プライベートでも二人で飲みに行く私と主治医。
先日久しぶりに飲みに行くことになった。
同じ職場でもあるということから、結構、話す内容は毎回微妙なものになる。
まあ、血液科の現状の話を聞くことが多いのだが・・・
その日は、先生が30分で終わる予定のムンテラ(病状説明)が1時間になったという話になり・・・
え?なんで?と私が聞くものだから話が膨らんでいった。
「状況がシビアだからね」
「そうか」
白血病で骨髄移植二回施行後の憎悪。
本人も家族も3回目の移植を希望しているが、現状としてはすでに終末期。
このまま治療はせずに上手くコントロールできて1.2ヶ月。
移植などの治療をするとなると、死期を早める可能性のほうが高く苦痛も伴う。
家族(夫)は「どうしたら治るか」の話をするが、
「どのように死を迎えるか」を検討する段階である現状。
最終的には本人に決めさせたいという夫。
しかし、本人に決めてもらうには、現状を正確に伝えることをしなければフェアーではなく、それはあまりにも酷な事ではないか、と考える医療者。
といった内容のもの。
私は、この話を私にする主治医の真意を測りかねていた。
私の「死に方」を主治医として情報収集したいのか。
ただ、いち患者としての意見を求めたいのか。
単に同僚として、話の内容が分かってもらえる相手に話したいだけなのか。
・・・
いずれにしても、とても賢い先生。
何か意図があるに違いない、と、話に相槌を打ちながら必死に考えていた。
ふと、自分の身に置き換えて溢れてしまいそうになる感情を抑えながら。
話も終盤に差し掛かり、患者さんの年齢を聞くと34歳という。
・・・。
ますます、リアクションに戸惑っていた。
そんな私を察したのか、
「何でこんな話をするかっていうと、まあ、話の流れで話すことになっただけなんだけど、でも、○○と違って治療も出来ない状況にある人もいる、っていうこと。
今の年齢の○○にはやっぱり、病気と上手く付き合うというよりは、治すことを考えるからね。もしくは、長期完解が望めるレベルまでもっていくことを」
「でも、まあ同種移植とかを考えるようになるのであれば、キーパーソンを誰にするのかとかを考えておいたほうが良いとは思う」
などなどと話し始めた。
私の「死に方」。
私は、これまでも考えていないわけではなかったが、
何も言葉に出来なかった。
むしろ、常に考えすぎるほど考えていた。
でも、だからこそ、考えは時々によって変化しているし、その時の感情や思いだけで伝えてしまうことの、恐怖心が働いた。
言ってしまう事で、私はそういう風に考えている、という一つの答えとしてもたれてしまうことが怖かった。
明日には考え方が変わるかもしれない自分、を上手く表現できる自信がなかった。
改めて、自分の「死に方」を考える。
やっぱり、その時になってみないと分からないや。
その時に、「もういいや」って思えたら、セデーションでもかけてそのまま楽に逝かせて欲しいかもしれない。
その時に、「どうせダメならチャレンジさせて!」と思うのであれば、苦痛の中に生きている実感をしみじみと味わいながら、充実感の中で死を迎えることが出来るかもしれない。
数年前までは「死」というものに対して、
私は見ること、味わうこと、存在することが出来ない明日が存在することに漠然とした恐怖心があった。
私だけ置いていかれてしまう孤独感、みたいなものだっただろうか。
つい、昨年の冬にも「私は浅田真央ちゃんが出るオリンピックを観られるんだろうか」と考えたら、なんだかとっても怖くなったっけ。
でも、そんなこだわり?みたいなものを一つ一つ「まあ、いっか」に置き換えていくと、結果的には全てが「まあ、いっか」と思えてきたりもする。
今は、今週はちゃんと仕事も出来たし、まだ、もう少し先のことかと思うと、現実味がない。
体調が悪い時でも
「あ~もういい、このまま死んでしまってもいいや~」
と思うこともあれば、
「ここで一人で死んでしまうなんていや」
と、一人暮らし、オートロックのマンションで、どうしたら助けてもらえるのかを必死に考えることもある。
つまり、そんなことは一つに決めて貫くことなんて到底出来そうもない。
結局は、最期の時に自分がどれだけ納得できるかなんだと思う。
何をどう準備しておけばよいのだろう。
でもね、準備万端整えてしまうこと、これもまた恐怖。
それはある意味、遺書を準備してビルの屋上で靴をきれいに揃えてしまう行為に思えてしまうから。
複雑な患者心理。。。
先日久しぶりに飲みに行くことになった。
同じ職場でもあるということから、結構、話す内容は毎回微妙なものになる。
まあ、血液科の現状の話を聞くことが多いのだが・・・
その日は、先生が30分で終わる予定のムンテラ(病状説明)が1時間になったという話になり・・・
え?なんで?と私が聞くものだから話が膨らんでいった。
「状況がシビアだからね」
「そうか」
白血病で骨髄移植二回施行後の憎悪。
本人も家族も3回目の移植を希望しているが、現状としてはすでに終末期。
このまま治療はせずに上手くコントロールできて1.2ヶ月。
移植などの治療をするとなると、死期を早める可能性のほうが高く苦痛も伴う。
家族(夫)は「どうしたら治るか」の話をするが、
「どのように死を迎えるか」を検討する段階である現状。
最終的には本人に決めさせたいという夫。
