気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

遠いクリスマスの思い出

2020-12-24 15:19:27 | イメージ画

 

 昭和29年(1954年)、朝鮮戦争特需後の景気の悪化により、今は亡き父が勤めた繊維会社は倒産した。

 当時31歳の父は、再びサラリーマンになることを選ばず、26歳の妻と2歳の娘、0歳の息子を連れて大阪から故郷に帰った。

 不況の嵐に喘ぐ家具屋を営む両親と弟妹たちを助けるための、覚悟の脱サラだった。

 父の実家は両親と未婚の弟三人と妹二人の7人が暮らしており、弟二人が家業を手伝っていた。

 太平洋戦争中の空襲で失った工場と店舗をそれぞれ再建したばかりで生活は苦しかったにちがいない。

 父は帰郷して後、実家の負担とならないよう、町の中心部に位置するダンスホールの一階を借りて支店を開き、本店と競合しないように、店名に自分の名を一字入れた。

 当時の商店はどこも経営が難しかったと思うが、子供が希望の糧となり、町は活気に満ちていた。

 父の支店は80坪ほどの広さで、奥まったところに50センチほど床を高くした3畳の台所と8畳の板の間があり、そこが一家五人の生活の場だった。

 店を閉めた後、家族の団欒の場に闖入する者がいたが、父や母が無碍にしなかったのは金貸しの取立てだったのかもしれない。

 父は生活が苦しくても、クリスマスには子供たちの夢を壊さないよう、プレゼントを用意して、商品のタンスの上に忍ばせていた。

 それをイブの日に私が見つけたことは父には黙っていた。

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エーワン食堂

2019-02-27 10:22:58 | イメージ画
 1歳から10歳まで私は商店街で育った。木造3階建ての1階を父が借りて家業の支店を開いたのだが、商品の展示を優先したため、店の奥の50センチほど床を高くした六畳の板の間が生活の場となった。店舗との間仕切りは何もなかったので、来店した客からは私たちの生活が丸見えだった。太平洋戦争が終わって9年、朝鮮戦争が休戦した頃で、食べることで精一杯の時代だった。
 夜になって店を閉めると、一家で近くの銭湯に行った。帰り道のキヨスクのような小さな食料品店で牛乳を飲んだり、貸本屋に寄って漫画を借りたりする時もあった。
 家に帰ると母が晩飯を用意し、食べ終わった後は絵を描いたり、父と戦いごっこをして遊んだ。テレビはなかったが退屈した記憶はない。
 たまに家の向かいにあるエーワン食堂から出前をとった。透けるような蒲鉾2切れと葱が入った「素うどん」は20円くらいだったが五人前の素うどんは贅沢だった。
 父がビフテキ(牛肉のステーキ)を次は食べようかと冗談を言っていたが、鯨や豚肉以外、食べた憶えがなかったのでステーキの味は想像するしかなかった。
 エーワン食堂は肉屋の直営店で、進駐軍の兵隊が時々ジープに乗ってステーキを食べに来ていた。厨房から勢いよく揚がる炎が食堂の外からもよく見えた。
 食堂の一角でソフトクリームを売り始めたときは、アイスキャンデーしか知らなかった私は目を輝かしてソフトクリームが装置から出てくるのを見物した。
 テレビが出回り始めると、さっそくエーワン食堂で観ることができたが、お金にならない子供はさぞ迷惑だったろう。
 父が郊外にアパートを建てて引っ越してから、エーワン食堂は遠い存在となった。
 
 成人した頃か、所帯を持った頃か、はっきり憶えないが、エーワン食堂が懐かしくなって、美味しい素うどんとカレーを同時に味わえるカレーうどんを一人で食べた。味は昔のままだった。
 いつでも行けると安心していたら、いつのまにかエーワン食堂は無くなっていた。
  

