セブのカヌー転覆
この旅は始めから変だった。当時26-7歳だったので自分も、また旅の相方も社会人だったのだが、時間に追われていた記憶が全くない。転職の端境期だったんだろうか?なぜフィリピン、なぜセブ島にしたのか、今となっては分からないが、ベストの選択とは言いがたかった。ただこの旅の目的が南の島でうぶな魚を釣りまくることにあったのは間違いない。釣り道具を一式持っていったのを覚えている。
セブの空港は湾の内海に浮かぶ小島だったんだ。当時インターネットは無かったし、ガイドブックも持っていかない出たとこ勝負の旅だった。空港のある島は小さくて周辺の砂浜にリゾートが広がっていた。そのリゾートの一つに行ったら、入るだけで一人二十ドルほどかかった。宿泊代は百ドル以上したので、とても泊まれない。二泊で無一文になってしまう。第一ここの宿泊客は上等な服装(カジュアルでも金がかかっている。)をしていて、年齢層がかなり高い。ジーパンにTシャツの我々は要するに場違い。入場料を返してくれ、返せない。返さない代わりにその分の食事をすることが出来る。当時の英語の力ではそれだけの事を話し理解するのがやっとだった。
二十ドルでがっかりするほど質素な昼飯を済ませ、タクシーで別の安いリゾートへ向かった。そこは開店休業中じゃあないかと思うほど客が少なく、だだっぴろい砂浜が続くだけの何にもない所だったが、腹の出た親切なおっちゃんがいて色々と説明してくれた。何故かおっちゃんとの英語の会話は実にスムーズに進んだ。結局そこも泊まり賃が四十ドルほどし、飯代が異常に高いことが分かり、空港の近くの十五ドルほどのホテルに泊まって、日中その簡素なリゾートに通う事にした。
タクシーとかは腹の出たおっちゃん(名前は忘れた。カルロスとでもしておくか。)が指一本ですっ飛んできて、値段交渉もカルロスがさっさと済ませてくれる。タクシーはリゾートの入り口にいつも停まっている。客待ちなのか昼寝なのかは分からない。どうせ後でドライバーからリベートを取るのだろうが、我々が直接交渉するよりも安くてもめない。
覚えているカルロスの姿はいつも海パン一丁か、こりゃボタンははまらないな、と思われるシャツをはおっているだけ。ところが何故か人望があって、いつも若い子分の取り巻きがいる。最初このカルロスが支配人なんだろう、と思ったがそうではなかった。身なりの良い痩せ型の本物の支配人が現れたら、カルロスとその取り巻き連中は急にソワソワし始めた。「何だお前、また来ていたのか。」「どうもすんません。」みたいなやり取りがあってカルロスは立ち去った。ところが支配人がいなくなると、どこからかサッと戻ってきて浜辺の主になる。なんだ、お前このリゾートの人じゃないのか。
しかしカルロスは役に立つ。カヌーの手配、飲み物の調達、町の面白情報、市場への行き方、なんでもこいつに頼めば一発である。この寂れたリゾートは最初に訪れた所とは大違いで、自分達の他に数組、年輩の欧米人が泊まっているだけ。その白人客は夕方ちょこっと海につかるだけで、一日中浜辺にパラソル、デッキチェア。ほとんど動かないから用がない。カルロス達はずっと僕らの周りにいてかなりうっとうしい。お前他にする事ないんか。僕らは朝からきれいな南の海で泳ぎ、カヌーに乗って釣りをした。湾内なので波は無く、水は澄みきっていて二十m位下までガラスのようによく見える。海底は砂浜で大きな黒ナマコがゴロゴロしている。
持参した竿にサビキを仕掛けて下ろすと、白い砂地のアチラコチラに点在する珊瑚礁から小魚が数十匹ワッと集まる。が近くまで来ると、「何だ、偽物かよ。」と散って行く。一度散ると見向きもしない。なまじ透明度が良すぎるのも困ったものだ。別のサンゴに行くと同じくワッと集まりサッと散る。時々大きな魚の影が海の底をススーと横切るが、こいつらはサビキに寄って来ない。深くなってくるとカヌーの上からでは良く見えないので、海の中に潜り、水中に浮かんで釣りをした。これは面白かった。水が透き通っているので、まるで空中に浮かんだようだ。ただこの水中釣りのせいでリールも竿の金具も後ですっかりサビついた。時々疑似針のサビキを口にちょっとくわえる奴もいるので、タイミングを合わせて蝶々みたいに色鮮やかな熱帯魚を何匹か釣り上げた。10-15cmほどの小魚で、写真を撮って逃がした。こんな小魚じゃあなくて、市場で売っているような大物を釣りたいんだ。時々海の底を横切るじゃあないか。
