清水次郎長(しみずのじろちょう)と言えば、全国にその名をとどろかせた海道一の大親分ですが若い人は良く知らない人が多いのではないかと思います。
大衆芸能として浪花節(なにわぶし)にのせた「清水次郎長伝」などが流行った時代は大分昔だし、まして有名な浪花節のセリフである「旅ゆけば、駿河の国に茶の香り」とか「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ」や「馬鹿は死ななきゃなおらない」「ちょうど時間となりました。。。」といった名調子は「どこかでなんとなく聞いたことがある気がする」程度か「知らない世界」になってしまっている感じです。
時代が変わってテレビでもほとんど取り上げないし地元の盛り上がりもイマイチです。昨年、東京ではWAHAHA本舗公演の「娘盛りの次郎長一家 サウンドオブ三度笠」&「星くず爆笑寄席」や名古屋の御園座(みそのざ)で舟木一夫さん主演の『〜二代・広沢虎造口演〜 清水次郎長外伝より 「鬼吉喧嘩状」』などが扱われ、大都市の公演で少し息づいています。
時代の流れとは言え、次郎長親分の功績を少しでも多くの人に知ってもらいたいです。そういうテケも2015年の10月、次郎長生家を訪れてから詳しいことを知りましたが。。。^^;
清水湊を拠点とした次郎長親分を少し掘り下げてみますね。(写真は日本平から清水港と富士山を望む 2018.2)
三保の松原と日本平から見た富士山
富士山と三保の松原そして御穂神社へ
美しい富士山と清水港。そして楽しさいっぱいのエスパルスドリームプラザ
清水次郎長生家地図 住所: 〒424-0945 静岡県静岡市清水区美濃輪町4−16
ということで、清水次郎長についていろいろ調べてみました。簡単に言うと、前半生は任侠の世界で暴れまわり、後半生は社会事業家としては静岡の発展に尽くし地元の人々に愛された人物です。ただ、その偉業から後半生は美化されやすい側面がありますが、江戸時代から明治にかけて時代が大きく変化・展開する中でどうしてもチカラワザが必要とされた背景があったとは思います。
まずは、2015年に次郎長生家を訪れたときの写真など。。
電車とバスを乗り継いで近くまで来ました。巴川に架かる港橋からみた巴川下流方向です。この右岸(上流から見て川の右側)に次郎長生家はあります。
港橋から巴川の上流を望む。
清水港から西へ港橋を渡り程なく「次郎長通り」があり、そこを左に折れて行くと、次郎長生家が左側にあります。ちなみに「肉のふくだ」さんが見えますが、ここの焼豚(チャーシュー)はバカウマです。(≧◇≦)
ハイ、到着。平成の改修前の次郎長生家です。
中に入るとこんな感じ。
展示物。左から次郎長愛用のキセル、三代目「お蝶(おてふ)」のカンザシ、鎖帷子(くさりかたびら)などです。クリックで拡大します。
奥へと続く土間。
神棚や囲炉裏があるので居間でしょうか。
床の間と仏壇がありました。
次郎長の写真がありました。威厳がありますね。
江戸時代の巴川の地図です。当時はかなり蛇行してました。地図の左で川が急に曲がる手前に次郎長生家があります。当初は巴川に生家裏が面していましたが安政地震により地盤が隆起してグーグルマップで分かるように巴川との間に一区画できました。
当時、愛想のいい女性の案内の方から色々と話を伺い大変ためになりました。ありがとうございました。(●^o^●)
時を経て、2018年2月18日(日)開催の日本平ウォーク(ショート/13kmコース)に参加してたとき立ち寄った写真です。じっくり名所を見てたら一番最後になってしまい、予定時間ギリギリだったので急かされて大急ぎで撮ったものです。関係者には迷惑かけたと思うのでこの場を借りてお詫びいたします。。^^;
改修されて綺麗な畳でサッパリしました。囲炉裏は小さくなったかな。
土間は広くして往時の姿に戻したそうです。床の間が無くなっている?
