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気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

安らぎ ・・・ 5.勝敗の二つをすてて

2010-10-19 12:05:20 | Weblog
敗けた者の怨み 勝てる者のおびえ ・・・

この二つを棄てて生きることこそ

  そこに恒久の平和が生まれるのです。



バイブルには 「汝の敵を愛せよ」と書いてあります。


敵をつくって愛するということは 勝利者の優越感です。



釈尊は

「勝敗の二つをすてて」といいます。

勝ちも負けも等距離における強い淡白な人となれと教えます。


勝利をすてた勝ち方

敗者に怨みをもたせぬ勝ち ・・・ それを追求していくとき

私たちは 勝敗にこだわる自分のみじめさを知りましょう。



こうした「勝ち負けを度外視した」フェアプレイこそ

  ・・・ 「仏心」なのです。


もし 闘って勝ったら

  負けた人に手をさしのべ

  ・・・ 自分から頭をさげるような人間になりたいものですね。



(再掲)

勝つもの怨みを招かん

  ひとに敗れたるもの苦しみて臥(ふ)す

されど

勝敗の二つを棄ててこころ静かなる人は

  起居(おきふし)ともにさいわいなり

                    (法句経)






安らぎ ・・・ 4.強い人間とは

2010-10-19 06:53:55 | Weblog
強い人間とは

  勝敗を二つともすて 越えた人なのだ。


勝ちも負けも上下はない。

優劣もない。

それは同じく等しいものなのだ。


それを忘れて勝利に溺れるとき

  敗者は 怨みごころをもち

  夜もねむれず 苦しみ 憎み 報復心をもつ。


もし それを知ったら

  勝者は たえず敗者の行動におびえねばなるまい。

征服者の不安とは それだ。


そんな暮らし方をして 心は静まるのか。

平和はあるのか。

ゆるぎない安らぎはえられるのか


  ・・・ 釈尊は じゅんじゅんと説かれています。





* 2010.10. 上海寸景 ・・・ 朝の公園 母子






安らぎ ・・・ 3.勝利とは

2010-10-19 06:31:05 | Weblog
いったい「勝利」とは何でしょうか。


それは 単独で成り立つものでしょうか。

そうではないでしょう ・・・ 。


勝つ者があれば 一方に負けた者がいます。


負けてくれる相手があるから

  「勝った」という気持も生まれてくるのではないでしょうか。

としたら

勝利者は 誰よりも敗者にむくいる気持ちがなくてはなりません。



・・・ いや それも弱い心のあらわれなのです。


もし あなたが誰よりも強く

  相手とする敵がいないほどの力量があったとしたら

  ・・・ もう 勝ちも負けもないではありませんか。



勝ったと喜んでいるのは まだ自分が弱いのです。

自分の力に負けているのです。


しょせん 勝者は いつかは負けます。



勝敗などというものは ・・・ いいかげんなものにすぎません。





* 2010.10. 上海寸景 ・・・ 朝の公園 太極拳





安らぎ ・・・ 2.勝敗

2010-10-19 06:30:09 | Weblog
人間は

幼いころから親に

  「負けるな くじけるな 勝ち抜け」 とはげまされてきます。

幼稚園の運動会でも

  「勝て 勝て 走れ!」 と若い父母が声をからしています。


受験戦争に突入した子どもらは 一刻一刻を「勝敗」に賭けています。

負けたら一生灰色だぞ と教育熱心な親は鞭をふるいます。



子どもらは

  ひとりでも競争相手が脱落することをねがい

  敗れ去ることを祈っています。


そして

入試に成功すれば 勝ったと叫び

敗れた少年はじいっと唇をかみしめて 勝利者に憎しみをいだく。

絶望の余り 自殺する子もあります。



こうした敗者に怨みをもたせるような勝利。

  そんな勝ち方は本物ではない。


敗けたものが恨みをいだかぬような勝利

勝ったという思い上がりの気持を持たぬ勝ち方

  それがまことの勝利者なのだ

            ・・・ と 釈尊は叱っておられます。





* 2010.10. 上海寸景 ・・・ 朝の公園 自慢





安らぎ ・・・ 1.心静かな日々

2010-10-19 06:29:28 | Weblog
勝つもの怨みを招かん

  ひとに敗れたるもの苦しみて臥(ふ)す

されど

勝敗の二つを棄ててこころ静かなる人は

  起居(おきふし)ともにさいわいなり

                    (法句経)



