三月一日から怪我で入院生活。二回の転院を経て一昨日退院した。
入院中は病室にパソコンを持ち込み、デスクワークをすることで気を紛らすことができた。
病院内は十時消灯でも仕事の切りがつくまで起きていた。
睡眠時間は5時間から6時間あれば十分で、毎朝5時すぎには目覚め、ベッドの上でリハビリに励んだ。
退院が近くなったところで、入院記念に窓の外の景色をスケッチした。
家に帰ることができて良かった。
三月一日から怪我で入院生活。二回の転院を経て一昨日退院した。
入院中は病室にパソコンを持ち込み、デスクワークをすることで気を紛らすことができた。
病院内は十時消灯でも仕事の切りがつくまで起きていた。
睡眠時間は5時間から6時間あれば十分で、毎朝5時すぎには目覚め、ベッドの上でリハビリに励んだ。
退院が近くなったところで、入院記念に窓の外の景色をスケッチした。
家に帰ることができて良かった。
今週の月曜日と水曜日、町内会の歳末夜警に参加した。一昨年、昨年に続き今年で三度目の参加だったが、昨年の寒さに比べれば、今年は楽だった。
拍子木を持って、「火の用心。カンカン。戸締り用心、火の用心。カンカン」の調子で夜の町を少人数で練り歩きつつ、あっという間に一年が過ぎてしまったことに戸惑いを感じた。
来年はゆっくり年をとりたい。
一週間後は70歳の誕生日を迎える。日本年金機構からは「70歳到達届」の封書、協会健保からは「健康保険高齢者受給者証」が送られてきた。
愛車アフリカツインのオーナーになってから22年が経ち、通勤主体で71000Kmを共に走ってきた。光陰矢のごとし。これからの22年が想像できない。
妻や子供達に心配をかけないように健康を維持できるように願うばかりだ。
7時前に目が覚め、部屋のバルコニーから外を眺めると、眼下のえびね市が雲海の中にあった。
朝食は8時半からなので、日課の西野式体操を30分かけて体を十分ほぐし、さらに大浴場と蒸し風呂に入って贅沢な気分を味わった。
9時半にチェックアウト。ガス欠のおそれがあるので、バイクはアイドリング状態で麓まで下った。
前夜にスマフォで調べていた「昭一石油スタンド」へ迷うことなく着いた。
「ガス欠寸前なので20(リッター)くらい入るはず。」と慎重に給油をするオーナーに声をかけた。
「14リットル満タンです。」(340÷14≒24.2)
燃費が24キロを超えている。昨日、人吉あたりでエンジンが不完全燃焼気味なのをガス欠が近いと勘違いしてしまったようだ。
バイクが満タンになり意気揚々とえびの高原に戻っていく。
昨日は素通りした白鳥温泉上湯の手前の白鳥神社にお詣りした。300年前、ここで伐採した赤松の大木二本を東大寺大仏殿の虹梁に使うためにどのように運んだか掲示していた。
11時頃「えびの高原ビジターセンター」に到着。県道1号「えびのスカイライン」方面に向かおうとしたが、道路脇の硫黄山が噴火警戒レベルにあたるため、全面通行止めになっていた。
「えびのエコミュージアムセンター」に立ち寄り、館員に手軽なトレッキングコースを教えてもらった。
完全防寒の上着を脱がずにトレッキングを開始。コシアブラの木、ハイノキ、ミヤマキリシ
マ、植物鑑賞をしながら登山道を上った。えびの高原全体を見渡せるえびの展望台まで来たところで、
スケッチ道具をバイクに置いてきたことを悔やんだ。
さらに30分進むと、火山湖の白紫池(標高1272m)と六観音御池(標高1198m)を見渡せる二湖パノラマ展望台があった。
そこから20分ほど下ったところに六観音堂があり、正面に蒸気を吹き出す硫黄山(標高1310m)がよく見えた。
木立の日陰に佇んで防寒ジャケットを脱いで腰に巻いた。タオルを頭にのせてキャップを被って日射対策をしていたが、飲み物はなかった。
