旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街-2

2014年12月22日 14時07分40秒 | トルコ紀行
     目次

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

○ カッパドキア編

・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居

○ イスタンブール編

・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと

○ トルコ編

・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに


トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

イスタンブール

















 イスタンブールは猫の街だ。三毛もいるが黒猫が多い。海外に出て犬はたくさん見てきたが、猫が住んでいる密度は日本が一番だと思っていた。いやあ世界は広い。イスタンブールの猫密度は日本の下町を上回る。
 総じて小柄でやせた猫が多く、とても人なつっこい。犬も多いが、あれ、こんなきれいな犬なのにノラなの?という感じでチワワのノラまでいた。猫たちに話しかけながらエサをやっている光景を何度か見たが、それはいつもモスクの内外でヒゲ面の男たち。内一人はイスラム教の導師(イマーム)でした。ついでだから言っておくと、イスラム教には僧侶、司祭、牧師に当たる聖職者はいない。世俗のイマームが先生になってイスラムの教えを伝える。イマームは先生だから当然妻帯します。イスラム僧なんて言葉は無いのです。
 一度猫と犬のケンカを見た。広場の芝生に陣取った猫と、体格がその猫の五倍はある犬とがにらみ合っていて一触即発。徐々に間合いが詰まって、犬の鼻先に猫のコンマ三秒のエアーパンチが炸裂すると、犬は飛び上がって逃げた。犬はなおも未練がましく芝生の回りをしばらくうろついていたが、芝生の中央に背を丸めてどっしりと座った猫にはかなわない。ところでここの猫はムスリム(イスラム教徒)なんでしょうか?

 黒海から流れ出た水は、ボスポラス海峡を通り抜けてマルマラ海にそそぎ込み、その先はエーゲ、地中海へと広がる。そこにはロードス、キプロス、クレタといった大小無数の島々が浮かぶ。どこを歩いても海に向かって開けたこの美しい街は石畳の坂道が多く、トラム(路面電車)、地下鉄、電車、ケーブルカーといった様々な交通手段があり、丘の上には巨大なモスク、海沿いには宮殿(トプカプ、ドルマバフチェ)とバザール、商店、食堂、公園があり、観光客と地元の人がたくさん歩いていて活気がある。長い間あこがれていたこの街に都合五泊したが、あと一日、あと二日はいたかった。たまらなく魅力的な街です。宿泊したホテルは旧市街の、ブルーモスクをちょっと見下ろすロケーションにある、こじんまりとした中級ホテルです。屋上に食堂があり、ブルーモスクへは歩いて二分、屋上からの視界の三分の一はボスポラス海峡で向かい側は新市街、丘の上にはガラタ塔が見えます。残りはマルマラ海に向かって大きく開けていて数多くの貨物船が行き交っている。その先にはアジア側の陸が見え、その陸地は広大なアナトリアの大地へと通じる。その先はシルクロードを通って長安へと続く。
 主な見所は旧市街地区に固まっていて歩いても廻れるし、トラムは3-5分置きに来るからそれに数駅乗れば楽が出来る。プリペイドの交通カードをキオスクで買うと、バスを含めて市内のどの交通にも使えて便利だ。カードは料金を追加入金でき、最終日にキオスクに渡すとデポジットの五リラ(三百円)が戻ってくる。一枚あれば二人で使える。つまりタッチしてカミさんを入れ、もう一回押して自分が入る。だけど十年前に買ったトルコのガイドブックには載っていない路線がたくさんあり、また2013年の十月末には旧市街とアジア側を繋ぐ海底トンネルが、日本の会社の手で開通し地下鉄が通ってさらに便利になる。インフラ整備はオリンピックの開催を予定していたんだろうね。イスタンブールっ子は心底残念がっていましたが、地方のカッパドキアの人達は意外とクールでその温度差が面白かった。東北や大阪の人が手放しでは喜べない、みたいな。
 
*モスク(ジャーミィ)巡り









 今は無きオリエント急行に乗って終点のスィルケジ駅に到着する。街に出るとまず目につくのは、幻想的なフォルムのモスク。海が眼下に開け、空にはカモメ、無数の船が海峡を行き交う。アヤ・ソフィアとそれに対抗するようにブルー・モスクが天に突き出たミナレット(尖塔)に囲まれ、千年の歳月を感じさせない優雅な姿で目に迫る。
 街には焼き栗、とうもろこし、胡麻パン等の屋台が並び、良い香りを漂わせている。トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、アラブ人、原色の服をまとったアフリカの人達が歩き廻っている。遠くからバザールの雑踏の音が届き、お祈りの時間になると、モスクのミナレットからアザーム(お祈りの呼びかけ)の声が朗々と流れる。
 スレイマン大帝時代のイスタンブールの人口は約四十万人。同時代のパリは二十万、ローマ十万人でした。ルネサンス以前では、世界で最も豊かで文化の進んだ都市だと言えるでしょう。中国が怒るかな。

  *イスラム教の礼拝堂をモスクと呼びます。そうです。タマネギ屋根の建物ですね。モスクの大きなものをトルコ語でジャーミィと呼んでいます。

 アヤ・ソフィア













 東ローマ帝国、ユスティニアヌス帝の時代、西暦五三七年、キリスト教会として建設された。この時日本ではまだ聖徳太子も生まれていない。
 間に柱を入れずに高さ五十六m。直径三十一~二m(多少ゆがんでいる。当初からか、地震のせいか)という奇跡のような大ドームを持つ。建築には二人の数学者がたずさわり、屋根にはロードス島で造られた軽いレンガを使っている。1453年、オスマン帝国軍によりコンスタンチノープルは陥落し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は滅びる訳だが、帝国最後の日、逃げ場を失った市民の多くは、イスラム兵士の半月刀に追われここアヤ・ソフイアに逃げ込んだ。最後の瞬間に大天使ミカエルが天から降臨し、キリストの敵を滅ぼすという言い伝えがあったが、イスラム兵が殺到しても、天使は現れなかった。
 ここを占領したメフメット二世は、アヤ・ソフィアの周囲に四本のミナレットを建て回教寺院とした。この美しい建物は教会からモスクに代わっても、調和のとれたその姿に違和感はない。内部の壁面をおおうフレスコ画は、1930年代に再発見されるまで、偶像を嫌うイスラム教徒によって漆喰で塗り込められた。現在は博物館として解放されています。壁画の規模とフレスコ画の鮮やかさは見事で、ビザンティン帝国に大金を寄進した大商人の夫婦がキリストの左右に立つ図柄などは微笑ましい。城壁の代金を寄進した商人は手に模型のような城壁を抱えている。日本の神社で町内の寄進者の名前を石の柱に堀るのと発想は同じだね。
 アヤ・ソフィアは、二階まで上がることが出来る。他のジャーミィではそれが出来ない。皇帝は馬に乗ったままスロープを通って二階に行けた。下から見上げても、上から見下ろしてもステンドグラスごしに大ドームの空間の広さが感じられる。

ブルー・モスク









 正式な名称はスルタンアフメト・ジャーミィ。内部の壁に鮮やかな青いタイルが多く使われてることから、愛称としてブルーモスクと呼ばれている。オスマン帝国の最盛期に、大建築家スィナンの弟子によって作られたモスクである。ここは人気があり、朝から大変な人出で並ばないと入れない。イスラムの建築は外光を出来るだけ取り入れて、明るく開放的でシンプルだ。彫刻や絵画が一切なく、窓には美しい色を組み合わせたステンドグラス、壁面は大てい鮮やかなタイルで覆われ、祈りをする床には一面絨毯が敷かれている。ブルーモスクは中に入れば息をのむほど美しいが、外から見ても六本ものミナレットを持ち、大きな丸ドームをたくさんのより小さな丸ドームで囲んだ姿が良い。何しろホテルから徒歩二分。毎朝五時半~六時(日によってずれていった)ブルーモスクのアザーンによって目を覚まされるが、ここの声は他のモスクのものに比べてピカ一でした。

