映画「スカイ・クロラ」を観ました。「うる星やつら」「機動警察パトレイバー」「攻殻機動隊」の監督で有名な押井守さんの作品です。
『「スカイ・クロラ」が押井守監督でアニメ映画化する』との情報を聞きスカイ・クロラシリーズの「スカイ・クロラ」「ナ・バ・テア」「ダウン・ツ・ヘヴン」「フラッタ・リンツ・ライフ」「クレィドゥ・ザ・スカイ」をすべて去年のうちに読みました。
この小説、なかなかどうして、最後まで馴染めなくて読みづらかったですね。作品自体の世界観が掴みづらく、1巻あたりの物語が消化不良で終わっている気がしたりして「頭に入っていかない」「場面をイメージできない」「感情移入できない」「ストーリーの流れが掴めない」など。。。個人的には楽しめない小説でした。この小説の感想は「海外の作品を無理やり訳して小説にしたもの」ですね。(あくまでも、個人的な意見です。気を悪くしたかたすみません。(-_-;))
最近、映画を観る前に「スカイ・クロラ」を読み直すと、以前よりは少しましで世界観も掴め、場面をイメージできるような気がしました。(まだ、途中ですが。。。)
映画の感想は、ヨーロッパ映画の情緒的な雰囲気を持った作品でした。
「心」と「頭」にしばらく余韻が残る映画で、その余韻は何だったんだろ。。。はっきりと理解できない。しかし、「心」と「頭」のどこかに余韻が残っているそんな作品でした。
前回の「イノセンス」よりも理解しやすい映画でした。「イノセンス」は期待していたので、少しがっかりする部分が多かったですけど。
この映画の中に「2つのキーワード」を見つけられたような気がしました。
第1のキーワード「戦争」とは。
今、現実の「戦争」は、映像などの媒体を介しか体験できない。
実態のない「戦争」は、非現実の出来事としか認知できない。
感覚として「映像媒体のショーとしての戦争」は存在する。
「どこかで、「戦争」が起きている。しかし、ここでは「戦争」は起こらない。」という虚像。
「どこかで誰かに人が殺され、また誰かが人を殺している。」ということに実感を持てない。
今の日本に暮らす人の「戦争」に対する意識を、この映画で伝えている気がしました。
第2のキーワード「永遠に生き続ける存在」とは。
映画の中で「永遠に生き続ける存在」=「キルドレ」。
「キルドレ=思春期の姿のまま、永遠に生きることを宿命づけられた子供たち」言い換えれば、
「大人にならない=成長できない大人」かもしれない。
作品の中では「大人によって造られた存在=大人によって永遠に利用される存在」
キルドレは存在する意味さえも分からないまま「永遠に生き続ける存在」であり続ける。
「大人によって永遠に利用される存在」たちに、戦争をさせる。自分が「戦争」をしないために。
それは、ゲームと同じ世界。「永遠に生き続ける存在」=「コンテニューが出来る世界」。
ゲームの世界と現実の世界を、明確な境界線で認識できない人々の社会を比喩している気がしました。
この「2つのキーワード」が、映画を観終わった後に浮かんできました。
押井監督から見た「今まで大人が行ってきた、若い人に押付けた現実社会の縮図」なのかもしれないですね。
「いつも通る道でも 違うところをふんで歩くことができる
いつも通る道だからって 景色は同じじゃない
それだけでは、いけないのか それだけのことだから、いけないのか」
という言葉が終盤に語られます。
「昨日と今日、今日と明日は違う。」という簡単なことなのに、感じることができない現実。
この映画のテーマだったような気がします。