旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

携帯の無い時代

2015年09月17日 17時40分12秒 | エッセイ
携帯の無い時代

 スマホ、携帯の無い世の中、想像出来る?日本でまともな携帯が出始めたのは1990年代からだよ。当時日本は電波法の規制があって、携帯電話の出現は世界に数年遅れていたんだ。その頃、復帰前英国領だった香港へ行くと、日本人が携帯を持っていないことを知っている中国人が、「ウェイ、ウェイニーハオ!」などと大声で自慢げにしゃべり見せびらかせていたっけ。
最初に自分が手に入れた携帯は、本屋のキャンペーンで手に入れたもので通話だけ。軽くて小さくておもちゃのようなものだった。NTTドコモがiモードを始めてから、急速に進歩していった。iモード元年は1999年だ。iモードの開始に伴って着メロ、着画面、占い、ゲーム、新しいビジネスが次々に生まれ、ベンチャー企業が続々名乗りを上げ、その数年後には消えていった。iモード元年、二年目、三年目位までのNTTドコモの山王溜池にあった本社ビルの受付は凄かった。皇居を見下ろす高層階にある、明るくて広い受付はiモードにあやかろうと、ひきも切らずに押し寄せる日本人、外国人の有象無象でごった返していた。3-4人いる受付嬢はてんてこ舞いだ。昇り調子のビジネスの活気が渦を巻いていた。
さて携帯の無い時代はどうしていたかと言うとね、ポケベル(ポケットベル)があった。ポケベルは、会社から自宅から電話をするとメッセージを受信する。メッセージに暗号のような短文を入れる機能もあったようだが、よくは知らない。自分は使わなかった。ポケベルにメッセージを受信したら、会社が呼んでいる事が分かるので、電話ボックス(昔はたくさん在った。)から返信する訳だ。
今ならスマホを拾っても会社に連絡する人はいないが、当時勤めていた会社で伝説になった男がいた。勤務時間中にソープランドに行き、ポケベルを置き忘れ店から会社に電話が入ったのだ。一つ先輩の彼が女性の総務部長からこっぴどく怒られた顛末は、俺たちを涙の出るほど笑わせてくれた。ポケベルを持つという事は、ある意味首輪をはめられることだが、通信が一方通行なのでそれほど束縛されたという印象はない。商談中でした、運転してたんだよ、後からいろいろ言い訳が出来た。また言い訳を考える時間の余裕があった。
固定電話のころ、恋人達は大変だった。彼女の家に電話する若者は、親父が出たらどうしようとビクビクしたし、母親は娘と長電話のことでしょっちゅう喧嘩をしていた。恋人でなくても友達と話し始めたら終わらない。自分の部屋があれば良いが、狭い家では大変だったろうな。娘が二人いたら姉妹で電話の取り合いだ。
人混みではぐれてしまっても連絡は取れない。子供の時、大家族で遠くに初詣に出かけ、混雑の中で3人と5人とかの2グループに分かれて見失ってしまい、再会するまでに2時間ほどかかりヘトヘトになった記憶がある。そんなだから公共の場ではよく、迷子と待ち合わせの放送が流れていた。野球の早慶戦が終わって、さあみんなで飲みに行くぞという時、一人はぐれた奴はもう会うチャンスがない。あの時は寂しかった、と20年たっても言っていた。でもグループで飲みに行って、途中二人でこっそり離れても、昨日は途中ではぐれたんだ、探してよ、酷いぜとかごまかせる。通信手段が無いから、その場で追求されることはない。大人数で繰り出したのに、あれあれだんだん人が減っていく、といった場合はこんなカラクリもあったんだ。
待ち合わせの時間と場所は重要だった。間違えたら会えないし、遅れても連絡は取れない。1月初旬の寒い日、若かりしカミさんとデートの約束をしていた。カミさんは振袖を着て横浜の関内で待っている。こっちは当時熱海にいて仕事で饅頭を作っていた。どうやっても断れない注文が急に入ってしまった。時間は刻々と過ぎていく。いくら急いでも約束に間に合わないのは明らかで、カミさんの家に電話をしても通じない。あの時は焦った。結局終わって熱海の駅に駆けつけた時点で、すでに約束の時間を一時間過ぎていた。関内に着いた時には遅刻は二時間を越えていた。もういないかと思ったら、店の前に晴れ着の彼女が立っていた。
