詩ー2篇
2019年06月08日 | 詩
ワンスケに
ワンスケという名の犬がいた
本当の名前はチャッピーという
茶色のメスの雑種だったが
お行儀が悪くていたずら好きで
おしとやかとはとても言えず
・・・片足を上げてオシッコをする!
いつの間にかワンスケになってしまった
ワンスケは散歩が好き
軽井沢に連れて行ったことはないけれど
家の近くの田んぼ道をよく歩いた
虫や蛙を追いかけて
干からびたミミズをパクッと食べた
ワンスケは鳥の骨が好き
フライドチキンの骨をやると
バリバリ噛じっておいしそうに食べた
本当は肉のついたのをやりたかったが
人間の食べる分までやれなかった
一度仔犬を六匹産んだが
人に譲ったり死んだりして
散りじりバラバラになって
いつか仔犬を産んだことさえ忘れてしまった
ワンスケとともに十年の歳月が流れた
ワンスケをもらってきた息子は
学校を卒業して家を離れた
ワンスケは大人しい静かな老犬になった
近所の小さな子供達に可愛がられたが
かつてのように体がいうことをきかなかった
十二月のある寒い朝
ワンスケはひとりぼっちであの世に旅立った
僕が退院して家に帰って間もなくのこと
ワンスケが僕の身代わりになったのか
庭の隅にお墓をつくって椿の枝を供えた
小さな石を置いただけの粗末な墓
時々妻とワンスケのことを思い出して話す
ワンスケという名の犬がいた
本当の名前はチャッピーという
茶色のメスの雑種だったが
お行儀が悪くていたずら好きで
おしとやかとはとても言えず
・・・片足を上げてオシッコをする!
いつの間にかワンスケになってしまった
ワンスケは散歩が好き
軽井沢に連れて行ったことはないけれど
家の近くの田んぼ道をよく歩いた
虫や蛙を追いかけて
干からびたミミズをパクッと食べた
ワンスケは鳥の骨が好き
フライドチキンの骨をやると
バリバリ噛じっておいしそうに食べた
本当は肉のついたのをやりたかったが
人間の食べる分までやれなかった
一度仔犬を六匹産んだが
人に譲ったり死んだりして
散りじりバラバラになって
いつか仔犬を産んだことさえ忘れてしまった
ワンスケとともに十年の歳月が流れた
ワンスケをもらってきた息子は
学校を卒業して家を離れた
ワンスケは大人しい静かな老犬になった
近所の小さな子供達に可愛がられたが
かつてのように体がいうことをきかなかった
十二月のある寒い朝
ワンスケはひとりぼっちであの世に旅立った
僕が退院して家に帰って間もなくのこと
ワンスケが僕の身代わりになったのか
庭の隅にお墓をつくって椿の枝を供えた
小さな石を置いただけの粗末な墓
時々妻とワンスケのことを思い出して話す
利根川の橋を渡る
利根川に架かる橋を渡るとき
五月の心は浮きたち思いは沈む
両岸の崖は深く切り立ち
川は帯のようにうねり流れる
赤城榛名の峰は姿をただし
越後の山並みに雪が光る
水はあふれて淵によどみ
浅瀬を白く走る
五月の心は浮きたち思いは沈む
両岸の崖は深く切り立ち
川は帯のようにうねり流れる
赤城榛名の峰は姿をただし
越後の山並みに雪が光る
水はあふれて淵によどみ
浅瀬を白く走る
川は滔々と流れくだり
すべては流れ逝きてかえらず
時去ればみな幻想は消えゆかん
時の流れはとどめ難く
無限のかなたから流れきたり
永劫の果てへと流れ去る
岸辺をさすらった憂愁の影も今はなく
孤独な魂のゆくえを誰も知らない
監獄の長い煉瓦塀が時を忘れて立ち尽し
高い梢を揺らす風が空を吹き過ぎていく
すべては流れ逝きてかえらず
時去ればみな幻想は消えゆかん
時の流れはとどめ難く
無限のかなたから流れきたり
永劫の果てへと流れ去る
岸辺をさすらった憂愁の影も今はなく
孤独な魂のゆくえを誰も知らない
監獄の長い煉瓦塀が時を忘れて立ち尽し
高い梢を揺らす風が空を吹き過ぎていく
将軍塚古墳は地元では通称「王山」と言われている。近年たびたび氾濫危険水位になる井野川の北岸の小高くなった台地の上にある。年に2回町内会総出で草刈りをし、桜の季節には花見をする人も多い。
古墳の上に登ると、特に南側、岩鼻、藤岡、倉賀野、山名方面の見晴らしがよい。時代は逆になるかもしれないが、岩鼻には巨大な前方後円墳の観音山古墳、藤岡には白石稲荷山古墳や七輿山古墳、倉賀野には浅間山古墳があり、山名には上野三碑がある。
考古学者の若狭徹氏によると、将軍塚古墳は、古墳時代の最初期に東海方面から現在の静岡、神奈川、房総を経由して利根川水系を遡って進出してきた勢力が、北関東、東北地域の在来勢力とのせめぎ合いの中で、くさびのように打ち立てた橋頭堡のようなものだと、たしか著書の中で指摘されていた。この勢力がやがて井野川を遡り、三ッ寺遺跡や保渡田古墳群をつくっていったということらしい。
そうだとすれば上毛野氏の始祖伝承の東山道や蝦夷を征服する将軍という(だいぶ時はくだるが征夷大将軍という役職の東国における意味は象徴的だ)位置付けは、何らかの史的な裏付けをもったものかもしれない。
もうひとつ注目すべきは、これも時代がやや降るが、6世紀?に榛名二ッ岳の噴火で被災し鎧を身に纏ったまま発見された古墳人は、おそらく通常であれば古墳に埋葬されるべき首長級の人物であり、骨のDNA鑑定?の結果、信州伊那方面から移ってきた渡来系の人物であろうとの研究成果は大変興味深いものだ。
「古代東国のフロンティア上毛野」小池浩平著(みやま文庫)
「上毛野国と大和政権」黛弘道著(上毛新聞社)
「日本古代の豪族と渡来人」加藤謙吉著(雄山閣)
わが郷土に将軍塚古墳という4世紀頃?につくられたと考えられる前方後方墳がある。その前方部に神社が鎮座ましまして、祀られているのは彦狭嶋王(ひこさしまおう)ということだ。かつて古墳の看板にも、埋葬者は彦狭嶋王と伝わると書いてあったと思うが、今は埋葬者について何も書かれていない。「日本書紀」には、崇神天皇の皇子、豊城入彦命の孫の彦狭嶋王が東山道十五国の都督に任じられたとか書かれてあるらしいが、併せて、任じられたものの東国に赴く前に亡くなったとあるらしい。将軍塚古墳に埋葬されたのは彦狭嶋王なのか、誰なのか。書紀の編纂にも携わったらしい上毛野氏の氏祖伝承として彦狭嶋王の名が挙がっているようだが、それと将軍塚古墳を結びつける何らかの史料があるわけではないようだ。
上毛野氏もまた実態がよく分からない氏族で、紀伊国や河内国と関係があるかと思えば、渡来人とも関わりがあるようで、書紀には朝鮮半島に出兵したり、陸奥の蝦夷と戦ったともある。本当に上毛野国が本貫であったのかどうか。軍事や馬の生産、史書の編纂にも関わったというのは、いずれにしろ当時の先進文化を担った氏族であることには違いなく、その後の激しい抗争の歴史の中で、他の多くの豪族と同じように没落して名のみ残したということだろうか。