ここから30分歩くと不動池(標高1228m)があって、さらに20分歩くと出発地点に戻るのだが、不動池から先は硫黄山の入山規制のために通行止めになっていたので
六観音堂から引き返すことにした。
三時間アップダウンのトレッキングを経てビジターセンターに帰ってくると、600mlの冷えたアクエリアスを買って一気に飲み干した。
一息つくと、ビジターセンターで貰ったトレッキングマップに載っていた「世界でえびの高原でしか見られないノカイドウの花」を探し歩いたが見つからない。
再びビジターセンターに戻り、ソフトクリームを買うついでに店の女性にノカイドウの自生地を訊ねると花は終わっていた。
えびの高原から霧島温泉に向かった。
ネットで予約していたホテル霧島キャッスルホテルに4時半にチェックイン。
部屋は8畳の和室付きの60㎡くらいの洋室でツインベッド、ソファセット、バストイレ付で一人で泊まるにはもったいなかった。
部屋で荷物を解いて5時に大浴場に向かった。先客は4人の韓国人のグループで、話の輪に入れてもらえなかった。言葉が通じないので無理もないが。
7時から9時まで宴会場で夕食バイキングが始まった。私の宿泊プランは飲み放題、食べ放題だったので、生ビール、ハイボール、冷酒、カクテル等、堪能した。
食事を始めて一時間後、外国人のツアー客が大勢入場してきた。欧米系、南米系、インド系、等様々だった。ホテルのスタッフの話では彼らはツアー客でななく、突然のインバウンドの嵐に驚いてい
るとのこと。
5月17日
6時50起床、8時朝食バイキング、9時半チェックアウト。
朝の霧島スカイラインを快適に駆け抜け、霧島神宮古宮址(高千穂河原)を参拝した。朝早くから観光バスが押し寄せていた。
1234年の噴火で焼失して社殿跡しか残っていなかったが1940年に整備されたものだ。
高千穂河原ビジッターセンター内の自然史博物館はとても勉強になった。
※霧島山は、宮崎・鹿児島県境に位置する加久藤(かくとう)カルデラの南縁部に生じた玄武岩・安山岩からなる小型の成層火山・火砕丘等であり、20を超える火山体が識別できる。 成層火山としては甑岳、新燃(しんもえ)岳、中岳、大幡山、御鉢、高千穂峰などがあり、火砕丘としては韓国岳、大浪池などがある。御池はマールである。山体の大きさに比べて大きな火口をもつ火山が多い。 また、大浪池、大幡池、御池、六観音池など多くの火口湖がある。有史以降の活動は、主に御鉢と新燃岳で噴火を繰り返してきた。 御鉢は霧島火山中、最も活動的な火山であるが、1923(大正12)年の噴火以降は噴火の記録はない。新燃岳では2008年から2010年にかけ小規模な噴火が続き、2011年に本格的なマグマ噴火が発生した。 霧島山の南西側山腹には温泉・地熱地帯が存在し、かつてえびの高原の硫黄山では噴気活動が活発であった。構成岩石のSiO2 量は49.6~66.9 wt.% である。
次に1484年に再興された霧島神社を参拝。
帰りのルートは国道223号を東に進み、高原ICから宮崎自動車道~東九州自動車道を走ることにした。
霧島山系の最大の火口湖、御池(みいけ)に10時頃到着。2枚目のスケッチに取り掛かった。
円周3.9km、水深94mの湖面に高千穂峰が映る荘厳な景色に引き込まれた。
絵を描き上げたら午後1時半を過ぎていた。自販機で二本目のポカリスエットとごぼうスナックでお昼をすますと、5時間ノンストップでアフリカツインを走らせ、18時34分に家に帰り着いた。
中津を過ぎたあたりでスピードメーターや積算計が動かなくなったので正確なところは不明だが、今回のツーリングの総走行距離は800kmくらいだった。