しかし、本人に決めてもらうには、現状を正確に伝えることをしなければフェアーではなく、それはあまりにも酷な事ではないか、と考える医療者。
といった内容のもの。
私は、この話を私にする主治医の真意を測りかねていた。
私の「死に方」を主治医として情報収集したいのか。
ただ、いち患者としての意見を求めたいのか。
単に同僚として、話の内容が分かってもらえる相手に話したいだけなのか。
・・・
いずれにしても、とても賢い先生。
何か意図があるに違いない、と、話に相槌を打ちながら必死に考えていた。
ふと、自分の身に置き換えて溢れてしまいそうになる感情を抑えながら。
話も終盤に差し掛かり、患者さんの年齢を聞くと34歳という。
・・・。
ますます、リアクションに戸惑っていた。
そんな私を察したのか、
「何でこんな話をするかっていうと、まあ、話の流れで話すことになっただけなんだけど、でも、○○と違って治療も出来ない状況にある人もいる、っていうこと。
今の年齢の○○にはやっぱり、病気と上手く付き合うというよりは、治すことを考えるからね。もしくは、長期完解が望めるレベルまでもっていくことを」
「でも、まあ同種移植とかを考えるようになるのであれば、キーパーソンを誰にするのかとかを考えておいたほうが良いとは思う」
などなどと話し始めた。
私の「死に方」。
私は、これまでも考えていないわけではなかったが、
何も言葉に出来なかった。
むしろ、常に考えすぎるほど考えていた。
でも、だからこそ、考えは時々によって変化しているし、その時の感情や思いだけで伝えてしまうことの、恐怖心が働いた。
言ってしまう事で、私はそういう風に考えている、という一つの答えとしてもたれてしまうことが怖かった。
明日には考え方が変わるかもしれない自分、を上手く表現できる自信がなかった。
改めて、自分の「死に方」を考える。
やっぱり、その時になってみないと分からないや。
その時に、「もういいや」って思えたら、セデーションでもかけてそのまま楽に逝かせて欲しいかもしれない。
その時に、「どうせダメならチャレンジさせて!」と思うのであれば、苦痛の中に生きている実感をしみじみと味わいながら、充実感の中で死を迎えることが出来るかもしれない。
数年前までは「死」というものに対して、
私は見ること、味わうこと、存在することが出来ない明日が存在することに漠然とした恐怖心があった。
私だけ置いていかれてしまう孤独感、みたいなものだっただろうか。
つい、昨年の冬にも「私は浅田真央ちゃんが出るオリンピックを観られるんだろうか」と考えたら、なんだかとっても怖くなったっけ。
でも、そんなこだわり?みたいなものを一つ一つ「まあ、いっか」に置き換えていくと、結果的には全てが「まあ、いっか」と思えてきたりもする。
今は、今週はちゃんと仕事も出来たし、まだ、もう少し先のことかと思うと、現実味がない。
体調が悪い時でも
「あ~もういい、このまま死んでしまってもいいや~」
と思うこともあれば、
「ここで一人で死んでしまうなんていや」
と、一人暮らし、オートロックのマンションで、どうしたら助けてもらえるのかを必死に考えることもある。
つまり、そんなことは一つに決めて貫くことなんて到底出来そうもない。
結局は、最期の時に自分がどれだけ納得できるかなんだと思う。
何をどう準備しておけばよいのだろう。
でもね、準備万端整えてしまうこと、これもまた恐怖。
それはある意味、遺書を準備してビルの屋上で靴をきれいに揃えてしまう行為に思えてしまうから。
複雑な患者心理。。。
患者それぞれ人生観が、違うので治療の選択も変わってきますね。
わずかな望みで、3回目の移植を希望する気持ちもわかるような気もします。
「死に方」でなくて「生き方」を考えてほしいなぁ。だって、今生きているのですから。
私の時は、地を這っているような移植データを見ましたが、でも患者にとっては、1%でも99%でも1か0なんですよね。複雑です。
何れの治療方法を選択するにしても、前向きに考えましょうね。
私は、新東京タワーに登るのが夢です。
では。。。
だから、死ぬ時どうなる、というのはあんまり考えません。その時はなるようにしかならないのだから。むしろ、どの様に死に向かっていくか、のほうに関心があります。これって、どう生きるか、ということですよね。
やっぱり私は看護師なんだなあ。
冷静に、客観的に判断してしまう。
おそらく、自分のことでもそうだと思う。
どちらかというと、悪く転んでしまうことのほうをイメージしてしまう。
そういう事例のほうが印象に残っているからかもしれない。
私の夢。
これが私の夢!といえるものを持てるようになる事が夢かな・・・
そういう意味では、同じことなんでしょうね。
死をどう迎えるかは自分もどう生きるかだと思います。自分の信条はいかに後悔が少ない生き方をするかです。人は必ず後悔することがある。なるべく後悔の少ない生き方をしようと心がけている。生きていく中で選択を迫られた時、どちらを選んだほうが後悔が少ないか考えて選択しながら生活している。ま、それでもあの時こうしてれば良かったという後悔はよくあるけどね・・・。
『死』=『終わり』ではなく、
『死』=『卒業』=『終わりと始まり』と思っています。
悔いなく、満足して『卒業』していですね。
それでも、あの時こうしていればよかったという後悔、ありますよね。
でも、だからこそまた前向いて歩き続ける事が出来るのかもしれませんけどね。