気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

みんなの御蔭で乗り切る激動の一年③

2024-12-29 23:55:23 | イラスト

入院七日目、真夜中にナースが点滴や尿バッグの交換に来るたびに目が覚める。5時10分、眠れなくなったので、スマホでヤフーニュースをチェック。

退屈なのでベッドの背もたれを少し上げて、腹筋を始めた。角度を変えながら七十回を3クール。

午前7時50分、朝食

午前8時50分、一人で車椅子を使ってトイレで用を足すことに成功

午前9時、ナースによる採血

午前9時10分、主治医ら3人による回診、具合の確認、脚の固定金具の増し締め

午前9時15分、ヘルパーさんによる体拭き

午前10時20分、リハビリセンター

午前11時、レントゲン撮影

午前11時30分、病室に戻って昼食を待つ

午後5時38分、主治医が来て、4日後の大学病院へ転院する段取りの説明を受ける

午後6時30分、夕食後、10時消灯

この日のリハビリは車椅子からの立ち座りを200回したあと、寝台に寝て両脚の太腿をゴムベルトで固定してから左脚を左に開く事を80回、左脚を上下に動かす事を114回した。

右脚はまだ動かさない。

午後は病室でフリーなので、顧客や勤務先、取引先に携帯で連絡を取ったりするが、ベッドの仕切りカーテンの外から咳払いがすると恐縮する。

4人部屋を3人で使っているが、携帯で話す声をいくら抑えても病室では騒音になってしまう。

入院11日目、主治医が同伴した救急車にストレッチャーで乗車して大学病院に搬送された。

転院2日目、いよいよ骨折部位の本手術を受ける。

 

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みんなの御蔭で乗り切る激動の一年②

2024-12-26 23:02:54 | イラスト

手術台からキャスターの付いた電動ベッドに移されて、ナースセンターの隣の病室に運ばれた。点滴、導尿管、心電図などのコード類に囲まれ、ナースが入れ替わり様子を見にくる中、途切れ途切れだが、寝ることができた。

入院した翌朝、緊急入院したために朝食が用意されないので、妻が買ってきたホットドッグと炊き込みご飯のおにぎりを二つ食べた。前日の昼の食事以降、何も口にしていなかった。

昼食から病院常食が開始となった。

排泄に関して尿はチューブからバッグに勝手に溜まっていくので心配ないが、問題は便だった。

ナースにトイレに行きたいと訴えたら、おむつでしてくださいと言われた。

入院三日目、長男、長女、次男にラインでバイク事故の報告をした。メーンバンクの担当者や自動車保険の社員、交通課の警察官とのやり取りで少し気が紛れた。

前日から我慢していた排便は尊厳にかかわるので、新人ぽいナースに当たったときに車椅子でトイレに連れていって欲しいと願い出た。

ベッドから車椅子に何とか座ることができたので、右脚の格子状のロッドを右手で掴んで持ち上げ、ナースに車椅子を押してもらって病室を出た。

車椅子のまま入れる広い個室トイレに入ると、左脚で上体をさええながらくるりと回って便座に腰かけることができた。

ナースが「終わったらコールボタンを押してください」と言って私を一人にしてくれた。トイレで用を足すことができて入院生活に自信がついた。

入院四日目、ナースセンターとなりの三人部屋から一般の四人部屋に移動した。

コロナ禍以降、外部の人とは面会室でしか会えない決まりだが、銀行の担当者二人と病室で書類のサインや捺印のやり取りをした。

入院六日目、リハビリを開始した。

ナースと車椅子で4階の病室から一階のリハビリセンターに移動した。

平行棒の入り口に車椅子を停めてタイヤをロックすると左右の平行棒を両手で掴み、車椅子から立ち上がっては、座ることをを30回繰り返した。

車椅子なしに移動がままならない生活が始まり、次第に車椅子が体の一部になっていった。

 

 

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みんなの御蔭で乗り切る激動の一年①

2024-12-10 18:25:07 | イラスト

今年の元旦は昨年と同じ岐阜の千代保稲荷神社に初詣に行った。
妻、婿夫婦、孫娘とお詣りの行列に並んでいた時、能登半島地震が発生し、震度4の揺れを初めて経験した。
賽銭箱までの参拝者の長い列は、神社が揺らいで軋んでも、乱れなかった。
東海市の婿の家に戻ってからテレビで能登の惨状を知った。

