごぜぇますだ。

育てられた老舗のお菓子屋を手伝う道に進んで行ったんでごぜぇます。本心は、社会に出ていきたかったのですが、世の「しがらみ」がそれを許さなかったのでございます。そんな時代だったのでございます。


なんだかんだで、取引先の問屋さんの紹介で青森は弘前市の或るお菓子屋さんで「修業」させて頂く事になりましたのでごぜぇますだ。
弘前は城下町でございました。アッシは、北海道育ちのため城下町にはとてもあこがれを抱いていたんで。

弘前は仮の住まいでございました。てぇいうのは、アッシは故郷の育ての親の家業を手伝うための「修行」にきていたのでごぜぇます。


修行期間は三年間、なんでも義父が、石の上にも三年なんてぇことを云いやして、へぇ。

その会社は、弘前市内になんと十二社もの支店があった躍進中の伸び盛りの会社であったんでごぜぇましただ。


「ラグノオささき」てぇ名前の会社でごぜぇました。ちょうどアッシが入社した時は二代目にバトンが渡された頃でございました。

なんでも二代目は、東京で「ビクター」てぇ音楽関係の会社に勤めていたサラリーマンだったんでございますが、親の跡を継ぐために退めてきたてぇ話で。こりゃ真偽のほどは定かじゃありませんが、なんでも上役と喧嘩をしたのがきっかけだったそうで。


その喧嘩の原因てぇのがまたふるってましてねぇ。ビクターてぇ会社のマークはご存知でございましょう、蓄音機と犬のマークでさぁ。そのマークで、犬の向きがいつも、一定なんで色々と変化をさせた方が良いと進言したことが上司と喧嘩した原因だってぇ、もっぱらの噂でごぜぇましただ。


最初に配属されたのが、本店の二階にある喫茶部でごぜぇましただ。そこで、先輩にコーヒーのいれかた、ホットケーキの焼き方なんぞを教えて戴いたんでごぜぇます。

そこを半年経験させていただきやして、その後は駅前のスーパーの中にある駅前支店に配属となりやしたんでごぜぇます。




その支店はたまたま業績が振るわず、なんとかせにゃならんと経営陣が考えていたところでやんした。そこにアッシが配属されたんでやんす。きっと、修業の身とはいえ、一応、大卒だということでテストパターンとしてほおりこまれたような感じでごぜぇましただ。


名目は支店長として配属されたのでやんすが、売り上げの少ねぇことには驚いたアッシでやんした。経費を差し引くと、トントンと云った内容でごぜぇましただ。

こりゃ、支店長として立場上、なんとか売り上げを伸ばさなきゃなりませんでしたでやんすよ。そこで、いろんな本も読み、思い立ったことをやりだしたアッシでごぜぇましただ。


まず、やったことは、ほとんど売れない商品を置かないことにしたんでやんす。売れ筋のものばかりを置くようにしたのでごぜぇますだ。

これが、思ったより当たりやして、商品の回転率が上がり始めやしたんで、へぇ。次に、考えたのが、素通りしていた客の足をなんとか、店の前で止めさせることでごぜぇましただ。


そこで、プライスカードのところに、学生時代に杵柄を取った落語のセンスを生かして、川柳的なひとことを書き添えたんでごぜぇますだ。これも以外と当たりまして、商品は買っていただかずとも、ケースの中にあるプライスカードのひとことCMを読んでいくような客が増えて云ったのでごぜぇますだ。


そこで、客との込みニューケションが取れるようになっていったのが、大きかったでやんすねぇ。或る日、そのスーバーの経営者に呼び出しを喰らい、売り上げが右肩上がりに進んでいっていることをほめられやしたんでごぜぇますだ。そこで、北の大地から修行にきている身だと云う事を初めて、知ったようでごぜぇます。


それからしばらくして、今度は本店の社長から呼び出しがあり、なんと、駅前支店の社員に大入り袋・特別ボーナスが支給されたのでごぜぇますだ。二人しかいない部下の女の子は、ここ数年、大入り袋は出ていなかったと驚いておりや下でごぜぇますだ。





一年を無我夢中で経験し二年目に入った頃でありましたかな、アッシは持ち前の性格でみんなに可愛がられ、その会社初まって以来の社内報を発行することになり、その初代編集長に抜擢されたんでごぜぇます、へぇ。

無論、この仕事は本業以外のものであったのは勿論のことで。そんな中、アッシは毎週休日に、月一度の社内報発行資料のため各支店を訪問、それが又幸いしてアッシの名前を覚えていただく結果になった一つになったんでごぜぇますだ。


原稿はなかなか集まらなかったんでやんすが、その空白を埋めるためにアッシは、ひとり下宿先で、自分で原稿記事を作らざるを得なかったのでごぜぇます。

その一つに「ヨモヤマ噺」という雑感でアッシは、会社のオリジナル商品名を使って短編ものをおもしろ、オカシク綴ったんで。

この記事が、みんなに「喝采」を浴びることになり、その後の仕事にとても活きたのでごぜぇますだ。つまり、仕事上で、ちよっとの無理が快く引き受けられるようになっていったんで。


そんなある日、アッシはフト、このお菓子はいってぇ、なにからどうやって出来上がっているのだろうという単純な疑問に突き当たったのでごぜぇますだ。それで、社長に、販売に当たる者が、そのことを知らずして販売するのはいかがかと直訴して、現場の工場へ配属してくれるようお願いしたのでごぜぇますだ。


その時は、人が間にあっていたので現場には配属可能にならなかったのでやんすが、そのうち、欠員が出来やしてアッシが白羽の矢にあたりやして、念願の現場配属になったのでごぜぇますだ。


洋菓子部に配属され、なんだかんだ一年半の現場経験の勉強をさせていただきやした。

特に、好きだったのがデコレーションケーキのデザインでごぜぇましただ。パチンコをしていながらも、パチンコ台の枠のデザインをデコレーのデザインに応用したものでごぜぇます。それほど、面白かったのでござんすなぁ。