 スュレイマニエ・ジャーミィ/リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他







  タイトルの二つのジャーミィはミマール・スィナンが作ったものです。スィナンはカッパドキアの石工の家で生まれたキリスト教徒で、ギリシャ系もしくはアルメニア系白人です。オスマン帝国は宗教には大変寛容で、特にユダヤ教とキリスト教は共に啓典の民(旧約聖書はイスラム教を併せて3宗教共通)として尊重されていた。ナザレのイエスは預言者の一人として尊敬されコーラン(クルアーン)の中に何回も登場します。ただ神の子とか復活とかは認めていません。
 デヴシルメというオスマン英国の制度があり、キリスト教徒の少年を一定数、半ば強制的に五年に一度徴用してイスラム教に改宗させ教育する。少数の賢い少年は宮廷に残し官僚とする。帝国の歴代の宰相の多くは元キリスト教徒や奴隷出身であった。残りの大半の少年はイェニチェリになる。
 ヨーロッパを震え上がらせたオスマン帝国軍の中でもイェニチェリ軍団はスルタン直属の精鋭近衛師団の歩兵隊である。全員元キリスト教徒で妻帯は出来ない。世俗の欲を断ち切り、仲間とスルタン個人への忠誠心のみで繋がっている。仲間への友情のあかしとして大ナベやスプーンを旗印とし、軍楽隊を先頭に華麗な装備で進軍し、激戦の中ここぞという所で投入され命を捨てて戦う。帝国がうまくいっている時には有効に機能したが、末期は腐敗して反乱をおこし、国防軍によって鎮圧された。
 スィナンは二十歳を過ぎてからイェニチェリの工兵隊に所属し、四十五歳のころ遠征先の戦場で橋を作りスルタンの目に止まった。スレイマン大帝以降、三代のスルタンに仕え百歳で没するまでに、四百七十七以上のモスク、橋、病院、ハマム(公衆浴場)等を造った天才建築家です。トルコのミケランジェロかダ・ヴィンチか、時代も重なっている。スィナンの造ったモスクの多くはバザール、神学校、図書館、施療院やハマムを含めた総合施設です。スュレイマニエ・ジャーミィは地上で味わえる最も美しい空間の一つと言えるが、残念ながらお祈りの時間が迫り、五分ほどしかいられなかった。ここの近くにひっそりとスィナン自身の墓がありました。スィナンはスュレイマニエ・ジャーミィでアヤ・ソフィアを超える大きさのドームを作ろうとしたが、わずかにおよびませんでした。
 リュステムパシャ・ジャーミィはドームの直径が十五mとスュレイマニエ・ジャーミィの半分ほどの大きさだが、カミさんはここが一番きれいだったと言います。何しろ全部の壁面で使われているイズミック地方で作られたタイルの色が鮮やかなんです。深みのある青、緑、地の白色が美しく図柄はユリ、バラ、カーネーション、チューリップといったいわば永遠に色あせない花園で、特に赤がすごい。青もいいね。イズミックタイルは十六世紀に最盛期を迎え、スィナンのモスクやトプカプ宮殿を彩るが、その後赤の技術は失われ、現在ではあのようにインパクトのある赤は再現出来ない。
 ところでリュステム・パシャ・ジャーミィの入り口はエジプシャンバザールの中にあり、え、ここなの?と言うような暗い階段を登ると陽の当たる場所にポッカリ出る。そこがジャーミィの入り口。ガイド君いわく、「入り口はトルコ人でも分からない。」
 他にもホテルの近くにあるスィナンが造った小さなモスク、ビザンティン時代の教会跡を作り直したモスク、新市街にあったキリスト教会(ギリシャ正教かアルメニア教会か不明)等を訪ねました。モスク見学は無料ですが、お祈りの時間は入れません。また女性は髪を出さないようにスカーフをつける必要があります。小さなモスクはすいていてゆっくり出来ます。絨毯の上に座り、ステンドグラスから差し込む光の中、静かなドームではスカーフをつけた地元の美女がお祈りをしていたり、イスラムの先生が少年の悩みごとを聞いていたりします。少年の悩みは聞くまでもない。「先生、僕、女の人のことで頭が一杯でーーー」知りたいのは先生の答えだよね。ドームの中は、宙に浮かんだ精神カプセルとでも言おうか。とても穏やかで落ち着いた空間です。ここで一日に何回もお祈りをするムスリムの人たちが鬱病にかかるとは思えません。

ジャーミィ秘話

 いかんいかんいかんぜよ。何だか学校の授業みたいな説明口調になってきた。これでは読者の皆さん、面倒くさいから読むの止めたってことになっちゃう。なので、ここらでガイドブックには書かれていない取っておきの秘話を披露しよう。主にガイド君たちから仕入れたものです。

1。第一話:ダチョウの卵

 ジャーミィのドームの天井近くにぶら下がった何やら不思議な球体。これダチョウの卵なんです。薬草と香辛料で煮込まれ真っ黒になっている。何?何なの?実はこれ、虫よけなんです。蜘蛛も羽虫もダチョウの卵を異常にきらうそうです。そういえば大きなジャーミィは日中、戸が明き放しなのに中で虫が飛んでいるのを見たことがない。

2。第二話:音響効果

 スィナンの傑作、スュレイマニエ・ジャーミィ。オスマン帝国最盛期のスレイマン大帝の絶大な信頼を得ているスィナンですが、大帝の名を冠するこの大モスクの建設予定地の丘で人を遠ざけるとイスを持ち込み、一人で水パイプをやり始めた。来る日も来る日も朝から陽が沈むまで丘の上に座り続け、やる事といったらコポコポ水パイプをふかすだけ。最初は設計の構想を練っているのだろうと、大監督で地位も高いスィナンに誰も意見をしようとはしない。
 ところがスィナン、一ヶ月たっても二ヶ月たっても動かない。他の準備もすっかり終わり、各地から集めた職人・人夫もすることが無くなった。三ヶ月、四ヶ月。スィナンは丘の上で一人でコポコポ。さすがの大帝もいらだち直ちに工事を始めるように命令を下すが、結局始めたのは六ヶ月後だった。まず耐震性を高くするため、三年間地面を6-7mも掘り下げる基礎固めに費やした。
 ジャーミィのドーム内は静かだが声がよく通る。それは銭湯の中のようにワンワンこもる音ではない。祈りの空間ふさわしく音や声が一瞬増幅され、そのとたんにどこかへ吸い込まれて消えていく印象だ。スュレイナニエ・ジャーミィには、壁の間に百三十三個の素焼きの壷が埋め込まれているという。スィナンは半年の間、水パイプの音の流れに繰り返し耳を傾け、限界まで最高の音環境を追求したわけ。ちなみに日本では、能の舞台の床下には壷が置いてあるそうです。床を踏む音がポンっと決まるんだろうね。

3。第三話 スス、炭、カリグラフィー

 モスクでは朝早くから夜になってもお祈りは続く。今では電球が天井から釣り下げられ巨大な金具の輪に取り付けられていますが、電球以前はオイルランプです。アラジンの魔法のランプね。当然ススが出て、そのままでは壁や天井が黒ずんでしまうのだが、天才スィナンがそのような事を許すはずがない。
 立ち上るスス(煙)を集めて排出する排気システムが出来ていて、天井近くにある排出口のある小部屋は永年の間の煙にいぶされて真っ黒になり、大変良質な炭が取れるそうです。その炭を用いてコーランの一句を美しく図案化して描いたカリグラファーはモスクの内外を彩ります。

4。第四話:スィナンの残した修復マニュアル

 何年か前、これもスレイマニエ・ジャーミィで大規模な修復工事が入り、日本の大手建築会社が受注したそうです。その工事の最中、天井に近い場所でスィナン自身が書いた巻物?が見つかりニュースになったそうです。
 そもそも円い巨大ドームは天頂に負荷がかかり、例えばその頂点の礎石を外したら、内側に向かって周囲の石が次々に崩れてくるのだそうです。当然その頂点は相当な圧がかかっていて痛みやすい。スィナンの書は、その礎石の交換時期・方法を詳しく書いた物であった、と言うことです。

