旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

邯鄲の夢 - 第七夜

2014年12月05日 18時31分48秒 | 夢十夜
7. 息子の友達

 とかく大学生は遊んでばかりいるように言われるが、理工学部は毎週のように実験があり、そのレポート作りに追われるらしい。
 東京の郊外に住むN君は一人っ子で、両親といっしょに一軒家に暮らし都心の大学にかよっていた。N君の大学は国立の一流校で、友達には地方から来ている人が多かった。しんどいレポート作成を気の合う仲間と、よくN君の家で行っている内に、夜になり、N君の部屋に泊まっていく連中が出てきた。
 もちろんいつも勉強ばかりしている訳ではなく、酒を飲み、ビデオを見たりゲームをしたり、毎日が合宿のような感じになってきた。兄弟のいないN君には友達といっしょにいる時間が楽しくて仕方がない。元々細かいことを気にしないのんびりした性格なので、多い日にはN君を含めて3~4人泊まっていく日があり、その事でお母さんは毎日文句を言っていた。「食費がかかる。」「くつが散らかっていた。」「トイレットペーパーの減りが早い。」
 全員に毎回食事を出していた訳ではないが、N君一人を呼んで食べさせる訳にもいかない。お父さんは仕事で帰りが遅く、何も言わなかった。母親の小言がうるさくなったN君は、ハウスルールをパソコンで打ち出したが、そんなものが機能する前にN君の友達はお母さんをうまく手なづけた。帰省すれば多めにお土産を買ってくるし、田舎の野菜を持ってくる。気の利いた奴は、お母さんに誕生日のお祝いを渡す。そんなものはもちろんN君からもらった事はない(あげた奴だって、自分の母親には渡さない。)お母さんは、うれしくて舞い上がってしまった。
 そして一年が終わり、二年、三年とたった。常連の友達の中でトモ君と呼ばれる小柄な青年はおとなしい性格で、特にお母さんと仲が良かった。トモ君はよくお母さんといっしょに台所に立ち、夕食の手伝いをしていた。「トモ君、うちの子になっちゃいなよ。」がお母さんの口癖でした。
 いつもオーバーオールを着ていたトモ君とお母さんの友情は淡く長く続いたが、4年の月日は早たち、就職活動のシーズンがやってくると、N君の合宿所に集まる友達はめっきり減ってきて、寮母のお母さんは何か張り合いのない思いをしていた。卒業も近づいたそんな或る日、N君の家に春めいた明るい色のスカートをはいたショートカットの女の子がやって来た。これは大変珍しい、というか初めてではないか。
 お母さん、ハーとため息をつき、「やっぱり、いいはねー女の子は。うちの中が明るくなるわ。」その女の子はしばらくN君の部屋にいた後、台所にいたお母さんの所に来て言いました。「お母さん、4年間大変お世話になりました。教えていただいた料理は忘れません。」
お母さん「ヒエー」腰が抜けそうになりました。「トモ君、トモ君、あなた女の子だったの。」女の子はクスッと笑い、「はい、友恵です。」
 さーこの物語、この先どうなるんだろう。N君と友恵ちゃんの将来は?それは分からない。何故なら物語はここで唐突に終わってしまうから。さいなら。グッド・バイ

