見出し画像

旅日記

故郷の風景(5)故郷の故事 桜江町坂本

 

人は将来を見て、何らかの努力をしますが、将来に期待や希望を持てなくなったら、生きる慰めや生きてきた価値を過去に見だそうとするようです。

人生は見知らぬ処へ行く旅行のようなものと思います。旅行に行く計画を立て準備を行い希望と不安を持ちながら旅立ちます。旅行先では良いことも悪いことも含めて、期待通りのことや、想像もしなかったことが起こります。これを捌いたり楽しみながら旅行を進めていきます。

この時は楽しく充実しています。しかし旅行が終わって帰る時はそんなドキドキ感はなくこれから先のことはどのように進むか分かっています。ある一定以上の年を取ったら(例えば定年)この旅行の帰路に入ったことと同じだと思います。旅行の思い出に浸りながら最終到着地に向かっています。但しいつ最終到着地に着くかはまだ分からない。

と言うことで、私も昔のことが気になりだし、昔の思い出を今一度呼び起こそうと思います。 

昔話は祖母から色々聞いたことがありますが、今は殆ど忘れています。しかしまだ記憶に残っている話もあり、これらのことを調べてみました。

 

1.八畑 江津市桜江町坂本

 昔故郷は山すそに民家があり、川沿いに畑がありました。畑と言っても集落の畑を全部合わせても、川沿いに約1Km、幅は約100m程度の小さな規模でした。しかし50年ぐらい前に国道261号線が通り、すっかり様相が変わってしまいました。

以前これらの畑の一部を「八畑」と呼んでいたことを思い出しました。何故畑に名前がついているのか不思議でしたが、昔この場所で戦争があり、この戦争に勝ったのでこの場所を「勝ち畑」と呼びだしたそうですが、これが訛って段々「八畑」と呼ぶようになり現在に至ったそうです。しかしこんな狭いとこで良く戦争をしたものだ、と思いますが、昔はもっと違っていたのでしょうか?

戦争と言っても、集落同士の小競り合いなのか、または城もち侍同士の戦なのかはわかりません。もし集落同志の小競り合いなら、ここの集落とどこか近くの集落との争いだったはずです。また侍同士の戦なら、ここから一番近い城は直線距離にして約5~6Km離れたところに円山城(今は城跡だけ)があったので、この城の侍とどこかの城の侍が戦ったことになります。良く聞いておくべきでした。但し祖母も言い伝えを聞いただけで、詳しく知っていたかは分かりません。

何か詳しく知ることが出来ないか、ネットで調べましたが見つけられませんでした。ところが実家に株式会社歴史図書社が昭和54年2月28日に発行した「島根県口碑伝説集」があったので、もしやと思い探してみたら邑智郡編で「耳タブ伝説」の項目があり、ここに「勝畑」のことが書いてありました。その内容は次の通りです。

 

「耳タブ」伝説

邑智郡川下村字渦巻字八畑1に、耳タブとて周囲6尺余りの大樹がある。その周囲は畑地になっているから、枝は概ね伐取られて、数千年の老幹人間の艱みをいたましく語っているが、古老の言に依ると、この地は古戦場であって、千人の耳を埋めた地であると。

そうしてこの地は八畑ではなくて、勝畑で戦勝を意味しているのであると。

いつの頃であったか、ここにタブの大樹があった。鬱蒼として茂り、老枝蟠屈して江川の対岸、渡利河原に達し、樹下には江川の碧流迫り、流れて大渦を巻いていたので、この地を渦巻といい、老枝河を渡っている所から木の瀬と言っていたとか。

何れの時代であったか、河を挟んで対陣し、毎日交戦していたが、遂にタブの枝を伝わりて渡利河原から攻寄せ、激戦の後一方を皆殺しし大勝利を得たによって、勝畑と名付け、戦死者千人の耳朶を切取ってここへ埋めたと伝えられている。

  [1現在 江津市桜江町坂本の一部

 