仏教は 「涅槃(ねはん)寂静」の境地を理想とします。

平和な安らぎをもって一生を生きぬくことです。

  ・・・ それが 釈尊の示された人生の目標です。



この聖句(ことば)は

  そうした心静かな日々を送るためにはどうしたらよいか

勝ちと負けという争いにとらわれがちな私たちを

  ・・・ さとされたことばです。





* 2010.10. 上海寸景 ・・・ 公園の片隅で






正真正銘の人間 ・・・ 3.自己を尊ぶ心

2010-10-18 06:01:02 | Weblog
どうしようもない罪障の人間に

  その自己をみつめよ ・・・ と釈尊はいう。


そして

穢れ曇った「無明の世界」にのたうつ自分を滅して

  正しき八つ道を歩め ・・・ と説く。



その「道」を疑い 信じないで

なおも罪を重ねる人間は

  たった一回の

  たったひとつの 尊い自己を粗末にし あいさないもの

  ・・・ もっともあわれむべき存在だと 釈尊はいっているのです。



心がけや 道徳工夫などでは 人間は転生できない。


動物を殺して食い

自然を破壊しても幸せを求める人間に

  そんな甘ちょろい規則など 何の力にもならない。


悪を犯し 苦にさいなまれる自己をえぐりだし 陽にさらし

  百八十度転回する道を信じてゆくほかはありません。



それこそが「自愛」であり

この自己を尊ぶ心なくして

  人を傷つけるぶざまな自分を変革することはできない

  ・・・ 仏教の本質を物語る教えです。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ クライマックス ・・・ お幸せに!!




 

正真正銘の人間 ・・・ 2.迷妄の生活者 

2010-10-18 05:33:12 | Weblog
私たちは

  修養をつめば 悪い人間にはならないと考えています。

また

  善い心がけさえもてば 殺人や盗みなどはしないだろうと

    たかをくくっています。


いわば ・・・ 自分に甘えています。



だが 釈尊は

  そんな人工的な「自戒心」など信用しません。


人間は生きていく以上

  「罪」を犯さざるをえない危険な存在であることを

  ・・・ 凝視されています。



親鸞聖人がいわれたように

まさに人間とは

  「地獄を一定のすみかとなす」 ・・・ 迷妄の生活者なのです。



罵られれば 怒り狂い

憎しみにかられれば 友をも 妻をも殺し

自分の幸せのために 嘘をつき 欺き

  嬰児を虐殺し

闇にまぎれて 婦女を犯し

金銭で 性をあがなう ・・・ それが 人間なのです。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ 開始 参加者は 140名ほどで小規模とか
           新郎新婦の入場です ・・・





正真正銘の人間 ・・・ 1.罪業の深い人間 

2010-10-18 05:32:28 | Weblog
殺(ころし)・盗(ぬすみ)・淫(みだら)・欺(あざむき)

  を犯して道を信ぜざるものは これ自らを愛せざるなり

                          (中本起経)



このことばを道徳的にうけとるならば

  ごく平凡な戒めとしか響かないと思います。


人を殺し 盗み 欺き 淫猥(いんわい)な行為におよぶことは

  「悪いこと」とされていますし 法律でも禁じています。


なにも

宗教家の手をわずらわせなくても

  あるいはすまされることかもしれません。



しかし

釈尊は そんな論理的な意味で

  この句をのべられているのではありません。


殺しや盗みなどの悪を犯す可能性をもっているのが人間であり

そうした罪業の深い人間を根本からつくりかえて

ほんとうの正真正銘の「人間」に導こうとする教えに

  耳を傾けようとしない人は ・・・

自己を愛していない 自分を粗末にしている人なのだよ。

  と ・・・

問題を私たち自身の生き方に向けて つきつけているのです。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ 定刻 されど 目下準備中
           中国的なのかな~ ・・・