クリスマスケーキの、薔薇の花をバタークリームでこしらえるのでごぜぇますが、これがけっこう難しいもんでやんしてマスター出来たときゃ、そりゃ嬉しかったことを覚えていやすよ。
春の桜の季節にゃ、全国から数十万という観光客がまいりまして、アッシも同僚と毎晩のように仕事帰りに、夜桜見物にまいったもんで、へぇ。あのときの酒は、美味買ったでごぜぇますだ。





そんな中、アッシは「経理」の勉強に関心を抱き、市内の夜間簿記学校に通い始めたんでごぜぇますだ。

二週間ほどしてから、その学校で筆記用具を忘れてきたのに気がついたアッシでごぜぇました。フト隣の席に座っている女性、女性と云っても十七、十八歳位の髪が肩ほどまで伸びていた若い子であったんでございますが。その彼女にアッシは声を掛けたんで、へぇ。


「すいませんが、エンピツを忘れてきました。良かったら貸していただけないでしようか」

「ええっ、かまいませんよ。どうぞお使いください」

と、一本のエンピツをアッシに。この日から二人は、いつも同じ席に座るようになり帰路も一緒に帰るようになっていったんでごぜぇます。それは自然な成り行きでございましたなぁ。


彼女の名前は、「鈴木 純子」(純子と書いて「スミコ」と読みやしただ)。歳は十八、仕事は「事務」でございました。

家は弘前から弘南電車に乗って行かねばならない「大鰐温泉」でごぜぇましただ。アッシが仕事のため学校に来れなかった日にゃ、アッシの下宿先にノートを見せにやってくるようになっておりましたなぁ。下宿のオバサンはそんな二人を温かい目で見守ってくださっておりましたんで。


彼女は、母一人子一人の身の上であったんでごぜぇますだ。気が付いたら学校が終わってからはいつも「大鰐温泉」の彼女の家まで送って行くようになっておりましたアッシでした。

終電車が十時二十分、その時間までわずかしかない時を二人は大事に育てまやしたんで、へぇ。彼女が何かの都合で学校へ来れなかった時は、かならずアッシは彼女の家まで行ったものでしたなぁ。二人の間は自然と密になっていったのも自然でございましたんで。



そして、とうとう「修行期間」も、来春に迫ってきた十二月の或る夜、いつものように彼女の家を訪れていたアッシでしたんでやんすが。その日、開口一番、彼女の母親から「娘はやれない! でも貴方が弘前にずっと住んでくれるのならば喜んで一緒にさせて上げる」と云われたんでやんすよ。

娘は泣いておりやした、ポロポロと流れる涙を拭こうともせず。。。。

彼女は、彼女なりに母親とアッシとの板挟みになり苦しんでいたのでごぜぇますなぁ。母親は、アッシの家庭の事情までを調べ上げていたんでございます。


母親としては無理からぬ事だったと想いますんで。「そんな肩身の狭い想いのするところへ娘はやれない」と。しかも、母親も自分も今更ながら海を渡って、だれも知らない地に行きたくねぇと、へぇ。

アッシは、二人の気持ちが痛いほどわかりやした。でやんすから、無理矢理、連れていけなかったんでごぜぇますだ。


そんな話をしているさなか、突然、急に彼女が雪の降る表に飛び出して行ってしまったんで。裸足のままでございますよ。アッシは夢中でおもわずあとを追い掛けました。

彼女はどんどん降ってくる牡丹雪の中、しゃがみこんで、泣きに泣いておりやした、へぇ。アッシが傍へ行くと、泣きながらムシャブリついてきやしたなぁ。そして、ただ泣くだけでやんした。。。。

「おスミ・・・おスミ・・・・来年は必ず迎えに来るから辛抱して、待っていてくれ」その言葉しか云えなかったアッシでごぜぇでやんした。雪がシンシンと降り続いていた夜の出来事でありました。

それからはってぇと、逢っていてもお互いに眼と眼を見詰め合うだけの時間が多くなっていきました。眼と眼で話をしていたんでしょうなぁ。



 そんな辛い思い出が出来ちまった弘前時代でございましたんでごぜぇますだ。ええっ?彼女とはそれからどうなったんでぇって?へぇ、結局アッシはどうしても「家庭の事情」てぇいう「義理」を破ることが出来ずに、一年後に迎えにくる約束をして、一人で三年の修行期間を終えて北の大地へと戻っていったんでごぜぇます。


彼女はアッシとの思い出がこもっている弘前に一人居るのが辛くて東京の甥が経営している小さな会社に行ってしまったのでごぜぇますだ。。。。。。

つづく


夢のまた夢 ・ 七部

2016年04月23日 11時12分38秒 | 夢のまた夢

☆大学時代☆


       


明治大学ではアッシ、部活動は「落研」に入部しちまいました。

人を笑わすのに喜びを感じるようになっていたアッシだったんでござんすねぇ。高校時代のあの「勧進帳」の爆笑の渦がアッシの何かを目覚めさせてしまったようで。部活動といってもほとんど神田界隈の雀荘で麻雀の毎日でしたなぁ。


「噺」はてぇと各自、それぞれ独学でものにしていきましたなぁ。電車の中でぶつぶつと口づさんで噺を覚えていましたでやんすよ(笑)。毎年恒例の高座はてぇと、秋の大学祭と分校舎の和泉祭の二回でしたな。

アッシはてぇと、「柳家小さん」が好きで「与太郎物」を好んで演じておりました。人情噺も好きで「心眼」てぇ盲目の噺も演じたこともごぜぇますだ。


毎年、春休みに何班かに分かれて全国の老人ホーム、療養所に慰問旅行に行くんでさぁ。

アッシは家庭が家庭でござんしたので一年の時は参加を断念したんでございますが、同僚がこの慰問旅行に参加してきてから芸に一段と磨きがかかったのを目の当たりにして、二年の時からアルバイトで得た収入でこの慰問旅行に参加するようになったんで、へぇ。

楽しかったですなぁ、この慰問旅行は。


そうそう、三年生の春休みに和歌山に慰問旅行に行った時のことでございます。

「心眼」てぇ人情噺を演じたんでございますが、なんとここはみなさん盲目の方ばかりの老人ホームでございまして、噺を選ぶとき、ちと迷ったのでございますが、アッシの好きな人情噺でしたのでやっちまいました。