結局誰と誰が戦ったかは不明だったので、何か手掛かりがないかともう少し調べてみました。

この「島根県口碑伝説集」に似たような内容の話が記載されておりました。それは

 

「馬塚の跡」伝説 邑智郡川本町大字川下

久科谷2に字名野の淵と言う所がある。往昔江川山に迫りて、紺碧廻の深淵であったが、今は蒼桑の諺通りの桑畑になっている。そこに馬塚と称しタブの木があった。

巍然として空を衝き、鬱然として繁茂していた。数年前これを伐払ったけれど、伝説を畏れてか、伐りたるまま朽つるに任せてあった。この馬堀の近傍から人馬の白骨が発掘されたことがあった。

年代もその関係者も不明であるが、昔 尾原氏という武士が、敗軍して何処よりか来りけむ、敵に追撃されて江川を渡り、字尾原小鮎場(今の渡船場)に来た。

遂に野の淵まで追撃されて一族残らず戦死を遂げた。その時、尾原氏が馬を繋いだタブの木を、後世馬塚と称えたのであるとか。

そうして此人の守護人として、朝夕信仰篤かつ大歳神は、今も尾原区の崇敬神社として人々の信仰するところとなっている。この神社は明治の初年度までは木の根神と称して小さな祠が木の根元に据えられていたのであった。

その神体と兵に、小さな粗末な木像が安置されてあった。里人は之を「尾原さん」とよんでいたのであった。

  [2鹿賀大橋から約1000(コインレストラン川本から約700m)上流の地点で、「耳タブ」伝説に地から        約2.5Kmの上流地点

 

前述の「耳タブ」伝説と直接に関係ないかもしれませんが、この「馬塚の跡」伝説と「耳タブ」伝説の場所は距離的には2.5Kmしか離れていません。ちょっと似た内容の伝説がこのように接近した地域にあると言うのは面白いですね。でも戦争した年代も、戦争の相手も残念ながらやはり不明のままです。

 

 

<耳タブ 伝説の場所>すっかり草木に覆われています。

 

<耳タブ 伝説場所>

対岸からの写真。川の流れが速くなっているところがあります。この場所は水深が浅くなっており、ここの場所を手前側から向こう岸に渡ったとのことです。

下の写真で川は右から左に曲がった後、手前に向かって流れています。右から左に流れている真ん中辺りが渡った地点です。

 

<馬塚の跡 伝説の場所>

伝説の場所に行ってみましたが、今は全く面影がありませんでした。

 

調べて分かったのですが、この江の川周辺地域では古来戦が沢山行われています。毛利氏と石見小笠原氏との戦がこの辺りで沢山行われていることが分かりました。上記の伝説はこの中の戦いの中の一つだったのかもしれません。

 

石見小笠原氏のこと

・石見小笠原氏の丸山城落城

石見小笠原氏は清和天皇を祖とする甲斐源氏の流れを組むもので、健治2年(1276年)に川本周辺に来て、川本町会下に北朝の正慶3年(1336年)温湯城の築城を始め、北朝の観応元年(1350年)に完成し、ここを拠点とします。

<温湯城 配置図>

<正面山頂が温湯城跡>

 

石見小笠原氏の川越近辺での戦いはつぎの通りです。

①天文23年(1554年)川越大貫で福屋氏(毛利方)と戦う

②弘治2年(1556年)川越田津で福屋氏と戦う

永禄2年(1559年)毛利軍との戦いに敗れた小笠原氏は領地を没収され、小笠原長雄は甘南備寺に閉居されます。その後毛利軍の先鋒として合戦をし、その功により、永禄5年(1562年)加増の上閉居を解かれます。

天正11年丸山城の築城を始め、天正13年(1585年)丸山城が完成します。

 

<丸山城跡地>

③文禄元年(1592年)毛利氏により小笠原氏出雲神西に移封されます。この城明け渡し時にも戦があり、毛利軍数万が田津に陣をはり、江の川を越え大貫に渡り、久井谷から円山城に通じる大坂道を登って行った。との記録があります。

