今年の元旦は昨年と同じ岐阜の千代保稲荷神社に初詣に行った。
妻、婿夫婦、孫娘とお詣りの行列に並んでいた時、能登半島地震が発生し、震度4の揺れを初めて経験した。
賽銭箱までの参拝者の長い列は、神社が揺らいで軋んでも、乱れなかった。
東海市の婿の家に戻ってからテレビで能登の惨状を知った。
三月一日の夜6時40分頃、会社からバイクに乗って帰宅するときに転倒事故をおこした。
会社の駐車場から30メートルくらいの地点にある国道に合流するT字路で、一旦停車したあと
国道の片側2車線の走行車線に入ろうとハンドルを左に切りながら発進した。
前輪のディスクブレーキがロックしたように、後輪が外側にスピンした。バイクを立て直そうと咄嗟に右にハンドルを切ったところ、からだがバイクの右に投げ出された。
ハイサイドによるスリップダウンのようにも思えるが、ディスクロータの摩耗によるブレーキパッドのロックが原因だったかもしれない。
キュルキュル、ダッダーンと音がした一瞬の事だった。
現場は緩い上り坂で、逃げ遅れて下敷きになった右脚からゴキゴキと不気味な音を発しながらバイクは止まった。
交通量の多い交差点近くの国道だから、速やかにバイクを路肩に避けなければと思った。
バイクが倒れている右側からバイクを起こそうとしたが、右脚がしびれて全く力が入らなかった。
焦っていると、目の前のバス停から若い男性が二人駆け寄ってきた。
「お手伝いしますよ。」
三人でバイクを起こして、ギアをニュートラルに入れ、バイクを押そうとしたが、前輪がロックした状態でまったく前に進まない。
「助けていただきありがとうございます。後は弟を呼んで何とかしますから、どうぞバスに乗ってください。」
「足の様子が変ですよ。」「折れてるんじゃないですか」「見た方がいいですよ。」
脚に異変が起きている自覚はあった。歩道の縁石に座って、ズボンをめくると右の脛が「く」の字になっていた。
午後6時52分、少し前に会社で別れた弟に電話して事故の状況を手短に話し、助けを求めた。
待っていたバスが来ても二人の男性は私が一人になることを心配して乗車しなかった。
二人に恐縮しつつ109番と110番に救急要請と事故の連絡をした。
ほどなく救急車が到着し、私はストレッチャーに固定されて救急車に運びこまれた。
近くの派出所から来た警察官が救急車のサイドドアから入ってきて簡単な事情聴取を始めた。
弟が現場に着いたようで、「バイクは会社の駐車場に戻しておくから」と、窓の外から大きな声を掛けてくれた。
ラインで妻に事故の経緯と救急車に乗っていることを知らせた。いつものように晩御飯の用意をして私の帰りをまっていただろうに妻に申し訳なかった。
受け入れ病院が決まりサイレンを鳴らしながら救急車が動き出した。午後7時半、救急病院の救急口からストレッチャーに乗ってICUに運び込まれた。
主治医が患部を診察したあと、レントゲン技師が来てベッドに寝た状態で患部をレントゲン撮影した。
治療方針が決まるまで、ICUの患者は私一人だったので、保険会社と警察に事故手続きの連絡を、妻や弟に現状を携帯で話した。
尿意をもよおしたので女性介護士に告げると尿瓶を渡された。
尿瓶を使うのは初めてだった。
ICUに新たな患者が搬入されたのを機に介護士が私にICUでの携帯使用をやめるように言った。
午後9時40分、治療方針が決まったようで、主治医たちがICUに戻ってきた。
怪我は右脛骨と腓骨の複雑骨折と診断された。
手術の準備の為、主治医が私の曲がった脛の整骨を始めるが、痛み止めの点滴をしていても激痛が走った。
主治医が私の我慢強さに驚いていた。
「く」の字になった脛が戻ったので、この後私はギプスを脚に巻かれて家に帰れるのだろうと思った。
しかし実際は私の患部はかなりの重傷で、救急搬送された総合病院では手に負えないものだった。
搬送された病院の主治医が大学病院の整形外科の医師と手術方法を話し合った結果、
本手術をする大学病院の受け入れ準備ができるまでの応急手術を総合病院で行うことになった。
緊急オペの為、応援の外科医、麻酔医たちが夜分に招集された。
午後11時30分、手術室に運ばれ、バルーンにつながった導尿管を挿入され、心電図、点滴など各種のチューブを繋げられた。
介護士にオシメを履かされるのはちょっと恥ずかしかった。
午後11時30分、スタッフが揃い、真夜中の手術が始まった。
下半身麻酔での手術のため、医師たちの会話やドリルで脛骨に穴をあける音や振動が伝わったが痛みはまったく感じなかった。
日付が変わって午前1時40分、「創外固定」手術が無事終わった。