三月一日の夜6時40分頃、会社からバイクに乗って帰宅するときに転倒事故をおこした。
会社の駐車場から30メートルくらいの地点にある国道に合流するT字路で、一旦停車したあと
国道の片側2車線の走行車線に入ろうとハンドルを左に切りながら発進した。
前輪のディスクブレーキがロックしたように、後輪が外側にスピンした。バイクを立て直そうと咄嗟に右にハンドルを切ったところ、からだがバイクの右に投げ出された。
ハイサイドによるスリップダウンのようにも思えるが、ディスクロータの摩耗によるブレーキパッドのロックが原因だったかもしれない。
キュルキュル、ダッダーンと音がした一瞬の事だった。

現場は緩い上り坂で、逃げ遅れて下敷きになった右脚からゴキゴキと不気味な音を発しながらバイクは止まった。

交通量の多い交差点近くの国道だから、速やかにバイクを路肩に避けなければと思った。
バイクが倒れている右側からバイクを起こそうとしたが、右脚がしびれて全く力が入らなかった。
焦っていると、目の前のバス停から若い男性が二人駆け寄ってきた。
「お手伝いしますよ。」
三人でバイクを起こして、ギアをニュートラルに入れ、バイクを押そうとしたが、前輪がロックした状態でまったく前に進まない。
「助けていただきありがとうございます。後は弟を呼んで何とかしますから、どうぞバスに乗ってください。」
「足の様子が変ですよ。」「折れてるんじゃないですか」「見た方がいいですよ。」
脚に異変が起きている自覚はあった。歩道の縁石に座って、ズボンをめくると右の脛が「く」の字になっていた。
午後6時52分、少し前に会社で別れた弟に電話して事故の状況を手短に話し、助けを求めた。

待っていたバスが来ても二人の男性は私が一人になることを心配して乗車しなかった。

二人に恐縮しつつ109番と110番に救急要請と事故の連絡をした。
ほどなく救急車が到着し、私はストレッチャーに固定されて救急車に運びこまれた。
近くの派出所から来た警察官が救急車のサイドドアから入ってきて簡単な事情聴取を始めた。
弟が現場に着いたようで、「バイクは会社の駐車場に戻しておくから」と、窓の外から大きな声を掛けてくれた。
ラインで妻に事故の経緯と救急車に乗っていることを知らせた。いつものように晩御飯の用意をして私の帰りをまっていただろうに妻に申し訳なかった。

受け入れ病院が決まりサイレンを鳴らしながら救急車が動き出した。午後7時半、救急病院の救急口からストレッチャーに乗ってICUに運び込まれた。
主治医が患部を診察したあと、レントゲン技師が来てベッドに寝た状態で患部をレントゲン撮影した。
治療方針が決まるまで、ICUの患者は私一人だったので、保険会社と警察に事故手続きの連絡を、妻や弟に現状を携帯で話した。
尿意をもよおしたので女性介護士に告げると尿瓶を渡された。
尿瓶を使うのは初めてだった。
ICUに新たな患者が搬入されたのを機に介護士が私にICUでの携帯使用をやめるように言った。

午後9時40分、治療方針が決まったようで、主治医たちがICUに戻ってきた。
怪我は右脛骨と腓骨の複雑骨折と診断された。
手術の準備の為、主治医が私の曲がった脛の整骨を始めるが、痛み止めの点滴をしていても激痛が走った。
主治医が私の我慢強さに驚いていた。
「く」の字になった脛が戻ったので、この後私はギプスを脚に巻かれて家に帰れるのだろうと思った。
しかし実際は私の患部はかなりの重傷で、救急搬送された総合病院では手に負えないものだった。
搬送された病院の主治医が大学病院の整形外科の医師と手術方法を話し合った結果、

本手術をする大学病院の受け入れ準備ができるまでの応急手術を総合病院で行うことになった。

緊急オペの為、応援の外科医、麻酔医たちが夜分に招集された。
午後11時30分、手術室に運ばれ、バルーンにつながった導尿管を挿入され、心電図、点滴など各種のチューブを繋げられた。
介護士にオシメを履かされるのはちょっと恥ずかしかった。
午後11時30分、スタッフが揃い、真夜中の手術が始まった。