邯鄲の夢 - 第六夜

2014年12月05日 17時21分08秒 | 夢十夜
6. 南波照間島

 日本の西の果て、先島と呼ばれる八重山諸島は東から石垣島、西表島、与那国島と並び、西表島の南に小さな波照間島があります。西に向かえば台湾ですが、南は広大な太平洋が広がり島などありません。しかしながら波照間島には、その大海のかなたに南波照間島という南海の楽園があるという言い伝えがあります。南波照間島は無人で、太古の森には鳥と獣たちが群生し、清冽な真水の出る泉があり、島はうっそうとした木々でおおわれ果実がたわわに実り、海岸では貝や魚がいくらでもとれるといわれています。
 江戸時代の琉球(沖縄)は薩摩藩の圧政に苦しみ、その厳しい人頭税の取立ては、島民から生きる活力を奪っていました。妊婦が断崖絶壁の裂け目を飛び越え、それでも流産せずに生まれてきた子だけを育てたり、武器を奪われたため、素手や木製の農耕具で戦う空手を森の中で練習したりした時代でした。
 或る時、波照間島の村人は相談して島を捨て、大海のかなたにあるという南波照間島を目指すことに決めました。役人が島を離れた隙に舟を仕立てて家財道具を積み込み、南波照間島を目指しました。その船出の際、若い母親が浜に鍋を置き忘れたことに気がつき慌てて取りに戻りました。家族は引き止めますが鍋一つといえども当時は大変貴重なものです。母親は鍋を拾って急いで舟に戻ろうとしますが、引き潮に流され舟はあれよあれよと言う間に沖に流されてしまいました。
 夫、子供たち、両親や知人、友人の全てを乗せて舟は沖へ沖へと流されついに大海原の彼方へと消えていきました。その後その舟の消息は途絶え、母親がどのような気持ちでその生涯を終えたのかは、言い伝えには残っていません。地図にはない南波照間島で幸せに暮らしているであろう家族を想う、一人残された女性の嘆きを考えるといたたまれない気持ちになりませんか。南の国の明るい島に残る悲しい物語です。