4月末から十八日間休みが取れなかった見返りに、三連休を取ることにした。
5月13日から2泊3日の日程で里帰りした妻と入れ違いに、15日朝8時20分にソロツーリングに出発した。
田川、英彦山、日田、阿国、経由で11時に阿蘇の一の宮に到着。熊本地震で倒壊した阿蘇神社は再建途上だったので参拝を見合わせた。
宮地駅近くの57号線沿いで「あか牛」を「売り」にした和食レストランが営業を始めたようで、女性スタッフが駐車場に幟旗を掲げていた。
バイクを店の玄関脇に停めてレストラン入口のショーケースを物色して驚愕した。「大人気!あか牛の牛丼2260円」
女性スタッフに普通の牛丼は置いてないか訊ねると、それが店の最安のメニューだと言う。材料に赤牛のシャトーブリアンを使ってるとでも言うのだろうか。
バイクに戻り、隣りのジョイフルに入った。日替わりランチ600円で十分満足した。
昼食を済ませてから「日ノ尾峠」を抜けて南阿蘇へ向かう林道を探した。農作業中の若者たちに聞いた道を進むと、途中で林道が消えた。
行ったり来たり、走り廻って道を探したが、藪へと入っていく火山灰で黒くぬかるんだ林道しか見当たらないので「日ノ尾峠」はあきらめた。
定番の国道265号で「箱石峠」を抜けて南阿蘇に行くルートに変更した。
根子岳を望む雄大な景色に出会い、道路脇でスケッチを始めた。
スケッチに没頭しすぎて2時間の予定時間を大幅に過ぎてしまった。
1日目の夜は「えびの高原」に宿泊しようと前日に電話で宿を探してチェックインを午後4時にしていた。
南阿蘇は諦めて57号線に戻り、「益城熊本空港IC」を目指した。
九州自動車道に入ると快晴なのに風がやたらと強く、ハンドルをとられそうになるので大型トラックの後に付いて走った。
トンネルに入ると横風の心配がないので安心してとばすことが出来た。
八代JCTを過ぎるとトンネルばかりで景色は最悪だった。
標高の高い所を走っているためか、エンジンがかぶり気味に感じた。
出発前に満タンにしてから走行距離が300キロを超えていたので、ガス欠になる前にタンクのコックを予備に切り替えた。
日常走行では300キロ手前で予備になるので、山岳走行や高速走行の為に燃費が伸びなかったのではと思った。
えびのICを出てから給油するつもりが、やっと出会ったスタンドは廃業しており、「えびの高原」への上り坂が続いた。
道順が心配になり、下ってきた軽トラックを止めて、運転していた高齢の男性に恐縮しつつ訊ねたら間違ってなかった。
予約していた白鳥温泉上湯に5時にチェックイン。夕食は食堂で5時半に用意しているとのことで、部屋に荷物を置き、浴衣に着替えると食堂に向かった。
えびの市産の米と焼酎粕をブレンドした飼料で育てた「いもこ豚」の陶板焼きがメインの定食に、生ビールと焼酎ロックをいただいた。
「明鏡」という地元の焼酎が飲みやすかったので、部屋で飲もうと一本追加した。
露天風呂付大浴場は雄大な景色とかけ流しの湯が人気のようで、常連らしい地元の人と話が弾んだ。
大浴場をでると別棟の「秘湯 地獄むし風呂」に向かった。
蒸し風呂の床の簀の子の下は温泉が湧いており、大量の蒸気が湧き出ているので短時間で発汗し、サウナよりも呼吸が楽だった。
風呂上がりに売店で菓子とポカリスエットを買い、部屋で焼酎を楽しんだ。宿のスタッフに聞いた最寄りのガソリンスタンドをスマフォで確認し、安心して寝入った。
人がこの世に生まれてきたからには、いつか死ぬ運命だと分かってはいるが、S君との別れはあまりに唐突だった。
一週間前、S君と仕事でトラックに乗っている時、「今日、従兄と飲みに行く」とS君が嬉しそうにつぶやいた。