<小笠原氏のものと思われる戦国時代の甲冑 宝生山甘南備寺所蔵> 

 

 

2.芋代官

 昔の坂本渡船場の近くに芋代官さんの碑という石碑がありました。今は国道261号線が通ったため、石碑は少し離れた場所に移動されています。芋代官さんは偉い人で多くの人を助けたと聞かされていました。江戸時代は江の川を境に右側が幕府領で左側は浜田藩領でしたが、浜田藩領内にも沢山の石碑があります。

不思議なことにこの芋代官さんの石碑は各地にありますが、「島根県口碑伝説集」にも「さくらえの民話」にも記述はありませんでした。これは多くの人が知っており、石碑等も沢山あるため伝説にはならなかったのでしょう。

芋代官とは井戸正明という人で江戸中期の幕臣であり、大森代官所の代官であった人です。 

  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

井戸正明(いどまさあきら、寛文12年(1672年) - 享保18526日(173377日)は、江戸時代中期の幕臣、大森代官、笠岡代官。享保の大飢饉の際に石見銀山領を中心とする窮民救済のため数々の施策を講じた。

 

享保の大飢饉による領内の窮状を目の当たりにし、領民たちを早急に救うため幕府の許可を待たず年貢の減免、年貢米の放出、官金や私財の投入などを断行した。また享保17年(1732年)4月、正明は石見国大森地区(島根県大田市)の栄泉寺で薩摩国の僧である泰永からサツマイモ(甘藷)が救荒作物として適しているという話を聞き、種芋を移入した。

その年に種付けを試みたが、種付けの時期が遅かったことなどもあって期待通りの成果は得られなかった。しかしながら、邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛が収穫に成功する。

その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った。この功績により正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられ、今日まで顕彰されるに至っている。

 享保18年(1733年)526日、備中笠岡の陣屋で死去した。死因については、救荒対策の激務から過労により病死したとする説と、救荒対策のために幕府の許可を待たず独断で年貢米の放出などを断行したことに対する責任から切腹したとする説の二つがあるという。

墓所は威徳寺にある(岡山県笠岡市)。正明の死後、石見地方を中心に頌徳碑(芋塚)が建てられ、大田市大森町には正明を祀る井戸神社がある。

 

サツマイモについては青木昆陽(元禄115121698619 - 明和610121769119が有名ですが、井戸正明と同時代だったようです。

 江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の当時、儒学者として知られていた青木昆陽が、その才能を買っていた八丁堀の与力加藤枝直により江戸町奉行・大岡忠相に推挙され、幕府の書物を自由に閲覧できるようになった。

昆陽は同じ伊藤東涯門下の先輩である松岡成章の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた『蕃藷考』を著し、吉宗に献上した。

1734年、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、「薩摩芋」を江戸小石川植物園、下総の馬加村(現・千葉市花見川区幕張町)、上総の九十九里浜の不動堂村(現・九十九里町)において試験栽培し、1735年栽培を確認。これ以後、東日本にも広く普及するようになる。

ただしサツマイモの普及イコール甘藷先生(青木昆陽)の手柄、とするには異説もあるが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。

 

・芋代官の石碑

この芋代官さんの石碑は川越地区はもとより、桜江町にもたくさんあります。これから考えると恐らく石見地方には百以上ははあるのではないかと思われます。

 

川越地区の芋代官関係の碑 (4か所)

①坂本の石碑

「次世代への贈り物 桜江の碑と野の仏」桜江碑を探る会 編 から撮った写真も添付します。 

 

 

②大貫 (興盛寺境内)

  

③渡 

 
 
④鹿賀 春日神社の横
 
 

 

・桜江町内の芋代官の碑 (10か所 川越地区除く)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

<完>

 故郷の風景 目次 

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「故郷の話」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事