妻が美大の時の友人とグループ展を開くことになりました。近くを通りかかることがありましたら、覗いてください。
タイトル:53の会 三人展(昭和53年女子美工芸卒)
日時 :2010年4月5日(月)~4月10日(土)
10:00~17:00(初日12:00より/最終日15:00まで)
場所 :東京都中央区築地2-11-12 うおがし銘茶築地店5F 茶の実倶楽部
会場℡ :03-3542-2336
最寄の駅:地下鉄有楽町線、新富町駅4番出口
タイトル:53の会 三人展(昭和53年女子美工芸卒)
日時 :2010年4月5日(月)~4月10日(土)
10:00~17:00(初日12:00より/最終日15:00まで)
場所 :東京都中央区築地2-11-12 うおがし銘茶築地店5F 茶の実倶楽部
会場℡ :03-3542-2336
最寄の駅:地下鉄有楽町線、新富町駅4番出口
亡き父は帝国海軍あがりだけあって、子育てにも厳しい人だった。
私が幼児の頃、亡き父が怒りを爆発させながら箒を手に追いかけてくるのを、私は必死に走って街中を逃げ回ったことがあった。今なら幼児虐待で警察に通報されるかもしれない。父が私を叩くのを見るに見かねて、第三者が止めに入ることも度々あった。
しかし私には、父から体罰を受けたというつらい記憶がない。怒られながらも父とのスキンシップを快く感じていた部分があったのだろう。
当時は店と住まいが一緒になっていたのだが、衆人環視の店先で父に捕まって叱られている時、ちょっぴりウンチを洩らしてしまったことがあった。私は叱られながら、兎の糞のようなものが私のズボンの裾から転がり出て父の足元で止まるのを見ていた。ウンチを父に見られたら、さらに父の怒りが増すところだった。私は頭の上で聞こえる父の小言よりもウンチの行方が気になっていた。豆のようなウンチが父の雪駄に踏まれてぺっちゃんこになるのを見届けながら、私はうつむいたまま必死に笑を堪えていた。
父は真面目に怒っていたのに、私はなんて不謹慎だったのだろう。
私が幼児の頃、亡き父が怒りを爆発させながら箒を手に追いかけてくるのを、私は必死に走って街中を逃げ回ったことがあった。今なら幼児虐待で警察に通報されるかもしれない。父が私を叩くのを見るに見かねて、第三者が止めに入ることも度々あった。
しかし私には、父から体罰を受けたというつらい記憶がない。怒られながらも父とのスキンシップを快く感じていた部分があったのだろう。
当時は店と住まいが一緒になっていたのだが、衆人環視の店先で父に捕まって叱られている時、ちょっぴりウンチを洩らしてしまったことがあった。私は叱られながら、兎の糞のようなものが私のズボンの裾から転がり出て父の足元で止まるのを見ていた。ウンチを父に見られたら、さらに父の怒りが増すところだった。私は頭の上で聞こえる父の小言よりもウンチの行方が気になっていた。豆のようなウンチが父の雪駄に踏まれてぺっちゃんこになるのを見届けながら、私はうつむいたまま必死に笑を堪えていた。
父は真面目に怒っていたのに、私はなんて不謹慎だったのだろう。
高一の夏、叔父に中古の原付きバイクを貰った。私は15歳でまだ無免許だった。
バイクは郵便局の払い下げ品で、黒色の地味な通勤用バイクだったが、バイクの楽しさを知るには十分だった。私のバイクの事を知った級友3人が、バイクに乗りたいというので、山の中の集落までバイクで移動し、嬉々として交替でバイクを乗り回した。3人は一日でバイクを卒業し、元の勉強の虫に戻っていった。
私は益々バイクに夢中になった。
ある夜、ヘッドライトが故障したバイクに中学生の弟を後ろに乗せ、街中を走りまわっていてパトカーと遭遇した。無免許、無灯火、原付二人乗りで捕まった。
バイクと私たちの身柄を引き取るために義父が来るまで、私たち兄弟はパトカーの中で事の重大さに小さくなっていた。
歩いてやって来た義父は私にバイクを与えていたことで警察官から厳重に注意をされた。
パトカーが去ったあと、落ち込んでいた私たちを、義父は怒るどころか、「3人乗りで帰ろやないか」と言って笑わせた。義父はバイクを押すのをやめ、私たち二人を乗せて無灯火でバイクを走らせた。
私はその頃16歳になっており、自動二輪免許を取ろうと思っていたが、無免許運転を反省して、急いで原付免許を取得した。
違反の件で検察に出頭したとき、検察官にどうやって来たか聞かれ、バイクで来たと少し誇らしげに言った。
「そんな馬鹿な。無免許で捕まったのに免許が貰えるわけがないやろ。」と検察官は怒った。そして私の免許証を確認すると、方々に電話をかけた。運転免許試験場かどこかでミスが起きたようだった。
その後、義父がホンダCB350を買い、私は自動二輪免許を取得することを学業より優先した。
私の16歳は、自由気儘すぎたようで、ライバルたちと学力の差が開きつつあることも全く気にしていなかった。あまりにも稚拙だった。
バイクは郵便局の払い下げ品で、黒色の地味な通勤用バイクだったが、バイクの楽しさを知るには十分だった。私のバイクの事を知った級友3人が、バイクに乗りたいというので、山の中の集落までバイクで移動し、嬉々として交替でバイクを乗り回した。3人は一日でバイクを卒業し、元の勉強の虫に戻っていった。
私は益々バイクに夢中になった。
ある夜、ヘッドライトが故障したバイクに中学生の弟を後ろに乗せ、街中を走りまわっていてパトカーと遭遇した。無免許、無灯火、原付二人乗りで捕まった。
バイクと私たちの身柄を引き取るために義父が来るまで、私たち兄弟はパトカーの中で事の重大さに小さくなっていた。
歩いてやって来た義父は私にバイクを与えていたことで警察官から厳重に注意をされた。
パトカーが去ったあと、落ち込んでいた私たちを、義父は怒るどころか、「3人乗りで帰ろやないか」と言って笑わせた。義父はバイクを押すのをやめ、私たち二人を乗せて無灯火でバイクを走らせた。
私はその頃16歳になっており、自動二輪免許を取ろうと思っていたが、無免許運転を反省して、急いで原付免許を取得した。
違反の件で検察に出頭したとき、検察官にどうやって来たか聞かれ、バイクで来たと少し誇らしげに言った。
「そんな馬鹿な。無免許で捕まったのに免許が貰えるわけがないやろ。」と検察官は怒った。そして私の免許証を確認すると、方々に電話をかけた。運転免許試験場かどこかでミスが起きたようだった。
その後、義父がホンダCB350を買い、私は自動二輪免許を取得することを学業より優先した。
私の16歳は、自由気儘すぎたようで、ライバルたちと学力の差が開きつつあることも全く気にしていなかった。あまりにも稚拙だった。