さて、長くなりましたが清水次郎長の後半生の偉業を忘れてはいけません。次郎長の前半生の大きな事件と後半生を年代別に活躍などを列記してみますね。
次郎長が経営していた船宿である記念館「末廣」展示物 五十代後半の次郎長顔写真
【1866年(慶応二年)次郎長47歳 荒神山(こうじんやま)の喧嘩で東海道に名を轟かす】
●神戸長吉(かんべちょうきち)と穴太徳(あのうとく)の縄張り争いが荒神山(現在の鈴鹿市)であり、次郎長は神戸長吉側につき、吉良仁吉を大将に、大政と大瀬半五郎らを荒神山に向かわせる。穴太徳・黒駒の徒130人余を相手に闘い穴太徳の弟分角井門之助を倒すも、このとき仁吉・法印大五郎が戦死し、憤慨した次郎長は480名を動員し「長槍170本、鉄砲40丁、米90俵」を船に積み、穴太徳に再び挑んだところ穴太徳とその後ろ盾の丹波屋伝兵衛らは恐れおののき、ひたすら陳謝し、和議を受け入れました。この事件以降、全国に「清水次郎長」の名を馳せ、貫禄を増すことになりました。
荒神山の手打式の写真。
荒神山の手打式の解説と参列者名。
【1868年(慶応4年 明治元年)次郎長49歳 街道警護役(警察署長)に任命される】
●駿府町奉行の廃止に伴い、伏谷如水が駿府町差配役となり次郎長に街道警固を命じ、過去の罪科を免じ帯刀の許可を与える。
◎伏谷如水は次郎長の人柄や組織力を求め、街道警護役を命じますが2度とも断られてしまいます。しかし如水は明治時代に入ったこともあり「己(おのれ)を捨て天皇のために尽くそうと思わないのか。清水の湊を守り、駿府・東海道の治安を守ることは天皇陛下のお役にたつことだ。」と言葉をかけます。その熱意に打たれ感銘した次郎長は街道警護役を引き受け、このときから生き方を変えていきます。
◎江戸から駿府に移った徳川家に従い大量の徳川旧幕臣と家族が清水港に上陸します。(1871年段階で静岡県内に在住した旧幕臣の総数は13,764人余にのぼるため家族を含めると膨大な人数であった)しかし、宿泊施設などが足りず駿府の街が混乱している様子を見て、次郎長は炊き出しなどで救護し、直ちに方々に手を回して彼らの住まいを確保してあげることにより混乱を治めました。
◎官軍による軍艦接収を拒んだ榎本武揚が駿府行きを拒んだ幕臣を引き連れ8隻の旧幕府軍艦で品川沖から北海道へ脱出します。
しかし大嵐にあい、咸臨丸(かんりんまる)は帆柱が折れてしまい修復のために白旗を掲げて清水港へ入港したところ、咸臨丸を発見した官軍は情け容赦なく皆殺しにして遺体を海に放り込むという悲惨な事件が起こりました。しかも、『賊軍である咸臨丸の乗組員の遺体には触れるな、埋葬するな、この掟を破ったものは反逆者として厳罰に処する』という高札が立ったため、この御触れと厳しい見張りにより海に漂う遺体を誰も収容できず、酷い死臭と景観になっていました。
この有様に次郎長は『たとえ知らない人間であっても、そこで仏になってしまえば賊軍も官軍も関係ない、その土地の人間が供養するのが人の情けというものだ。』として夜中に子分を使って遺体を回収し供養しました。その後、駿府藩役所より出頭命令により呼び出された次郎長は堂々と自分がやったことを認め『人の道として当たり前のことをしただけだ』と主張します。呼び出した松岡万は心打たれ、かつて幕臣でもあったこともあり、お咎め無しとしました。