身振り手振りは全然効果がないので受けるかどうか心配でしたが、演じ終えると温かい拍手の波をいただいた時にゃこっちが驚き、感動いたしやした。良い思い出でごぜぇますだ。

アッシの芸名はスクールカラーから採った「紫紺亭与ん生」てぇのがアッシの芸名でさぁ。 


ちなみにペンネームは「風の又三郎」てぇ申し上げますんで(笑)。略して「風又」と申し上げますんでございます(笑)。もっともこのペンネームはアッシが四十代の頃に使い始めたもんですがね。






アッシの持ち噺は「地球の裏表」(桂枝太郎)「首屋」(三遊亭圓喬)「我が生い立ちの記」(三遊亭歌笑) 「唐茄子屋」(柳家小さん)「時そば」(桂三木助)「道具屋」(柳屋小さん)「大工調べ」(柳屋小さん)「心眼」(桂文楽)「王子の狐」(?)これくらいでごぜぇました。


卒業する四年生の時、日本橋三越前の第一證券ホールでおこなわれた「歓送落語会」、この高座が最後のものになるのでございますが、この時は「大工調べ」の噺を前編、後編と演じましたなぁ。時間にして四十分も務めましたんで、へぇ。

普通は、皆、十五分ものの噺をするんですがね、アッシは最後の高座でしたので、へぇ。
じゃ、ちょっと高座の気分でも味わっていただきましょうかね。ひとつ、昔のきねづかで小噺の一つを。


 「お風呂屋さんに飛行機が落ちたんだってね」

 「やっぱり何かい、自衛隊の飛行機かい?それとも旅客機かい?」

 「なぁに、風呂屋だけに戦闘機(銭湯)だい」


 「なんだってねぇ、この前、山へ行って道に迷ったんだってねぇ」

 「ああ、そうなん(遭難)でぇ」


 「うまかったなぁ、今夜の酒は」

 「旦那、銭はあんでしょうね?」

 「ああ、それは直し立ての屋根だ」

 「なんです、その直し立ての屋根てぇのは?」

 「漏ってこねぇ(持ってこねぇ)」


 「うちの近所の奥さん、お産の時にいい女の写真を見てりゃいい女の子が産まれるてんで、週刊誌のグラビアの山本富士子さんの写真をビリビリっと破いて

「どうぞ神様、こういういい女の子が産まれますように」とお祈りしたら、産まれたのは山本富士子そっくり、だけど、この子が大きくなるにつれて髪の毛が一本もはえてこねぇんで。

「どうしてかしら、おかしいわねぇ」てぇんで、ビリっとはがしてパッと裏を見たら、裏は柳家金語楼の写真だったりして」


 とんだお粗末な小噺で失礼いたしました。

お後がよろしいようで。






アッシの大学時代には丁度「大学紛争」がたけなわの頃でございまして、アッシも過激派じゃありませんでしたが、神田お茶の水界隈をスクラム組んで機動隊ともめたこともありましたねぇ。


そこで初めて体験したのが「群集心理」の恐ろしさでございましたなぁ。よくわかんねぇ状態で、「安保反対!」「安保反対!」と機動隊と衝突しておりましたアッシでござんしたぁ。

「東京オリンピック」「祖父の死」「ケネディ大統領暗殺」そして我が郷土の女性作家誕生、三浦綾子氏の処女作「氷点」などの出来事があったアッシの青春時代のヒトコマでの大学時代でございました。



【 伊豆下田・桃木家との出会い 】


アッシが大学二年のゴールデンウィークの時のことでさぁ。その頃、アッシは練馬区の大泉学園町、北海道学生会館てぇいわゆる学生寮に居たんでさぁ。

その寮にゃ北海道出身の学生、いろんな大学の学生が二人一部屋の部屋で寝起きを共にしていたんで。相部屋となった同僚は、同じ大学に入った方でやんしたなぁ。へぇ、今でもお付き合いをさせていただいておりやす。


その時の日大生の後輩とゴールデンウィークに伊豆下田に行ったんでございます。この旅がその後のアッシに不思議な縁をもたらすことになろうとは夢にも想わずに、へぇ。


伊豆急下田へ小田急「踊り子号」で向かったのは五月三日でございましたなぁ。一泊の予定でありました。

果たして、いざ下田へ着いて一夜の宿をと探したんですが、ちょうどゴールデンウィークということでどのホテル、旅館も満杯でごぜぇましただ。

途方にくれてアッシ達は、「寝姿山」のふもとをとぼとぼと宿を探していたんでさぁ。

とその時、道ですれ違った一組の親子連れに「この下田で一泊できる所はありませんか」とアッシが尋ねたんで。「そうですね、シーズンもシーズンですから無いかも知れませんねぇ」との返事に、やっぱり駄目かと一瞬肩の力が抜けたとき、中学生の娘さんが母親にコソコソと耳打ちしていたんで。そして、母親の次に出た言葉でアッシたちは救われたんでございます。






「もし良かったら、自宅の二階にお泊りになりませんか」って。アッシ達は地獄で仏に出会った気持ちでしたねぇ。

遠慮なくその温かい言葉に甘えさせていただく事にしたんでございます。なんと中学生の娘さんが見るにみかねて母親に助け舟を出してくださったのでございます。このお方がなんと「小百合さん」だったのでごぜぇますだ。


これが「小林家」との縁が出来たきっかけでございました。案内された家は近所で「お大師様」と呼ばれているお宅でございました。

八十歳はすでに越しておられたのじゃないでしょうか、お大師様こと、おばぁちゃんを筆頭に大工さんの和一朗小父さん、明るい小太りにふっくらととした定子小母さん、頭脳明晰の感じがする中学三年生の小百合ちゃん、小学校六年生の元冶くんの五人家族でございましたなぁ。


その夜は小父さんの案内で近くの公衆温泉場へ。なんと素朴な掘建て小屋のような、つつましい自然味あふるる温泉でありましたでしょうか。すっかり温まった身体での帰り道、夜空を見上げると素晴らしいお月さまで有ったのを覚えているアッシでごぜぇますだ。