 地下宮殿









 ここを作ったのはオスマン帝国ではなく、4-6世紀のビザンティン帝国(東ローマ帝国)です。実際には宮殿ではなくて、地下水道もしくは地下貯水池です。ですが確かに宮殿と呼びたくなる。何しろオリンポスの神々の神殿の柱を林立させているのだから。オスマン帝国もちゃっかりここを利用していたのですが、十八世紀に入り帝国が衰退してくる中でこの地下貯水池は使われなくなり、一時その存在を忘れられていたそうです。ただ床下に穴があり、そこから釣り糸をたらすと魚が釣れる家があったり、どこそこホテルは地下から無尽蔵に取水できるといった不思議がありました。
 現在は電気がついて、通路には手すりが組まれていますが、入り口は繁華街にあって、地下駐車場はここね、みたいな素っ気なさ。ここに降りた時にこれは見たことがあると思った。ジャッキーチェンの映画のロケで使われていたはずです。イスタンブールの街にはこのような地下宮殿がいくつもあるそうなので、ここかどうかは分からないけどね。1984年に大改修を行い、底に貯まった泥を二mも取り除いたところ、横向きと下向きに柱の下敷きになったメデューサの大首が現われ大変な話題になったそうです。メデューサはギリシャ神話に登場する髪の毛がヘビの怪物です。メデューサを一目見た者は石になってしまう。元々はポセイドーンの愛人で美女だったが、何やらで罰を受けおぞましい姿になった。生け贄のアンドロメダ(美しい乙女)を助けに来たペルセウスによって退治された。ペルセウスは盾に写った姿を見て戦ったといいます。メデューサはイッソスの戦いで、ペルシャのダレイオス王に迫るアレキサンダー大王の胸当てにも描かれています。
 キリスト教を国教とした東ローマ帝国が、古代の信仰を守る人々に対するみせしめとして、柱の土台にしたものです。神殿にあったメデューサの首を切り落とし、こんな事をされてばちを当てられないようでは、お前たちの神は偽物だ、と言うわけですね。品の良いやり方とは思えませんな。

コンスタンチノープルの陥落

 1453年。二十一歳、オスマン帝国第七代スルタンのメフメット二世により、三重の城壁に守られ難攻不落と言われた、東ローマ帝国の城塞都市、コンスタンチノープルは陥落した。日本では信玄・謙信の川中島の合戦が1553年だから、それに遡ること百年。兵力差は十万人対七千人でした。
 メフメット二世は開戦の数年前からハンガリー人ウルバンを重用して、五百㌔以上の石の玉を千六百m飛ばせる大砲を何門も造り、各々六十頭の牛に引かせて、当時の帝国の首都であったアドリアノープル(現エディルネ)から三日間かかって戦場に運んだ。ウルバンは最初この大砲を東ローマ(ビザンチン)側に売り込んだが、冷たく拒否され仕方なくオスマン帝国に行きメフメット二世に厚遇されている。もしビザンチン側が数門でもこの大砲を備えていたら、オスマン軍は城壁から二㎞は離れて陣を張らなければならなかったはずだ。
 また元々が遊牧民のオスマン軍は海戦が苦手で、海軍は元キリスト教徒の海賊を提督として雇っていたが、船数ではビザンチン側の数倍を保有していた。三重の城壁をめぐらせたコンスタンチノープルも海側の守りは手薄だった。七千人の兵士では陸側に配置するだけで手一杯だ。
 その代わり、金角湾の入り口を鉄鎖で封鎖し、オスマン艦隊の侵入を防いでいた。海底から引き上げられた鉄鎖を、国立歴史博物館で見たが、一つが1mもある太くて巨大な鉄の輪です。これは海の底に這わせても意味がない。たくさんのイカダを作り海上に浮かべ、その上に鉄鎖を固定して海峡の出口を封鎖した。さらに金角湾内には、少数だが海戦に習熟したヴェネチアとジェノバの艦船が巡回していたので、海側の守りは万全だと思われた。
 ここでメフメット二世は戦史に残る奇策を取った。艦隊の山越えである。今でいう新市街、中立政策を取ったジェノバ人の住む、ガラタ地区の横の小山に道を作り丸太を敷き詰める。重い装備を外して船体を軽くした木造のガレー船をそれに乗せオイルを樽から惜しげもなく丸太にかけ、人や牛を使って小山へ引っ張り上げる。小山の頂きからはやはり油をかけた丸太の道を通って、次々にオスマンのガレー船がビザンチン側の内海である金角湾にすべり下りる。一夜にして数十艘の艦船が金角湾に出現したのを見た防衛軍は、いかばかりに驚き失望したことだろう。
 コンスタンチノープルの内懐に入ったオスマン軍は、海側から艦載砲の砲撃を加える。陸側は連日に渡る巨砲の砲撃により崩れる城壁の修理が追いつかず、地下のトンネルがトルコ軍陣地から掘られ、一つつぶしても他に何本も作られ、城壁に達すると火薬を仕掛け下から城壁を破壊する。救援を呼ぶために派遣されたヴェネチアの小型ガレー船は、数日の差で救援艦隊とすれ違い、救援隊が地中海に来ていない、という絶望の報告をする為に死地へ引き返した。隣国ハンガリー王が参戦の準備を進めていたが間に合わず、間に合った法王の救援軍はわずかに傭兵二百人だった。
 ある朝、城門の一つが締め忘れられている事を発見したオスマン軍がそこからなだれ込み、ビザンチン帝国最後の皇帝コンスタンティヌス十一世は、殺到する精鋭イエニチェリ軍団に立ち向かい、ついにその遺骸すら発見されなかった程の奮戦のすえに死んだ。