(※咸臨丸(かんりんまる)は、遣米使節の護衛艦として1860年1月に軍艦奉行木村摂津守と艦長勝麟太郎のもと約90名の乗組員を乗せて浦賀を出航しアメリカに派遣されたあの有名な軍艦です。)
◎静岡藩大参事の人に就いていた旧幕臣の山岡鉄舟は、咸臨丸事件での次郎長の働きや言葉を聞き、深く感謝し、親交を持つようになります。
次郎長が経営していた船宿である記念館「末廣」展示物 50分の1スケール 咸臨丸(かんりんまる)
(この年、鳥羽伏見の戦いで幕軍敗退。3月、有栖川宮熾仁親王東征大総督率いる東征軍、駿府に駐屯。駿府藩成立。8月徳川家達駿府城に入る。勝海舟、山岡鉄舟が駿府藩幹事役就任。)
【1869年(明治2年)次郎長50歳】
●次郎長が三河へ出かけている間に二代目お蝶が久能新番組の木暮半次郎に斬殺されるが、子分達がすぐさま追いかけて打ち取る。
◎5月「新番組」の中に鍵吉の配下である木暮半次郎という若侍がいて、二代目お蝶は次郎長に出会う前、江戸で芸者をしていて半次郎とは馴染を重ねる間柄であった。そのため、駿府に来た半次郎はお蝶に金の無心にいくが、お蝶はかつての羽振りも夢となった旧直参を相手にしなかったため、激高した半次郎が思わず刀を抜き、二代目お蝶を斬り捨ててしまいます。その後、半次郎は近所の寺院へ逃げこみ、そこに次郎長の子分である田中の啓次郎、大政、仙右衛門らが来て追い出され、田園の畦道で挟み討ちになりますが、やくざと半次郎では剣の腕が違うため、やくざどもを寄せつけません。そこで石を投げ、半次郎の額に当たってひるんだ隙に腹を槍で突いたところ、半次郎は槍を一刀両断して暴れたものの遂に絶命。。
この一件で騒ぎが大きくなり、『新番組の剣客らが次郎長一家に久能山から襲ってくる』という噂が立ち、二百数十人の子分たちが喧嘩支度で集まりますが、次郎長は彼らを解散させ単身で久能山へ出向き、鍵吉に今回の件を詫びたところ、『さような名の者は、拙者はいっこうに存ぜぬが。』との返事で一件落着。次郎長と鍵吉それぞれの胆力が分かるエピソードとして語り継がれています。
(前年の1868(慶応4)年2月、慶喜を警護する目的で、中條金之助景昭を大将として精鋭隊が結成された。この旧幕臣らは徳川家達の護衛をして駿府に入り、新番組と改称、徳川家康の廟がある久能山を警備し周辺に居住した。)
●明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還(各藩が治めている領土や領民の戸籍を、天皇に返還させる政策)で任務を解かれ暴発の心配もある「新番組」の旧幕臣たちを勝海舟らの働きかけで水がない不毛の地、牧之原に帰農、開拓をさせることを決意。
◎ことの始めとして、ある日、鉄舟は清水の次郎長より、遠江に入植可能な土地があると聞き、景昭と視察に行ったことから始まります。中條金之助景昭の深イイ話⇒
出典:お茶の木の肥やしになるのだ!