そんな伊豆下田での一夜の旅をあとに翌日、東京へと戻ってきたアッシ達でございましたが別れ際、小母さんが「もしよかったら、夏休みにまたおいでください」と云われた一言がアッシの心に何故か強く残っておりましたんで。

そんなこともあって、夏休みに池袋の西武デパートでしばらくアルバイトをし、費用を捻出し八月へ入ってから三週間、再び下田へおとづれお世話になったアッシでごぜぇましたんで。へ~。



毎日のように「白浜海岸」へバスに揺られて小学六年生の元治君と泳ぎにまいりましたなぁ。

桃木さんの小母さんの妹さんの、浅沼さん宅で水着に着替えて、元冶君と毎日のように泳ぎに参りましたなぁ。

そのうち、真っ黒に日焼けしまして、あんなに焼けたのは最初で最後でしたでやんすよ。そうそう小百合ちゃんの学校の先生たちと小林家家族一同と「須崎」へも行きましたなぁ。楽しい毎日でございました。






アッシがあんな素晴らしい夏休みを過ごしたのは初めてでございましたなぁ。そんな訳で、五十半ばを越えた現在でもはっきりと当時のことを覚えているんですなぁ。きっと家庭の味てぇものを知らずに育ったアッシが、「小林家」にその夢を肌で感じたからなのかもしれませんなぁ。


この「下田」での思い出がまさかその後、現在にいたるまでのご縁が続くことになるとは、当時は夢にも想いませんでしたなぁ。嬉しいことでごぜぇますだ。アッシの人生のうちで、天がアッシにプレゼントしてくれた最高の贈りものですなぁ。



その後、再び下田を訪づれたのはいつだったのかてぇと申しますと、確かアッシが二十七歳くれぇの時だったと記憶しているんですが定かじゃありません。

突然、訪づれたんでございます。「こんにちは~」て玄関先で云うアッシに「はぁ~い」ってぇ返事が。玄関へ出てきた人を見てアッシは驚きましたねぇ。明美さん、その人だったんですから。


まさか、下田の家に来ているとは夢にも想っていなかったですからなぁ。しかも、なんと可愛い赤ん坊を抱いていらしゃるじゃありませんか。二度驚ろかされたアッシでござんした。明美ちゃんが結婚していたなんてぇ事はちっとも知らなかったアッシでございましたから。


話しを聞けば、明美ちゃんは高校卒業後、「全日空」の「スチュワーデス」になっていたとのことでごぜぇましたでやんすよ。中学生の頃の夢を実現していたんでさぁ。

その時は「お大師さま」のおばぁちゃんはこの世を去っておられましたが、きっと、おばぁちゃんがアッシに明美ちゃんと巡り逢わせてくれたんだなぁと想いましたでやんすよ。

その赤ん坊が、なんと高校生の時と、大学生の時に北の大地の我が家に遊びに来てくれるとはそれこそ夢にも想いませんでしたな。「縁」とは不思議なものですなぁ。


その赤ん坊であった「章人君」が、これまた小百合ちゃんの弟の、あの元冶君と同じ教職の道へ進んで行かれたんですからなぁ。しかも最初の赴任地が、北の大地の稚内に近い「斜内小学校」だったんですから、どこまで縁が有るものやら。

今はもう一児の父親になっておられますんで。そうなんでございます、冒頭の「おハル坊」が章人君の可愛い娘さんなんでごぜぇますだ。


大学1・2年は大泉学園「北海道学生会館」、3年は「阿佐ガ谷」、4年が「吉祥寺」と転々とした学生時代でごぜぇましたなぁ。中でも、「吉祥寺」の下宿時代は、北海道学生会館当時の仲間7人での合同生活をしておりやしたんで。

先輩が2名で、後は同期生でござんした。炊事生活も、二人一組での一週間交代でこしらえておりやしたんで。まぁ、いろいろと楽しい時代でございましたでやんすよ。






大学四年になって、周囲がいよいよ就職活動へと入っていきましたのでごぜぇますだ。

アッシも地元、北海道の「雪印乳業」に就職したく、その書類を旭川の義父でないとわからない箇所等があり、記載して頂くべく書類を郵送したのでごぜぇますだ。

待てど暮らせどその書類が送られてきません。書類郵送期限が目前に迫ってまいりましたので、アッシはとうとう「書類シキュウオクレ」と電報を打ったのでございました。

即、書類が郵送されてまいりました。喜んだのもつかの間、書類を見てびっくり、唖然といたしましたアッシでございました。何も記入されておらず、こちらから送った状態のままで送り返されてきていたのでございます。


敏信兄に、就職の件で相談に乗ってもらったものの、兄は旭川へ戻り、育ての親の家業を手伝え、それが今まで育てて頂いた恩返しであり、人の道と説得され、とうとう就職することを諦めざるを得ませんでしたのでやんすよ。

そんなこんなんで、アッシも無事大学を卒業し、いよいよ社会の荒波へと巣立っていったのでございます。

つづく


夢のまた夢 ・ 六部

2016年04月22日 13時05分58秒 | 夢のまた夢
☆高校時代2☆




そんな青春時代を謳歌していた高校二年の頃でしたかな。フトしたことで戸籍謄本が入用になることがあり、そこで初めてアッシに妹が居るという事を知ったのでございます。


当時、大阪に居た文雄兄の所へ夏休みに入ったときに行ってみたんでございます。文雄兄は、当時奈良だったでしょうか、或る病院に何かの病気で入院生活をしておりやした実父の「栄司」の病室に連れて行ってくれたんで。


まず、最初に感じたのが、父が、写真で見ていた顔と同じだったことでございます。実父のアッシに云ってくれた最初の最後の言葉が「あ~、吾朗か~」の一言でございました。自分はってぇと、何も云えず、じっと黙ったままでいたのを覚えておりやす。文雄兄とは、結構話をしておりやしたですなぁ。


まもなく、病院を後にしたのでございますが、実父とは、この時が、最初で最後の対面でございました。やはり、いくくら実父と言っても、心にやぁ「オヤジ」てぇ想いがジ~ンと感じてこなかったのを覚えておりやす。生まれの父より、矢張り育ての父でしたなぁ。