トプカプ宮殿





 アヤ・ソフィアの北東、ギリシャ人がアクロポリスを作った七つの丘の一つに築かれた、面積七十万平方メートル、モナコ公国の半分の大きさを持つ宮殿。門に大砲が据えられていたため、大砲の門と呼ばれる。トプが大砲、カプは門の意味です。
 宮殿は庭園の中に点在する建物群からなり、図書館、武器庫、厨房、ハレム等が固まったり離れたりして建っている。宮殿の床や壁のタイル、窓のステンドグラスは美しいが建物自体は案外質素です。帝国が衰えを見せ始めたクリミア戦争中に作られたドルマバフチェ宮殿(1856年年落成)の方が、ずっと絢爛豪華で部屋数も多い。あちらは西欧風(バロック調、ロココ調)が加味され、階段にはクリスタルの手すり、ドアの取っ手に至るまでかわいらしく装飾された色とりどりの陶器に覆われている。中国の大きな磁器の花瓶が部屋のそこかしらに置かれ、象牙のろうそく立て、日本製の茶だんす等の調度品、部屋のタイルやカーペットの色に合わせたテーブルソファーセット。儀式の間は洋風の破風のついた高さ三十六mのドームで五トンあるイギリス製のシャンデリアが下がっている。
 一方のトプカプ宮殿は、外国の使節の謁見の間ですら、さしたる広さではない。しかもスルタンは脇の小部屋に隠れて大臣が会見する様子を盗み見している。ハーレムは広くて、下っ端の娘や女奴隷、宦官の部屋は見学出来ない。ピンク等暖色系のタイル、カーペットを使っていて落ち着く。ハレムのハマム(風呂場)はきれいだが、意外に狭くて4-5人入れば一杯になってしまう。湯船はなくスチームのサウナで汗を出し、汲み水をかける方式。カリギュラ皇帝のローマ風呂とかを想像してもらっては困る。ハレムには食堂はないので厨房から料理を運んでくるのだが、運ぶ途中で冷めないように廊下にスチームで暖め直す装置がある。
 さて厨房だが三つあり、スィナンが作ったメインの厨房は十本の煙突が出ていて、八百人の料理人が毎日四千食を作っていた。祭事の時は外から客が来るため、料理人の数は千人になった。二つ目の厨房は各種のデザートを用意し、三つ目の厨房では選りすぐりの料理人がスルタン一家の御膳を用意する。一年間に3万羽のニワトリ、2万3千頭の羊、1万4千頭の子牛が調理され、毎日膨大な量の新鮮な野菜と果実等が運びこまれた。
 だがこの厨房のすごさはそれだけではない。ここは北京と並ぶ東洋陶磁器のコレクションがあり、中国陶磁一万点以上、古伊万里を主とする日本の物が約七百点、その他朝鮮、ベトナム、トルコの釜で焼かれた皿がこれでもかと残っている。鑑賞用ではなく、毎日の食事に使用する器として残っているのだが、全く残念なことに数年前から改修工事に入り、現在厨房に入ることは出来ず、陶磁器コレクションを見ることはかなわない。
 最後にトプカプのお宝、宝物殿を紹介しよう。圧巻は世界第五位八十六カラットのダイヤモンドが回りをたくさんのダイヤで囲まれてターバンの羽飾りとなっている。このダイヤはそれを河床で見つけた職人が、その価値を知らずスプーン三本と交換して喜んだといういわれがある。次にエメラルドの短剣。直径五センチ程の緑色に透き通ったエメラルドが三個短剣の柄にはめ込まれ、その周りは金で飾られている。マフムト一世からペルシャのナディル・シャーへ贈られる途中、シャーの急死の報告を受け、引き返したものだ。映画「トプカピ」はこの短剣を盗む泥棒の話し。
 他に、宝石をちりばめ金装飾した小物入れや時計、楽器、豪華な椅子や衣装等が計四つの部屋に展示されている。武器もすごい。スルタンの親衛隊、イェニチェリ軍団が儀式の際に使うと思われるヨロイ、赤い大盾、大きな半月刀、全長二mはあろうかという銃にほどこされた装飾は圧巻で、これほどきらびやかな装備を持つ兵士が百人も並んだら宝石、金具が陽光に反射し見る者の目が眩むであろう。
 宝物殿は見物客が列をなし、特に最初の館は行列が恐ろしく長かったので割愛した。そこには預言者マホメッド(ムハンマド)の外套、剣、歯、あごひげ等が展示されている、とのこと。もっとも全て箱に納められているそうだ。「ここはいいや。」とガイド君に言うと、「そうね。日本人は大ていそう言う。」との返事が返ってきた。

* ハレムのこと








 
 オスマン帝国のハレムの美女は三百人(最盛期は千人)だから、中国のように後宮三千人まではいかない。幼い皇子、皇女の保育もハレムで行っている。女性は例外なくキリスト教徒の生まれで、アルバニア、ギリシャ、グルジア、コーカサスの出身者が多いが、イタリア人、フランス人もいた。ハレムでスルタンの子を授からなかった美女は、大商人や重臣の妻として下付される事もあった。調達は地方からの献上か、奴隷市場での購入による。ハーレムと呼びたくなるがハレムの方が語源に近い。
 ナポレオンの奥さんジョセフィーヌの従姉(エーメ・デュブック)が地中海で海賊に捕まり、ハレムに入れられました。数奇な運命に生きたエーメは、天性の気品と美貌から時のスルタンに愛され、ついには女奴隷から皇太后となり、夫と息子のスルタンを通してハレムの生活を改良し、帝国の近代化に努めました。
 一説では、ナポレオンがジョセフィーヌを離縁したことに怒りロシア遠征の際に、息子を動かしてそれまでの親仏政策を覆し、宿敵ロシアと講和を結んだという。
うわっ歴史はこんな所から動いていたのか。カミさん怖るべし。






















トルコ紀行~イスタンブールは猫の街-1

2014年12月22日 14時03分09秒 | トルコ紀行
     目次

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

○ カッパドキア編

・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居

○ イスタンブール編

・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと

○ トルコ編

・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに


トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

○ カッパドキア編

旅の始まり

 皆さんご機嫌よう。お構いねぐ。初めての方も、前回(ラオス、仏のいとし児の住まう国)前々回(アンコール・ワットとメコン・デルタ紀行)の読者の皆さんもメルハバ(今日は)。
 以前の旅も観光旅行で、今回はそれに輪をかけた観光の旅、行き先も辺境シリーズから外れたメジャーなトルコ共和国です。食い足りない面はあるかもしれないね。でも苦手なプレゼンを克服してオリンピック招致に成功した日本が、六回連続して落選した気の毒なトルコちゃんに、余裕を持ってエールを送るのにはちょーどよい。
 それにトルコを訪れる観光客は多い順に1位ドイツ、2位ロシア、3位イギリス、4位フランス、5位アメリカで、日本はなーんだ、三十三位。ヨーロッパとアジアの架け橋イスタンブールの旧市街を歩くと、日本人はずいぶん目に入るが、郊外に行くバスターミナルやエディルネの町では一人も見なかった。2位のロシアは、黒海を渡って地続きみたいなものだから、今日はドライブがてらテーブルクロスでも買いに行こうかしらの、がてらかしら族が多いと思われる。ドイツとトルコの仲は、第一次世界大戦の同盟国。自分が自動車部品の仕事をしていた時にドイツの工場に行ったら、トルコ人の労働者が男女共に多いこと。ここはトルコの工場ですか?あとパリでもロンドンでもイスタンブールは近いもんね。東京から札幌に行くようなもんさ。
 今回の旅の相棒はMyカミさん。彼女は体は小さいが山登り、マラソン、ジムで鍛えている上に、こちらの弱点は百も承知だから手強い。おマケにここは男女逆転して超方向音痴の自分と違い、一度歩いた道を忘れない。歩くガイドブックか、と突っ込みを入れたくなるほど、「地球の歩き方」を頭に入れていて、適当なスケジュールを許さない。おかげでずいぶん真面目な観光をさせられました。トホホ。

 カッパドキア













 カッパドキアの中心都市はギョレメで、ギョレメは最近までマッチャンと呼ばれていた。トルコ語って変ですか?水はsuス、お茶はÇaiチャイ、良いがYiイイ、かまいません(気にしていません)がオネムリデーイル。
 気をつけなくてはいけないのは母音でiはイだが、Iは「イ」の口をして「ウ」と発音する。従って有名なTOPUKAPI宮殿はトプカプ宮殿です。自分はてっきりトプカピ宮殿だと半世紀も間違っていた。トルコ語の発音は難しくはない。ガイドブックのトルコ語の表示を見せてネレデ(どこ)?と聞けば道を教えてくれる。スーパーで雑貨コーナーに行き、コロンヤ(香水おしぼり)ネレデと言えば、店員のきれいだが無愛想なお姉さんが面倒くさそうに棚を指さす。ちなみに一般のトルコの人は英語が分からない人が多い。日本と同じだね。ただ特に男性は異常なほど親切な人が多くて、駅などで立ち止まって回りを見渡すと、何?道が分からないの?俺に聞いて、聞いて、教えてあげたいったらありゃしない、といった顔をして2-3人が立ち止まって待っています。こんな国も珍しい。

