28. 両統迭立
両統迭立とは「一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態」をいう。
鎌倉時代後期、後嵯峨天皇ののち持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)との二つの皇統から交互に皇位に就いた。
この分裂の要因をつくったのは第88代後嵯峨天皇である。
そして、この分裂によって南北朝という、天皇が日本に同時に二人いるという混乱の時代に突入するのである。
なお、平安時代にも天皇が同時に2人君臨していた時期がある。
それは、源平合戦の最中の寿永2年(1183年)~元暦2年(1185年)の間で、 二人の天皇とは異母兄弟の安徳天皇と後鳥羽天皇だった。
安徳天皇の在位期間は1180年~1185年。 そして後鳥羽天皇の在位期間は、1183年~1198年だった。
28.1. 後嵯峨天皇
鎌倉幕府は、承久の乱に携わった後鳥羽上皇を隠岐の島に配流、順徳上皇を佐渡ヶ島に配流、その直系の仲恭天皇を廃帝とする処分を行う。
そして第80代高倉天皇の子で、後鳥羽の兄の守貞親王の子を後堀河天皇として即位させた。
これ以降、幕府の影響力は皇位継承にまで及ぶこととなる。
守貞親王
後鳥羽天皇の兄である守貞親王が天皇に即位できなかったのは次の理由による。
平家の許で育てられた縁から、寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちの際には安徳天皇の皇太子に擬され、天皇と共に西国へ伴われた(当時4歳)。
守貞親王は平家滅亡時に救出されて帰京するが、都では既に後鳥羽天皇が即位していた。
ところが87代四条天皇が12歳で崩御したため、後堀河皇統は2代で断絶する。
幕府は、仁治3年(1242年)土御門上皇の子(後嵯峨天皇)当時23歳を即位させた。
だが、後嵯峨天皇は僅か4年後の寛元4年(1246年)に当時4歳の息子(後深草天皇)を第89代天皇に即位させ、譲位してしまう。
28.2. 持明院統と大覚寺統
その後、正元元年(1260年)後深草天皇が瘧病を患うと、後嵯峨院は後深草天皇(17歳)を譲位させ、その弟恒仁(つねひと)親王(亀山天皇(11歳))を第90代天皇に即位させた。
瘧病(わらはやみ)とは熱病の一つでマラニアに似た熱病である。
さらに、後嵯峨上皇は後深草天皇に子がいるにもかかわらず、僅か8ヶ月の亀山天皇の子世仁(よひと)親王を皇太子(後の後宇多天皇)とした。
これが、60年以上も続く両統迭立の種となる。
後嵯峨上皇は、利発だった亀山を好み、亀山の系統を直系としたのである。
そしてその後約30年間、後嵯峨院は朝廷の最高権力者である「治天の君」として君臨し続ける。
地天の君
治天の君は、日本の古代末期から中世において、皇室の当主として政務の実権を握った天皇または太上天皇(上皇)を指す用語。
治天の君は事実上の君主として君臨した。
後嵯峨院が次の「治天の君」を正式に定めずに文永9年(1272年)に崩御する。
後嵯峨院が次の「治天の君」を指名した遺書を残さなかった理由は、はっきり分かっていない。
推測されているのは、後継者を指名しても幕府の意にかなわなければ簡単に覆されてしまうことを、後嵯峨院がよく知っていた、ということである。
というのも、後嵯峨天皇は鎌倉幕府の意向によって即位した天皇だったからである。
だが、後嵯峨院は「治天の君」の指名を幕府に求める遺勅を残していた。
そこで幕府に問い合わせたところ、幕府は逆に後嵯峨院の内意を問い返した。
大宮院(後嵯峨天皇の中宮、西園寺姞子で後深草天皇、亀山天皇の母)は、「後嵯峨院の内意は後深草上皇ではなく亀山天皇であった」と証言した。
じゃぁそういうことならと、幕府は亀山天皇親政を認めた。
文永11年(1274年)1月、亀山天皇は皇太子世仁親王(第91代後宇多天皇 7歳)に譲位して大覚寺で院政を開始した(大覚寺統と呼ばれるようになる)。
これが、この後60年にわたる両統迭立、皇統分裂の引き金となり、騒乱の時代となっていくのである。
皇統の争いは、過去にも数例あるが、その都度明確な決着がついている。