●山岡鉄舟、咸臨丸事件で次郎長がつくった墓に「壮士の墓」という墓碑銘を与える。
●旧幕臣の杉亨二(後の初代統計局長官)は次郎長に会い、三保の塩田、有度山の開墾など移住士族が生きていく道を探る。
●12月、新門辰五郎は次郎長に会い、徳川慶喜の警備を依頼。
●古くは清水の港は巴川の河口を港としていました。明治維新を肌で感じ、先見の明がある次郎長は恐らくこの頃から、新しい時代に静岡をお茶の主要産地として発展させ、商売として成り立たせるためには、もっと大きな港でお茶の販路拡大が必要だと考えたと思われます。
【1874年(明治7年)次郎長55歳】
●富士市大渕の開墾
◎次郎長は当時の静岡県知事・大迫貞清の勧めもあり、助成金を二千円もらい、向島の囚人たちを集め、富士裾野(大渕)の開墾を始める。牧之原と同じように、この土地は水も出ないような荒れ地で、非常に厳しい開墾を始める。
●次郎長は半田港から清水港へ進出した仲埜・盛田合弁の酒の量販店「中泉現金店」の開業に力を貸す。
【1875年(明治8年)次郎長56歳】
●清水港の発展
◎向島に波止場の建設が始まる。次郎長は、廻船問屋経営者たちに、大きな蒸気船による横浜港との定期航路開設の必要があると口説いて周る。
【1876年(明治9年)次郎長57歳】
●蒸気船静岡丸が清水港と横浜港間に就航し、静岡茶を横浜に運ぶ。次郎長は頻繁に横浜に行き、神風楼に宿泊し横浜商人と清水港廻船問屋経営者たちを結びつける。
●英語塾の開講
◎次郎長は旧幕臣の新井幹の開いた私塾「明徳館」の一室を使って英語塾を開設します。
お茶を海外に輸出するためには英語を習得するの必要があると感じた次郎長は、「これからの若者は英語を知らなきゃダメだ。」と、近所の青年を集めて、講師に静岡学問所の若手講師を招いて英語塾を始めます。
英語塾の生徒である、三保の川口源吉は、ある日横浜から貨物船に紛れ込んでハワイへ密航します。その後、ハワイで大成功をおさめ、地元では「ハワイさん」の愛称で親しまれ、清水の国際化にも取り組んだ。
次郎長が経営していた船宿である記念館「末廣」二階展示物 英語塾の様子再現
次郎長が経営していた船宿である記念館「末廣」展示物 明治初期の英語教科書
【末廣 地図】住所:静岡県静岡市清水区港町1丁目2−14
【1878年(明治11年)次郎長59歳】
●波止場築造、港橋架橋完成。アメリカ前大統領グラント将軍来港。次郎長は漁師達を集め投網を披露。
●山岡鉄舟が戊辰戦争で不明となった父母妹の行方を尋ね遍歴する天田五郎を次郎長に引合せる。次郎長は全国の親分らに手紙を出し、天田五郎の父母妹探索を支援する。五郎は次郎長の家に逗留し、次郎長一代記「東海遊侠伝」を執筆。
【1880年(明治13年)次郎長61歳】
●次郎長は横浜の輸出商、静岡の茶商、清水港の廻船問屋の三者による「静隆社」の設立に携わり、蒸気船3隻による清水港と横浜港の定期航路を誕生させる。このような次郎長の尽力により、清水港は外に開かれた港となり、静岡のお茶はアメリカへも輸出されて、日本一のお茶の輸出港となった。
【1881年(明治14年)次郎長62歳】
●大政こと山本政五郎が死去。(次郎長の後継者として入籍し山本政五郎を名乗っていた)
次郎長が経営していた船宿である記念館「末廣」展示物 次郎長一の子分 大政の写真
●山岡鉄舟が引きあわせにより、天田五郎は再び清水に来て次郎長の養子になる。そして、采配を振るい富士市大渕の76町歩を開墾することに成功する。この開墾された土地は「次郎長」と名付けられ、現在も残っている。
静岡市清水区 梅蔭寺所蔵 富士大開墾の絵
【1884年(明治17年)次郎長65歳】
●天田五郎、「東海道遊侠伝・一名次郎長物語」を執筆し、東京神田の与論社より出版。次郎長伝記の元祖となる。