あんまり遅いので店に居辛くなったのだ。本当にゴメン。彼女はよほど寒かったんだろう。かわいそうに震えていて、その日からひどい風邪をひいてしまった。だけどその時、それほど怒られた記憶はない。今だったら水をぶっかけられている。っていうか二時間待ってないだろ。その話をいつだったか友達にしたら、「結婚して責任を取ったんだから、いいじゃない。」と言った奴がいたが、そういうもんじゃあない。あの時の事を思うと本当に済まなかったなと心が痛む。携帯があればなー。


日本兵

2015年09月17日 17時37分12秒 | エッセイ
日本兵

 日本の兵隊は強かった。ミッドウェー海戦で帝国海軍、虎の子の正規空母四隻がベテランパイロットと共に沈んで以降、終戦まではほとんどが負け戦だった。終戦間際、中国戦線での大陸打通作戦が唯一の成功だったんじゃないか。日本軍には悪い癖があって、補給を軽視する。現実を直視しないで意味の無い精神論に走る。制空権を取られた上に、アメリカの潜水艦の大活躍もあって輸送船やタンカーが次々に沈められ、物資を運ぼうにも船が無くなった。おかげで前線の日本兵は飢えに苦しみ、弾丸は不足した。重火器は前線には届かず、大半は海底に沈んだ。
 ソロモン諸島の戦いの天王山、ガダルカナル島では戦死者に倍する万単位の餓死者を出した。どだい一人一人で飯ごう炊飯、という方法がまずい。手間と時間がかかり、火が必要だから敵に見つかりやすい。炊き上がった飯は日持ちがしない。東南アジアの戦線では、負け戦になってから籾殻を手に入れても、それを精白するのに苦労している。カンパンや缶詰、乾燥野菜を食っているが、もっと小麦粉を活用出来なかったのだろうか。小麦粉が手に入りにくかったのかな。戦後の食糧難の時には、スイトンにして食べているのに。
 また歩兵の持つ標準となる銃が、一発撃つごとにボルトアクションが必要な、三八式歩兵銃とは情けない。三八式とは明治38年制定ということだ。第二次世界大戦だぜ。他の国は自動小銃だ。ボタン操作で連射か単発かを選択出来る。敵はダダダダ、こちらはガチャンパン、ガチャンパンだ。もっとも自動小銃を持っていても、弾丸を日本軍がいつも補給出来たとは思えない。
 開戦して半年間の破竹の進撃、香港・シンガポール攻略、フィリピン・インドネシア占領に於ける日本軍は実に強かった。制空権を確保出来ていたことが大きい。しかし陸軍はその保有する約30個師団の全てを中国に貼り付けていた。南方では当初1,2個師団しか動かしていない。帝国陸軍に関しては、米英軍に負ける以前に広大な中国大陸で消耗し尽していた。と言える。戦闘では勝っても、中国軍(国民党軍、八路軍)が抵抗を続ける限り、日本に勝ち目は無かったのだ。しかし最強と思えた植民地軍(英・米・仏・蘭)が次々に日本軍に負けるのを見て、アジア諸国の人々が勇気を持ち、戦後独立への機運が高まったのは事実だ。日本が帝国主義国家で、アジアの国々の真の独立を望んでいた訳ではないにしてもだ。またそうした独立闘争に戦後も現地に残って加わった日本の軍人も多い。特にインドネシアでは数千人が残留して、戻ってきたオランダ軍と戦っている。
 負け戦になってからも日本軍の抵抗はすさまじい。見捨てられた戦場ニューギニアでは、戦場がトラック、ラバウルどころかサイパン、フィリピン、硫黄島、沖縄とはるか遠く(本土の近く)に下がっていくなか、何の補給もないまま終戦まで軍隊として戦っていた。100人中2,3人しか生き残らなかったが。ペリリュー島でもすごい粘りを見せた。太平洋戦争の島をめぐる死闘は、主にアメリカの海兵隊が担っていた。海兵隊が血を流して橋頭堡を確保し、海岸が安全になってから陸軍が上陸する。18,9歳の若い兵隊が中心で、マキン・タラワを皮切りに地形が変わるほどの艦砲射撃、空爆のあと、上陸用舟艇に乗って日本軍の立てこもる島に上陸した。日本軍が兵隊に渡していた教本には、「アメリカ兵は弱い。日本軍が銃剣突撃を敢行すれば、悲鳴をあげて逃げ惑う。」と書いてあったがとんでもない。マリーンの兵隊は鉄条網で体を洗う。彼らは戦場で鍛えられ、更に勇敢に戦った。日本兵は南方の島で幾度となくバンザイ突撃を夜間もしくは未明に繰り返したが、鉄条網に阻まれ機銃の十字砲火、間断ない砲撃を浴びせられ米軍の複合陣地の前に屍を積み重ねるのだった。
