気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

虚空(そら)に道なし ・・・ 3.戯れの人生

2010-10-22 06:05:03 | Weblog
釈尊は「自己」の探求を説かれ

  形式をぶち破った実りある人生を説きました。


虚空に遊ぶような

  何ひとつ確実な痕跡を残しえぬような生き方は

    戯れの人生にすぎない ・・・ といい切るのです。


「外道のやっていることはなかみがない。

  真理探究の世界に生きようとする人材はいない」

  ・・・ 釈尊は 空をみつめていうのです。


そして

「愚かなる民衆というものは

  つまらぬ戯論をもてあそび

    いつはてるともない議論を楽しんでいる」。



しかし

「仏は そんなつまらぬものから卒業しているのだ」


・・・ 皮肉な しかも 味のある聖句(ことば)ではありませんか。





虚空(そら)に道なし ・・・ 2.充実感

2010-10-22 05:48:04 | Weblog
釈尊は

  うねる山なみ

  とうとうと流れる河

 そして

  道のはしくれに咲く草花

  そこにむらがる蝶や蜂 ・・・ など

自然万物に人間の学ぶべきあり
 
  ・・・ と あらゆるヒントをつかむ人でした。


空に向かっているときも

つき抜けるような碧(あお)さのなかに

  ・・・ 一つの教えをくみとっておられたのです。



「虚空に道とすべきはなく」 ・・・ 空白の世界には道はない。

そのうつろさは ちょうど中味のない修行者の生きざまに似ている。

  ・・・ 彼は そういうのです。



私たちは野原に寝そべって 一点の曇りなき空をみつめているとき

突然 そのなかに吸い込まれてしまうような

 あるいは 羽毛と化して飛んでいってしまうような気持に襲われる。


それは おのれ自身の空洞化

  虚空と化してしまった姿を現しています。


自分を見つめ 自分に問いかける重石のような実感があるとき

  ・・・ 空は 逆に自分のなかに吸収されてきます。





虚空(そら)に道なし ・・・ 1.寡黙(かもく)

2010-10-22 05:46:41 | Weblog
虚空(そら)には道とすべきなく

  うつろなる外道(げどう)に 沙門(みちのひと) あるなし

おろかなる世人は 戯論(たわむれ)をたのしめど

  如来はかかる 戯論あることなし

                          (法句経)