例えば、大友皇子(第39代弘文天皇)と大海人皇子(第40代天武天皇)が戦った壬辰の乱や、崇徳上皇(第75代天皇)と第77代後白河天皇が戦った保元の乱などがあり、いずれも戦などで決着をつけている。
しかし今回のような、いわゆる第三者による判定の決着は、完全決着を先送りにするようなものである。
敗れた方にとっては腑に落ちないものになり、その悔いは後まで残り続いていく。
また、第三者が判定するということは、その第三者の思惑で決まるということである。
ここに、両者が付け入る隙きが生まれ、抜き差しならぬことになるのである。
<亀山院>
亀山院政に不満を抱いた兄の後深草上皇は、不貞腐れたのか、もうどうでもいいと太上天皇の尊号辞退と出家の意思を示した。
これを聞いた時の関東申次西園寺実兼が後深草上皇のために動いた。
西園寺実兼は執権北条時宗と折衝し、後深草上皇の皇子熈仁(ひろひと)親王(第92代伏見天皇)を同年中に立太子することに成功する。
熈仁親王は亀山上皇の猶子となって、後宇多天皇の皇太子となり、天皇より2歳年上の皇太子が誕生した。
その後、弘安3年(1280年)頃から後深草上皇方による後宇多天皇退位と皇太子擁立の動きが活発化する。
弘安8年(1285年)11月17日の鎌倉幕府で起こった霜月騒動で、御家人の安達泰盛らが自害・討ち死にした。
この安達泰盛は亀山上皇寄りの御家人であった。
安達泰盛の死で、亀山上皇側は幕府の後ろ盾を失うことになる。
弘安10年(1287年)10月、伏見天皇(22歳)が即位する。
これに伴い後深草上皇が持明院で院政を開始する(持明院統とよばれるようになる)。
<後深草院>
正応2年(1289年)伏見天皇の子胤仁(たねひと)親王(後の第93代後伏見天皇 当時1歳)を皇太子とした。
しかし、持明院統の皇統がこのまま続くことを恐れた大覚寺統側は幕府に働きかける。
その結果、胤仁親王が即位すれば、その皇太子は後宇多天皇の子邦治(くにはる)親王(後の第94代後二条天皇)とさせる約束を取り付けた。
伏見天皇は永仁6年(1298年)、胤仁親王に譲位し、上皇となり院政を執り行う。
第93代後伏見天皇(10歳)の誕生である。
皇太子は大覚寺統の邦治親王(13歳)である。
勢力を巻き返した大覚寺統やそれを後押しする幕府の圧力を受け、後伏見天皇は正安3年(1301年)僅か3年で邦治親王に譲位する。
第94代後二条天皇(16歳)の誕生である。
しかし、持明院統も幕府に働きかけ、皇太子は大覚寺統から出すことに成功する。
だが、前天皇である後伏見天皇には男子がいなかった。
そこで、持明院統では、後伏見天皇の弟である富仁親王(後の花園天皇)を中継ぎとして皇太子にした。
中継ぎ、これを「一代の主」という。
つまり、自分の子孫に皇位を継がせることが出来ない天皇という意味である。
後二条天皇は徳治3年(1308年)に崩御する。
持明院統から第95代花園天皇(12歳)が誕生する。
花園天皇の皇太子は、普通なら後二条天皇の子である邦良(くによし)親王(9歳)がなるはずであった。
しかし、後二条天皇の父である、後宇多上皇は、後二条天皇の弟の尊治(たかはる)親王(20歳)(後の後醍醐天皇)を皇太子にしてしまうのである。
これは、後醍醐天皇の即位した後の皇太子を邦良親王にして、さらに大覚寺統が皇位継承することを目論んだからである。
後醍醐天皇もまた「一代の主」として充てがわれたのだった。
この後醍醐天皇はやがて、鎌倉から室町に続くドラマチックな歴史の主人公の一人となる。
文保の和談
天皇が譲位するたびに持明院統と大覚寺統の力関係がシーソーのように上下する。
その都度仲裁を求められていた幕府は苦しい立場が続いていた。
そこで幕府は文保元年(1317年)、「後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統が10年ごとに交代で皇位につくようにしたらどうか」という両統迭立を提案する。
これを文保の和談と呼ぶ。
この申し入れを朝廷も受け入れたため、その後もしばらく皇統の分裂状態が続くことになった。
<続く>