【1886年(明治19年)次郎長67歳】
●拡大整備された清水港には、軍艦と共に多くの将兵達が出入りするようになり、次郎長は船宿「末廣」を開業する。出入りした将兵たちの中には、後に「軍神」と言われ日露戦争で活躍をした広瀬武夫もいた。徳川慶喜も次郎長に合うため「末廣」に度々訪れた。
次郎長が経営していた船宿である記念館「末廣」外観と駐車場案内
●東京大学医学部特別課を卒業した植木重敏と、次郎長は横浜から土佐に向かう船上で知り合い、植木と同じ土佐須崎鍛冶町出身の渡辺良三とともに清水へ招き、済衆医院を静岡県有度郡清水町に開設する。
【1887年(明治20年)次郎長68歳】
●明治二十年4月17日、興津の清見寺に咸臨丸殉難者記念碑の除幕式開催。碑文「食人之食者死人之事」は、榎本武揚書。夜に「末廣」で関係者の慰労会開催。
清水区興津 清見寺外観
咸臨丸殉難者記念碑
【1888年(明治21年)次郎長69歳】
●山岡鉄舟(52歳)が胃ガンにより死去。鉄舟は皇居に向って、結跏趺坐(けっかふざ:両足首を反対の足の太ももに乗せる座禅の坐り方)したまま、絶命。次郎長は旅姿にて東京谷中、全生庵の葬儀に参列。
【1890年(明治23年)次郎長71歳】
●海軍少尉小笠原長生、軍艦天城に乗り清水港へ。末廣の次郎長を訪ねる。宿泊して次郎長に会い、その人物に傾倒。のちに子爵海軍中将として次郎長顕彰会会長を務めた。
次郎長が経営していた船宿である記念館「末廣」展示 小笠原長生写真
【1892年(明治25年)次郎長73歳】
●山田長政顕彰碑の建立のため、駿府城内で大相撲の興業を催す。
◎次郎長は郷土の英雄、山田長政を銅像にしようとしたが、簡単には実現せず、尊敬する山田長政のため自ら動いて建立を目指す。大相撲の他に「当目の岩吉」を連れ上京し、当時外務大臣になっていた榎本武揚に会い、銅像建立の趣旨を説明して金一封の寄贈をもらっている。残念ながら大相撲興業の収入は少なく山田長政顕彰碑の建立には至らなかった。
【1893年(明治26年)次郎長74歳】
●6月12日、三代目お蝶に看取られながら、風邪をこじらせた次郎長はその生涯を終える。梅蔭寺にて葬儀を行い、三千人を超える参列者が集った。次郎長は初代、二代目、三代目お蝶・大政・小政・森の石松らと梅蔭寺に眠っている。
静岡市清水区 梅蔭寺外観
静岡市清水区 梅蔭寺 次郎長像
静岡市清水区 梅蔭寺 次郎長関係者墓
静岡市清水区 梅蔭寺 次郎長の墓
【梅蔭寺 地図】住所:静岡県静岡市清水区南岡町3−8
ここまで、長文読んでいただいてありがとうございました。
興味があったら静岡市に来て遊んでね!(≧◇≦)
清水次郎長の生い立ち「あなたの残したい建物コンテスト1位記念」
穏やかな巴川。かつての清水湊は巴川河口の河港だった。しかし、安政東海地震によりこの地域は隆起し、河港の機能が低下したため、折戸湾に近代的な港湾が整備される事になる。
ヤクザ仲間から「ゴロ長」と嫌われるほどに粗暴だった次郎長を変えたのは、幕末期にあって「三舟」の一人と称された逸材・山岡鉄舟の知遇を得た事にある。
多くの徳川家旗本役人達が無教養な自堕落人間にすぎないと暴露された中で、「海舟は智の人、鉄舟は情の人、泥舟に至っては意の人か」と言われた人物に明治元年に49歳で出会った次郎長は、ガラッと人生を変える。
そして、当スバル座座長と同じ福島県出身の天田五郎(1854~1904)の書いた「東海遊侠伝」(明17年、東京興論社)が晩年の次郎長を著名な存在へと仕立て上げてくれたのあるが、養子とした天田五郎に刺激されたのか・・文字も書けなかった次郎長は明治19年、地元清水に英語学校を開設したのである。
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国登録有形文化財 次郎長生家(旧高木家住宅)静岡市ホームページ 最終更新日: 2018年6月1日