下半身麻酔での手術のため、医師たちの会話やドリルで脛骨に穴をあける音や振動が伝わったが痛みはまったく感じなかった。

日付が変わって午前1時40分、「創外固定」手術が無事終わった。

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きっと明るい未来が待っている

2024-01-25 22:16:23 | イラスト

昨年9月に次男一家に二人目が生まれた。五番目の孫はお姉ちゃんになった。

今月2日に長男、次男の家族が私たちが滞在する娘家族の家に集まって新年を祝った。最年長の孫だけは塾で高校受験勉強に励んでいたので会えなかった。

六番目の孫とは初対面だったが、孫はそれぞれ個性があり、将来が楽しみだ。元旦から暗いニュースが続いているが、子供たちは希望の光だ。

孫たちの世代に明るい未来が待っていることを祈っている。

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宗像、大島へツーリング続き

2022-03-22 01:00:53 | イラスト

フェリー「おおしま」の乗客はまばらで、車両はバイク2台とリヤカー1台しかなかった。

客室は一階と二階にあったが、私は迷わず屋上デッキに向かった。

予想以上に乗客の多くが屋上デッキに集中しており、全員寒いのを我慢して景色を楽しみたい観光客のようで、客室内で寛ぐ少数の乗客は地元の方たちと思われた。

フェリーは25分ほどで大島港に到着した。

上陸準備が整い車両甲板に通じるドアが開くのを待っている間、筑豊ナンバーのアメリカンバイクのライダーに声をかけた。

二十代の青年は大島に来るのは二度目だが、初めてバイクで島を巡るのを楽しみにしていた。

「お気をつけて」と青年に声をかけて先にフェリーから走り出た私だが、島内の見どころを周遊する間、何度も青年と再会し、帰りのフェリーも一緒になった。

最初に誰もいない宗像大社中津宮(ナカツグウ)を参拝。

 

次に、天気がよければ49Km先に「沖ノ島」が望めるという宗像大社沖津宮遙拝所を参拝。この日は雲が多く、用意した双眼鏡を通しても沖ノ島を拝むことはできなかった。

大島最高峰の御嶽山山頂にある御嶽神社を参拝。御嶽山展望台より宗像大社辺津宮(ヘツグウ)方面を眺めた。沖ノ島にある沖津宮(オキツグウ)から中津宮まで49㎞、沖津宮から辺津宮まで11㎞の距離で三宮は直線で繋がっている。辺津宮(総社)のあたりは昔は内海だったようで、海上交通で往来していたようだ。

 

御嶽山を降りて島の北岸にある風車展望所に向かった。

馬を驚かせないように徐行しながら牧場を抜けたところに、日露戦争の遺物の砲台群の跡や西洋にあるような風車が現れた。

ここからさらに西の端に神崎大島灯台があるのだが、16時20分発のフェリーを逃すと18時の最終便に乗ることになるので、大島港に戻ることにした。

「大島交流館」の前を通りかかったので、土産を買おうと入館した。入口で消毒、検温をして中に入ると、若い受付嬢に入館者情報の記入を求められた。

記入をしてから「ここで土産を買えますか。」と問うと、大島の魅力を紹介する資料の展示が中心で、二階で書籍は買うことができるという。

入館した目的が違ったが、16時の閉館前に観光客が現れて張り切っている様子の女性に、5分に編集した映像を鑑賞することを勧められて、退出できなくなった。

一階のミニシアターで鑑賞した世界文化遺産「沖ノ島」の映画がよくできていたので、二階の展示室も見ることにした。二階にも映像コーナーがあり二本のタイトルの中から一つを選び

見始めたが、今度は五分を過ぎても終わりそうもなかった。受付嬢に時間がないので放映途中で出ていくことを詫びて、フェリー乗り場に向かった。

フェリーの車両待機所にバイクを停めて、乗船窓口で特殊手荷物券を購入し、バイクに戻った。

係員に土産を買う時間があるかたずねると、乗船開始まで5分あるというので、ターミナル内の売店に駆け付け、大島名物のアカモク2袋、アカモク煎餅1袋、甘夏みかん1袋、沖ノ島日本酒2本セットを購入した。

帰りのフェリーには普通トラックと乗用車にバイク2台が乗り込み、甲板はほぼ満杯になった。乗客も来るときの倍はいるようだ。

屋上デッキの客席に腰を落ち着け、バッグから飴を取り出した。後ろの席の若いライダーに飴を差し出すと自然に受け取った。2時間の慌ただしい大島ツーリングで共感するところがあった。

16時50分ごろ神湊を出発し18時に帰宅すると、妻も仕事から帰ったばかりだった。

家族に心配をかけることなく無事にツーリングを終えることができ、神仏に感謝した。

 

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焼き鳥が嫌いになりそう!