  カッパドキアはアナトリア高原の中央部に広がる奇岩地帯。数億年前にエルジエス山(3,916m)が噴火し、火山灰と溶岩が数百mずつ積み重なり、凝灰岩と溶岩層になった。その後気が遠くなるような歳月をかけて風雨による浸食が進み、固い部分だけが残されて不思議な形の岩となりました。
 カッパドキアのガイドは超真面目で笑顔の無いビル(三十代、二人の子持ち)と、いつもニコニコ若いのに腹の出てきたドライバー、その名もオスマン。お客は初日は我々二人だけで、次の日は大阪から来たお姉さん(と言うにはギリだが)が加わり三人。この人とはイスタンブールでも一日一緒になった。
 見学はギョレメの洞窟教会群から始まった。暑い。そして乾燥している。
 さて、ここに着くまでにトルコ航空で成田~イスタンブール、十二時間。ヨーロッパよりは二時間短い。イスタンブールで国内線に乗り換えたら、空港で空き時間が二時間あったので、ファストフードのハンバーガー屋へ行きました。空港では何でも高い。パン一ヶで三百円も四百円もします。ファストフードも高いので、ポテトの小とドリンク(自分で選んで入れる)だけを頼んだが七百円もしました。量は多かったけど日本の三倍じゃん。時間は十九時過ぎで夕陽が赤く燃えて地平線に沈んでゆく。カウンターの兄ちゃんは何だかえらく楽しそう。ポテトを取りに行く時、勢いをつけて床を滑って遊んでいるし、鼻歌なんぞフンフンやっている。それはまあよろしいのだが、あんた要領悪すぎ。ビジネスマンが、自分の前に頼んだハンバーガーセット3-4ケを出すのに優に五分はかかっているが、急ぐ気配は全くない。散々待たされ高いポテトセットを受け取ると、カミさんが「ああ残念。たった今、夕陽が沈んじゃった。地平線にそのまま落ちていったんだよ。」
 カッパドキアにあるカイセリ空港に着いたのは二十三時頃、今回の旅を通じてトルコの空港での手続きはどこも大変スムーズでした。空港から洞窟ホテルまで行く車の中で、明日からの予定等を話しあっていると、一ヶ月前に予約を取り消したバルーン(熱気球)が予定されているので慌ててキャンセル。「何でキャンセルしたの?」と聞かれたから、「値が高い。日程がきつい。事故があった。」と答える。日本からの連絡が行っていないはずがない。全く困ったちゃんである。ところがそれで一件落着とはいかなかった。翌早朝、ホテルの部屋がノックされバルーンの兄ちゃんが迎えにきた。ええかげんにせんかい。ただみんな、キャンセルされてもちっとも怒ったりいらいらしたりはしていない。イムシャアッラー→神の御心の欲するままに。

 カッパドキアのことを初めて知ったのはいつだろう?高校生くらいかな。ローマで異端とされたキリスト教徒が逃れてきて、イメージとして核戦争後の世界で、迷路のような地下シェルターを作り蟻のように暮らしている。
 このイメージは、一部は当たっているが大半は間違っていた。世界遺産カッパドキアは、自然が造り上げた標高千mを越す高原地域で、住んでいたのはキリスト教徒、修道僧だけではなく、紀元前二千年ヒッタイトの時代から通商路の要地として栄え、四世紀前後からキリスト教の修道士が凝灰岩に洞窟を掘って住み始めた。
 彼らは洞窟内の天井や壁に見事なフレスコ画を残した。キリストの昇天、受胎告知、聖ジョージによる蛇退治等々、ギョレメ谷には三十以上の岩窟教会が、主に十二-十三世紀にかけて作られた。岩をくり貫いて作られた長テーブルのある食堂・礼拝堂の入り口付近には必ず2-6ケの墓穴が掘ってあり、そこを通らないと中へは入れない。その内のいくつかにはデモンストレーションとして人骨が横たわっている。赤ちゃん用の小さな墓穴もある。いかに乾燥地帯とは言え、これほど死と隣り合わせの生活を送っていたとは。
 フレスコ画は光の差し込む部分ほど風化が進み、目の部分を削った破壊、落書きの跡もあるが、質量ともに素晴らしい。中には画学生による稚拙な練習フレスコ画があって、ここで生活をしていた人々の息吹を感じる。カッパドキア随一の広さを持つ教会で十世紀後半に描かれたフレスコ画は、特に青の色に深みがあって美しい。

















 地下都市













 カッパドキアにいくつもある(中心部の地図だけでも六つ)地下都市の一つにもぐった。ここデリンクユの地下都市は地下七階、地上から六十m下まで掘られている。中には地下十九階まである地下都市があるそうだ。デリンクユでは四万人が暮らしていたと言うから凄いな。トイレなんかどうしていたんだろう。この地下都市の発祥や歴史は良く分かっていないが、紀元前四百年頃の記録にすでに残っているそうだ。それってイエス・キリちゃんの前じゃん。とにかくハシゴ段を降りる、降りる。登ってまた降りる。人一人で目一杯の狭い通路を抜けると広場に出て、そこは礼拝堂や学校の教室に使われていた。他に台所、倉庫、家畜小屋、岩のベット、井戸、吹き抜けの底なしの通気孔。ところどころに敵の侵入を防ぐため、2m位の輪切りのタクワンを巨大化したような形の石が、ストッパーを外すとゴロンと転がり、反対側に設けた窪みにピタっとはまって道を塞ぐ装置が用意されている。ってちゃんと止めとけよな。今でも直ぐに使えそうじゃん。電気は点いているが、広場をつなぐ通路は暗くて、背をかがめひざを折って歩く。ガイドがいなけりゃどこをどう歩いているのか分からない。前後左右、上下斜め上、下の感覚が激しく攪拌され方向音痴にはこたえる。閉所恐怖があったら死ぬね。アリの生活も楽じゃない。牛なんか子牛の時に中に入れたら、大きくなって狭い通路は通れない。一生太陽は見られないね。いやー地上に出た時はホッとしたが、この後3-4日筋肉痛で足が痛かった。それにしてもどれだけ地上は恐ろしい所だったんだろうか。抜剣した騎馬隊が走り廻っていたんだろうか。

 陶器工場と絨毯屋










 
 旅のスケジュールに陶器工場と絨毯屋が入っていた。これがね、両方とも見応えがあったんだ。まずは陶器。偶像崇拝を排除したイスラム教なので、図案は植物を抽象化し鮮やかな原色を巧みに組み合わせた、いわば色彩のカクテルとでも言おうか。ここで作られた大皿は美しい。顔料には水晶の粉を混ぜているそうだ。中にはホタル石を砕いて混ぜたものもあり、それは暗くすると発光してちょい不気味。
 一方絨毯。絨毯って不思議な漢字だよね。陶器工場にも絨毯屋にも、日本語が異常にうまいお兄さんがいて、ジョークを混ぜて熱心に見物させてくれたが、飯茶碗二個しか買わないしょーもない客でした。絨毯なんぞ買う訳がない。百年保つ貴重で高価な絨毯。日本に帰って敷く場所がないっしょ。
 広い部屋の低いソファに座って、惜しげもなく次々に広げられる絨毯を見比べていると、高価な物ほど美しい。目の保養ってこのことか。目に美人は良いが、絨毯だってなかなかだ。シルクの絨毯は日の当たる角度によって、色が次々に変わってゆく。その絨毯をぐるっと一周すると何通りにも楽しめる。本当にきれいだ。値がはるのもうなずける。普通の絨毯は、農村の娘さんがお母さんに教わって、お嫁に行く前に一枚は仕上げたといいます。
 絨毯、キルト、陶器、ガラス工芸、こういった伝統のある手工業が根付いている国はいいね。歴史と文化の重みを感じる。後は建築。夢のように美しいモスクだが、それはイスタンブールに行ってのお楽しみ。 