 
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銭湯にノスタルジーを感じる理由

2017-05-27 23:40:13 | イメージ画
「もはや戦後ではない」と言われた1956年当時、私は3歳だった。太平洋戦争が終わって11年が過ぎても、我が家(店)の向かいにあったエーワン食堂の外の一角で、戦闘帽に白い服の松葉杖をついた数人の傷痍軍人がアコーディオンやハーモニカを演奏して物乞いをしていた。傷痍軍人がいない日は靴磨きが店を開いていた。もう一方の向かいの好々亭には、ジープを横付けて進駐軍が焼きそばを食べによく来ていた。夜になると我が家のニ階の外人相手のダンスホールがたいそう繁盛していた。
 あの頃の門司の町は貧しくても活気があった。我が家はダンスホールの一階を借りて、父が家業の家具屋の支店を開いたのだが、居住スペースは店の奥の6畳の板張りと3畳の台所しかなかった。だが子供たちにしてみれば生活空間は広大だった。商品の洋服たんすでカクレンボをしたり店の前の道路にチョークで絵を描いたり、商店街のあちこちに遊び友達がいた。商品の椅子で電車ごっこをしているうちに、チンチン電車の軌道に出て叱られたこともあった。
 二つ上の姉が小学校にあがる頃、子供部屋が必要になったので店から歩いて3分のところに3件長屋の真ん中を借りた。6畳と3畳の続きの和室に2畳の台所がついてあり、右隣の家との境にそれぞれの家から引き戸で出入りするような落ち着かない和式のトイレは共用だった。右隣の住人は裁縫で生計を立てる独身の女性だったので、新参者の我が家側のトイレの引き戸は開かないように釘で打ち付けられた。店で夕飯を済ませてそろそろ眠たくなると、父と姉と私は店でトイレを済ませて長屋に寝に行った。店で母と一緒に寝る弟がうらやましかった。
 私が小学5年の時、倉庫兼アパートを店から車で10分くらいの地に建てて引っ越すことになった。一つ屋根の下で家族揃って過ごせることが嬉しかった。そして私が一歳のときから続いた銭湯通いが終わった。
 

昭和10年に建った旭湯の内部



旭湯の下駄箱



旭湯のロッカー



旭湯外観
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孫の運動会の打ち上げ

2016-12-21 11:58:52 | イメージ画
 英語で表現。「2016年一番思い出に残る場面は娘の結婚式であり、一番楽しかったのはこの晩餐である。」
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みんな御祖母ちゃんが大好き。

2015-04-30 23:25:46 | イメージ画
 今月妻の母が亡くなった。少しでも長生きをして欲しいと毎日祈っていたが、天寿とあれば諦めるしかない。

 昨年の夏、子や孫たちと義母を見舞った時が最後の別れとなってしまった。もっと早く、義母の意識がしっかりしているうちに会って、感謝の気持ちを伝えておくべきだったと悔いが残る。

 御母さん、あなたの愛情で子供たちはやさしく、りっぱに成長しました。ありがとうございました。(合掌)

   
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亡き父との最後のコミュニケーション

2014-05-31 00:21:24 | イメージ画
 小学校6年になったばかりのある日、学校から帰ると父が病に伏せていた。
 私は学校からもって帰った「6年の科学」の付録を父の傍で広げた。プラスチックでできた凸レンズと凹レンズのセットで、二枚のプラスチックのレンズ型の中に水を満たし、ビニールコードで周囲を止めると、手軽に大きなレンズが出来上がる仕組だった。
 洗面器に水を張り、レンズ遊びに興じる私を父がやさしい眼差しで見ていた。この頃父と一対一で話をすることが少なかったので、私は父に背中を向けたままだったが、父が傍にいることが嬉しかった。 
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今日は亡き父の五十回忌

2014-04-17 22:53:30 | イメージ画
「永遠のゼロ」を鑑賞したあと、亡き父の事を思った。太平洋戦争の末期に学徒出陣で海軍に徴兵され、南方の激戦地に送られた。終戦後、収容所で数年の抑留生活を経て帰国を果たした。私が小6の時に父が他界したので、父から戦争の話を聞かされたことはなかった。ただ私が幼い頃、父が木を削って作ってくれた潜水艦が妙にリアルだったのを覚えている。ゴムを装着したスクリューを巻いて水に浮かべると本物のように動いた。子供のおもちゃなのに、わざわざ灰色に塗装をしたのは父のこだわりだったのだろう。ずっと後になって祖母から聞いた亡き父の戦争体験談を思い出す。父が乗艦していた軍艦が魚雷攻撃を受け、魚雷の航跡が眼下に迫った時、父は甲板の手摺を握り締め「かあちゃん!」と叫んだそうだ。「天皇陛下万歳!」ではなかった。軍艦が小さかったのが幸いして魚雷は艦の下を通過したので、父は助かった。もし父が戦死していたら、私たち姉弟やそれぞれの子、孫はこの世に存在しなかったのだから運に感謝せずにいられない。
 父が生きていた時の最後の記憶は病院のベッドの傍らで、子供たちは為す術もなく危篤の父を呆然と見つめていた。
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人生何事も経験、その二