2021-09-24 21:54:15 | イラスト

呼吸器科の病院で処方されたレルベアを一日一回夕食後に吸入し始めて一週間もすると、喘息の症状がやわらいだ。喘息の発作が酷い時に使うように処方された強力なサルタノールの出番がなくて良かった。だが咳込む頻度が減ってきても、処方された薬の使用を勝手にやめると喘息が急激に悪化することがあるとのことで真面目に吸引は続けている。月初めに妻が買った強力な空気清浄機も症状の改善に寄与しているようだ。

妻と私に残された課題は階下の焼き鳥の煙だ。私は居酒屋のオーナーに我々の窮状を穏やかに訴えることにした。

居酒屋店外で焼き鳥を売るようになってから咳喘息を夫婦とも発症したこと。煙が換気口から入って来ないように換気扇をなるべく作動させていること。部屋中にトリ皮を焼く臭いが籠っていること。洗濯物を室外に干せないこと。焼き鳥営業中は窓を開けられないこと。外壁に数か所ある下向きに開いた空気取り入れパイプをビニールで塞ぎたいこと(居酒屋オーナーは住宅設備が本業)。

階下で半分事務所、半分居酒屋の形態で営業を始めて一年を過ぎたが、オーナーとあらたまって話をするのは初めてだった。

オーナーは私の話を聞き終えると、大変恐縮して、自分も咳喘息の治療をしたことがあるので、その辛さがわかると言った。

「こちらのマンションに居住している方の御意見ですから遠慮せずに言ってください。最近の住宅は24時間強制換気をしていますが、ここのマンションは古いので付いてません。換気扇を使うと室内の気圧が低くなり、かえって隙間から外気が入って来ます。外壁のパイプは各戸の天井隔壁の外側に通じるもので、塞いでも意味がありません。私のほうでフィルター付きの24時間作動する換気扇を取り付けますよ。焼き鳥の煙は(南側の)ベランダから入ってくると思いますので、(北側の)玄関の上に取り付けるのが良いでしょう。」

私とオーナーは外壁の換気口や新たな換気扇を取り付ける位置を一緒に確認した。

「換気扇を玄関ドアの上に付けるとマンションの共有部分の外壁に穴をあけることになるので、工事をするには自治会の承諾が必要でしょう。」

「自治会長の○○さんに聞いてみます。」

「私としては店の外で焼き鳥を焼くのをやめてもらえれば良いのですが。コロナが落ち着いたら以前の居酒屋に戻すのですか。」

「そのつもりですが、私も社員を食べせていかなきゃならないし・・・。」

最近、マンションの当番役員が私たちの喘息の事を知って、人の命に関わることなのですぐに換気扇を付けて貰うべきだと言ってきた。

「新型コロナが落ち着けばテークアウトはやめるらしいので、換気扇を付けなくてもいいと思ってるんですが。」

「前より、お店が流行ってるから止めないみたいですよ。聞いた話では、焼き鳥のテークアウト専門の店を出すため、土地を探してるそうです。フェースブックでも宣伝しているみたいで

しばらく今のままの営業を続けるようです。」

階下の居酒屋を新型コロナ禍以前に、夫婦で四回利用したが、二回目に行ったときにメニューの中で焼き鳥が一番うまいと気づいた。

住宅設備会社のオーナーが居酒屋を始めるにあたり、JR小倉駅ビル内の焼き鳥屋のベテラン店長をスカウトしただけあって、炭火で焼いたトリ皮はジューシーで柔らかく絶品だった。

