さゆりのひとり言-多発性骨髄腫と共に-

多発性骨髄腫歴20年/'08年4月臍帯血移植/「病気は個性」時にコケながらも前向きに/はまっこ代表/看護師/NPO所属

あの時、両親が迫られた究極の選択

2009年11月15日 02時33分18秒 | MM闘病記
今日は母と「レ・ミゼ」を鑑賞。
帰りにイタリアンのお食事。
ケーキでも買って帰ろうという話になり、この辺りだと何処が…なんて。
「千疋屋とか?
そういえば、入院中に頂いた千疋屋のジュースってどうしたんだっけ?」

で、入院中の話題に。
私の知らない空白の一日の話になった。

その時の私は、どうやら意識朦朧としていたみたい。
先生にペンライト目に当てられて、瞳孔の確認されたなんて…
忘れちゃったのか、意識がなかったのか…。

今となっては曖昧な母の記憶。
でも、移植後、退院した1ヶ月前の時期だったとか。
主治医不在の中、下持ちの先生に呼ばれて両親に話された内容…。

とまで話し、その内容は話したがらない母。
私も一応ナース。
ショッキングな説明に対する免疫はあるつもりだった。
今となっては笑い話、
隠す必要はないと執拗に迫る私。

今までに抱いていた、ちょっとした過去のモヤモヤを明らかに出来るかも知れないと思った。

なぜ、移植後の時期に、
「さゆりさんに何かあった場合は、まずは看護師長に連絡!」
とナースの申し送りで言われてた、のか…。
つまり、移植後にそこまで重篤な状態に陥っていた認識がなかったのだ。

目が醒めたら日にちが飛んでた、なんていう事もなかった。
事実、(ペンライトで)対光反射を見られたことは曖昧なものの、両親が呼び出された、という時だって、「どうせ寝てるだけなんだから、(ボーリングに)行ってきていいよ」
なんて母には話し、うとうとしていた、という。
しかし、何となく不安になった母は私の傍にずっと居てくれていた。


銀座数寄屋橋の交差点を渡りながら、母は話し始めた。

言ってしまう事で傷つくのではないかと思う母の優しさを感じつつも、知りたがる私に対して仕方ない、というようでもあり、
何か背負っていた荷物を下ろそうとするかのような安心感というか解放感、みたいでもあり…
とにかく、母は話し始めた。

「敗血症を起こしている。
お嬢さんは今まで十分に頑張って来られました。ってね。
隣でI先生もそうだそうだってうなずいていてね。
何かあった場合に心臓マッサージや人工呼吸器をつけるかとかいうのを両親の間で決めておいてくださいって言われたの」

つまり、十分に頑張ってきたのだから、何かあっても自然の流れに任せたほうがいいのでは、という話だった。
私は特別動揺もせず、話を合わせて笑い話を続けたが、
何故か心臓が強く脈打ち、足が震えていた。

自分は能天気に不平不満や文句ばかりたれていた時に、両親に辛い思いをさせていた。
母は、大丈夫だと思っていたというが。
父は慌てていたという。

それに、自分は臨床で7年ナースをしていたが、急変時の心臓マッサージや挿管をどうするか、という申し送りをするような状態の患者さんが歩いて退院するのを看た事がなかった。

私のカラダ。
この類い稀な生への執着は何処から来るのだろう。

しかし、むしろまだ、卒業させてもらえないのではないかと思う。
そして、親心をもてあそぶ親不孝者だ。


家に帰り
「愛してる」
といつものように母娘でハグをした。

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2 コメント

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Unknown (さゆり)
2009-11-17 09:43:12
東京元ナースさん、仕事復帰されたんですね。
良かったo(^-^)o
私ももう出来ないと思っていましたが、何とか続けられて、今は働ける事に感謝しています。
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Unknown (東京元ナス)
2009-11-16 22:08:41
いろんなことあって、あったからこそお母さんとハグできるのですね。嫌なことも家族のことを思うとどっかに飛んでいってしまいます。さゆりさん、私もナース復帰しました。貴方のおかげです。
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