太古、混沌とした闇の中に何物かが芽生え、それは「命」として成立した。
聖書では「初めにロゴスあり」とされているのは有名だ。
その解釈は専門家に任せて、私はこう思う。
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昨日の月影会稽古のテーマは「氣」についてだった。
太古、何かが芽生え、その私たちの祖先である細胞は、ミトコンドリアと共生し「活力」を得た。
あるものは「動く」ことを目指し、あるものは「定着」を目指した。
どちらにしても、初めの「波動」言い換えれば「思い」があったに違いない。
その波動は残る。むしろリモデリングするための方向性を決めてきたのではなかろうか。
私はそれを「氣」と呼んでいる。
太古の単細胞は、リモデリングを繰り返し、やがてその思いの形に進んでいった。
形作られた姿は「思い」の具現化で、見たいから「目」となり、聞きたいから「耳」となり、指が精妙となり、頭脳は発達する。
ホモ・サピエンスとして成長してきた細胞たちは、共同幻想まで生み出した。
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共同幻想も多種多様だ、一番大きな共同幻想は金銭。ついで健康。
肉欲も、食欲も、あらゆる欲も幻想でしかないという説もあるくらいだ’笑
そこでどんな共同幻想を持つかが太古の単細胞の最終である「私」の現在進行形。
わたしにとっての初めのロゴスはおそらく「よきことをねがえ」であったのだろうか。
ブドウというカテゴリーにおいて「よきこと」とは何だろう、それは正しいリモデリングに相違ない。
ロゴスというギリシャ語は複雑な意味を持つという。理とも光とも理解できるらしい。
では、最初にあった理をリモデリングしてみようというのが私のブドウにおいてのテーマになった。
道場で、追及するのは「それ」である。
究極は業でも立ち居振る舞いでもない。もちろん審判技術を磨いた先生方にアピールして居合試合に勝ったりすることではない。
氣を感性とみた場合、はるかかなたから発信され、私に届いた信号がどうやって届いたのかを感得するために内省する必要を感じる。
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伝達は使命である
未来へ渡す「氣」「感性」「理」それらのよき波動を現実のわが身に備えること、
それらの手段が、私にとっては真剣道である。
もちろん楽しんでいいし、怠けてもいい。
心の底にある初めのロゴスを見失わない限り。
令和元年 九月二十五日 早朝 空明るく澄み美しい
無端有限齋
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