洞窟住居









 最後に洞窟住居を紹介しよう。現在カッパドキアは世界遺産となり、新しく洞窟を掘ったり住んだりする事は禁止されています。けれども何世代にも渡ってそこに住んできた人達は別だ。そんな家を一軒を訪ねました。皆さんの中で、風穴とか何とか洞とかに入ったことのある人がいたら分かるでしょう。洞窟の中は年間を通して温度がほぼ十四度Cに保たれていて、夏は涼しく冬は暖かい、とか案内に出ていたりするよね。そう、洞窟は意外に快適なんだ。ここカッパドキアは千mを越える高地にあり、冬はマイナス十六度、数年前には最低気温マイナス二十二度を記録しています。降水量は少ないが積雪地帯で、この洞窟住居の冬の写真が雑誌に載っているのを見せてもらったが、雪に覆われた家の中から蒸気が白い煙となってもうもうと出ていていかにも寒そうでした。
 部屋は洞窟内にいくつもあって、地下ケーブルで電気も来ている。床には暖かい絨毯が敷かれ壁にキルトが掛かっている。棚なんか掘ればいくらでも出来るのだから冬仕事にはもってこいだ。住まいが傷むこともこりゃ百年ないね。汚れたらちょっと掘っちゃえばよい。何年/何百年前から住んでいるのか聞き忘れたが、何世代にも渡って拡張してきたんだろうね。チャイをごちそうになり、一部屋でお土産を売っていたので、カミさんが布製のバックを二つ買ったが、一つ千円位でイスタンブールよりずっと安かった。ここに住むおばあさん(といっても息子が二十歳ほどだから、ひょっとすると我々より若いのかもしれない)がニコニコしてずっと付いてきたが、残念話しは通じない。何より良かったのがバルコニーで、高さ二十mほど、絶壁の下から三分の一くらいの所が堀り込まれ丸木の手すりが付いている。そこに長イスが置かれ、陽が差し込んでいる。眼下の入り口の花壇とごく小さな果樹園が箱庭のように見え、廻りは見渡す限りの奇岩群、ここを吹き抜ける風の心地よさったらたまらない。一日このバルコニーの長イスに横になって昼寝をしたり、好きな本を読んだり出来たらもう何もいらねー。

 カッパドキア観光は範囲が広大で変化に富んでいます。百mの断崖絶壁に挟まれたウフララ渓谷を下まで階段で降りて冷たい清流に沿って二キロほど歩くハイキングは、景色がきれいで途中にある洞窟教会の壁画は素晴らしかった。けれども観光客の多い割には地元の住民が少ない。主要な観光スポットは決まっているから、ガイドとドライバーは、他のガイドや土産物の人達と毎日のように顔を合わせています。僕らが休憩したり、土産を見ている時にはガイドのビルはいつも知り合いと男どうしでハグし、ほおを寄せて挨拶をして出されたチャイを飲む。一体一日で何杯飲むんだ。何でこんな屋台みたいな店なのに直ぐに熱々のチャイが出てくるんだ。
 トルコのチャイはミルクを入れない。ちょっと煮出し過ぎじゃない、といった濃い紅茶をたいてい高さ8㎝ほどのグラスに入れ、小さな受け皿に載せて提供されます。まあこれなら小さいから何杯飲んでもお腹がガバガバになることはない。チャイは香りが良いが、うちのカミさんはちょっときついと言って旅の途中からアイラン(トルコ風ヨーグルトドリンク、さっぱりして程良い酸味)に切り代えました。自分も水牛のミルクが入って甘い、印度のチャイの方が好きだな。























 

ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国-3

2014年12月22日 13時45分36秒 | ラオス紀行
ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国

目次

①旅の始まり

②カンボジア編
2.の1.カンプチア・アゲイン
2.の2.クバール・スピアン(『川の源流』の意)
2.の3.ベン・メリア(『花束の池』の意)
2.の4.トンレサップ湖
2.の5.ガイド列伝

③南ラオス編
3.の1.ラオスへ、ワット・プー
3.の2.大メコンの滝、四千もの川中島
3.の3.いかだみたいなフェリーボート
3.の4.ラオスのファランたち
3.の5.南ラオスのガイド君、自然体の猫
3.の6.モン族の悲劇

④北ラオス編
4.の1.ルアンパバーン
4.の2.ムアンゴイのニンニンハウス
4.の3.ムアンゴイ村散策
4.の4.パラボラアンテナ
4.の5.ボーペンニャン
4.の6.オー・マイ・ブッダ、だまされた!
4.の7.野菜、ステーキ、そしてカオ・ニャオ

⑤番外編 
番外編~ハノイの足うらマッサージ
 
 

④北ラオス編

 ④ の1.ルアンパバーン



































ルアンパバーン(旧名、ルアンプラバーン)は1995年、ユネスコによって町全体が世界遺産に登録されました。この町は、ビエンチャンに移るまでこの国の首都でした。小さな町には八十もの寺があります。一六世紀に建てられたワット・シェントーン(美しい屋根が特長)、ワット・イスナラット、ワット・マエ等には大勢のお坊さんが住んでいて、修行をしています。町の中心にルアンパバーンを一望できる高さ150m(海抜700m、階段328段)の小山(プーシーと呼ばれる。)があり、頂上にはお寺があります。そこから見ると、この町がメコン川とナムカーン川が合流する所に作られているのがよく分かる。夕暮れ時、町の家々は長い影を落とし、遠くの丘にある黄金色のパゴタが夕陽に輝くころ、夕食の支度をする白い煙があちらこちらから上がり、子供たちが遊び疲れて家路につく。そんなたそがれ時の、華やいだ人の声が風に乗って丘の上へフッと上がってきます。小山の上の狭いスペースは夕陽見物の観光客で一杯です。
さて陽も落ちて丘から降りると、あらら、街が一変しています。静かな通りだった所が、一面縁日のような路上店舗街に変わっている。このにわか市場は車道、歩道を全てふさいで2列、売り手はほとんど全員が女性で、モン族、カム族、アカ族等の山岳民族。売っている商品は衣料品、布地、バック、土産の小物類。デザインの優れた美しい布がランプの光に照らされて美しい。大胆な色使い、部族固有の伝統ある文様。売り手のモン族の少女(店長)はラーオ人と違って照れたりせず、逆にこっちが照れちゃうほどまっすぐ見つめてきて、値引きの駆け引きもなかなかに手厳しい。ラーオよりモンの方が日本人的な顔立ちで頭良さそう。で、どちらもかわいい。
夜市には、ファランがたくさん来ていてワクワクするような活気があります。僕らも土産品と防寒用の上着を買いました。さらに横丁の路地には焼き鳥、焼き魚等の屋台が並んでいた。四十センチくらいの魚は臭みがなく、タイのような味でした。焼き鳥はウメー、これは絶品。日本の鶏肉が食えなくなる。ラオスの国産ビールは2つ。ビアラオとタイガービールですが、ほとんどがビアラオ。これがまた良い。タイ、カンボジアのビールより数段上等でしかも安い。大ビンで8,000キープ(約九十円)、缶と小ビンもあります。小ビンでは、普通のビールの他に黒ビール(アルコール度6.5度)もある。なんで輸出しないんだろ。

④の2.ニンニンハウス





















ルアンパバーンからノーンキャウを経てムアンゴイ村へ行き一泊しました。ノーンキャウまでは車で3時間半、ノーンキャウからムアンゴイへは乗り合い舟で1時間。ガイドのテッさん(この人の日本語は会社の若い衆より立派)が、『山紫水明』と形容していた通り、ナムウー川(メコンの支流)の両岸は水際から木の茂った緑の山また山。ナムウー川の澄んだ水は、山と山の狭間を静かに流れています。両岸は太古からの自然がありのままに残っていて美しい。水は深い緑色で所々急流になっている。川の中に砂州や小島があり水の流れに変化を与えている。山の形は舟が進むにつれ次々にその姿を変え、空は深く蒼く澄み、様々な形をした白雲が宙に浮き、刻々とまたその形を変える。水牛が川辺で憩い、岸近くに魚を取る網が仕掛けられ、川沿いの斜面に細竹で囲われた小さな畑が見えるが、岸には人の姿が見えない。舟の中はひざを互い違いに立ててやっと腰を下ろすほど狭いが、大半はフランス人の若者で途中からギターを爪弾いて歌い始めた。
僕らの前には姉妹なのでしょう。よく似たこの土地に住む2人の女性と赤ちゃんがいて、この赤ちゃんがまた人なつっこい。でも途中でぐずり出したら、お母さんが服をまくっておっぱいをやり始めた。お母さんでない方の娘さんにとっては、この赤ちゃんは姪なのでしょう。もうかわいくてしょうがない、といった風情でチューして抱っこして、最後まで離しませんでした。
ムアンゴイの住民は山岳民族の人たちで、ニンニンハウスのニンニンはゲストハウスの長女の名前でした。最初ミンミンハウスと間違え、誰に聞いても場所が分からず困った。ちなみに次女はトーニャ。小学校4年と2年くらいの元気な姉妹で、僕らの食事時の給仕は彼女達が実に楽しそうにやるので、すっかり仲良くなりました。お母さんは美人だがきつい感じで、お父さんはやさしそう。村の舟着き場に長い石の階段があり、水際ではいつも誰かが洗濯をしている。川にひざまでつかって前かがみになり、髪を洗っている女の子もいます。石鹸はどしどし使っていますが、大きな川の流れはその程度の汚れ、ものともしません。
                           