最初の日、一日中海で遊んでいたらひどい目に合った。夜になると背中から首すじが真っ赤になって熱をもった。友人は鼻を中心に顔がやけ赤鬼のようになった。肌が熱を持ち、痛くてシャワーが浴びられない。翌日から日中に海に入るのを避け、朝夕Tシャツを着て入ることにした。
日中は橋を渡ってセブ市に行き町を歩いて、フィリピンの小瓶のライトビール、サン・ミゲールを水代わりに飲んだ。そのセブ市の中のお祭り広場のような所で人だかりがしている。見ると高さ15mほどのミニ観覧車が組み立てられているのだが、それが止まっている。一番上のゴンドラには人が乗っているじゃあないか。発電器が故障して停電しているんだ。一生懸命修理をしていたが、周りの人たちには慌てた様子はなく、またひまなんだろうね、ずっとそのまま見続けている。夕方になってまたその広場に行ったら、驚いたことにあれから5-6時間はたっているのにまだ修理をしていた。暗くなりかけてきてよくは見えなかったが、上のゴンドラの人もそのままのようだ。手動で動かすとか出来ないのかね。
ところでセブのお姉ちゃん達はマニラのスラッとした美人とは違い、小柄でポッチャリ系が多い。だからなに、と言われても困る。ただの感想である。さてサビキが効果が無いことが分かった(海水が透明すぎる)ので、今度はエサ釣りだ。市場に行ってエビや名の知れない魚の切り身を仕入れカヌーを出した。カヌーは細長い丸太のくり貫き舟で、安定の為の横木がついている。人一人が腰を下ろすのがやっとといった狭くて鉛筆のような形状をしているので、オールで漕ぐとスイスイ進む。友人と二人でスピードを出して漕いでいたら、何かの拍子に傾いたのか、右舷から海水がサーッと入ってきた。おっとっと、傾きを直すいとまも無く水はどんどん入ってきて、あっと言う間に限界を超え、カヌーはあえなく水没し我々は海の中へポチャン。
カヌーが転覆した場所は海岸から数十m離れていて、水深は7-8mといったところ。お互いの荷物は沈む時に急いでつかみ、ひっくり返って浮いたカヌーの船底に引き上げた。「さて、どうしよう。」カルロスと子分達が浜辺でイスにそっくりかえって音楽を流しながらこちらを見ている。かっこ悪。しかし海水は暖かいし波は全くない。このままカヌーを押して泳いで戻ろう。ところがしばらく行くとカヌーがガチッと止まって動かない。転覆した時、カヌーに積んであったロープに結んだ石の重りが海底にはまりこんで動かないのだ。ガラスのように透き通った海の底に重りがしっかりと見える。引っ張ってもダメ、第一力が入らない。
「ロープを切るものはないか。」「ナイフは持っていない。」「仕方がない。岸まで泳ぐか。」でもカヌーを離れるのは心細い。荷物を極力濡らさずに岸まで行けるか?たぶん大丈夫。でも途中で足がつったら、微妙な距離だもんね。50mプールよりは遠いな。どうしようか。ここにいる分には何の問題もない。水は暖かいし。でも困ったな。どうしよう、と二人で考えたが良いアイデアは出てこない。
その時カルロスが立ち上がって声をかけてきた。「オーイ、オーイ。」お互いに大声を出す。やおらカルロスがTシャツを脱いで海に飛び込み、日ごろの姿からは想像もつかないほど見事なクロールでみるみる、ほんの十かきほどでひっくり返ったカヌーにやってきた。「何やってんだ、お前たち」一目で状況をつかんだ彼は、大きく息を吸ってやおら海底に向かってもぐり始めた。両手両足でぐいぐいと水をかいてもぐるもぐる。海底に着くと、錨の石を胸に抱き抱え、海底で四股立ちをした後、そこを蹴って今度は足だけでぐんぐん上がってきた。石をカヌーの底に乗せると、ヘヘッと笑って浜辺に戻っていった。僕らは動くようになったカヌーをゆっくりと押して泳ぎ、浜へ戻った。海の中はぬるま湯温泉のようで、何とも締まりのない海難だった。砂浜で濡れたお札、結局ブヨブヨになったパスポートと文庫本等を乾かし、動かなくなった電卓と濡れたタバコを「くれ」と言うカルロスにあげた。この日まで彼にちょっとえらそうな態度を取ってきた自分たちをこっそり反省。
カルロスは3人の子持ちだそうだ。定職はなくても子分がいる。支配人さえ来なければ、この寂れたリゾートの主だ。何をやっているんだか分からないけど、明日の事を心配している様子はミジンもない。「何かいいナ」「こんな人生もありだナ」
「今晩ディスコに行こうぜ。いい女見っけようぜ。」
ここまで力を抜いても生きていけるんだ。若いうちにカルロスと出会って、良かったんだか、悪かったんだか。
