北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

厳有院(四代将軍 家綱公)の霊廟(東京上野)

2021年07月15日 | 総論 
四代将軍家綱公(厳有院)の霊廟は、上野の寛永寺にありましたが、戦火で焼失しています。 家綱公は、延宝八(1680)年に亡くなられました。本来であれば、徳川家の菩提寺であった増上寺に霊廟が造営されるはずでしたが、父家光公の供養塔のある寛永寺に葬られることを希望したとされます。 その理由として、家綱公の誕生にあるとされます。寛永十七(1640)年世嗣がいなかった家光公は、天海に祈祷を依頼し、その翌年に . . . 本文を読む

大猷院(三代将軍家光公)の霊廟(日光市)

2021年07月14日 | 総論 
 徳川三代将軍 家光公は、慶安四(1651)年四月に亡くなりました。霊廟は2カ所つくられ、一つは日光の現在の輪王寺大猷院であり、もう一つは上野の寛永寺内の供養塔で享保五(1720)年に焼失しました。家光の希望で、敬愛していた家康公と天海上人の眠る日光山へ遺骸は埋葬されました。寛永寺には、供養塔(遺品、毛髪、爪などを収めた)と位牌所が造られました。 日光の大猷院の配置図 他の将軍のものと比較しま . . . 本文を読む

台徳院(二代将軍秀忠公)の霊廟(東京 芝)

2021年07月11日 | 総論 
二代秀忠公は、天正7(1579)年7月7日生まれ、寛永9(1632)年1月24日に亡くなられています。 二代将軍以降は、家康公と異なり純粋な仏式で葬儀が行われ、家康の「東照大権現」という神仏習合の名前とは異なり、院号になります(以降の将軍も同じですが、十五代慶喜公は例外)。二代秀忠公は「台徳院」と呼ばれ、正室のお江の方(祟源院)とともに徳川家の菩提寺である増上寺(浄土宗)に、三代将軍家光公によって . . . 本文を読む

日光東照宮奥社の宝塔について考える

2021年07月09日 | 総論 
前に当ブログで「日光東照宮-宮彫師の原点」で、東照宮の概略を紹介しました。本項では、奥社の宝塔をもう少し掘り下げたいと思います。 日光東照宮奥社 宝塔  現在の銅製の宝塔は三代目になります。初代は木造で家康公(東照大権現)没年の元和五(1619)年の2年後に着工されています。増上寺の二代将軍秀忠公(台徳院)の宝塔も木造でしたので、元和期の宝塔は木造が一般的であったと思われます。三代家光公の行っ . . . 本文を読む

緊急寄稿:新型コロナウイルスの治療薬の承認を

2021年06月22日 | 総論 
インド(インド株による)の感染爆発が、イベルメクチン服用で感染者数が5月初めの41万人/日から 、1カ月半で5万人/日に減少(現在も減少中)していることは衝撃的でした。 コロナ収束には、ワクチンではなく治療薬が必要と再認識しました。 アビガン、イベルメクチンは、ウイルス増殖抑制作用もありますので予防薬にもなりますが、アビガンの服用量の多さ、効果時間が短いことを考慮しますと①イベルメクチンで大 . . . 本文を読む

伊勢崎の屋台-境・三ッ木の屋台

2019年08月06日 | 総論 
前回の境・女塚の屋台に続き、隣の三ッ木地区の屋台を紹介します。彫工、製作年は不明です。この屋台も世良田祇園祭に客屋台として参加していましたが、最近は世良田には行っておりません。 ●屋台の全体像 ●屋台の前方部  鬼板の『孔雀』が特徴的です。  欄間『龍』 ●屋台の後方部 ●屋台の側面の上部の欄間 . . . 本文を読む

十六羅漢について

2019年06月17日 | 総論 
十六羅漢を同定する事は苦労します。参考になればと画像(『萬物雛形画譜』より)を列挙します。 ①跋羅駄闍尊者 ②迦諾迦伐蹉尊者 ③諾迦跋釐駄尊者 ④蘇頻陀尊者 ⑤諾矩羅尊者 ⑥跋陀羅尊者 ⑦迦哩尊者 ⑧弗多羅尊者 ⑨戎博迦尊者 ⑩半諾迦尊者 ⑪羅怙羅尊者 ⑫那伽犀那尊者 ⑬因掲陀尊者 ⑭伐那婆斯尊者 ⑮阿氏多尊者 ⑯注荼半託迦尊者 . . . 本文を読む

今市屋台まつり-今市(日光市)の彫刻屋台-

2019年04月19日 | 総論 
彫刻屋台というと鹿沼のものが有名です。鹿沼よりも少し日光に向かった今市にも素晴らしい屋台があります。現在も10月の第3日曜(変更があり、要確認)に今市駅の前の道で披露されます。6台の彫刻屋台と4台の花屋台になります。このブログは宮彫がテーマですので、彫刻屋台を中心に紹介します。リンクは自由です。 ●今市の地図 赤の四角は彫刻屋台の午前の待機場所です。お昼頃に国道119号を追分地蔵方面に進み、 . . . 本文を読む

彫工 礒辺家(礒辺流)の系譜

2018年11月27日 | 総論 
ここでは、栃木を中心に活躍した彫工・礒辺家について紹介します (私見が混ざっております)。 花輪出身の高松又八は幕府お抱えの彫物大工棟梁となり、多くの弟子を抱え、江戸時代後期の石原、石川、後藤、小沢の流派につながっていく。 以前、当ブログ 「上州の宮彫師たち(上州彫工集団)とその周辺」で紹介しました。 伊東龍一氏がまとめられた、関東彫物大工の系譜(文献1)は、三代後藤茂右衛門(後藤正常)が、文化 . . . 本文を読む

北関東の街道と宮彫師

2018年11月24日 | 総論 
 江戸時代、人と物資の移動は街道、水運が重要でした。街道には宿が設置され人も集まります。宮彫師は広範囲に活動しましたので街道周辺に拠点を置いて活躍しました。例えば、花輪の宮彫師は、街道下って(標高ではなく、江戸を基準に)日光東照宮へ修復作業に出かけ、下って北関東・江戸で新規の建造物に関わりました。  北関東で重要な、水運は利根川です。中瀬(深谷市)には、船を扱う有力な集団がいました(彫工 石川流の . . . 本文を読む