おはようございます
1995年1月17日 5時46分
阪神淡路大震災から27年目に入りました
暗闇の中、地響きの後大きな音と共に衝撃
大袈裟ではなく跳ね上がった
一瞬車が飛び込んだのかと思った
すぐさま隣の子ども部屋へ
みんな無事
夫は様子を見に下の部屋へ降りる
子ども達を抱えうずくまる
外と内どちらが安全なのかわからず、家が潰れるかもしれない恐怖でパニック
下へ降りた夫が気にかかった
夫はみんなの靴を持って上がってきた
下の部屋どこもかしこもぐちゃぐちゃや
靴履かんと危ない
一応玄関までの通路は確保した
歪んで開かんようになったら困るから、戸は全部開けてきた
夫が逞しく見えた
地震の揺れは一度ではない
横揺れが大きくなったり
小さくなったり繰り返す
地震は地球の胎動のよう
地球は生きていると実感した瞬間
だから、生き物のように感じてしまう
数日たって落ち着いたかな?という頃にまた震度4や5の揺れがやってくる
地響きと共にゆさゆさ揺れる
思わず身構える
揺れが大きくなる恐ろしさ
あれは終わりのわからない恐怖だったと思う
それでも体は慣れる
当日も夜が明け、明るくなってから
ご近所さんと声を掛け合い
お互いの無事を確認してから、食べられる物を食べ、揺れる中で部屋の片付けを始めた
みんな何かをしていなければ気が休まらなかった感じ(笑)
子ども達も手伝ってくれる
4歳、7歳、9歳だった
ライフラインは全て止まっている
子どもが多いからと、ご近所さんがいろいろと差し入れてくださる
ご自分も大変なのに、気遣いが嬉しかった
引っ越して2年目だったけど、最初に自治会役員引き受けて、ご近所の輪に入れてもらい、その繋がりのありがたさを痛感したのもこの時だった
夫は、翌日朝から三ノ宮の職場へ向かった電車も不通。道路も陥没。車は通れんからと、バイクで三ノ宮の職場へ向かった
神戸の街が瓦礫と化し、あちこちで火の手の上がり救助活動がされる中、職場へ向かった夫
仕事人間だったんだな…
それから毎日通い続けた
いつもの道路は通れず、山麓バイパスの方まで迂回して何時間もかけて通勤
後から考えたら心配な事なのに、なぜか大丈夫と根拠のない安心感があった
時折、そういうことがある
無意識に確信を持つ変な癖がある(笑)
思考を巡らした時は、よく外すけど
根拠のない確信(直感?)は、あまりハズレない
ただし直ぐではない事も
振り返ったとき 「ああ、やっぱりね…」
という感じ。なので、私が無意識に断言するときの言葉を、子ども達は『呪いの言葉』と揶揄する
みんな持ってるけど、思考が邪魔して気付かない振りしてるだけだと思う。
それとも後で辻褄あわせしてるのかもしれないな…
26年経った今でも地震は怖い
揺れる度に、もっと大きな揺れが来るのでは?と身構える癖は身に付いてしまった
その後も大きな地震が相次いだ
日本は地球の多くの火山帯が集まる地震列島
地震が起きるのは予想外ではなく
想定内として、ライフラインを確保せねばならないと思う
原子力に頼る発電なんで愚の骨頂
以前学生さんに聞かれた事
「関東大震災と阪神淡路大震災、どっちが古かったっけ?」
そうか…10代の彼らには、歴史の教科書の中のヒトコマなんだ
1995年の阪神淡路大震災も
2011年に起きた福島の東日本大震災も
忘れてはいけない教訓がある
人間は地球上に住むちっぽけな存在
一人では何もできないけれど、
信頼や愛、思いやりで繋がれば、その力は大きい。同時に、欲望や憎しみの感情もあわせ持つ存在
豊かな世の中 豊かな暮らし
豊かな人生 とは何だろう?
豊かさ = 幸せ
なのだろうか?
コロナ禍の中、震災後27年目にして
そんなことをふと思った
ご訪問くださいましてありがとうございます
皆さまが幸せでありますように
ありがとうございます
自宅も半壊で直せば住めましたし、家族も元気。まだ恵まれていたと思います。
後片付けも、倒壊しばければ、水害や火災よりはマシだと思います
災害はいろいろなものを一瞬で奪います。じわじわ広がる疫病もかないませんが、元気で過ごせる事が、有る事難し。
震災の日は、日常のありがたさを感じる日でもあります。
阪神淡路大震災の時からそんなに立ちますか?
あの地震から火災があっちこっちで起き、僕はその映像を仕事もせずずっと見ていました。
本当に何もできない、無力で勇気のない自分の嫌気がさした、ことを覚えています。
この災難を今後も乗り越えていかれることを心より祈っています。