気の広場

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幸福論

2011-02-06 09:00:27 | Weblog
      幸福

                   筏井 嘉一

  「幸福」はどこかそこらにあるようで

  さがしもあてず 髪白くなる



幸福って そころに転がっているように思いがちです。

拾えそうです。 こちらの努力次第で。


拾い集めて自分にくっつけた幸福というのは

  どうも真の幸福ではなさそうですよ。

くっつけたあとから落ちてゆくし またいくらくっつけても

からだがしなうほどぶらさげても

  ・・・ もうこれでいい ということはありませんしね。



真の幸福というのは こんなのとちがうのではないですか。


外から自分にくっつけたものではなくて

このままでもう満足 というのが

         ・・・ 存外 真の幸福ではないですか。





* 2010.11  東ブータンで





ストリップ

2011-02-06 06:00:18 | Weblog
      樹木

               高見 順

  枯れて

  生きる

  生きて

  枯れる

  立派に枯れる為に

  壮(さか)んに生きる



葉がすっかり落ちつくしたからといって あの樹は枯れたんじゃない。

冬が過ぎて水が温(ぬる)む頃になってみたまえ。

  枯れたような枝から みずみずしい新芽が吹き出してくるから。


芽出しの時はいいものだ。 ちょうど赤ん坊が生まれたときみたいで。



葉の落ちつくした姿はさびしい。 人間の晩年に似て。


しかし あの枯れ木は 一面からいえば

夾雑物を全部落としてしまって

  樹の骨格というか ギリギリの場所へ帰ったんじゃないか。


私たちもあの樹に倣(なら)って

娑婆で拾い集めたすべてのもを

  一度さっぱりおとしてみる必要があるんじゃないか。



はたして ・・・ 後に何が残るか。

その時残るものこそ 本当の私なんだろう ・・・ 。





* 2010.11  東ブータンで





竹の垂訓

2011-02-06 05:34:28 | Weblog
      筍(たけのこ)

                   竹部 勝之進

  筍がぐんぐん伸びて

  天にとどく

  天は邪魔だとはいわない ・・・・・

  いつか竹になり ・・・・・

  竹のさきがすこしまがる



竹が威勢よく伸びて ・・・

下から見上げると

  その天辺(てっぺん)は かすんで見えないくらい。


伸びるのが竹の本性とはいえ

  その竹をはぐくむ ・・・ 大地の恵み

  高い竹を容(い)れる ・・・空の寛容さ。


竹はあくまでも伸び 天までとどこうとするが

  ・・・ やっぱり 限度があるようだ。


伸びきった竹の先が ややうなだれ気味になる。



この詩人は

  伸びきった竹の尖(さき)が少し曲がっているところに目をとめた。


自分の限りを尽くしたところで 絶対他力に触れた姿といおうか。

これがこの世に形をもって存在する 有限なものの限界であろう。

限界を知った姿が この竹のお辞儀ではないか。



馬鹿だなア 君は。

  あれは竹の重量と地球の引力で起きる現象じゃないか。


そう 自然科学からはね。

そういう君は
 
  食事をしても蛋白質や脂肪の量 カロリーしか念頭にないんだろう。

料理をつくって君にすすめてくれたの厚意は カロリーにはでてこないぜ。

身体は カロリーで太るだろう。

しかし 人間らしい魂は
 
  人間の厚意 いや まごころで育ってゆくのじゃないかなァ。



古人にとっては

  竹は単なる植物ではなく ・・・ 魂の師を見出していたようです。

ぞくに竹を割ったような気質というように

  清廉を また雪にも折れない柔軟性と強靭性を学ぼうとしました。

こうなると 竹細工の原料や庭の風情以上のものだろう と思います。



竹のお辞儀に 分を知った謙虚性がある。


人間も 与えられた可能性を最大限に発揮するがよい。

現に これを実践して科学をすすめ 技術をみがいてきた。


だが 大切なものを一つ忘れてきたようです。

有限なものとして限界を知ること そこに無限にふれ ・・・


伸びきった竹から ・・・ 謙虚性を学ぶ時かもしれません。





* 2010.11  東ブータンで





致命傷 ・・・ 何でも知ってるバカ

2011-02-06 05:33:11 | Weblog
  月光の深雪(みゆき)の創(きず)のかくれなし

                         川端 茅舎



下が溝(みぞ)にあたるところと思われる。

深々とつもった雪に 一すじくぼんだところがあって

  それが寒月にてらされると黒く際(きわ)だって

  ・・・ 真っ白な雪の肌に切りつけられた創のようにみえる。


ちょっと不気味な光景です。

かくそうにもかくしきれず 月光にありありと露出している創。

何とも 象徴的な感じさえするではありませんか。



娑婆(しゃば)とか 穢土(えど)とかいわれるのは

人間のもっている自我 エゴイズム ・・・

  それが個人のであれ 集団のであれ

  ・・・ 互いに衝突し しのぎをけずる場所のことでしょう。


現代はことに国内にも国外にも その激突が展開され

  ・・・ はてしもなく くり返されています。

  ・・・ しかも もっともらしい理論で化粧して。


理論で事態は救われません。

  ・・・ 理論もまた 人間の知恵だから。

  ・・・ 人間の知恵は結局 穢土の塗りかえにすぎないから。



人間自身の 私たちすべての愚かさを

  ひとりひとりが気づく以外に ・・・ 救いはありません。


エリートだの 知識人だのといっても うのぼれではないか。

そこにもう 愚かさが暴露されているのではないか。

愚かさこそ人間の深い創であって

  むしろ それをカムフラージュしようとしての学歴や勲章ではないか。


学識経験を軽侮するのではありません。

人間の愚かさを知りぬくほかには

  ・・・ この世に救いがないことを言いたいのです。



学識経験をどんなに積んでも

  人間は のがれがたい愚かさを 本来もっているらしい。

すなおに愚かさを承認するところに

  ・・・ むしろ 平和はひらけてくるようです。



藤村いろは歌留多に

「 何も知らないバカ、何でも知っているバカ 」

  ・・・ というのがありました。


何でも知ってるバカが ・・・ 世界に充満したようです。





* 2010.11  東ブータンで





魂の深呼吸

2011-02-06 05:32:01 | Weblog
      ねがい

                    八木 重吉

  どこを

  断ち切っても

  うつくしくあればいいなあ



重吉が どの瞬間も美しくあってほしいと願うからには

  その裏には 彼にも醜い浅ましい瞬間があったことを

そして
  それが 彼をいたく悲しませたことを

  ・・・ ものがたっているのではないでしょうか。


私たちの生活の歴史のうちには ・・・

切り場所によっては とんでもないところが出てきて

  恥ずかしい思いをするけれども

  ・・・ それもなくては 生活の歴史はつながらないでしょう。



私たちは 生まれてこのかた息をしつづけてきたが

  どの一息だって なくてすむものはなかったはずです。


息をふき返すときの一息は ことに大切であるにしても

なくてはならぬ一息のくり返しが
 
  今日の私たちをあらしめているのでしょう。


それを忘れている私たちだからこそ ・・・

  ときにふかぶかと深呼吸をして

  ・・・ 息の尊さを再認識する必要があるのでしょうね。





* 2010.11  東ブータンで