病院を出たのは、もう陽が暮れていましたなぁ。それから、文雄兄は、実母のところへ連れて行ってくれましたなぁ。

生まれて初めて逢う「母」、気持ちは複雑でしたなぁ。恨みたい気持ちと、甘えたい気持ちが入り混じっておりましたなぁ。そして、とうとう初対面、写真の顔と同じでしたですなぁ。その夜は、緊張していたのでしょうか、とうとう一言も会話をしなかった、いや、出来なかったというのが本当だったでしょうかねぇ。

「吾朗かい、大きくなったねぇ~」といわれても、アッシにしちゃ始めての人でございます、言葉が出なかったですなぁ。





ところが、不思議なもんでございますなぁ。一夜明けると、なんと自然と言葉がスムーズに出ていたんでございます。16年間、甘えたくとも甘えられなかった想いが、出たのでございましょうか。


わがままをいってみたくなりやしたなぁ。これが、俗に言う「血の繋がり」てぇもんだったんでしょうかねぇ。結構、甘えたことをかすかに覚えておりやす。

そんなこんなで、一晩の初対面でしたが、四国徳島に居るという実妹に逢いに翌日、大阪をあとにしたんでございまず。



いってぇどんな妹だろうと想像しながら、和歌山県のどこかから船に乗って、ひとり徳島に向かったんでさぁ。。若かったんですなぁ。
千葉から四国徳島まで逢いたさ一念で行ったんですから。勿論、北海道の義父には内緒でしたなぁ。

徳島の鴨島てぇ所にお袋の姉の鶴子叔母さんが住んでおられましてな、先ずそこをおとづれたんで。鶴子叔母さんはアッシが二歳の頃、お袋に連れられて行ったアッシを良く覚えていてくだすって、涙をこぼして歓迎してくださいましてね。アッシは全然覚えちゃいませんでしたがねぇ~。


ちょうどアッシがその家にお邪魔していたのがお昼頃でしたかね。そんなときに「こんにちは~」てぇと云いながら家の中に飛び込んできた子が居たんでさぁ。


その子がなんとアッシの妹「康子」だったんでございます。劇的な兄妹の初対面のシーンで懐かしい光景でしたなぁ。

鶴子叔母さんが「康子、お前のお兄さんだよ」って云ってくだすったが、お互いにこの人がお兄さん、この子がオイラの妹、そんな想いでお互いにただ、じっと見詰め合うだけでございましたなぁ。

二つ違いの妹でしたから十四歳、中学三年生だったでしょうかねぇ。このころ、妹はすでに自分の兄弟がほかに居るてぇ事を薄々知っていたらしいんで。その日は兄妹が枕を並べて寝たのを想いだしまさぁ。

ほとんど話しらしい話はしなかったのを覚えておりやす。お互いに照れくさかったのでござんしょう。



翌日、康子の家である芳男叔父さんの家に挨拶方々お邪魔したのを覚えていますぜよ。

とても良い叔父さんでこんな突然やってきたアッシを歓迎してくだすって、「康子に何かがあった時には力になってやってくれ」といわれた時は本当に頭が下がりました。


普通なら突然やってきたアッシをけむたがって当然であったのに親身に接してくだすったのにはアッシも感激しちまいましたなぁ。偉いお方でしたな。お袋のお兄さんにあたる方だということでしたな。

アッシといい、康子といい、とても恵まれた育てのオヤジさんでしたなぁ。




 
腹違いの弟たち、賢司くん、優司くんの存在を知ったのは記憶が定かじゃありませんが、恐らく文雄兄から教えてもらったんでござんしょう。

このまだ見ぬ弟たちに逢いたくてこれまた、住所のみを頼りに単身尋ねていったのが大学時代でしたなぁ。

実は先日まで高校時代の頃と記憶していたんでございますが、ついこないだの東京の敏信兄の葬儀の後日、優司くんからその折の写真を送っていただき、それを見ると大学時代でございましたなぁ。

当時、弟達が暮らしていた奈良県橿原市の「妙法寺」を探し当てたのも弟逢いたさの一心からだったのでしょうなぁ。真っ暗闇のあぜ道を、怖さをしりぞけるために大声で唄を歌ってポツンとかなたに灯る明かりをめざして歩いていったのを良く覚えているのでございます。


これまた何の前触れも無く突然押しかけたアッシを静子おばさんは温かく迎えてくだすったのを良く覚えております。初めて逢った賢司くん、優司くんにアッシを兄として紹介していただいた事を昨日のように覚えてございます。


賢司くん、優司くんともたった一夜の逢瀬ではありましたが血のつながりは恐ろしいもので、兄弟感覚を覚えたのをはっきりと覚えているアッシでございます。

賢司くんはその後、25歳頃に一度旭川へきたことがあり再会しておりやしたが、優司くんとは先日の敏信兄への見舞いの時に逢ったのがその時以来であったんでございます。

昔、たった一度逢っていたことが、再会してもすぐ打ち解け兄弟感覚がよみがえってきたのでございます。その折りにいみじくも賢司くんがもらした一言がアッシの胸を打ちましたんで。

「オヤジは仕様もあらへんかったが、子供を仰山作ってくれた事だけは感謝しなきゃならんかもなぁ」と・・・・。





そんなこんなで高校三年を迎えたアッシだったんでさぁ。

アッシは大学進学だけは辞退しようと想っておりやして、義父にやぁ、もう高校に行かせていただいただけで充分でございますと、言ったんですが、育ての親父さんのあまりにも熱心な進学の勧めの心意気に負け、いつしか応えてしまい進学してしまったのでございます。

この進学がその後のアッシの一生に大きく関わってくるとはその時のアッシには想いもしなかったのでございます。それにしても進学させていただいたことは感謝しているアッシでございます。

大学は「上智大学」と「明治大学」二校を受験いたしましたが、第一志望の上智大学は見事落ちてしまいましたなぁ。かろうじて第二志望の明治大学にゃ引っかかって助かりましたんで。