S君は午後5時に仕事を切り上げて帰宅し、お洒落をして会社に戻ってきた。タイムカードを押して意気揚々と盛り場へ向かうS君の元気な後ろ姿を見たのが最後の別れとなった。
その日の午後8時半頃、妻とテレビを見ていると、末弟から私の携帯に電話がかかってきた。
「S君と飲んでたらS君が急に倒れて意識がなくなり、呼吸をしてなかった。・・・救急隊員が今、心臓マッサージをしてるけど動かない・・・。」「今からそっちに行く。」「・・・救急搬送するけど、行先がまだ決まってない。S君の奥さんと叔母さんに連絡とってくれん?・・・搬送先が決まったら知らせる!」電話が切れた。
緊急事態をもう一人の弟に伝え、S君の携帯番号しかわからないのでS君の実家へ車を走らせた。S君の母親から嫁さんに連絡をしてもらうのが手っ取り早いと思った。
運転中に末弟から連絡がきて、搬送先が決まったので救急車に同乗する、S君の家族にも病院に向かうように伝えて、とのことだった。
S君の実家に到着して呼び鈴を数回鳴らし、驚いて出てきたパジャマ姿の叔母に要件を話した。S君の心臓が停止したことは伏せた。
叔母がS君の奥さんの携帯に電話をして、子供をつれて救急病院へ急ぐように話した。
パジャマを着替えるという叔母を、車の助手席に促した。
救急病院の搬送口を入って左手に「緊急処置室」があり、奥でS君の蘇生を試みている様子だった。
担当医が叔母にS君の生年月日や既往歴を訊ねた。S君が健康で肝機能の検査も問題なかったと叔母が気丈に答えていた。
「電気ショックを使っても心電図がまっすぐで、今は心臓マッサージをずっと続けています。心臓が停止している時間が長いので、呼吸が戻っても、脳にダメージが残ることが憂慮されます。」
担当医や看護師が五、六人がかりで救命処置を続けた。
一時して叔母と奥さんが処置室に呼ばれた。「何寝てるんね。S!起きなさい!小さい子供がおるやろ!」悲痛な呼びかけが聞こえた。
病院のスタッフにS君の子供も処置室に入れさせて欲しいとお願いした。
担当医の許可が出て小6、小3の男の子が処置室に入っていった。
処置室で一進一退を繰り返すこと数時間。なんとか心臓の拍動が戻ったと看護師が教えてくれた時、安堵して看護師にS君の命を救ってくれた御礼を言った。
日付が変わって午前1時30分、気管挿管をして人口呼吸器をつけたS君を乗せた寝台が緊急処置室から出てきた。
待機していた全員が寝台に駆け寄りS君に声をかけた。S君の閉じた右目に涙が滲んでいた。S君が病棟2階の集中治療室へ移されたので、関係者は希望を抱いて各々家路についた。
翌日、末弟からS君が危篤状態だと連絡がきた。心臓が止まる度に心臓マッサージを施して蘇生していたが、しだいに心臓が動く時間が短くなっている。コロナ禍で面会が難しいので
二人づつ交代で緊急処置室にはいってS君とお別れをしているとの事。
夕方病院へ駆けつけた時、S君の心臓はアドレナリンを投与しても反応がなく、心臓が停止するまでの時間が30分、20分と次第に短くなっていたので面会は叶わなかった。
午後7時50分、S君は逝ってしまった。享年42歳。S君と一緒に働けてよかった。合掌。
今週月曜日に妻が名古屋に行き、再び独身生活が始まった。今のところ外食をしないで三食自炊している(お昼は弁当持参)。
昨日のオフは貯まった洗濯物を片付けてから、シネプレックス小倉で映画でも観ようとネットで下調べをした。先週2度目の鑑賞をした「マーベリック」級の作品はなく、12月16日公開
の「アバター:ウェイ・オブ・ウオーター」を待つことにした。
天気がよいので近場のツーリングも考えたが、高校の同窓会費を郵便局で振りこみ、トライアルでビールや食料の買い出しをして家に戻ると、外出が億劫になった。
