3.3. 甘南備寺山
さて、神奈備山、現在の甘南備寺山についてもうすこし詮索していく。
甘南備寺山の山腹には無数の無縁仏が存在する。
かつて付近の人々はこの山に先祖を埋葬し墓を造った。
明治の初めまで、この山の中腹に甘南備寺という寺があったが、現在甘南備寺はこの山の西の麓に移転している。
<現在の甘南備寺山 渦巻地区からの写真>
<甘南備寺山連山 対岸の渡地区の堤防の上からの写真>
甘南備寺山は桜江町坂本に位置する標高522mの山で岩城山(標高492m)、奥寺山(標高521m)と連山を成しその様相は荘厳で壮麗である。
江の川はこの甘南備寺山の麓を流れ、険しい断崖(河食崖)を造っている。
3.3.1. 甘南備寺山麓の集落の行事・儀礼の例
麓の集落坂本では心霊の籠もる山が、日常の行事や習慣に刷り込まれていた。
これらの行事・儀礼の例を見ていく。
①正月棚と神棚、竈に飾るシダ、 ユズリ葉は全て歳男がこの山から切ってくる。
②大晦日の夕方、歳男はこの山に登る。 熊野社のある頃は、社を拝んだ。
③正月五日間は、この山に入ってはいけない。入ると山の神が崇る。 これを山が鳴るという。
④正月二十日は山祭で、 山上の熊野社で金比羅祭を行なった。
⑤三月の節句には、草餅と弁当を作り、山のぼりと言って各戸ともこの山に登った。
山の花や柴を折って帰り家の神仏に供えた。
ある者は熊野権現の滝に入って身を浄めた。
滝の前には、棚も設けられていたという。
熊野権現の滝は、現在の甘南備寺跡地から西側の方向にあった。
⑥春の彼岸の日、各家の主がこの山に登り、恵方の方角の清浄と思われる小石を二個持ち帰り、小豆飯と共に神仏に供えた。
これをカリイシ(借石)と言っている。
家の守り神であって、旅に出る時携えると災にあわぬと伝えている。
二次大戦に持参した者もいた。
古くは山から採ったが、大正の頃は近くの祠の付近の小石を持ち帰りカリイシとしている者もいたと言う。 カリイシは十二月十五日、元に返す。
⑦サビラキ(早開きと書き、早苗を植え始めること)では、籾を播く時、即ち苗代を作る時に 水口に土を盛り栗の木を立て柴の葉を挟み御神酒を供えて拝んだ。
田植えのときは、苗を一把束ねて田の傍に置き赤飯を供え祝った。
五月の節供にも米団子を神棚とともに田の水口に供えた。
⑧ 七夕には、天狗の力を借りると言ってこの山に登り柴を折って来て家の神仏に供えた。
女は早朝髪を洗った。
⑨九月十五日は山祭で、 山開きとも言っている。
麓の者は勿論、広島県からもやって来てこの山に登り、旗幟を何本も立てた。
毎に関わる者も多く参拝した。
前日から熊野社に参り、籠る者も多かった。
⑩十月の初亥の日、畑へ出てはいけなかった。
春と同じく、山の神が留守をするからだという。
⑪カカシアゲの儀礼もあり、 案山子の用がなくなると各戸毎に、適当な場所に上げて赤飯を供えてから焼いた。
⑫ 十一月五日はこの山の東南麓にあるサクガミ祠の祭である。
サクガミ (作神)は大元神とも言われている。 無縁仏の点在する辺りの下の榊と椿の大樹の立つ所に石の祠となって存在している。
前夜から、古くは五日前から、年毎に決る頭屋が灯りをつける。 頭屋は戸数だけの幣串を作り、新米、野菜、イリコ、神酒を供える。
神主を招んで祭典の後、これらの幣串や 供物は参拝者に配られ、幣串は各戸の神棚と井戸の傍に置かれる。
七年に一度の大元舞が氏神社の社殿で行なわれた後、舞に用にいた薬蛇がこの祠の大樹に巻きつけられ、舞いに使った幣串がこれに立てられる。
⑱安産を祈って山の熊野社に参拝した。
⑲葬習俗は、戦後暫く迄土葬であった。
オカヨビがあり近親者が棟に上がり西に向って「まーたびもどれ」と言った。
息絶えたと分ると身体を曲げて糸でくくり棺に入れ四方と真中に御幣を立て、 紙花と枕飯を置く。
その夜この柩の下で近所の人が、五、六メー トルの輪の数珠を繰る。
翌日、読経の後、仮門を通って家の近くにある墓地へ行き柩を埋葬した。
墓石は7回忌を終えてから建てられた。柩が朽ち、その上に出来る窪みや崩れた土を整地してから墓石を乗せたのである。
古来甘南備寺山は、このように麓の人々にとって神聖な場所であり、これらの、仕来りや、慣習は長年守られてきた。
全国的な傾向ではあるが、住民の減少、生活環境の変化、戦後の意識変化に伴う合理的根拠のないものへの拒絶などで、現在これらの慣習等は廃れている。
<続く>