④ の3.ムアンゴイ村散策









ムアンゴイ村にはかなり立派なお寺があり、ここにレース用の細長いボートが格納されていました。このボート三十四人乗りで村対抗のボートレースで使われます。ルアンパバーンのワット・シェントーンにもありました。これは興奮するだろうな。村の名誉、男たちの意地が懸かっているんだから。ボートレースは祭りのメインイベント。娘たちも着飾るのかな。ごちそうもたくさん出るんだろう。
ムアンゴイで漁師を雇い、釣りに行ったのですが、川の中の真っ白い砂州に上陸した。川が大きく蛇行して流れがよどんでいる。水面に岸の木々の影が差していて、いかにも釣れそうな雰囲気はあったのですが、ルアーを投げても投げても、全くアタリが無い。一時間で止めました。エンジンのない小舟で、漁師の青年は上流を目指して櫂を漕ぎ、岸近くでは長竹を川底に差して小舟を押し出し、流れの速い所ではついにパンツ一丁になり、胸まで川の中につかって歩いて舟を押す。水は割りと冷たいので、これは大変です。行く時には三十分はかかったのですが、帰りは流れに乗って十分もかかりませんでした。現在のエンジン付きのボートが出来る前は大変だったことでしょう。増水期はさかのぼれなかったと思う。
ムアンゴイには自動車道路が通じていません。川からしかこの村へは行けない。十九世紀にこの地方を探検し、アンコール・ワットを欧州に紹介したフランスの博物学者、アンリ・ムオの墓はラオスにあるのですが、象とボートを乗り継いだその旅は、さぞ苦労したことでしょう。しかしムアンゴイ村には見たことのないきれいな蝶が舞っていたから、学者にとっては宝の山なんだろうな。彼は熱病にかかりこの地で果てるのですが、案外その最期は、土地の人たちに親切に看病されたのではないでしょうか。そう思いたいですね。彼の本を読んでその人柄が好きになりました。この村には電気が来ていないので、夜だけ自家発電をしていましたが、村の明かりはほとんど無いに等しいため満天の星を期待したのですが、山霧か薄雲かに覆われて見えなかったのが残念です。

④ の4. パラボラアンテナ







   この国を車で走ると、2つの事に気がつきます。空がきれい。雲がきれい。ではなく、人工的なものですが、相当な奥地でも、山の中でも電線が通じていること。またメコン川でも他の川でも長い電線を川の上に渡しています。電線は、通過する舟にその存在を知らせるゴムボールのような目印をつけています。
それと家々の庭にあるパラボラアンテナです。風が吹けば吹っ飛びそうなボロ家でも庭には立派なアンテナが置いてある。これは中国製で一万円ほどするそうです。これを一度買えばタイのホームドラマやムエタイが楽しめる。ケーブルTV もありますが、こちらは毎月お金がかかるから、お金持ちでないと入れない。ラオスで一番人気のある仕事は公務員で、月給は最初の3年間は六十ドル、その後百ドルになり、民間の会社に勤めるガイドさんの月給は六十ドル位です。けれども百ドルはするパラボラアンテナが無数に売れている。中国人が最初にこの国で売り始めた時は、宝の山を掘り当てた気分だった事でしょう。
ちなみに外国人が始めて日本に来て驚くことは、自分の経験では二つ。最初は、空港を出て直ぐの道路沿いに立ち並ぶ異様な建物群について。エッフェル塔に自由の女神、「なんじゃい、あれは」あれはラブホというもので、と説明すると、涙を流して大笑い。日本人好きねー。さてもう一つは自動販売機の数の異常な多さ。まあそれだけ治安が良いのでしょう。ラオスも治安が良いせいか、お巡りさんと軍人を空港以外では、全く見なかった。
TVの話しですが、ラオス語とタイ語は方言くらいの差なんです。特に東北タイとラオスではさほど違わない。ラオスの放送局はドラマを作るほどの予算と実力はないので、ラオスではみんなタイのドラマを見ます。従ってタイ人はラオス語が分からなくても、ラオス人はタイ語が分かる。バーベキュー屋の娘達もドラマに夢中で注文を聞いていない。

④.の5 ボーペンニャン

 ケ・セラ・セラって知っていますか?タイ語でマイ・ペン・ライは?まあ、南国の言葉で、意味は「成るようになるさ」とか、「あせってみたってしょーがないでしょ。気楽にいこーよ。」「Take it easy! Let it be!」「明日は明日の風が吹く、ドンマイ」なんてところでしょうか。スペイン等ラテン系の国でよくマニャーナ(明日)とやられますが、マニャーナが怠惰な空気を持っているのに対し、ボーペンニャンには突き抜けた明るさがあります。許容、寛容の精神です。あと執着しない心ですね。同じ意味の言葉がカンボジアでは、「アンパニアン」ラオスでは「ボーペンニャン」です。僕らも旅行中、小さなトラブルに会う度にボーペンニャン。パクセーからルアンパバーンに行く飛行機が、理由も知らされずにビエンチャン空港に降り、飛行機を乗り換えて2時間遅れてもボーペンニャン。ホテルでお湯が出ず、仕方なく水でシャワーを浴びてもボーペンニャン。この言葉、仕事で取引先に聞かされたら腹が立つかもしれないが、自分で口癖にすると毎日が楽しくなってくる。日本語には無いね。およそ正反対の社会だもんね。二十四時間戦う競争社会では、このような言葉は害毒になる。ボーペンニャンには仏教の諦観、無常観、輪廻転生の教え、しょせんこの世は仮の宿、といった意識があるような気がする。でもそんな事、どうでもボーペンニャンかも。

④ の6.オー・マイ・ブッダ、だまされた!