この旅は始めから変だった。当時26-7歳だったので自分も、また旅の相方も社会人だったのだが、時間に追われていた記憶が全くない。転職の端境期だったんだろうか?なぜフィリピン、なぜセブ島にしたのか、今となっては分からないが、ベストの選択とは言いがたかった。ただこの旅の目的が南の島でうぶな魚を釣りまくることにあったのは間違いない。釣り道具を一式持っていったのを覚えている。
セブの空港は湾の内海に浮かぶ小島だったんだ。当時インターネットは無かったし、ガイドブックも持っていかない出たとこ勝負の旅だった。空港のある島は小さくて周辺の砂浜にリゾートが広がっていた。そのリゾートの一つに行ったら、入るだけで一人二十ドルほどかかった。宿泊代は百ドル以上したので、とても泊まれない。二泊で無一文になってしまう。第一ここの宿泊客は上等な服装(カジュアルでも金がかかっている。)をしていて、年齢層がかなり高い。ジーパンにTシャツの我々は要するに場違い。入場料を返してくれ、返せない。返さない代わりにその分の食事をすることが出来る。当時の英語の力ではそれだけの事を話し理解するのがやっとだった。
二十ドルでがっかりするほど質素な昼飯を済ませ、タクシーで別の安いリゾートへ向かった。そこは開店休業中じゃあないかと思うほど客が少なく、だだっぴろい砂浜が続くだけの何にもない所だったが、腹の出た親切なおっちゃんがいて色々と説明してくれた。何故かおっちゃんとの英語の会話は実にスムーズに進んだ。結局そこも泊まり賃が四十ドルほどし、飯代が異常に高いことが分かり、空港の近くの十五ドルほどのホテルに泊まって、日中その簡素なリゾートに通う事にした。
タクシーとかは腹の出たおっちゃん(名前は忘れた。カルロスとでもしておくか。)が指一本ですっ飛んできて、値段交渉もカルロスがさっさと済ませてくれる。タクシーはリゾートの入り口にいつも停まっている。客待ちなのか昼寝なのかは分からない。どうせ後でドライバーからリベートを取るのだろうが、我々が直接交渉するよりも安くてもめない。
覚えているカルロスの姿はいつも海パン一丁か、こりゃボタンははまらないな、と思われるシャツをはおっているだけ。ところが何故か人望があって、いつも若い子分の取り巻きがいる。最初このカルロスが支配人なんだろう、と思ったがそうではなかった。身なりの良い痩せ型の本物の支配人が現れたら、カルロスとその取り巻き連中は急にソワソワし始めた。「何だお前、また来ていたのか。」「どうもすんません。」みたいなやり取りがあってカルロスは立ち去った。ところが支配人がいなくなると、どこからかサッと戻ってきて浜辺の主になる。なんだ、お前このリゾートの人じゃないのか。
しかしカルロスは役に立つ。カヌーの手配、飲み物の調達、町の面白情報、市場への行き方、なんでもこいつに頼めば一発である。この寂れたリゾートは最初に訪れた所とは大違いで、自分達の他に数組、年輩の欧米人が泊まっているだけ。その白人客は夕方ちょこっと海につかるだけで、一日中浜辺にパラソル、デッキチェア。ほとんど動かないから用がない。カルロス達はずっと僕らの周りにいてかなりうっとうしい。お前他にする事ないんか。僕らは朝からきれいな南の海で泳ぎ、カヌーに乗って釣りをした。湾内なので波は無く、水は澄みきっていて二十m位下までガラスのようによく見える。海底は砂浜で大きな黒ナマコがゴロゴロしている。
持参した竿にサビキを仕掛けて下ろすと、白い砂地のアチラコチラに点在する珊瑚礁から小魚が数十匹ワッと集まる。が近くまで来ると、「何だ、偽物かよ。」と散って行く。一度散ると見向きもしない。なまじ透明度が良すぎるのも困ったものだ。別のサンゴに行くと同じくワッと集まりサッと散る。時々大きな魚の影が海の底をススーと横切るが、こいつらはサビキに寄って来ない。深くなってくるとカヌーの上からでは良く見えないので、海の中に潜り、水中に浮かんで釣りをした。これは面白かった。水が透き通っているので、まるで空中に浮かんだようだ。ただこの水中釣りのせいでリールも竿の金具も後ですっかりサビついた。時々疑似針のサビキを口にちょっとくわえる奴もいるので、タイミングを合わせて蝶々みたいに色鮮やかな熱帯魚を何匹か釣り上げた。10-15cmほどの小魚で、写真を撮って逃がした。こんな小魚じゃあなくて、市場で売っているような大物を釣りたいんだ。時々海の底を横切るじゃあないか。