邯鄲の夢 - 第八夜

2014年12月05日 17時17分39秒 | 夢十夜
8. 浅草ルナパーク、ウンコたれ事件顛末

 自分が浅草ルナパークに販売促進係長として赴任したのは、バブルがはじけ会社も傾きかけていた頃のため、広告にもイベントにしみったれた予算しか出なくなっていました。
その3~4年前までは、遊園地のアトラクション新設、海外物件、地方の3セクによるテーマパーク建設ラッシュがまだ残っていて、景気は最後のあだ花を咲かせており、ルナパークなどの運営部門は、メーカーが主流の本社から放っておかれた代わりに、イベントの予算などは割りとポンポン出ていました。
 その当時のイベントはパークのスタッフが中心となって企画し、本社の承認を取ってスタートする形で、ある年の春休みからのイベントは、劇団を持つ芸能プロダクションと案を練り、「見たこともないヒーローショー」という催事を行ったそうです。自分も後から写真を見て当時の様子を聞いた時には、大笑いしました。何しろ「見たこともない」奇天烈なヒーロー(?)達が思い思いのポーズをとって写っているんです。ただ今思い出そうとしても、その「見たこともないヒーロー」たちの名前が思い出せません。まあ大したものではない。例えば桃から生まれた桃レンジャー、胡椒のビンに顔を付けたらスパイシーマン、とかそういった類いのものです。ただそいつ等が一人一人性格付けされ、特注の着ぐるみが出来ていたのです。一体の制作費が30万円としたら6体で180万円。よくそんなものに金を出したな、と思いますが、まあ一般のヒーローショーを呼んでステージで一日2回、30分づつ公演をしても一日40~50万円、春休みの土日だけでも6回、300万円はかかります。その後のGW(遊園地の一年の内最大のイベント)でも何かしらやる訳だから、オリジナルイベントは案外安あがりな場合もあります。
 さておき、この自己満足ぎみの超マニアックなイベント「見たこともないヒーローショー」は受けたのか、受けないのか今ひとつ分からないまま日は進み、ルナパークは相変わらず入る日は入るし、入らない日は入らない。ただ一部の大人達(おたく、業界人)には好評で、少学館の「パロパロコミック」に連載しようか、という話しが出てきました。これは零細遊園地にとって願ってもない夢のようなチャンスで、毎月ただで絶好の素材に何ページも広告宣伝してくれるようなものです。そんな話しも出てくると、臭くて暑い着ぐるみに入って演じている役者(の卵)達も力が入ります。元々この劇団の役者連中は悪乗りしやすく、乗り物の柵によじ登ってメンテナンスの親父さんを激怒させたり、お客さんと必要以上に絡んだり、少々以上に問題児ぞろいでした。そんな彼らを叱ったりなだめたりして使っていたのですが、ついにある日決定的な失敗、致命的な一発をやらかしてくれました。イベントは文字通りその日でThe endとなりました。
 その運命の日は春のポカポカ陽気でしたが、平日で園内はガラガラ、但しお弁当と、水筒を肩から斜めがけした幼稚園児の遠足があり、200人位のちびこいのがピャーピャー言いながらお揃いの帽子をかぶって入ってきました。普通平日はイベントはなく、ステージはルナパークのバイト君達のジャグリングでお茶をにごすのですが、その時は数人の役者が残ってステージをやっていたのですね。園児を集めてステージの前に座らせるだけでも大変です。彼らは一時もじっとしていません。集中力は5秒と持続しない。あっちにこっちにしゃべくりまくって、くっつきあったり離れたり、立ったり座ったり、ひっくり返ったり、ひっくり返したり。ステージで「見たこともないヒーロー」の一人がショーを始めたのですが、ちび共ろくに見やしない。この場合「見たこともない」ってのが完全に裏目に出て、セリフもちっちゃい子向けじゃあなかったし。パロディーが通用するお年頃でもない。ワイワイガヤガヤ、ペチャクチャ、ワーワー、キャーキャー、ピーチクパーチク、        
