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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−135(三者鼎立−2)

40.三者鼎立

40.3.直義、京を逃れる

自分の領地に帰っていった尊氏派の武将が謀反を起こすという噂が広まった。


「太平記」では

その年(観応2年/正平6年(1351年))七月の終わり、石塔入道、桃井右馬権頭直常の二人が高倉殿(直義)のもとへやってきて、直義に提言した。

「仁木、細川、土岐、佐々木が、皆自分の国へ逃げ帰って、謀叛を起こすようである。

しかし、恐らくこれは将軍のご意向を受けたのか、あるいは宰相中将殿(義詮)の指示書で軍勢を動かす、魂胆と思われる。

また、赤松律師(則祐)が大塔の若宮を申し受けて、南朝にお味方すると伝えられているのも、本当のところは宮方を口実にして軍勢を集めた後に宰相中将殿のところへ参ろうと考えていると思われる。

いま、高倉殿(直義)が少ない軍勢でしかも守りに適していない京にいることは、あまりにも無用心すぎる、と思う。

今夜でも、夜に紛れて京を脱出して北国へ下ったほうが良い。

北国の越前に修理大夫高経、加賀に富樫介、能登に吉見、信濃に諏訪下宮祝部が、皆直義に忠誠を尽くす者ばかりで、この国々へはどんな敵も足を踏み入れることはできない。

また、甲斐国と越中とは、我等(石塔と桃井)がすでに領国として、交戦する敵はいないので、様々な点で安心である。

まずは北国へ下って、そこから東国や西国へ御教書(招集指示書)を出せば、誰も応じない者はいない」

これを聞いた直義はすぐさま、

「それなら、すぐに下ろう」と言って、取るものも取りあえず、御前に居合わせた人々だけを連れて七月三十日の夜半に京を脱出した。

慌ただしい有様だった。

これを聞いて、身内の者は言うに及ばず、外様の大名や各国の守護、洛中の詰め所の役人三百余人、近国から来た警備の役人、畿内、近国、四国、九州から最近上洛して集まっていた軍勢たちが、われもわれもと後を追って下っていったので、もはや公家に仕える者たちの他は京中に人が全くいなくなったように見えた。


この状況を聞いた尊氏は、用心すべきであるとの忠告に対し少しも騒がず、

「運は天が決めることだ。何を用心する必要があるか」

と言って、歌合の短冊を取り出して心静かに歌を詠み、口ずさんでいたという。

直義は越前の敦賀に着いて、到着した者を調べると、初めは一万三千余騎いたが、軍勢は日に日に加わって、六万余騎と記された。

近年の研究では、京都の周辺で本当に謀反が起きた事が分かっており、足利尊氏や義詮は本当に反乱の鎮圧に向かったのではないか、といわれている。

そうなると、直義は足利義詮が播磨、足利尊氏が近江へと出陣し、彼らが京不在の時に、京を脱出したということになる。

話としては、次のようになる。

近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝に寝返ったという情報が届いた。

この反乱を鎮圧するために、足利義詮が播磨、足利尊氏が近江へと出陣した。

これを見ていた足利直義は、京都から尊氏派の武将がいなくなっていることに気がついた。

直義は赤松則祐と佐々木道誉討伐は名目であり、東西から自分を討つための施策ではないかと考えた。

そして、石塔、桃井らの忠告もあり、足利直義は身の危険を感じ、守備に適していない京都を出奔し北陸の金ヶ崎城に逃れた。

直義が金ヶ崎城に入ったことを知った、尊氏、義詮は直ぐに京に帰ってきた。

 

ということである。

ともかく、ここに、尊氏派、直義派、南朝の三つの勢力が並び立った。

この状態を三者鼎立と云われている。

こうして観応の擾乱の後半戦が始まった。

 

金ヶ崎城

金ヶ崎城は、次の新田軍の敗戦と、織田信長の総退却で知られているが、足利直義が逃げ込んだことはあまり知られていない。

また現地の金ヶ崎跡の説明板にも記されていなかった。

   

1)延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王、恒良親王を奉じて入城し、約半年間足利勢と戦い、翌延元2年3月6日遂に落城し尊良親王、新田義顕以下300余名が亡くなったと伝えられる。

2)戦国時代の元亀元年(1570年)4月、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして、徳川家康、木下藤吉郎等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした。

しかしこの時、近江の浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告を受けた。

窮地に陥った信長は急遽総退却を行う。この時金ヶ崎城に残り、殿を務めたのが秀吉と家康であったと伝わっている。

 

<金崎宮>

この金ヶ崎城跡の天筒山麓には元禄2年(1688年)に松尾芭蕉がこの地を訪れたという塚があった。

 

 

40.4.正平一統(尊氏と南朝の講和)

尊氏は釜ヶ崎城にいる直義に使者を派遣して、直義と争う気はないと、和議を申し入れる。

しかし直義は、自分を慕うものもあり、もはや引くことができないと交渉に応じなかった。

 

尊氏は、直義と講和の交渉をする一方で、南朝とも講和の交渉を行っていた。

直義との交渉が決裂すると、足利尊氏と義詮は、9月9日に近江に出陣する。

直義も、金ヶ崎城をでて、近江で合戦となった。

この合戦は、尊氏・義詮親子の勝利となり、直義は金ヶ崎城に引き返した。

尊氏は再び、直義に和平交渉を申し入れるが、直義は再度断り、関東に向かった。

 

尊氏と南朝との講和は幾度かの交渉の結果、10月に講和が成立した。

しかし、その講和の条件は、政権を南朝に返すという条件であった。

つまり、幕府は北朝から南朝に寝返ったのである。

観応2年/正平6年(1351年)10月24日尊氏は条件を容れて南朝に降伏し南朝から直義追討の綸旨を得た。

錦の御旗となる権威を手に入れ尊氏は京都の守りを義詮に任せ、直義追討のために関東に下った。

この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。

また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一された。

これを正平一統と呼ぶ。


薩埵山の戦い

南朝と講和を結び、錦の御旗となる権威を手に入れ尊氏は東進し鎌倉を目指した。

東海道を下ってきた尊氏軍と東海道を上っていった直義軍が、12月に薩埵峠(静岡県静岡市清水区)で戦いが勃発した。

この戦いは、宇都宮氏綱や薬師寺公義ら北関東勢が尊氏に味方した事で、尊氏軍の勝利に終り、直義は尊氏に降伏した。

正平7年正月5日に尊氏と直義は鎌倉に入った。

その後直義は2月26日(ちょうど高師直の一周忌)延福寺で急死し生涯を終える。

こうして、観応の擾乱の後半戦が終了した。


なお、尊氏は自分の死の直前の延文3年(1358年)に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出ている。

その後、年月日は不詳であるが更に直義に正二位を追贈されている。


足利直義の墓

延福寺跡といわれる場所には足利氏一族を葬ったと考えられるやぐらがあって、その一つが足利直義の墓と伝えられている。

 

このころ、南朝軍が京を奪還するために賀名生を出発していており、正平一統が破断されようとしている。

 

<続く>

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