最初の日、一日中海で遊んでいたらひどい目に合った。夜になると背中から首すじが真っ赤になって熱をもった。友人は鼻を中心に顔がやけ赤鬼のようになった。肌が熱を持ち、痛くてシャワーが浴びられない。翌日から日中に海に入るのを避け、朝夕Tシャツを着て入ることにした。
日中は橋を渡ってセブ市に行き町を歩いて、フィリピンの小瓶のライトビール、サン・ミゲールを水代わりに飲んだ。そのセブ市の中のお祭り広場のような所で人だかりがしている。見ると高さ15mほどのミニ観覧車が組み立てられているのだが、それが止まっている。一番上のゴンドラには人が乗っているじゃあないか。発電器が故障して停電しているんだ。一生懸命修理をしていたが、周りの人たちには慌てた様子はなく、またひまなんだろうね、ずっとそのまま見続けている。夕方になってまたその広場に行ったら、驚いたことにあれから5-6時間はたっているのにまだ修理をしていた。暗くなりかけてきてよくは見えなかったが、上のゴンドラの人もそのままのようだ。手動で動かすとか出来ないのかね。
ところでセブのお姉ちゃん達はマニラのスラッとした美人とは違い、小柄でポッチャリ系が多い。だからなに、と言われても困る。ただの感想である。さてサビキが効果が無いことが分かった(海水が透明すぎる)ので、今度はエサ釣りだ。市場に行ってエビや名の知れない魚の切り身を仕入れカヌーを出した。カヌーは細長い丸太のくり貫き舟で、安定の為の横木がついている。人一人が腰を下ろすのがやっとといった狭くて鉛筆のような形状をしているので、オールで漕ぐとスイスイ進む。友人と二人でスピードを出して漕いでいたら、何かの拍子に傾いたのか、右舷から海水がサーッと入ってきた。おっとっと、傾きを直すいとまも無く水はどんどん入ってきて、あっと言う間に限界を超え、カヌーはあえなく水没し我々は海の中へポチャン。
カヌーが転覆した場所は海岸から数十m離れていて、水深は7-8mといったところ。お互いの荷物は沈む時に急いでつかみ、ひっくり返って浮いたカヌーの船底に引き上げた。「さて、どうしよう。」カルロスと子分達が浜辺でイスにそっくりかえって音楽を流しながらこちらを見ている。かっこ悪。しかし海水は暖かいし波は全くない。このままカヌーを押して泳いで戻ろう。ところがしばらく行くとカヌーがガチッと止まって動かない。転覆した時、カヌーに積んであったロープに結んだ石の重りが海底にはまりこんで動かないのだ。ガラスのように透き通った海の底に重りがしっかりと見える。引っ張ってもダメ、第一力が入らない。
「ロープを切るものはないか。」「ナイフは持っていない。」「仕方がない。岸まで泳ぐか。」でもカヌーを離れるのは心細い。荷物を極力濡らさずに岸まで行けるか?たぶん大丈夫。でも途中で足がつったら、微妙な距離だもんね。50mプールよりは遠いな。どうしようか。ここにいる分には何の問題もない。水は暖かいし。でも困ったな。どうしよう、と二人で考えたが良いアイデアは出てこない。
その時カルロスが立ち上がって声をかけてきた。「オーイ、オーイ。」お互いに大声を出す。やおらカルロスがTシャツを脱いで海に飛び込み、日ごろの姿からは想像もつかないほど見事なクロールでみるみる、ほんの十かきほどでひっくり返ったカヌーにやってきた。「何やってんだ、お前たち」一目で状況をつかんだ彼は、大きく息を吸ってやおら海底に向かってもぐり始めた。両手両足でぐいぐいと水をかいてもぐるもぐる。海底に着くと、錨の石を胸に抱き抱え、海底で四股立ちをした後、そこを蹴って今度は足だけでぐんぐん上がってきた。石をカヌーの底に乗せると、ヘヘッと笑って浜辺に戻っていった。僕らは動くようになったカヌーをゆっくりと押して泳ぎ、浜へ戻った。海の中はぬるま湯温泉のようで、何とも締まりのない海難だった。砂浜で濡れたお札、結局ブヨブヨになったパスポートと文庫本等を乾かし、動かなくなった電卓と濡れたタバコを「くれ」と言うカルロスにあげた。この日まで彼にちょっとえらそうな態度を取ってきた自分たちをこっそり反省。
カルロスは3人の子持ちだそうだ。定職はなくても子分がいる。支配人さえ来なければ、この寂れたリゾートの主だ。何をやっているんだか分からないけど、明日の事を心配している様子はミジンもない。「何かいいナ」「こんな人生もありだナ」
「今晩ディスコに行こうぜ。いい女見っけようぜ。」
ここまで力を抜いても生きていけるんだ。若いうちにカルロスと出会って、良かったんだか、悪かったんだか。