結局、新聞を読んだりネットのニュースを見たりで日が暮れた。
1日を無為に過ごしたような気がして、寝る前に風呂場を念入りに磨いた。久々のゆっくりした休日だった。
娘一家がお盆休みで六日間帰省した。もうすぐ三歳になる孫娘とラインで話した時、「(九州で)キャンプしたい」と言ったのを叶えてあげなければと思った。
九州鉄道記念館、関門海峡花火大会、いのちの旅博物館、ジ・アウトレット北九州など妻が連れ回し、いよいよメインイベントのキャンプの日が来た。
私のお盆休みは娘たちが帰る前の日から二日間しかなく、二日目の午後四時に娘たちを送ったあと四時半に四回目のワクチン接種の予約をいれていた。
キャンプ場は車で一時間ほどの近場をネットで探し、温泉に入りに何度も行ったことのある赤村の「源じいの森」に設営されたキャンプ場を予約していた。
キャンプは三十数年ぶりで、押し入れの奥からテント、タープ、バーベキューコンロ、クーラーボックス、ウオーターサーバー、コールマンレンジ&ランタン、
ダイニングセット、調理道具などを引っ張り出した。
以前は七人乗りのワゴンに十分に積めたキャンプ道具が、今の車のフィットには無理だった。
コールマンは卓上カセットガスコンロにして、寝袋やタオルケット、ダイニングセットはキャンプ場で借りることにした。
フィットに積んでいた2本の傘やクッションなどすべて降ろし、装備を積めるだけ詰め込んで朝10時に出発した。
妻が助手席でチェックしていて足りないことに気付いた、箸やカレールー、米、野菜、肉などを途中のトライアルで買った。
目的地が近くなるにつれ空模様が怪しくなり、「源じいの森」に付く頃は小雨となった。
私一人、車を降りて事務棟でチェックインをした。毛布三枚とダイニングセットのレンタル料4900円とテント、タープ持ち込み料、大人三人の入営料が加わり締めて6800円を支払った。
雨が小降りのうちにテントを設営してもよいか事務員に聞くと、チェックインは午後一時とのことで却下された。(お金だけは先?)
12時をすぎていたので、赤村を出て車で15分走り、みやこ町のイタリアンレストラン「エフ」で昼食を摂った。それまで寝ていた孫娘は楽しそうに食べていたが、窓の外は大雨となっていた。
食事を終えて「源じいの森」に戻る山中は時速30kmで走っても高速ワイパーが追い付かず、激しい雨で視界が曇った。
キャンプ場の事務棟に付いても傘がないので車から出られない。
妻がダッシュボードから非常用のアルミ箔シートを取り出した。はがき大のものを広げると毛布くらいの広さになった。
私はそれを被って事務棟に走り、傘を三本貸してもらった。
事務員の「夕方には雨があがるようですよ。」の言葉に少し勇気づけられた。
四人で傘をさしてキャンプ場を散策した。
橋の下でバーベキューをしているグループが一組、雨天時に野営するときに利用する屋根が付いたテントサイトが三ケ所あったが、全て先客が利用していた。
地面に水たまりがなく、テントを張れそうな場所を探し、炊事棟の隣に見つけた。
キャンプ場の駐車場から荷物を運ぶために用意されたリヤカーは自由に使うことができて大変助かった。
管理棟からレンタルの毛布とテーブル、椅子4脚を受け取りリヤカーに積み込んだ。
妻と二人で傘をさしながら最初にタープを組み立てた。荷物類をタープの下に集め、次にテントの組み立てを始めると4本の柱のうち1本の連結部分が割れていることに気づいた。
屋根を支える柱の代わりに隣の大木にロープで屋根の一角を吊るしかなかった。
何とかテントが完成したが、雨脚が弱くならないので炊事場で食事をすることにした。四か所ある炊事場は広く、真ん中で二つに仕切っていて、温水も出るようになっていた。