2010-08-09 23:00:59 | イメージ画
 私が中学生の頃、「天下一家の会」が世間を騒がせたことがあり、ネズミ講は社会悪だと思った。その後、合法的なマルチビジネスが雨後の筍のように出現したが、自分から始まる人のピラミッドを築かなければ、ビジネスチャンスが出来ないところはネズミ講と共通していた。
 アムウェイ、ニュースキン、ミキ食品、等、誘いがあってもマルチ商法には関心がなかった。ある日、親戚からスーパーダイエーの子会社が運営するネットワークビジネスの可能性を教えられ、即座に入会を決めた。それがエックスワンだった。11人の子会員が出来たが、会員制通信販売に重きを置いた健全なネットビジネスだけあって、子会員が増えただけでは何も始まらなかった。洗剤や化粧品のサンプルを子会員にプレゼントしたり、非会員には原価で提供したりして、愛用者を増やそうとしたが、ただの便利屋になってしまった。親会社のダイエーが破綻したこともあり、高額な日用品を使い続けて台所事情が厳しくなってきたこともあって、エックスワンを始めてから7年目に脱会した。商品購入累計は1、369、655円だったが、ダイエーの可能性を信じて株式を買ったことが裏目にでて、株式の損失が980、000円にもなった。福岡のシーホークホテルで開催されたエックスワンセミナーに参加して、大成功した会員が泊まるスイートルームで話を聞く機会があったが、年収数千万を稼ぐようになるまで、相当な出費と苦労をしてきたことだろう。
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人生何事も経験、その一

2010-08-04 00:22:31 | イメージ画
 大晦日の仕事を終えて、7時頃帰宅した。例年なら家族で新年を迎えるゆったりした時間を過ごすところだが、この日は違った。心配する家族を家に残し、私は福岡市へ車を走らせた。
 福岡市郊外の教団支部に集まった巡礼ツアー参加者は、教団が用意していたお遍路さんの衣装に着替え、貸切バス2台に分乗した。車中では旅の安全を祈願してお経をあげるためのマイクが回された。最初の聖地は、教祖の生家で閑静な住宅街にある普通の民家だった。夜明け頃、広島にある教団の本山に到着した。全国から参集した巡礼のバスがひしめいていた。
 特別の日にしか公開しないというご本尊を拝んだあと、大講堂で催された正月の宴に参加した。宴の途中で私たち福岡組は退席して、次の聖地の鹿児島に出発した。
 日の出の頃、バスは大隅半島にある教団の多宝仏塔に着いた。解脱式を終えて、夕食後、塔の周りに信者が集まり読経した。中学教師の話では、この場で巨大な普賢菩薩が目の前に現れたとのことだったが、日付が変わっても奇跡は何も起きなかった。
 翌日知多半島にある教団の涅槃城をお参りして帰途についた。
 2泊3日のツアー中、まともに寝ていなかったが、明け方家に帰り着くや、3日からの仕事始めのために、会社へ向かった。私は心の中で、正月から家をあけ、家族に心配をかけたことを後悔していた。
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人生何事も経験、その一

2010-07-30 23:57:16 | イメージ画
 私の個人情報を中学教師にさらけだした。入信の手続き費用として12、000円を託して、「善燈明」と呼ばれるお題目が書かれた木牌と、経本、過去帳を受け取った。中学教師に言われるまま、毎日朝と晩の2回お経をあげた。一回お経をあげるのに30分は必要で、おかげで早起きの習慣がついた。そのうち広島の本山で行われる入信式に一日費やして参加した。お題目の書かれた襷と首にかける大きな念珠が増えた。お経をあげる姿がだんだん異様になってきた。お経を唱え始めて数ヶ月が過ぎても、中学教師が言うような、読経中に故人の声が聞こえることはなかった。先祖の霊を慰めるために、除籍簿をあちこちの役所から取り寄せて、生年月日や没年月日を調べたが、過去帳に記入するのは躊躇った。中学教師から、お経を毎日あげているか、教団の勉強会に出ないか、と再々電話があった。この宗教にすがれば、会社も発展し、親戚、家族も幸福になれるとのことだったが、私は早く白黒をつけたかった。中学教師の目前に巨大な普賢菩薩が現れたという教団の聖地を訪ねようと思った。教団が主催する二泊三日の巡礼ツアーは年に数回あったが、私が参加できるのは正月のツアーしかなかった。
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