往く路はひとり ・・・ 3.孤独に耐えよ

2010-10-17 06:04:20 | Weblog
私たちは

友人や先輩に相談もし 批評も受けます。

それはそれでよいのです。


しかし

それは あくまでも助言であって ・・・

最後に自分の道を決定するのは

  ・・・ たったひとりの「自分」なのです。



自分の自由意志と判断で選んだ道だからこそ ・・・

どんな結果がでようとも 人を怨むことなく

  ・・・ 自分で責任をとることができるのです。



大勢の仲間にかこまれ 埋もれてしまう人は

  自分自身の正体(ちから)を発見することはできません。



他人の真似をする必要もない

堂々と孤独にうちむかって進む

  ・・・ それこそが人生の素晴らしさです。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ 夕刻 ホテルの結婚式場 ・・・ 階下を見おろす







  

往く路はひとり ・・・ 2.甘えを断て

2010-10-17 05:28:00 | Weblog
釈尊は

仲間づれで一つ路を往(い)ってはならない ひとりでゆけ

  ・・・ と教えます。


自分のゆく手に どのような苦難の運命が待ち構えていようとも

自分の手一つで切り拓(ひら)いてゆけ ・・・ というのです。



ふたりにて一つ路をゆくことなかれ   (律大品) 再掲



この釈尊の言葉は

六十一人の若い弟子たちを伝道の旅に立たせるとき

  ・・・ 説かれた戒めの教えだといわれます。


六十一人の若者たちは おたがいに仲がよい。

また いつまでも釈尊という師のもとで

  いろいろ指図してもらいたい という気持を強くもっていた。

うっかりするといつまでも 彼らは一人立ちしようとせず

かりに伝道の旅にゆかせても
 
仲間づれでなくては 何一つやりとげられない

  ・・・ 「甘えた人間」になってしまうかもしれない。


釈尊は

  そうした依存心の危険を 深く読みとっておられたのでしょう。


自分の手もとから 世間へ遊行へと送り出し

しかも ひとり往(ゆ)け と

  ・・・ きびしく突き放したのも そのためです。



「甘えを断て 孤独に耐えよ」

このきりっとした心構えこそ自己開拓の道であり

  その勇気があってこそ青年なのだ。

お前たちは 話し相手も欲しいだろう

  頼りになる相談相手のなかまも欲しかろう。


しかし それはいけない。

一つの道を ひとりでゆけ。

本当の道は たった人だけの世界にある。


・・・ イエスの山上の垂訓にも似た

              釈尊の根本の教え といえましょう。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ 夕刻 ホテルの結婚式場 ・・・ 受付もスタンバイ



 



往く路はひとり ・・・ 1.人間は弱い

2010-10-17 05:27:13 | Weblog
ふたりにて一つ路をゆくことなかれ   (律大品)



人間にとって 独りぽっちになるくらい恐ろしいことはありません。


私たちが この世の中で苦しいつらい目にあいながらも

  なんとかふんばって生きてゆけるのは

頼りになる相手や 相談にのってくれる友人
 
  先輩のはげましがあるからでしょう。


もし そうした仲間がひとりもいないとしたら

  ・・・ これほど心細いことはありません。



人間は 弱いものです。


弱いから 群れのなかに身をおいて ホッとします。

人のいきする 人臭い中へ入っていこうとするのも

  それが孤独ををまぎらわし 安らぎを与えてくれるからでしょう。


現代人は

「人ごみ」を離れて生きてゆくことができない

  ・・・ とさえいえるかもしれません。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ 新家族で喜びの記念撮影 






