第一面の胴羽目 「法華経説話」 金子光清作 (縦 127㎝、横 227㎝、ケヤキの一枚板)
左半分に、霊鷲山で説法をする釈迦と、それを取り巻く会衆。『法華経』序品第一「諸王剃髪」の場面
その下部には剃髪出家する王の姿
右半分に、仏塔供養の場面で、楽器を奏し、僧侶が供物を捧げる。『法華経』方便品第二「作楽供養」の場面
金子光清の銘 「東京住 金子光清 謹刻」
・模型彫刻(大客 . . . 本文を読む
4月29日に寄居山車の改修を記念して山車巡行、飾り置きが催されます。
部外者ですが、自分の予習も兼ねて 山車の紹介をします。
①午前9:30 各町から宗像神社前に山車集合
午前10:15 山車出発
②午前11:15 寄居駅南口到着
式典開始
③正午12:00 山車巡行
山車巡行順と明らかになっている彫工
④午後13:30 寄居駅南口到着
山車の飾り置き . . . 本文を読む
*こちらは、宇都宮市の屋台研究家 池田貞夫氏が季刊誌「しもつけの心」(vol.058、16-19頁、2020年9月発行)に投稿されたものを、池田氏のご了解を得て転用させていただきました。下野(栃木県)の山車・屋台の総論的なもので分かりやすいです。他にも、多くの屋台・山車、さらには天祭に使われる天棚が多数ありますが今回は取り上げていない点はご了承ください。
●全国に誇る栃木の絢爛豪華な山車・屋台
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利根川両岸の地域は、水運の他、中山道と日光例幣使街道といった主要な陸路があり栄えた場所である。その経済的優位性を背景にして妻沼聖天堂(熊谷市)を始めとする華麗な装飾彫刻をもった寺社建造物が多く存在し、沢山の彫工がこの周辺から輩出されている。また、屋台・山車の祭り文化が非常に多く存在し、主要なものを図に示す。
利根川流域の主要な屋台・山車 (国土地理院地図使用)
屋台・・●/ 山車・・■
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現在の医学は専門分化したため、新型コロナウイルスに関して、感染症医>内科医>他科の医者 のように興味が薄れてしまい、コロナ関連の知識も積極的には得ようとしない。最も興味を持つはずの感染症医は、30年ほど前から流行った「エビデンス」という概念に縛られ、(平時に行われる)大規模臨床試験のデータしか信じなくなり、既存の薬の中でコロナに有効である可能性が高いアビガン、イベルメクチン(ストロメクトール)は . . . 本文を読む
元和二(1616)年四月二日死期を悟った家康公は、崇伝、天海、本多正純を呼んで遺言を残したとされます(『本光国師日記』)。その内容ですが、「臨終候はば、御体をば久能へ納め、御祭礼をば増上寺にて申しつけ、御位牌をば三河大樹寺に立て、一周忌も過ぎ候て以降、御体を日光山に小さき堂を建て勧請し候へ、八州の鎮守に成りなさるべし」になります。家康公は四月十七日に駿府城で亡くなったとされます。同日の夜に久能山に . . . 本文を読む
七代将軍家継公は、宝永六(1709)年の生まれで、先代の文昭院殿の第4子で母は左京の局(月光院)でしたが、家宣正室の天英院が養育しました。正徳二(1712)年十月に父が急逝したため、後を継いだが幼年(満三歳)であり、先代の臣下であった側用人 間辺詮房と新井白石が幕政を補佐したため、将軍の権威が弱体化したことは否めませんでした。さらに七代家継公は正徳六(1716)年四月に急逝してしまいました。その後 . . . 本文を読む
六代将軍家宣公は、父が甲府宰相とよばれた徳川綱重(家綱、綱吉と兄弟)になります。五代将軍綱吉公に嗣子がなかったので、綱吉公の兄の子として世子になりました。綱吉公が麻疹で亡くなった宝永六(1709)年に将軍になりましたが、正徳二(1712)年十月に病で亡くなられました。宝永四(1707)年に富士山の大噴火の復興の途中であり、将軍の在職期間は約四年と短かったですが、新井白石を重用し、生類憐みの令を直ぐ . . . 本文を読む
五代将軍綱吉公は、宝永六(1709)年一月に亡くなられています。その霊廟は、上野寛永寺の厳有院(四代将軍 家綱公)の霊廟の隣にあります。寛永寺は東叡山と呼ばれ三代家光公が創建したもので、東の比叡山という名前からも比叡山延暦寺を倣って、初代トップであった天海上人が主導して作られました。四代家綱公には子がいなかったので、弟の綱吉公が将軍を継いでいます。綱吉公の生母は桂昌院で、その宝塔は増上寺から狭山 . . . 本文を読む