でも今でも忘れられないのが、第一志望校の合格発表の日のことでございます。

帰宅すると愛子姉が「お赤飯」を炊いて用意していたんでさぁ。あの時の「お赤飯」の味は辛いものがありましたなぁ。今じゃ、笑い話になっちまったが。

へぇ、アッシは受験寸前の頃、東京の敏信兄、愛子姉のアパートに転がり込んでおりまして、 あん時は「尾久」のアパートに住んでいましたなぁ。受験ということで、兄姉には、こちらが気を使ってしまうほど、気遣いしてもらって、まいりましたですなぁ~。

つづく



夢のまた夢 ・ 五部

2016年04月21日 11時36分28秒 | 夢のまた夢
☆高校時代1☆




まだ北の大地には残雪の光景が見受けられる四月、アッシは千葉の高校へと北の大地をあとにしたんでございます。

上野から常磐線で三十分ほどの南柏というところにその高校が有ったんでさぁ。「広池学園麗沢高等学校」というその高校は男女共学、全寮制の学校であったんでございます。

敷地面積は何万坪とゴルフ場も有する広大な敷地でござんした。桜並木が構内にあって入学の頃はちょうど満開であったのを覚えておりますんで。


一学年三クラス編成で、全学年でもわずか九クラスしかなかった高校であったんでさぁ。北は北海道から、南は鹿児島まで学生が日本中から集まっていた学校でございました。


時は昭和三十五年四月でございましたなぁ。アッシのクラスは一年C組でしたな。寮は六号舎で別名「清涼殿」と。そうでございます、あの「源氏物語」の「清涼殿」でございます。

寮長は藤田さんという温厚な先輩でございましたなぁ。寮内は先輩後輩の上下関係が厳しく一部屋十二畳間、三年生一人、二年生二人か一人、一年生が二人か一人の四人制で三年生は「部屋長」、一年生は「部屋っ子」と呼ばれていたんでございます。一年生は部屋の掃除から小間使いの役割でございましたな。




寮は平屋の萱葺きで一寮十二室有り、男子寮六寮、女子寮は三寮あったと記憶しておりますがもう定かじゃねぇ(笑)。

寮生活での生活は六時起床、毎朝雨天以外、各寮六時半迄に洗顔、部屋、廊下の掃除を済ませそれぞれの寮の前に整列、先頭には各寮の寮旗を掲げグラウンドまで掛け声をかけながら走ったもので。


そこで「ラジオ体操」を済ませた後、食堂で全員朝食を。食事の支度は一週間置きに一部屋が当番にあたり朝、昼、晩の各寮生の食事の支度、後片付けをしたのでございます。

八時半に登校し授業から開放されたのが午後三時、それから各自、部活動へとわかれていったんで。夕食は六時食堂にて。学習時間が七時から九時まで二時間あり、それから大浴場の風呂へと出掛けたんでございます。


十時消灯で部屋の明かりは消され、勉強する者は、部屋に備え付けられた各自の座り机のスタンドの明かりにて勉強したのでございます。これが寮生活の大体の一日の生活サイクルであったんで。




 
「チッ、チッ、チッ・・・・」

朝靄の中で小鳥のさえずりが瞼を開けさせた。ここは、男子寮の一室である。目覚めたアッシは、今日が日曜日であったことを想いだした。

しばらく煎餅布団の中でボンヤリと物思いに浸る坊主頭の若者。ふと寝床の中から窓の外に目を向けるとサクラの花びらがヒラヒラと散り始めていた。こんな風景の寮生活でございましたなぁ。

  
この寮生活で面白かったのが「ストーム」というものでございましたな。それが「嵐」という意味だということだとわかったのはアッシが一年の夏頃でございました。英語の力が無かったんですなぁ。(笑)。


「ストーム」というのはどんなものかと申しますとね、寮生活で勉強時間というのが決められていましてね。あっ、これは先ほど説明いたしやしたね。

この七時から九時までの勉強時間が終わろうとする5分前におこなわれたものでございます。


どんなものかてぇというと、或る寮の寮生全員三十五名~四十名がこっそり八時四十五分に外へ忍び出て、他の寮の各部屋の窓の下に抜き足差し足の忍び足で、それぞれ配置につくので。

寮というのは、平屋建てであったので各部屋の窓は背丈の高さのところにあったのでございます。この行動はすべてすみやかに沈黙無言の元で行なわれたのでございます。


そうそう、この学習時間の七時から九時までは部屋の明かりは消されており各自の机のスタンドだけが灯りでございました。

この勉強時間が終了する五分前、(九時には自習時間の終了の鐘がなるのでございます)。窓の下にこっそりと忍び寄っていた寮生が、寮長の合図で一斉に窓のサンを両こぶしでひたすら、ガタガタと叩き出すのでございます。



ガタガタガタ!ガタガタガタ!という音が突然にシーンと静まり返っている敷地内にいっせいに鳴り出すのでございます。その部屋で静かにそれまで勉強していた寮生達を驚かすのが 目的なのでございます。

これが「ストーム」でございました。寮と寮との親睦を図るのも一つの目的だったので。

この「ストーム」なるものは、たしかイギリスの寮生活を送っている学生たちが始めたものであるとか先生から聞いたことがございます。



アッシ達も「ストーム」を他寮に仕掛けたり、また他寮からも仕掛けられたんでございます。

傑作だったのは、どこからか他寮が今夜自分たちの寮に「ストーム」を仕掛けてくるという極秘ニュースが漏れてくるときがあったんでさぁ。そんな時は、その時のために「バケツ」に水をマンタンに満たしておき、「ストーム」を仕掛けられた瞬間にガラッ!と窓を開け、そのバケツの水を窓のサンをたたいていた相手に頭から掛けてやるのでございます。


掛けられたほうがビックリ!ズブヌレ状態になるので。すべて、若いから出来たことでございましたなぁ。そんな素晴らしい青春時代をアッシは過ごして居たんでございます。これもすべて育ての親のお陰でございました。感謝しなけりゃなりませんな。

この行事「ストーム」は、季節的には新入生が入学したばかりの四、五月に集中しておりました。新入生は初めての経験でびっくりするのでございましたが、そのうちにこの行事が快感となってくるのでさぁ。