おしゃべりはうねりのように高まって、先生(保母さん)が声を張り上げて注意したって聞きゃあしない。
 ステージの着ぐるみ男は話しを止めてしまった。一瞬思案し、名案が浮かんだらしく、大げさに両手をポンとたたく動作をするとしゃべり始めた。「ハーイみんな、こっちを向いてー、声をそろえてー、はい。・・・ウンチー」「えっ」「えっ」「えっ」「なに?」「なに?」意表をつかれたちび共が反応して一斉にステージを見た。その動きに着ぐるみ男は、「してやったり。これぞ役者魂」「3歳だろうが、80歳だろうが俺は観客の心をつかんでやる!」そう、このお年頃の集団に一番受けるネタは、圧倒的にウンチなんです。この大声で言ったらすぐに怒られる3文字こそが奴らの心を熱くさせるんです。それをあろうことかステージの上で、マイクの音量高らかに大人が言うんだからたまらない。「見たこともない」ほど変な格好でも大人は大人。「さあみんな、声をそろえて、大きな声で、1,2,3,ハイ、ウンチー」「そんなんじゃ聞こえないよ。もっと大きな声で、1,2,3,ハイ、xxxー」
 男の子も女の子も狂乱状態、夢中になって前の子の背中をポカポカたたき、たたかれた子は手足をバタバタし、中には口から泡をふきそうになっているのもいる。ステージの上と下は完全に一体化し、興奮は興奮を呼び、まったくこの男は天才かもしれない。こうなると手がつけられないことを良く知っている保母さん達は止めてよいやら悪いやら、困ってあいまいに笑うしかない。子供はしつこいんだよー。もう一回、もう一回。
 その頃ステージの真向かいの建物の二階にある園長室で事務をしていた園長は、表から窓ガラスをビリビリと震わす熱気が壁を越えて、部屋に充満してくるのに気づき、「何、どうしたの?」と部屋を出て表に向かいました。園長は先代の社長の娘、現社長のお姉さんで、きっぷの良い部下思いのおばあちゃんです。自分も後に大変お世話になりました。事務所のある建物の中では、表で何か騒ぎが起きていることは分かるけれど、何を言っているのかまでは分からない。事情を報告しに飛び込んできたスタッフも、簡単には説明できないので、園長はじめみんなでベランダへ出ました。
 そこで見たものは、200人の園児が目を輝かせ、右手を突き上げ声をそろえて体中から、浅草の空に向かってウンチーの絶叫。更にこの役者は、自身の学生時代の恨みをはらそうとしたのか、ただの悪乗り野郎なのか、「次は僕の後に続いて、いいかい、大きな声で。先生のウンコたれー」これは大受けでした。言っちゃあいけない言葉です。それを200人で青空に向かって叫ぶんですから、そりゃ最高。「ちぇんちぇーのウンコたれー」
 「何やってんの!止めなさい!止めさせなさい!」園長はベランダで絶叫する。着ぐるみ男はステージから引きずり降ろされる。保母さんたちには、園長一同全員で土下座せんばかりに平あやまり、平あやまり。園児は興奮冷めやらず、「もう一回、もう一回。ちゃんちぇーのウンコたれー、もう一回、もう一回。」園の外へ行ってもやっていました。
 イベントはその日で中止になりました。劇団は引き上げ、着ぐるみは倉庫に放り込まれ二度と日の目を見ませんでした。普段は運営に一々口を挟まない園長もここは頑として譲らず、『パロパロコミック』の話しをしても何をしても駄目、社内のえらいさんから話しをしても駄目。一瞬で消えた幻のイベントと成り果てたのですが、その原因を作ったあの日の着ぐるみ男がその後どうなったのかは、さだかではありません。