「虚空(そら)には」という この聖句(ことば)を

  ・・・ 釈尊は しばしば使われます。


ご存知のように ・・・ 釈尊は瞑想の人です。

空をあおぎみるよりは 寡黙することが多かったと思います。



その沈黙と思索の世界には

じつにさまざまな人間の営みが 映し出されていたにちがいありません。

・・・ 充ち充ちた世界です。


それにくらべ 虚空には

  澄みきった空と雲以外になにもない。

空とぶ鳥はあっても そこには何ひとつ足跡すらも残っていない。

・・・ 空しい世界です。





いまに生きる ・・・ 5.精いっぱい

2010-10-21 12:14:06 | Weblog
私たちは 過去にとらわれてくよくよとし

  未来を思いあぐねて不安にかられる。


それは

「 いま 」をいうものを正しくとらえていないからであり

現在を 時間の流れの通過駅ぐらいにしか考えていないからです。


「 いま 」を粗末にする人は

  結局 過去も 未来も 長い人生もムダにしてしまう人なのです。



釈尊は

怠けて百年生きたところで 一日を精進し努力して生きた人に劣る

  といわれましたが ・・・

それは「 いま 」というものを
 
  ・・・ このように深くとらえているからです。



禅家では

「 一日作(な)さざれば一日食わず 」といいます。


一日 一時間 一瞬こそ ・・・ 私たちにとって 一番大事なのです。



「 いま 」のなかに結晶している過去と未来を大切にし

「 現在 」を 精いっぱい生きようではありませんか ・・・ 。






いまに生きる ・・・ 4.一期一会

2010-10-21 09:06:56 | Weblog
私が「 いま 」考えていることは

  明日以後の五年 十年の原因となっています。


「 いま 」は 刹那であって

  過去と未来の「因果」の中心となっている。

いわば 時間と空間のぶつかりあいです。


・・・ 一期一会とは このことをいうのです。



この「 いま 」をなおざいりにしてはいけない。

一刹那に 永遠をみる思いで生きよ

「 いま 」の瞬間に対し 主人公になれ


・・・ 釈尊は 「現在」というものを
          そのようにうけとめておられるのです。





いまに生きる ・・・ 3.「 いま 」

2010-10-21 06:40:49 | Weblog
まだやってこない明日は これまたあてにならない。


刹那生滅(せつなしょうめつ)といって

一瞬 一刹那に ・・・ 私たちは生まれ そして滅しているのだ。


ほんとうにあるもの

てごたえのあるもの

どうにかなりうるのは ・・・ 現在しかない。


「 いま 」に生きよ ・・・ という教えです。



この一刹那の「 いま 」の刹那とは

  ふつう 1/75秒にあたるといわれます。


その「 いま 」に全力投球して生きなさい というのが

  「現在有体」であり

  「今日まさに作すべき」という「今日」なのです。



そして

この「 いま 」のなかには

  何十年という歴史がつみ重なっています。

過去の結果です。

しかも

その「 いま 」は 明日に向かっては原因です。






いまに生きる ・・・ 2.落謝 (らくしゃ)

2010-10-21 06:06:10 | Weblog
釈尊は どこに生きようとしたのか。

次の聖句(ことば)があります。


「 されば

  ただ現在するところのものを そのところによく観察すべし

  揺らぐことなく 動ずることなく そをみきわめ それを実践すべし

  ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心になせ 」


・・・ 「 いま 」に生きる。 これです。



仏教には

「 過未無休 現在有体 」 という有名なことばがあります。


過去と未来には 実体はない。

あるものは 現在だけである。

過ぎ去った過去は どうにもならない。


これを 「落謝(らくしゃ)」 といってます。





いまに生きる ・・・ 1.一切は無常

2010-10-21 05:48:03 | Weblog
過ぎ去るを追うことなかれ

  未だ来たらざるものを念(おも)うことなかれ

過去そはすでに捨てられたり
 
  未来そは 未だ至らざるなり

                     (中部経典)



釈尊の晩年には 一抹の寂寥(せきりょう)がただよっていたと

  多くの仏教学者はいってます。


それは老いゆえの淋しさではなく ・・・

同じサキャ(釈迦)族出身のすぐれた弟子であるデーヴァダッタの

  反逆にあい

そしてしばらくして

この事件の大きな支えてであったサーリプッタ(舎利仏)