我々の炊事場の反対側では既に若者のグループが食事を始めていた。
我々もダイニングセットとバーベキューコンロを炊事場に持ち込み、飯盒でご飯を炊き、卓上コンロでカレーを作った。
ごはんが炊き上がると炭火で肉や野菜を焼いて夕餉が始まった。孫娘はリクエストのミートボールをたくさん食べた。
暗くなってきたので、妻が寝床の準備をしようとテントに入ると絶叫した。
「テントの床に雨水が溜まってる。」
テント生地が経年劣化により撥水性が弱まっていたようで、雨漏りしていた。
食後に湿気た花火をちょっとだけ楽しみ、歩いて10分くらいのところにある「源じいの森温泉」で湯につかった。
8時半頃、温泉を出て、風呂上りの妻と娘、孫の三人はフィットで寝ることにし、私一人がテントに戻った。
テントの床に敷いた2枚のアルミロールマットの中央を重ねて高くし、横たわった。
レンタルの毛布はウール素材で撥水性があるのが救いだ。
三枚のタオルとハンカチで床に溜まった雨水を吸わせてはテントの隅で絞る作業が続いた。
一番雨漏りの酷いところにウオーターサーバーの蓋を外して、バケツの代わりに置くと雨水が床に溜まらなくなった。
これで眠れると横になり、携帯と財布を枕に寝た。顔と足首に雨の雫が当たっていた。
妻からラインが届いた。
21:52「大丈夫?一晩中大雨警報が出てるみたいだよ}
22:00「ウオーターサーバーで雨漏りを受けながら、タオル三枚とハンカチで雨水を絞りながら、過ごしてます。」
22:01「寝られないんじゃないの?」
22:01「なんとか朝までがんばるわ。」
22:03「危険を感じたら、無理しないで車に引き上げてきて!」
22:04「無理してないから」
22:05「了解です」
22:06「おやすみ」
朝5時に起床して、朝食のカレーとチキンラーメンの準備、撤収の準備をはじめた。
娘と孫が起きてきた。孫が朝までよく寝ていたと聞いて安心した。
朝食後、てきぱきとテントとタープをたたみ、借りたものを返却して家路につき、11時に家に戻った。
孫にも記憶に残るキャンプとなっただろう。
新型コロナ禍第七波の感染拡大は衰えそうにない。
東海市の孫娘の保育園は四日間の閉園になった。
地元の友人、親戚、顧客からも、家族がコロナにかかって自宅待機になったと聞くことが多い。
コロナ禍で落ち込んだ景気を回復させるためにも、重症化率の下がったオミクロンは「普通の風邪」扱いにしたほうが良いのではと思うが・・・。大部分の国民がマスクを律儀につけてるのに、一週間のコロナ感染者数が120万人を超えて世界最悪となった日本は新型コロナにいつまで翻弄されるのか。
妻が今月4日に東海市の娘のとこに遊びに行った。婿が慢性扁桃炎の切除手術で入院することになり、娘のワンオペの手助けと孫たちとのスキンシップが使命だ。
婿は5日に入院し6日に無事に手術を終えて13日に退院した。
婿は退院後も一週間の流動食が必要だということで、妻の滞在は延期となったが、私は独身生活に慣れたところで快く受け入れた。
私の日常は就寝が午前一時半頃なのは変わらなかったが、起床時間が一時間早くなって6時半頃となった。
弁当と朝食を作り、三日に一度のペースで洗濯、一週間に一度、布団を上げて全部屋の掃除をした。
カレンダーに毎朝血圧を記録しているが、前日の三食の献立の記入が加わった。
独身生活中の二回の休日は映画(シンウルトラマン、トップガン・マーベリック)を鑑賞し、昼食は外で食べ、トライアルで生活必需品の買い出しをした。
24日に妻が帰る前日は入念に掃除をし、洗濯物を片付け、包丁をよく研いでおいた。
妻のありがたさが身に染みた十九日間の独身生活だった。