夏が近づいてくる頃にゃ寮毎に、「新入生歓迎肝試し大会」が行われるのが恒例行事の一つでございました。

その夜は出発する前に先輩が「怖い怖い話」をするのでございます。そして九時半頃、一人一人時間を置いて寮を出発、決められたコースを通過証明書を先輩からもらってくるのでありました。

中にはコースを間違えて夜が白白と明けてくる頃ようやく寮に戻ってくる寮生もございましたなぁ。何Kmも歩くコースで、それも十分置きに一人ずつ出発するという、とても凝った「肝試し大会」だったので。


何ケ所かの関門を通過し、その証拠を手にし帰寮するのでさぁ。とにかく、学校の敷地以外に夜中、出発するのでございますから、所は街の中なんかじゃない、山の中に建っている学校で。敷地外も、もちろん草深き山の中でございます。

懐中電灯一個持参で、ジャージ姿で出発するのでございます。灯りなどは道の周囲などには全然なく、月の灯りだけが頼りでありました。道といってもけもの道に近いものでございましたなぁ。





ちなみにアッシは、この「肝試し大会」で神社の石段につまずいて転倒し、右足のサラの部分を複雑骨折し三ケ月の入院治療に当たる羽目になったんで。

転んだ時は周囲の暗闇の怖さに気を取られ、痛みはそれほどでもなかったのでございますが、翌朝の日曜日に、東京から敏信兄と愛子姉が入学後初めてアッシの顔をわざわざ東京から見にきてくださった時にゃ起きあがることが出来なかった重症でございましたんで。


即、兄たちに連れられて兄たちの住まいの近くの東京の個人病院へ入院したアッシでございました。 

東京で入院生活していた時は、このときとばかり愛子姉に甘え、しまいには怒られるほどの甘えん坊を発揮したアッシでございました。
そりゃ無理もなかったんでぇ。姉たちと再会出来たのは何年振りかのことで、甘えることが出来たのはこの時だけだったんですから。でも十五の歳にしちゃ確かにふがいなかったアッシでござりましたねぇ。


この東京での入院生活は一ケ月は有ったでしょうかね。学園に戻っても一ケ月は療養所で入院していましたなぁ。寮に完全復帰するまで三ケ月近くもかかったようで。入学早々、こんな状態で授業もほとんど受けないままに試験に臨む羽目になっちまって。ええっ?問題は解けたかったかって?勿論、ほとんど出来なかったでございますよ。





 
こんな中、一ケ月に一度大食堂で男女混合の「会食」が行われるのが恒例であったんでさぁ。

この「会食」てぇのは、普段は寮毎にそして各部屋毎に席があり食事を採るのですが、「会食」の時だけは、女子が男子席の間間に席を取って一緒に食事をするのでございます。


この一ケ月に一度の会食の時は、一つの寮が寸劇を行うのが恒例となっていたんで。これがまた非常にユニークのものが多く順番にあたった寮は一ケ月も前から密かに練習を開始するのでございます。

アッシが一年の時、この「会食寸劇」で主役を諸先輩から命令されたんで。先輩の命令にゃ絶対服従の不文律が。なんと寸劇のタイトルは当時 一年生の国語の教科書に載っていた「勧進帳」でございました。 


そう歌舞伎で有名なあの「勧進帳」でございます。この晴れ舞台?のお陰でアッシの名は翌日には全校生徒に知らぬ人は居ないというほどの有名人?になっちまったんでございます、へぇ。

アッシが演じたのは「代官 富樫」でしたなぁ。相手役の弁慶役には三年生の柔道部の猛者、大柄の先輩が演じたんでございます。有名なあの白河の関所越えでのシーンをほとんどこの二人で演じたので。


今でもそのときのセリフの一つを鮮明に 覚えているアッシでございます。 「頭上にいただくときんはいかに?」という有名なセリフを、「頭上にいただく、ハットはいかに?」と英語を各所に入れ、セリフをアレンジし、面白おかしく演じたのでございます。

この丁々発止のやりとりが、会場に大爆笑の渦を引き起こし爆笑につぐ爆笑で、いっぺんに名前を売ってしまったのでございます。それからは「学年対抗弁論大会」「応援団団長」等さまざまな体験をさせていただいたアッシでございました。



 
そんなこんなで青春時代の高校時代を、上野まで三十分という千葉県下の、とある田舎で過ごしたアッシでございました。

その高校も今や時代の波に勝てず全員寮生活であった昔の姿も年々少なくなり、現在は半分以上の学生は通学となっているとの事でございます。もちろん当時の木造平屋建ての六つの萱葺きの寮も鉄筋コンクリート造りに変貌しているとか……。てぇいうことはあの「ストーム」行事も今や、 伝説的なものとなっているのやも知れませんなぁ。


また、当日にパンツを洗濯していた洗面器で「焼き飯」を作って部屋の住人みんなで食べたのも懐かしい思い出でございます。箸なんてぇものは使わずにスプーンでガツガツ食べていやしたんでやんすよ。

そうそう缶詰も缶きりなんぞは使わずにスプーンで開けていましたなぁ。そんなことも今の時代は姿を消しているのかも知れませんなぁ。。

つづく


夢のまた夢 ・ 四部

2016年04月20日 11時10分23秒 | 夢のまた夢
☆中学時代☆

  

ナンダカンダ月日は流れアッシも気が付いたら、詰襟の学生服を着ていたんでございます。

中学一年の秋、クラスから生徒会副会長に立候補した者がいて先生から「お前、応援弁士をやってくれ」と云われ、何の躊躇も抱かずその大役をすんなり引き受けてしまったんで。どうにか立候補者の人格のお陰で一年生ながら生徒会の副会長に当選してくれたのでホッとしたのを覚えていますんで。

それ以来クラス対抗弁論大会やらに抜擢されまいった次第でございます、へぇ。そうそう、そのクラス対抗弁論大会じゃ弁論タイトルがなんと、「我れは思う!交通道徳に一言」だったんですから笑ってしまいますよなぁ。中学生の問題としては的がはずれていましたから。でも、考えてみればその頃から交通事故が大きな社会問題だったんですなぁ。見事、落選しましたがね、クラスの級友に申し訳なかったでござんすねぇ。



