気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

途中下車 ・・・ 柩(ひつぎ) 

2011-02-04 06:04:54 | Weblog
      柩(ひつぎ)

                 川路 柳紅

  ・・・ その柩は

      どこへゆくのですか

  ・・・ 火葬場へ

  ・・・ それからどこへゆくのですか

  ・・・ お墓へ

  ・・・ それからどこへゆくのですか

  ・・・ 知りません



終着駅に近づくと親切な車内放送がある。

「 皆さん ながらくお疲れ様でした。

  次は終点です。

  ホームは左側
 
    お忘れもののないように 今一度お改めください 」


昇給の ボーナスの レジャーのと騒いでいるうちに

  ・・・ 終着駅にくる。

いやでもおうでも降りねばならぬ。


その時にはじめて 重大な忘れものをしていたことに気づく。

私は何のために生きているのか を尋ねることを忘れていた !

ただ何となく 汽車に乗り

ただ何となく 移り変わる景色に心を奪われていたのではなかったか。



一度はおしゃべりをやめ 外景に目を遊ばせることをやめ

思い切って途中下車をして

  深く自己の内面をみつめることを心がけねばなるまい。



生きている私たちは

  現在の一瞬の 重さ 深さ 広さにあわねばならぬ。


医学の進歩は寿命の延長をもたらしたとよろこんでいるが

  車中旅行時間が長くなっただけでは

  ・・・ 要するに 流転であろう。


生きがいは

  光り輝く一瞬に出会うことが 決定するといってよいだろう。





* 2010.11  東ブータンで






弱く 勁(つよ)く

2011-02-04 05:15:03 | Weblog
    私の詩

              (八木 重吉)

  においもなく

  響きもなく

  冬の昼間の月のように

  弱げでありながら

  奪うことはできぬ



若くて結核で倒れた彼の詩は

  病身をが反映しているのか 独りごとのようにもの静かである。

しかし 神のことを語るときなどは 火のごとき情熱があふれた。


たった一行の詩もあるが

そのことばは魂のうめきであるがゆえに

  ・・・ 読むものの内部に深くつきささる。


病的な影は さらにない。



たしかに

彼の詩は 昼の月のように

  世間的にはとぼけたものであるかもしれない。

昼の月のようにはかなく美しいというよりも

  誰もが忘れていて 見上げようともしない意味での昼の月

しかも それが冬であればなおさら

ことに このごろの交通事故のやかましい時代では

  昼の月など見ているどころではない。



みんなに省(かえり)みられないほど

  どうでもいいような存在であるけれど

  ・・・ 昼の月は厳然と存在している事実であるし

太陽とともにこれもなければ 世界も人生もなりたたない


黙っているから

無視されているから ・・・ なくてもすむとはいわれない。



仲秋の名月とさわぐけれども

  冬の昼の月は ・・・ 静かにその時を待っているのであろうか。





* 2010.11  東ブータンで





しんだら

2011-02-04 05:13:04 | Weblog
    しんだら

                ないとう とくお (小学三年)


  しんだら

  どこにいくのかな

  てんごくか じごくにいくのかな

  それとも

  どうぶつになるのかな

  どちらかな わからないな

  だれか わかっている人いたら

  おしえてほしいな



こういう問いを「あさっての飯の味」というんだね。

あさってのご飯はおいしいだろうか

まずいだろうか

  ・・・ そう聞く人があったら みんなわらうだろう。


そして いうだろう ・・・ あさってになったらわかると。



だいじなことは

  今おいしくご飯がいただけるかどうかじゃないか。

今がおるすになっちゃいけないね。


君は 死んだらどうなるかというが

  では 生きてるってことはどういうことかわかってるの。


死んでから先が心配という不安は

  今生きてことの意味がはっきりわかって生ききっているかを
 
  ・・・ 逆に 問われているんだね。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・340. : 母の愛 ・・・ いつくしみの愛 

2011-02-04 05:11:51 | Weblog
母の愛は

  与えることのみの愛です。

  無償の愛です。

  矛盾のない無私の愛です。


母の慈悲心とは そこから生まれます。



母とは わが子に一寸刻みに食い殺されてゆく人だ

  と フランスの作家はいっています。


母は 食い殺されることを喜ぶ愛の持ち主なのです。


それができるのは

  ・・・ 母の愛が 献身といつくしみの愛だからです。



子どもは この愛にひたって生きる。

その愛の果汁を吸い込みながら大きくなってゆく。


母のもとへ還りたい ・・・ という思いは

慈愛の母ならば この苦しみをきっとほぐし慰めてくれるだろう

  ・・・ と信ずるところから生まれてくる。


母心には わが子を甘えさせる慈愛性がひそんでいる。

子どもは それを誰よりもよく知っている。


そして ・・・ 母は いつくしみの愛で子を守ってくれる人です。





* 2010.11  東ブータンで