 この勇敢だが意味の無い突撃と、水際で敵を叩く犠牲の大きい作戦を止め、地下に張り巡らせた蟻の巣のような陣地にこもり、神出鬼没の攻撃を繰り広げた硫黄島と沖縄では、米軍は大いに苦戦しその犠牲の多さに目をむいた。特に硫黄島では死者・戦傷者の数は、米軍が日本軍を上回っている。圧倒的な火力の差、雨水にたよるしかない悪条件、救援・補給の見込みの全くない状況を考えると驚く他はない。指揮官が優秀で、兵がよくその期待に応えた。沖縄では住民を巻き込んで悲惨な戦闘が繰り広げられた。三個師団の内最強と言われた師団を、先に来ると思った台湾に直前になって移動させたのは、痛恨のミスであった。
 米軍では戦場のあまりの過酷さと、本土から飛来するカミカゼ特攻機の攻撃に対する恐怖から、精神に異常をきたす兵隊が続出した。しかし日本兵がこもる地下陣地は、火山性の地熱によって熱せられ、水は無く、米軍はガソリンを注ぎ込んだ上で火炎放射してくる。ところが日本兵は正気を保って戦う。味方の死体に紛れ込み、自分の腹に死んだ戦友の臓物をまぶし、死んだ振りをして敵が近づくのを待つ。ロサンゼルスオリンピックの馬術(当時はオリンピックの花と言われた競技だった。)で優勝した西男爵(バロン西)は、戦車隊長として硫黄島で戦い米軍のシャーマン戦車を乗っ取り、海岸近くの米軍陣地に突入して大暴れをした後に戦死したらしい。あの小さな島で、終戦後一年以上たってから降伏した日本兵がいた。多くは職業軍人ではなく、応しゅうされた市井の人達なのに凄まじい闘志を見せている。硫黄島では僅かな数の捕虜しか出していないが、硫黄島の捕虜だと言うと、米軍の監視兵が敬礼したという。
 ビルマ方面の日本軍もすごい戦いをしている。こちらの敵はアメリカ軍は少なくて、英印軍と重慶でアメリカ人の将軍に訓練された中国軍が中心だ。アウンサン将軍の率いるビルマ国民軍は、日本軍の特務機関の肝いりで発足したが、独立とは名ばかり実際にはイギリスに代わる占領軍と化した日本軍に見切りをつけ、反旗を翻し連合国側についた。これを裏切りというなら、ビルマ人を鉄道建設に徴用し、数十万人を死亡させた日本の方が裏切り行為を行っている。
世に名高いインパール作戦。制空権が無いのに二千m級のアラカン山脈を越えて、インドに攻め込むなど正気の沙汰とは思えない。ひよどり越え作戦、敵の食糧・弾薬を奪えなど気違いの考えることだ。もしやるなら兵でなく自分でやってみるがいい。ビルマの農村から、紙くず同然の軍票と交換で強制的に徴用した五千頭もの農耕馬、牛は山脈を一頭も超えられなかった。兵隊が死力をつくして担ぎあげた山砲で、砲弾を一発撃ち込むと英軍陣地からは百発撃ち返された。英印軍はトゲネズミのような円形陣地をいくつも作り、戦車もそこに入れて無尽蔵の火力を発揮する。円形陣地のドーナツ型の中心に輸送機からパラシュートで物資を次々に投下する。日本軍は信じられない強さを発揮し、ほとんど小銃と手榴弾だけでインパールの北、コヒマを占領しインパールへの補給路を遮断したが、アラカン山脈の東からは米粒一つ送られて来ない。小銃の弾すら数えるほどになった。たまに風でパラシュートが流れ、敵の補給品が味方の手に入る。箱を開けるとバター、チーズ、ビスケット、コンビーフ、缶詰、タバコがぎっしり詰まっていて、日本兵はチャーチル給与と言って命をつないだ。
英印軍は砲撃を飽くことなく繰り返し、一木一草無くなるまで前進しない。この攻撃方法によって日本軍は一気に崩壊しないですんだが、本当は混戦に持ち込みたかったところだ。重火器がなく小銃弾すら残り少ない現状では、銃剣で戦うしかない。英軍の兵士が臆病なのかというと、そんなことは無い。イギリス軍のウィンゲート将軍(余談だがこの人は、アラビアのロレンスの従兄弟だ。)は、ビルマ北部からコマンド部隊を潜入させた。小部隊に分かれてラバに荷を積み、ジャングルの山蛭とマラリア、赤痢に悩まされながら南下した部隊は、日本軍との戦闘を避け、あちこちで鉄道や通信網を破壊した。作戦は数回行われ、補給品は主に輸送機によって投下された。第一回の作戦では数千人の内、半数が戦死、戦病死したが侵入は続行され、その規模は一万人近くに増えていった。ビルマの伝説の神獣の名前を取ってチンディット挺身隊という。日本軍は彼らの神出鬼没の動きに翻弄され消耗を重ねた。