  ルアンパバーンで僕らは見事にだまされた。この町の名物は八十もある寺からあふれ出るお坊さんの朝の托鉢。これは見過ごせないぜ、というわけで早起きし、5:20にホテルを出て、通りかかったトュクトュクに乗ってワット・シェントーンへ行った。ガイドブックに、この寺の近くが一番行列が多いと書いてあった。ところが到着すると真っ暗で誰もいやしない。トュクトュクの運転手も、いいのこんな時間に、ここで、という風情でした。たくさん着込んでいたので寒くはないが寂しいこと。お寺だってまだ寝てるじゃん。コーヒー飲みてー。けど自販機があるでなし。二十分ほど待っていたら、町の中心の方で人がチラホラしだしたので、そちらへ移動を開始。途中で親切なおばさんに会い話しをする。
そのおばさん、なんと自分たちが用意した薄敷(ゴザ)に僕らを座らせてくれた。そんな敷物一枚でも石畳の冷たさを遮断してくれる。おばさんは僕らに大きなざるを持たせ、通常よりずっと大きなもち米のバスケット、モンキーバナナ、ビスケットを山のように盛り上げ、ハスの花を持たせた。お坊さんが来たら、もち米を小さくちぎり、バナナかビスケット(小袋入り)をセットで渡すんだよ、と言っている(言葉は分からないが、大きなジェスチャーで分かる。)おばさん何て親切なんだ。自分たちが用意したお供えを外国人の僕らに渡しちゃっていいの。でもそれはとんでもない誤解だった事が、坊さんの列が動き始めた時に分かった。「ファイブダラー」「ファイブダラー」ここが勝負と、おばさん形相が変わっている。声も2オクターブ低くなりドスが入った。『金取るんかい!』托鉢の列は延々と続き、僕らは食物の供給作業に熱中した。『手洗ってないんだけど。』それどころじゃあない。しばらくして面倒くさくなり、もち米だけ、バナナだけを鉢に入れていたら、「それじゃ駄目。両方入れろ。」とうるさい。早く終えて写真を撮ろうとしたら、別の太ったおばちゃんがタタタとやってきて、ほとんど空になったザルにバナナをドサドサ入れる。止めろ。止めろ。もう終わるんじゃい。この2人のおばちゃんに金をむしり取られ(ラオスの紙幣でゴソっと根こそぎ、それこそ一枚残らず取られた。但し総額三百円ちょっとだったのを知っている。)あと1ドル札を数枚渡してやっとこさ開放。相棒は、『こいつのほうがガードが甘い。』とすかさず見て取ったオバン2人に左右から詰め寄られアップアップになっている。回りを見れば他のオバン軍団に取り込まれたファランが憮然として座っていた。うかつだった。ラオスでなかったらもっと用心していたに違いない。 
「1ドル札以外あげちゃ駄目だよ。」と言い捨て、あっさり相棒を置き去りにして走った。ガイドブックには書いてあったけど、ここははずれじゃん。お坊さんのオレンジ軍団の行進は、町の中心の方が多い。やってる。やってる。こちらでは真面目に寄進をする町の人がたくさんいて、お坊さんは鉢がもち米で一杯になっている。逆にお坊さんの列の前に大きな鉢を置いて手を合わせている子供たちがいる。するとお坊さんが自分の鉢からもち米をちぎって子供たちの鉢に次々に入れていく。かわいらしい女の子の鉢に、一番小さな小坊主がトトトっと走っていって、自分の鉢からソフトボール大のもち米をゴソッと入れた。珍念さんみたいな小坊主はあの子が好きなんだろうな。この制度はいいな。貧しい子供たちはこれを家に持ち帰って家族みんなで食べるんだな。もち米おいしいもんね。
朝の托鉢は、ムアンゴイ村でも見ましたが、この村のお坊さんは総勢でも十五名程度。差し上げている村人も七~八人で素朴なものでした。

④ の7. 野菜、ステーキ、そしてカオ・ニャオ









 ラオスの食事はおいしかった。ニンジン、じゃが芋、ブロッコリー、青菜に蓮根といった野菜に歯ごたえがあって味が濃く、しみじみうまい。小さなダイコン、竹の子もあります。あと鶏肉、卵がまたおいしい。こっちのニワトリはえらそうに胸を張って夜でも鳴いているだけのことはある。ステーキを食いました。何せ牛、ブタ、チキンが同じ値段なので、僕らとしてはどうしてもステーキをたのんでしまうんですね。うまかったし量もでかいし、突き出しのポテトフライもおいしい。でもその後、今日は牛肉が無い、というケースが多かった。あの草の上で休んでいる年寄り牛もそうそう殺される訳にはいかないのでしょう。
 ラオスの主食はもち米です。こちらの言葉でカオ・ニャオといいます。縦長、円筒状の竹で編んだフタ付きのバスケットに入れて蒸します。お赤飯のプレーンバージョンで、手でちぎって食べる。もち米の田んぼはたくさんありましたが、時期的に収穫を終えたばかりで、脱穀作業をしていました。普通の白いお米はカオ・チャーオ、パン(フランスパン中心)はカオ・チーといいます。パンもいけますよ。
  旅行中毎日よく歩いたし、朝はたいてい食べ放題、くだものも一杯(スイカ、マンゴー、ジャックフルーツ、パパイヤ、マンゴースチン等等)あっておいしい、おいしいと食べ続けた結果、帰国して銭湯に行ったら三キロも太っていた。これはまずい。カミさんには黙っていよ。変わったところでは、ドライバーが頼んだオカズのネズミを食べてみたが、味付けが濃くてネズミの肉の味がよく分からなかった。ラオスコーヒーは、うーん今いち。

⑤番外編~ハノイの足うらマッサージ









楽しい旅行も最終日。この日は象さんツアーを申し込み、照葉樹林の中の小道や浅い川の中を象に乗って1時間半ほど散歩し、夕方ベトナム航空に乗ってハノイへたちました。ガイドさんに、急に飛行機がタイ航空に代わったりしますよ。と言われていたが何事もなく、ルアンパバーンを出てほぼ定刻十八時ごろハノイに着いた。さすがにこの空港はでかくて、土産物もラオスの百倍はあります。ですがここで日本へ出発する便(00:05)を6時間待たなければならない。ベトナム航空がくれた夕食券で食べたミートソースはひどい代物でした。ゆですぎた麺がトマトスープに浮いていた。時間つぶしをする所はフットマッサージくらいしかない。映画館でもあれば良いのに。この店朝8時から深夜2時までやっているそうです。料金は20分8ドル、30分12ドル、60分16ドルだったかな。三十分コースを申し込みました。なかなかにかわいいベトナム娘がそろっています。
  自分についた女性は(指名制ではない。)ちょいと年増のお姉さん。お湯に岩塩を入れた器に、足を入れて清めた後、お姉さんがマッサージを始めました。彼女に限らず、ここで働くお姉さん達は英語があんまりしゃべれない。そういう人と勘を働かせてコミュニケートするのは割りと得意なので、彼女と意気投合して楽しい時間が持てたけれども、いかんせん片言会話で三十分は長い。
  それよりもなーんて気持ちいいんだろう。足うらマッサージは日本で1、2回受けただけだが、その時の経験ではかなり痛いものだった。ここでは痛みはちょっとだけで、オイルを塗ってふくらはぎにまでするマッサージが実に心地よい。半分ほど時間が過ぎた頃、日本人の親父が入ってきた。五十代後半位でメガネをかけ長身痩せ型。
濃紺色のスーツにアタッシュケース。現地合弁工場に視察と打ち合わせにでも来たんだろうか。店長のような男性がシステムを説明するが、よく解っていないもよう。やおらスーツを脱ぐと、あららワイシャツまで脱いじゃった。フットマッサージだよ。さらにズボンを脱いだ(普通はめくるだけ)。この暑い国でステテコをはき、前でボタンを留めるテキ屋のおっさんみたいなシャツを着ている。店長が足を入れる器をセッティングしていると、唐突に「レディー、レディー」と叫びだした。店長がマッサージをすると思ったらしい。子供っぽい女の子がおそるおそるステテコ親父のマッサージを始めた。すると親父「Can you speak English?」を連発。女の子がビビッて小さな声で、pain?(痛くありませんか?)とか、How do you feel?(いかがですか?)とか言っているのに親父には全く通ぜず、「English English」と吠える。
   自分のところの姉御肌が助け舟を出し、「後十分したら自分が代わります。」と話しかけても全く聞いていない。どうやら親父は英語が全く聞き取れないらしい。いやーこの先どうなるのかな、と思ったが自分はステテコを残してタイムアップ。本当に丁寧で気持ちのよいマッサージでした。
 
   さて、この一文を読んでちょっとラオスに興味を持った諸君。ラオスに関連する本を3冊紹介するから、よかったら読んでみて下さい。


一、集英社文庫、椎名誠 『メコン・黄金水道をゆく』
二、幻冬舎文庫、たかのゆりこ 『モンキームーンの輝く夜に』
三、KKベストセラーズ 高野秀行 『極楽タイ暮らし』
(これはタイ人気質に関する本だが、ラオス人もほぼ同じ)

アジアの仏教徒が静かに暮らす国、ラオスは資本主義の基準からすれば最貧国なのだろうが、大らかで純粋な心を持つ人々が住まう自然の豊かな国でした。また訪れたいと思います。この国に惚れました。