今は畳や寝具から漂ってくるその匂いに悩まされている。緊急事態宣言が解除されれば、久々に階下の居酒屋を利用するつもりだが、トリ皮はもう食べたくない。

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ファイザーワクチン二回目接種完了

2021-06-27 23:35:23 | イラスト

6月2日に一回目、先週の水曜日に二回目の新型コロナワクチンの接種をした。

一回目の接種後、副反応だろうか、倦怠感、手首の関節痛、立ち眩み症状がでた。

二回目の接種後はさらに微熱も出て、立ち眩みの回数も増えたが、次第に落ちついてきた。

緊急事態宣言が解除されたことだし、孫たちの元気な様子を見に行こう。

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久々の雪景色

2021-01-09 02:01:43 | イラスト

1月8日風が止み静かな朝だった。窓の外は一面の銀世界。しかしのんびり眺めているわけにはいかない。道路に雪が数センチ積もっただけで家の前の国道3号は上下線とも大渋滞で車が動いてない。

雨が降ろうと風が吹こうとバイクで通勤しているが道路が冠雪しては走れない。会社まで3キロの道のりを歩くしかない。

パッチとウールのズボン、靴下二枚をはき、ホッカイロを前後に貼り付けたアンダーシャツ、厚手のシャツ、ベスト、セーター、作業着、インナー付きバイク用ジャンパー、ネックウオーマー、マスク、帽子を身につけた。着膨れしてツーリング用の防寒防水ブーツを履くのに手間取った。弁当、水筒、革靴を入れたリュックを背負って普段より早く家をでた。

国道3号を歩く人は私だけのようで、歩道の雪の上に足跡をつけながら歩くのは心地よい。上りの車線は少し動き始めたが、反対車線はほとんど止まったままだ。走行をあきらめたチェーンを装着していない車が路肩に放置されている。普段は気付かないような緩い上り坂で、信号が青になってもタイヤがスリップして発進できない車をスタッドレスタイヤを着けた車がゆっくりよけていく。

家を出てから二つ目のバス停に差し掛かった頃、後方からバスが来た。今日始めて見るバスに迷わず乗った。

バスは通勤客で満席で、一人浮いたような重装備の私は中央部の手摺に摑まった。乗車して程なくバスは渋滞に嵌った。

中心市街地に近づくにつれて渋滞がひどくなり、私は乗車してから二つ目のバス停で降りて再び歩き始めた。目的地に着くまで乗っていたバスが私に追いつくことはなかった。

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きょうちゃん、一歳の誕生日おめでとう。

2020-08-26 22:59:58 | イラスト

昨日から保育園に通い始めて、人生初めての試練だね。

従兄弟たちのように、すくすく育って欲しい。

それがジイジの願いです。

 

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四人目の孫デビュー

2019-10-18 00:48:07 | イラスト

七月末に娘が出産で帰省した。初めての出産で、ただでさえ不安だろうに、産院の検診で、胎児の首に臍の緒が3重に巻いていることがわかり、それを解消するための運動や体操に励んでいた。臨月で人目を引くので、早朝と日没後に、毎日大きなおなかを抱えてウォーキングに出かけていた。定期検診の度、首の臍の緒が2重に減り、予定日近くには解消されて安心していた。

予定日を一週間過ぎても産気がないので陣痛促進剤を投与して出産することになった。入院時の検査で臍の緒が再び首を二周していると指摘された。婿も出産に立ち会うとのことで名古屋から駆けつけてきて、娘の居る特別室に泊まった。

入院翌日、妻は朝から産院で待機した。

仕事中の私の携帯にメールで娘の様子を妻が知らせて来る。

12時2分:「さっき分娩室に移動しました。まだしばらく時間がかかりそうですが。」

13時13分:「赤ちゃんの向きがよくないらしく、いま四つん這いになって向きを変えようと頑張っているそうです。

しばらくまだ時間がかかるということで、〇〇君と私は部屋で待機している状態です。」

13時51分:「逆子ではないけど向きがよくないらしく、赤ちゃんの心音が痛みのたびに弱くなるそうです。

子宮口もまだそこまで開いてないらしく、△△の体力は大丈夫だけど、赤ちゃんが耐えられないかもしれないので

帝王切開に切り替えた方が良いとのこと。もうすぐオペ室に入るようです。」

14時11分:「今、麻酔が終わったところで、2時20分頃、帝王切開で出産予定です!」

私は娘と孫が心配で仕事が手につかなくなり、会社から歩いて5分くらいの産院に駆けつけた。

生まれたばかりの元気な孫を囲む婿と妻の姿を見て極度の緊張状態から開放された。娘も無事だと聞き胸をなでおろした。

父になるのは易いが、母になるのは命がけだと、女性の偉大さをつくづく感じた。

 

 

 

 

 

 

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