邯鄲の夢 - 第五夜

2014年12月05日 17時14分56秒 | 夢十夜
5. 赤とんぼ

 夏の間、高原のお花畑で過ごした赤トンボは、秋になると真っ赤な婚姻色に身を染め、里に下りて町の中の空き地や原っぱの上を、群れをなして泳ぐように飛びます。
 赤トンボの群れは小さくまとまったりパっと広がったり、上に行ったり下に来たり、急に止まるような動きを見せたりと、自在に秋空を遊泳します。海の中の小魚の群れよりも軽やかな動きです。今でも数匹の赤トンボが草地を飛ぶ姿を見ることはありますが、私が子供の頃、昭和三十年代の日本の秋空を飛ぶ赤トンボの群れは、それはそれは見事なものでした。
 今では少子化で無くなってしまった、横浜市立戸部小学校は、創立が明治維新の前、前身が寺子屋だったという由緒を持ち、校歌の中に、「ネオンの巷、仰ぎ見て」とかいう文句が入っていました。団塊の世代よりは後になりますが、まだ戦後の焼け跡から復興し始めた日本、という雰囲気が充分残っていて、1クラス45人位で1学年に5クラスほどありました。横浜なので父親が中国人の余さんや王君、小学生なのに新聞配達をする朝鮮の子がクラスの仲間にいました。
 あれはある晴れた秋の日、昼前の体育の時間でした。小学4年生位だったと思う。体育の授業は、校庭を2~3周ランニングするところから始まります。悲しいまでに澄んだ青い空に赤トンボが舞っていました。その日の赤トンボの群生は特別に数が多く、子供たちのランニングの列に突っ込むように近づいては離れ、遠ざかっては上空を舞ってまた近づき、群れが固まれば赤がギュっときつくなり、広がれば薄まる。私はランニングの列の中にいた訳なのに、思い出の光景は何故か、離れた所から子供たちの走る姿と、つかず離れず空中を自在に舞う赤トンボの群れを同時に捉えています。あれほど見事な群れはその後見ることはありませんでした。町の空き地や原っぱは次々に無くなり家やビルが建ち、残った緑地は管理された公園になった。
 追憶の次の場面は、ランニングを終え校庭に2列になって座り、これから行なう球技の説明を先生から受けているシーンです。その時先生の背後、港のドックの方向で突然灰色の煙がちっちゃく立ちのぼりました。続いてドーンという音が、一瞬の衝撃を与えて体を突き抜けた。みんなはびっくりした。花火の音に似ていたけれども、もっと禍々しい、心臓を不安でドキドキさせる煙と音だった。何だったんだろう。大きな音は一回だけ、煙は地平からワッと上がって風に流されて消え、それきり何も起きなかった。
 その日の夜になって、ドックで爆発事故があり、作業員が2人死んだことを知った。
その死者の中にクラスの女の子のお父さんがいたことが分かった。体が小さくて目立たないおとなしい少女でした。あの時彼女は、校庭に座ってお父さんが死んだ事故の一瞬を、クラスのみんなといっしょに見てしまった。抜けるような青空と、夕焼け雲のような赤トンボの群れ。あの日を境に、赤トンボの群生を見ることは無くなった。