  モッガラーナ(目犍連)のふたりの死に遭遇しているからです。



しかし この人のえらさは

そうした過去にとらわれて自己をとり失うような弱さを

  かけらほどももっていなかったことです。


無常の哲理を体現した釈尊なればのことでしょうね。



釈尊はいいます。

過去を追うな また未来をこい願うな 未来はまだやってこない

・・・ 寥(さび)しさをよぶ過去も

    自分の死後の弟子たちのことも考えまい

一切は無常である ・・・ と。





死の怖れ ・・・ 4.自分の問題として

2010-10-21 05:47:19 | Weblog
私たちは

自分だけは死なない

  死にたくない と思います。


友人や先輩が死ぬと その死の理由を探り出して

「あいつは不養生だったから」 とか

「酒ののみすぎだよ」 と人ごとのようにあげつらって

  ・・・ 自分の死を忘れようとする。


「私が死んだらね」 とか

「どうせ死ぬんだから」 と軽口をたたく。


切実に「我の死」を考えていないあらわれです。

  ・・・ これを 自己擬態といいます。



私たちは

こうした自分のゴマカシを長くつづけていたのでは

  死を控えている短い生の充実をはかることはできません。



友人の死は

  自分のなかのなにものかが死んでゆくのだ

  ・・・ という有名なことばがあります。


死を絵空事とみず

  ・・・ 自分の問題としてとらえることが大切です。



文明の進歩は 死を遠ざけてくれるのかもしれませんね。






死の怖れ ・・・ 3.凝視する

2010-10-20 07:35:21 | Weblog
私たちは 耐え難い現実よりも

  喜ばしい嘘のほうを好むものです。


けれども

釈尊は 人間への同情のために

不死という神話によって 彼の知恵を曇らそうとはしません。


釈尊の目は冴えています。

幻想によって人の心を喜ばすよりも

  人間を悲劇的な運命の前にたたせ ・・・

その運命を凝視することから

  さとりへの道をあゆませようというのです。



道元は この釈尊の示した道を歩みました。

「生を明らめ死を明らめるは仏家一生の大事なり」

  ということばが ・・・ それです。


一生賭けて 生と死に立ち向かう。

死から眼をそらさぬ。

やがて死すべき自己をみつめつづける ・・・ 。


四という番号を不吉と嫌ったり

生きるために手段をえらばず叫びつづけたり

あるいは

不死を祈るような ・・・ 逃避をえらびませんでした。





死の怖れ ・・・ 2.人間は死ぬもの

2010-10-20 06:35:30 | Weblog
キリストは

死にのぞんで 彼の死後の復活を予言しました。


ギリシャの哲人 ソクラテスですら

魂だけは不死だと 懸命に証明しつつ

彼が死後行く国のことを あれこれ想像しつつ
 
  死についてゆきました。



釈尊は

そういう死後の仮説について 一言ものべていません。

ただ ・・・ 人間は死ぬものだ といいきるだけです。





死の怖れ ・・・ 1.冷徹 ・ 冷酷

2010-10-20 06:02:11 | Weblog
生きとし生けるものは みなすべて死なねばならぬ

                        (長部経典)



怖いことばです。

耳をおおいたくなるようなことばです。

できることなら 一生聞きたくないことばです。



しかし

釈尊は 残酷なまでに 冷徹にこういうのです ・・・


不死はない。

人間いや一切の生きものは死ぬ。

生ある限り死はある。


したがって

私も死ぬ お前も死ぬ

  ・・・ 彼は一切の奇跡をみとめてくれません。

冷酷です。



少なくとも

この「死」の必然に関する限り

  釈尊は 一歩もゆずろうとしません。





灯台もと暗し ・・・ 3.近きを軽んずる

2010-10-20 05:48:17 | Weblog
日蓮上人は

「近きは遠き道理 遠きは近き道理」と

  身近にいるものへの戒めを説いています。


人間はとかく 遠きを重んじ 近きを軽んずるものです。



先生や先輩だけでなく 両親や夫婦の場合も同じでしょう。


毎日父母と暮しているために そのねうちがわからない。

逆に あらさがしばかりしてしまう。

気に入るより 気にいらぬことのみ目につく。

友達に「いいご両親ね」といわれても ピンとこない。


ところが

いつの日か 父母が病気したり 亡くなったりすると

  ・・・ 改めて父母のありがたさがわかる。



世の中で立派仕事をしている夫を 月給運搬機ぐらいとしか考えず

  何かを学び取ろうとしない妻も ・・・ これと同じです。


器についたスプーンなのです。





灯台もと暗し ・・・ 2.そばにいすぎたために

2010-10-19 15:51:33 | Weblog
釈尊の弟子 阿難は

  二十五年間もの長い間 師のそばに仕えてきた人でした。

それだけに

一番多く釈尊の教えを耳にし その一挙手一投足を目にしてきました。

彼は 第一の弟子といわれたくらいです。

しかも 釈尊の従兄弟(いとこ)にあたります。



ところが その阿難は

釈尊が歿くなるとき 声を上げて泣き

師と先輩から戒められて

「お前は諸行無常ということがまだわからないのか

  生あるものに死はある という理法がのみこめないないのか」

  ・・・ と叱られました。


そして

釈尊入滅後の第一回の結集のとき開かれた資格試験に

  ・・・ ひっかかってしまったのです。



仏のそばにいすぎたせいか

あるいは

仏のお話をききすぎたせいか

とにかく

釈尊ののそば近くいて朝に夕に教えをうけていた阿難が

  一番おくれてさとりをひらいた という話しは

  ・・・ 私たちに大いに役立ちます。


まさに 匙は器につけども その味を知ることなし です。



いくらりっぱな先生のそばにいて 長い間教えをうけても

自分から学ぼうとする熱意のない生徒は

  ・・・ 阿難と同じになってしまうわけです。


反対に

たった一日でも本気になって習う気になれば

  短期間にくみとるべきものは くみとることができます。



私たちは

「いつでも聞ける」 とか

「いつでも会える」 と思うと つい自分を甘やかし

同時に

  ・・・ 相手をも 軽んじた気持になってしまうものです。





灯台もと暗し ・・・ 1.その味を知ることなし

2010-10-19 12:07:20 | Weblog
匙(さじ)は器(うつわ)につけども

  その味を知ることなし

                      (法句経)



日本にも 「灯台もと暗し」という諺があります。


近いもの そばにあるものほど

うっかりすると目に入らない ・・・ という皮肉な教訓です。



たしかにスプーンはお皿の一番近くにおかれています。

しかし

皿の中のスープの味が うまいか まずいかわかりません。


釈尊は この句の次に

「げに 舌こそ 美味(あじ)を知るがごとし」とつづけています。



人間の舌があってこそ ものの味わいというものがわかります。