3.2. 渡の山
「神奈美山」は、「渡の山」とも呼ばれていたという。
この「渡の山」を題材にして和歌が詠まれている。
例えば、万葉集の柿本人麻呂、夫木集の公朝権僧正、名寄集の藤原家隆たちである。
柿本人麻呂については、石見に滞在したという記録があるが、公朝権僧正、藤原家隆たちはこの石見に来たと云う記録がない。
歌人は居ながらにして名所を知ると云うので、恐らく公朝権僧正、藤原家隆たちは、柿本人麻呂の歌から思い描いて詠ったものと想像する。
しかしこの「渡の山」の場所については古来、色々な説が生まれている。
人麻呂が詠んだ135番歌(長歌)に次の個所があり、この「渡りの山」がどこであるのか、論争されている。
「・・・かへりみすれど 大船の 渡りの山の もみぢ葉の 散りのまがひに 妹が袖・・・」
この中で次の二つの説が有力視されている。
一つは、江津近辺の山で、浅利町の浅利富士と呼ばれている室神山(標高246m)或いは江の川西岸の嶋の星山(海抜470m)。
二つ目が今の甘南備寺山である。
石見国名所 (歌枕) 集
江戸時代になると名所集の刊行も盛んに行われるようになり、江戸時代後期には、図絵を付した、現在のカラー印刷のようなものまで出現するにいたった。
石見国においても、板行こそされなかったが多くの名所集が編まれ た。
それらのうち、今日もなお現存するものをあげると、次の通りである。
- 安永3年(1774年) 石見名所方角図解 香川・江村著
- 文化7年(1810年) 類字名所和歌・石州名所写本 著者未詳
- 文化14年(1817年)角彰経石見八重葎 石田春律著
- 慶応2年(1866年) 石見国名所和歌集 藤井宗雄著
- 明治5年(1872年) 石見海底能伊久里 金子杜駿著
- 明治五(1872年) 石見国名所記三十八箇所写本 著者未詳
これらの名所集では「渡の山」は、「邑智郡川下り村、今甘南備寺山という」との記載しているが、ただ「角鄣経石見八重葎」だけが「渡の山」は今の「島の星山」と評している。
角鄣経石見八重葎
「角鄣経石見八重葎(つのさはういわみやえむぐら)」は、文化14年(1817年)石田春律(1757-1826)によって書かれた、名所集で全13巻の叢書である。
石田春律は現在の江津市松川町に生まれた名主であり農学者。太田村庄屋、通称初右衛門、江川堂澗水とも号していた。
石田はこの本にほぼ同時代の識者の「渡の山」評も載せた上で、石田は、渡の山は嶋の星山と、論を張っている。
- 都築唯重評 邑智郡渡利村甘南備寺山と云。(都築唯重:藩主の御内石見名所方角を編集したと云われている)
- 新清広貞評 同郡川下村坂本甘南備山といふ。(松平新清兵衛 浜田藩の人か?)
- 津和野御評 邑智郡今甘南備寺といふ。(津和野藩の和歌に関する書籍と思われる)
- 香川洞第平景隆 、江村七助大江景憲 邑智郡渡利村甘南備寺の山なり。(石見名所方角図解の著者)
- 小篠大記先生評 今の渡利村甘南備寺山といふ。 江川の上流れ臨めるしき山なり。村の名を渡利村とて浜田領つかさなり。 寺ハ銀山のつかさなり。萬葉巻の柿本人麿京へ登り給ふ時、長歌の内に、大船 渡利の山の黄葉のちりのまがるに妹袖清爾も不見と云々。 江津今江田村より五里川上なれども高山なれバ見やりてよみつらんと云り。 (小篠大記:浜田藩に召し抱えられていた儒学者)
石田春律愚評 愚老考るに、萬葉集人麿の御歌にも、大船の渡り の山の黄葉の散りのまがひに妹が袖とぞ云と、又夫木集、公朝の御歌 に、いとふかき雲の浪哉大船のわたりの山の花のさかりハとあり。渡利村ハ今江津より五里川上にて中々大船の通ふ処にもあらず。この渡りハ江津、已前ハ今の江津より少し川した古江といふ処、往古ハ家居五百軒ばかりもありて、是今のごとき渡し場なり。此渡りより見上ゲ 見おろす高山ハ嶋星山也。 しかれバ渡り山といふハ鳴星山なるべしや。
・・・(以下略)・・・・
那賀郡都野郷分郷田野郷之内、田野村、古名渡り山、今嶋星山が渡の山である。
人麻呂渡し
江の川の古代山陰道の江の川渡し場は東岸は江東駅(現在の江津市松川町)、西岸には江西駅(現在の江津市金田町)があった。現在「人麻呂渡し」と呼ばれ呼ばれる案内板が立っている地点である。ここから、室神山には北東2Km先、島の星山までは西南2Kmの距離にある。
当時「渡の山」とは固有名詞ではなく、「渡り場にある山」という普通名詞として用いられていたと云われている。
江の川河口付近にある「人麻呂渡し」と呼ばれる場所に立ってみた。すると、「渡の山」と呼ばれる室神山も島の星山も見ることができない。「渡り場」と室神山、または島の星山の間にある山が邪魔になって見えないのである。「渡り場」とこれらの山とは2Km離れているから無理もないと思った。
<江東駅>
<江西駅>
古代と現在では感覚が違うので一概には言えないが、「渡り場」と2Km離れ、しかも見ることができない山を、はたして「渡り山」と呼ぶのかという疑問も湧いてくる。
この室上山、又は島の星山が「渡の山」を指す、というくらいだからそれなりの理由があると思うのだが、それは何かが分からない。
室上山は遠くから見ると富士山のような円錐形の山で、周囲には山並はなく目立つ山である。また島の星山は南側は400〜500m級の山からなる連山で北側の一番高い山である。
そう思うと、これらの山が、旅の道中の目標になったであろうことは頷ける。
江の川西岸の高角山(今の島の星山)から東を見ると、室上山がはっきり見え、あの山を目指して江の川を渡る、とすれば、この山を渡の山と名付けてもおかしくはないと思われる。
次の写真の右側の水平線に見える円錐形の山が室上山である。
(島の星山の万葉公園から写した写真)
なお島の星山は、その昔隕石が落下したことから、この名で呼ばれるようになったという。
隕石が落下しできたという池があり、近くの冷昌寺に隕石が保管されているという。
<冷昌寺>
<冷昌寺の内部>
坂本渡船場
甘南備寺山の麓にある渡し場は古来石見国国府から大家荘三原を経て、邑智郡郡家の所在地八上に通じる交通の要路にある渡船場であり、傍らの甘南備寺山を渡の山と呼んでいたという。
今の坂本にあった「渡し場」は甘南備寺山の麓にあり、否が応でも目に入り見上げてしまう。
標識はないが、下の写真の道路の左下あたりが渡船場であったと思われる。
前に見える山が、甘南備寺山。
<続く>