邯鄲の夢 - 第四夜

2014年12月05日 17時12分05秒 | 夢十夜
4. 昔、亜細亜の映画館

 〝昔亜細亜の映画館〟、ウンいいタイトルだ。この中に小さいころ、よく連れて行ってもらった横浜の戸部映画館も入れて欲しい。
 高度成長以前、戦争の焼け跡がまだちらほら残っていた昭和三十年代の日本はアジアの国だった。地理上のものじゃあなくて、自分が旅したアジアと同じ匂いがした、ということ。あれほどスパイシーではないにしても。戸部映画館には、自分が3歳の時に死んだおじいちゃんと一緒に入った記憶がかすかに残っている。でもその記憶は後々語られた笑い話から形作られたものかもしれない。おじいちゃんが買ってくれたチョコを映画館の中で食べた3歳児の自分が、口の周りを茶色くして出てきた、というたわいもない話し。さて、戸部映画館はいつごろ迄あったんだろう。つぶれてからも、長いこと空き家だった。天井の高いあの大きな空間は、結局再利用出来ずに取り壊された。
 ここで見た映画は奇妙によく覚えている。東宝のゴジラと、その裏番として加山雄三の若大将シリーズをよくやっていた。今覚えているのはゴジラよりモスラ、モスラより若大将、若大将より田中邦衛がやっていた青大将である。記憶の中の戸部映画館はいつも混んでいて、次回上映、近日上映の絵看板にわくわくし、僕らの生活の中にはいつも映画館が在った。その時代の後には生活の中心はTVになり、プロレス、大相撲、「ララミー牧場」「シャボン玉ホリデー」、その後のTV番組へと続いていく。家の外で過ごす時間がだんだんと少なくなっていった。
 あア、道草を食いすぎた。自分が最初に入ったアジアの映画館は1978年、2度目のインド旅行で、カルカッタだった。映画館の外が、大袈裟に言えば、旧約聖書に出てくる永遠に呪われた町、ソドムとゴモラのような様相を呈しているのに対し、映画館の中はここが印度?という位近代的できれいでエアコンがきき、スクリーンもいつものアクション付きミュージカルだけれど、芝生の庭を持った邸宅が出てきて、ふっくらしたお母さんとでっぷりしたお父さんが娘と一家団欒を楽しむシーンなどは、表の世界では百年たっても有りえない。第一このギンギンギラギラ太陽の下では芝生は一日で枯れちまう。
当時のカルカッタは汚水が吹き出し、あらゆる病人、脚がアザラシのように膨れた象皮症、手の指がすべて爛れ落ちて生姜のようになったハンセン氏病者がいて、あらゆる乞食が纏わりついてきた。「バクシーシ、バクシーシ」と言って追いすがる子連れの女乞食は、赤ちゃんのお尻をつねって泣かしていた。町中には痩せこけたノラ牛が残飯をあさり、痩せた人々の目も太陽もギラギラしていた。飯屋の水はコップの中にボーフラが浮き沈み、ご飯にはアリが出入りしていた。まあそんなインドも今は昔、ずいぶん変わったことだろう。いい所も結構あったんです。例えば、何だっけ。ま、とにかく、最初の洗礼が強烈だったんだね。
 次はフィリピン。この国の映画館にはマニラでもセブでも何度も入った。マルコス大統領とイメルダ夫人がまだ若くて元気な時代で、映画の上映前は観客全員で起立、国歌の演奏をバックにマルコスの斜め横顔が、左45度上空を見据えて浮かび上がる。
場末の映画館では幕間にみんなモソモソ動いてタバコを取りだしたりする。防火も嫌煙権もあったものじゃあない。その場で根本まで吸って、吸いがらは床に投げてゴムサンダルで踏み消す。ところがマッチを持ってる奴が全然いない。百円ライターは日本以外ではまだ普及していなかった。自分がその百円ライターを使ったら、貸してくれ、という訳で、手から手に次々渡っていって、アレよアレよという間に映画館の端の方へ消えていった。こりゃあイカン、まず戻らないな、とあっさり諦めたのだが、映画が再開して三十分もたったころ、肩をトントン叩かれて戻ってきた。
 フィリピン、台湾、タイ、どこでも洋画の封切は日本より3ヶ月ほど早かった。日本は大体半年後でしょ。まだやっていないのか、とよく馬鹿にされたものです。マニラで見た国産映画は面白かった。田舎者の女の子がだまされ、虐げられた復讐の念から自分を磨き、男どもを手玉に取って上流社会にのし上がっていく話だった。元々きれいなんだろうけれど、その女性がプールのシーンで深紅のガウンを身につけて登場し、それをパッと脱ぎ捨てると真っ白いワンピースの水着になる。理想的なプロポーションに思わずハッとなると、水の中にスっと飛び込む、といったシーンがあったのだけど、周りで感情移入して食い入るように見つめている女の子達、女工さんやウェイトレスといった感じの、がその場面で一斉にフーッとため息をついた。何か、とっても分かりやすくてかわいい観客でしたっけ。
タイの映画館でも当時は始まる時に全員起立、国歌の演奏、こちらはプミポン国王(とお后もいたかな)が写し出された。タイの青春映画はアクションたっぷり、庶民派のヒーローが恋人や家族をいじめる金持ちの悪党と戦い、ついに打ち負かすという単純なストーリー物が多く、言葉が解らなくても十分ついていける。但し決まって悪党の親玉はアメリカ人、その使いパシリの薄汚い小悪党は日本人なのだ。
ラオスとの国境の町、チェン・ライの小さな映画館で観た「ジョーズ」も面白かった。字幕にタイ語が出て、おまけに吹き替え版(タイは方言の差が大きい)なのだが、男性・女性の声優がそれぞれ一人づつでやっているとしか思えない。おばあちゃんも子供も明らかに同じ人が声を高くしたり、低くしたり、いくらなんでも手を抜き過ぎだろ、と思うが他のひとはどう考えていたんだろう。
そんな風に人々の生活の一部で夜の娯楽の中心であった、昔アジアの映画館。最近(2008年)カンボジアとベトナムを訪れてみたら、映画館はすっかり寂れていた。ベトナムは近年目覚ましい経済発展をとげつつあるが、以前は貧しかった。サイゴン(ホー・チ・ミン市)の空港は今では立派な作りで高級ブランドの店が並んでいるが、十五年前は場末の駅の待合室のような所で、土産店には爬虫類の標本のように、やたらコブラ酒、サソリ酒のビンが立ち並んでいたものだ。当時はハリウッドの洋画の配給権が買えないので(あるいは社会主義の建前か)、サイゴンではよく東欧諸国の映画や香港のB級作品が上映されていたが、映画館は町の中心に立ち並び、その周りも屋台に埋め尽くされて活気があった。今はしゃれたブティックとやらに変身、フランス映画専門にやっている一軒と、場末の化け物映画館(スパイダーマンならぬ、くも女とか)位しか残っていない。これはカップルでしけ込むためにあるんだろうね。カンボジアでは近年、タイの映画が人気だったが、タイの女優が「アンコール・ワットはタイの遺跡よ」と言ったとか、言わないとかでケンカ別れし、最近ではこれも国産の化け物映画くらいしかやっていないらしい。カンボジアの国産化け物映画、これはこれで見てみたいものだ。
両国ともDVDの普及によって、欧米の話題作が家にいて簡単に見られるようになり、映画館がすっかり寂れた。今は昔、華やかなりし、昔亜細亜の映画館なのだ。