アッシが中学三年の頃、「黒い花びら」「有楽町で逢いましょう」の流行歌が一世を風靡した頃でござんした。アッシも丁度、変声期の時期にあたり級友から「低音の魅力」と、もてはやされたんでさぁ。我ながら渋い低音の声でございましたなぁ。


良く口ずさんでいたのが、石原裕次郎、フランク永井の唄でしたねぇ。特に裕次郎の唄はその後も良くうたったもんで。その頃でしたかねぇ、アッシの初恋てぇものをしたのは。ええっ、無論淡い淡い「片思い」で終わりましたがね。

小学校六年の時からの片思いで、我ながらよく四年間も一途に想いを抱きつづけていたもんだと一面呆れる感じも無きにしも有らずで(笑)。

卒業式のあとで、卒業証書を片手にクラス全員で、アッシ達が最後の教え子となっちまって定年退職された担任の古田達蔵先生の自宅に押し掛けたのがついこないだのように想えまさぁ。この恩師も今や亡くなっちまいましたがねぇ。





そうそうこんな思い出もございますなぁ。
アッシが生意気盛りの中学一年生の頃のことで。東京から何年振りかで愛子姉が旭川へ来た時のことでさぁ。

何かだったかは忘れちまいましたが、愛子姉がアッシに何か聞いたんで。それは大したことではない質問であったんでございます。それでアッシが、なんでぇそんな事も知らねぇのかという酷い態度をしてしまったんでございますなぁ。


なにしろ、生意気盛りの頃のことでして今、思い出しても赤面するくらいでございます。そんなアッシを見て愛子姉は「物事を知らないということは恥ではない。それを馬鹿にするような人間こそ恥を知らない人間だ」と。

子供心にこの言葉にゃ応えましたなぁ。今でもそのときの光景をはっきり覚えているんでさぁ。 この教訓はその後のアッシに大きな教訓を与えてくださいましたなぁ。 後年、若い人に良くこの話しをするアッシでございました。

「知らない事は決して恥ずかしいことではない。それよりも知らない事を聞くということこそ大切な事だ」とね、へぇ。





そうそうアッシは、地元の高校を受験せずに千葉県の南柏にある全国から集まっていた全寮制の高校へ受験したんでございます。

何故、級友たちが行った地元の高校へ行こうとしなかったてぇと申しますと、家から離れたかったからなんで。ただそれだけの事だったんでぇ。

受験が二月に札幌のとある家でおこなわれたんでございます。そうですなぁ、受験生は三十人くらい居たでしょうかねぇ。全道から集まっていましたなぁ。

その中で、室蘭から受験に来ていたとても可愛い女の子が居たのを覚えていますわい。四月に受験校で逢えるかもと楽しみにしていたアッシでしたが、残念ながら再会は出来なかったんで。合格しなかったんでやんすよ。今でいう「中山美穂」に似ていた子でしたなぁ。


そうそう、この受験で思い出すことが有るんでぇ。国語の試験で、問題に「はかせ」を漢字にするのが有ったんでございます。

その問題で「博士」の「博」に点が有ったかどうかで、点を書いては矢張り無かったような気がして消しては書き、書いては消しの繰り返したのを良く覚えているんでぇ(笑)。

そんなこんなで、旭川への帰路の列車の中では完全に滑ったと想って、冴えない顔で帰宅したアッシでございました。


合格発表の日、てっきり「桜散る」の電文が届くとばかり想っていたアッシだったんでございますが、なんと「合格おめでとう」の文字であった時は正直嬉しかったですなぁ。

三月始めにそれがわかって担任にその旨を報告すると「お前が我が校で、一番早い合格者だ」と云われたのを覚えていますぜよ。級友が一生懸命に最後の追い込みを掛けているときアッシは一人我が世の春といった気分だったんでぇ、へぇ。




 
そんな上気分でいた或る日の夕方、伊達紋別に引き取られていた守兄が、三年ほど前に旭川の清子姉に引き取られ、姉家族と一緒に生活していたのでございますが、その守兄がひょっこりアッシを尋ねて来てくだすったんでぇ。

それまでは一度もわざわざ尋ねて来てくれることなどなかった兄だっただけにとても嬉しかったのを覚えているんで。お店の隣にあった小さな喫茶店で一時間ほど話をしていきましたかなぁ、

その話の中に「かあさんに逢いたいか?」って聞かれた一言を忘れることが出来ねぇアッシでございます。そして、マンちゃんは「じゃな~」と云って去っていったんで。

まさか、それが今生の別れになろうとは夢にも想わなかったアッシでございました。その後、守兄は京都の文雄兄、東京の敏信兄、愛子姉と逢って行ったと後日聞かされやした。

それじゃあの時は密かに別れの気持ちでアッシに逢いにきてくれたんだということが後日わかったアッシでございました。





守兄が、室蘭で服毒自殺を図ったという話を聞いた時、アッシは一瞬「このまま死んだ方が兄貴の為に良い」と心の中で想ったんでやんすよ。

このまま助かったら、兄貴はなお辛いんじゃねぇかと想っちまったんでぇ。なんとも冷てぇ弟だったと想うんでございますよ。でもあの時は正直そういう気持ちでございましたなぁ。


守兄を自殺まで追い詰めた原因はてぇと、親父なんでございます。兄が亡くなった時はアッシもまだ子供で、誰もその訳を教えてくれなかったんでございます。

高校二年の折り、当時芦屋で暮らしていた文雄兄の下宿に一泊した時、文雄兄の誰かに書きかけた手紙をなにげなく見付け、その内容で初めて守兄を自殺に追い込んだ訳を知ったアッシだったんでございます。

それまで何も感じなかった親父を初めてうらんだのもその時でございましたな。
ナンダカンダ有りやしたアッシの幼児期、小学校、中学校時代でございましたが、一番悲しかったのはこの「守兄」の亡くなったことでございましたなぁ。。

つづく