おのれこそ ・・・ 4.独立自尊

2010-10-16 06:01:31 | Weblog
いまの社会では

  ひと真似や模倣 そして 画一的な知識教育がさかんです。


人びとは

  自己を見失った群衆となって ぞろぞろと人生を歩いています。


そんな「その他大勢」の人間となってしまって

  たった一度の人生をついやしてもいいのでしょうか。



私は もうたくさんです。


大衆の中に自己を見失ったようなあわれな人間として

  ・・・ 一生終えたくはありません。


平均的人間は ・・・ まっぴらです。



釈尊は 「天上天下唯我独尊」といわれました。


「独立自尊」 「われひとりゆく」自己こそ もっとも大切な根本だ

  ・・・ というのです。




(再掲)

おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて誰によるべぞ

よくととのえし おのれにこそ まこと得がたき よるべをぞ得ん

                           (法句経)





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ 新郎のご両親からお祝い 




  

おのれこそ ・・・ 3.自己を築く

2010-10-16 04:45:03 | Weblog
深い人生というものは

他人の上や

神にかけていたすべてのよるべが崩壊したところに ひらけてくるです。


「たより」に突き放された者に 真の自己は芽生えてくるものです。



「金さえあれば」と財貨に頼っている自分は

  いつの日か崩されてしまうかもしれません。


「そんなときこそ無二の親友がいる」といったところで

  ・・・ ほんとうにあてになるでしょうか。


親類縁者は もっと頼りにならないでしょう。


仲のよい妻があったとしても

人間は死ぬとき

  たったひとりで 息をひきとってゆく存在なのです。


最後に自分をささえてくれるのは ・・・ 自分自身です。

「おのれを措(お)きて誰によるべぞ」 ・・・ です。



では

それほどたよりになる

  しっかりとした自己を 私たちはもっているでしょうか。

昨日張り切っていても 今日はしょげている

  ・・・ といったような自分しかないのです。


だからこそ

不動のゆるぎない自己

「よくととのえしおのれ」を得なくては

  「まこと得がたき よるべを得ん」という喜びと自信に

  ・・・ めぐりあうことはできないのです。



「よるべ」を捨て

一日も早く「自己」と対面し

  その自己をきたえぬくこと

人生の意義が

  本当にわかった自己を築くこと

・・・ これがどうしても必要なのです。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ 新郎のご両親へごあいさつ 





おのれこそ ・・・ 2.有頼漢

2010-10-16 04:44:15 | Weblog
私たちは幼いころから

父や母

 そして

学校の先生 先輩 友人 と

  誰かを「よるべ」として育ってきました。


そこにはまだ

  「よるべ」となる自己が成長していないからです。



ところが 一人前になってからも

  この頼りぐせは直らず

  ・・・ 何かにつけては よるべをみつけようとします。


「苦しいときの神だのみ」も そのたぐいです。


ほんとうに人間は いつまでたっても

  ・・・ 「有頼漢」の世界から脱出しきれないものです。



しかし

どこかによるべを求めて安心しているような生活からは

  ・・・ 本当のものは 出てこないのです。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ ちょっと化粧直し





おのれこそ ・・・ 1.最後のよりどころ

2010-10-16 04:43:33 | Weblog
おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて誰によるべぞ

よくととのえし おのれにこそ まこと得がたき よるべをぞ得ん

                           (法句経)



法句経を代表する聖句(ことば)です。



私は このことばを よく口ずさんでいます。


心弱く挫(くじ)けそうになったとき

誰かの力を頼ろうと よるべが欲しくなったとき

 あるいは

非難や攻撃にさらされて 孤独におちいったとき


この釈尊の聖なることばは

  いつも 私を力づけ ふるいたたせ

  ・・・ 恥入りたいような気持にさせてくれます。



人間 最後のよりどころは

  淋しいけれども ・・・ 「自分」だけなのです。

「おのれこそ おのれのよるべ」なのです。

誰も あてにはできません。


できなないからこそ ・・・ 自分だけが頼りになるのです。





* 2010.10.10 上海 結婚式当日
    ・・・ 新居 寝室での儀式がはじまります ・・・