次郎長生家は、江戸期は渡世人、明治期は社会事業家として活躍した清水の次郎長【文政3年(1820)~明治26年(1893)】が生まれた家として知られています。
清水次郎長こと、本名 山本長五郎は、商家である高木三右衛門の次男としてこの家に生まれましたが、母親の弟で200mほど離れた同じ通りの米屋・甲田屋を営んでいた山本次郎八の養子に出されました。次郎八のところの長五郎ということで「次郎長」と呼ばれました。
次郎長生家のある清水区美濃みの輪わ町は、清水港の発展を支えた廻船かいせん問屋どんやが立ち並んでいた上かみ一丁目、上二丁目、本町、そして仲町(清水町の妙慶寺付近)に続く位置にあり、幕府の清水しみず御米蔵おんこめぐら(現在の清水小学校付近)に通じる街路を形成し、町屋が連続していました。次郎長生家は、美濃輪町の通り(現在の次郎長通り)に面し、通りと巴川に挟まれた場所にあり、清水港の歴史を物語る位置に存在します。
次郎長の生まれた家として有名ですが、清水港の発展を根本から支えた一般の商人の家として、この建物が残されたことは貴重であり、国登録有形文化財の登録基準の「一 国土の歴史的景観に寄与している」として、平成30年3月27日、国の登録有形文化財に、登録されました。
次郎長生家は、以前より来訪者用施設として、一般公開されておりましたが、耐震化工事を行い、平成29年7月にリニューアルしました。
●内部の様子
建物は、江戸末期の建築と思われ、間口まぐち2間半で、奥行き5間半の平屋と背面側の奥行四間二尺の二階建てを繋ぎ、正面右に1間幅の土間を通します。
中庭を設け、通り土間で表と裏をつなぐ建築構成は町屋建築の特徴をよく残しています。
●施設見学のご案内
施設の見学について
次郎長生家は、建物の中をご覧いただくことができます。開館日は、下記時間帯で開館しております。事前の申し込みの必要はありません。
入場料 無料
開館時間 平日10時~16時。土・日・祝日は10時~17時まで。
休館日 毎週火曜日(祝日を除く) 年末年始期間(12月28日~1月4日)
住所 静岡市清水区美濃輪町4-16
054-353-5000
●アクセス方法
JR清水駅西口3番のりばからしずてつバス三保山の手線「港橋」下車。徒歩5分。
東名高速道路清水ICから車で約5km。約10分。
駐車場有(4台)。
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次郎長生家リニューアル 往時の姿取り戻す産経ニュース 2017.7.12 12:05
江戸幕末から明治に「海道一の大親分」と呼ばれた侠客で、講談や浪曲作品の題材としても人気を博した清水次郎長(1820~93年)の静岡市清水区にある生家が約半年間の修復工事を終え、リニューアルオープンした。
生家は木造2階建ての町屋造りで、次郎長が生まれた際、産湯に使ったとされる井戸が残る。保全活動に当たるNPO「次郎長生家を活かすまちづくりの会」の牧田充哉会長は「次郎長が生きた時代の雰囲気を感じられる。完成をきっかけに港町清水を盛り上げていきたい」と話している。
民間団体が実施した「あなたの残したい建物コンテスト」で大賞となり、企業などからの寄付が集まったため修復工事が実現。屋根にはかつて地元で生産された「清水瓦」を敷き直し、内装も、修復工事中に見つかった江戸時代のものとみられる土壁を一部残したほか、土間を広くして、往時の姿に戻した。耐震補強も施した。
開館時間は、平日が午前10時から午後4時で火曜定休。土日祝日は午前10時から午後5時。入場は無料。
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