しかし余談だが、英印軍の半ズボン半そでの軍服よりは日本軍の軍靴、脚絆、頭の後ろを覆う帽子の方がジャングル戦には向いている。蛭、蚊に対しての有効性から考えて間違いない。
さて日本兵と言っても一律に強い訳ではない。帝国陸軍の中でも大阪の師団は弱くて、「またも負けたか、第八師団」と揶揄された。ビルマ戦線の日本軍は大ていどの戦線でも凄まじい戦闘力を発揮しているが、補充部隊としてビルマ入りした京都の師団は弱くて、密林ですれ違った歴戦の熊本師団から新品の衣服、靴等を強奪され強制的に交換されている。何しろ何年も補給がないのだ。日本軍と戦うビルマ国民軍もそんな事情は良く分かっていて、「鬼をも殺す熊本師団、犬にも負ける京都師団」とからかっている。だいたい大都市の兵隊が、昔の漁村、農村出身者に体力、気力で負けるのは分からないでもない。
しかしサイパンなどで、正規戦が終わり小規模な夜襲くらいしか出来なくなった頃、少人数で毎晩夜襲を繰り返し、敵の補給品を分捕って持ち帰る兵隊がいた。敵の自動小銃を持ち、アメリカタバコをふかすその連中は関西弁を話し、要領がよく中々やられなかったという。非正規戦になると、都会人の気転が利く長所が発揮されたのだろう。
さてインパール作戦に戻るが、作戦を強引に実施した牟田口司令官は、はるか後方の安全な基地から一歩も出ず、取り巻きの参謀も中々前線に行かない。最前線の師団はあと一歩、インパールを見下ろすコヒマまで占領するが、食糧尽き弾尽き一ヶ月持ちこたえたがついに無断で撤退を始める。牟田口は前進しろ、攻撃しろ、死守しろと後方でわめくだけで、前線でドシャ降りの雨に濡れ飢えに苛まれる兵隊のことなど全く分かっていない。三つの師団の師団長三人ともに命令を拒否し撤退した。退却路は日本兵の白骨街道と化した。
昭和の日本軍には、このように人間として欠陥のある指導者が多くいて、戦闘をより悲惨なものにした。フィリピンで部下を置き去りにして、飛行機で台湾に逃げた司令官がいた。普通上がこうなら下もやり返すところだが、日本兵は戦友のために、「牟田口の奴、殺してやる。」と言いつつ戦いを止めない。あと軍隊内の苛め、制裁は日本軍だけではないが、特に酷くて関東軍の石原莞爾中将は、イジメが日本軍を滅ぼす、と憂いた。
ビルマ戦線の日本軍は一気に崩壊していても不思議ではなかったが、英印軍の慎重な戦術、雨季のドロ沼化、驚異的な粘りによって戦線を保っていた。兵数8対1、火力30対1くらいで食糧に事欠く中で、日本兵は敵に銃を向けた姿勢で死んでいった。そこへ満を持して重慶の新編中国軍が参戦した。
元々ビルマを押さえた目的は、重慶にいる中国国民党軍に対する陸の補給路を断つことだった。この中国軍は、アメリカ式の装備を持ち、何年も訓練を重ね実戦を待ちあぐねていた。北方からの大軍団の攻勢を受け、北方の日本軍陣地群は一気に全滅の危機に見舞われる。ミートキーナ(現地名メッチーナ)の守備隊は包囲されるが、これの救援に向かう日本軍は当初、少将に一個小隊ほどの兵力をつけて派遣するのがやっとだった。この少将は最後に死守せよとの命令を、自身が自決することによって形式的に守り、部下を退避させた。
ミートキーナの更に北方、中国国境の陣地、拉孟(ラモー)と騰越(トーエツ)は中国軍に十重二十重に囲まれ。蟻の這い出る隙間もない。兵力差は1:36、1:25である。拉孟も騰越もミートキーナ救援等で、精鋭部隊を部隊長と共に摘出され、拉孟では残った守備隊1,300名(内300名は傷病兵)に対し、中国軍は48,000名、騰越では2,000名の守備隊に49,600名の中国軍が襲い掛かった。共に約100日間防衛を続け、拉孟では戦死4,000負傷3,774、騰越では戦死9,168、負傷10,200名の損害を与えた。この中国軍の犠牲の多さは、彼らが勇敢に突撃を繰り返した事を示すが、戦車と爆撃機があればここまでの犠牲は出さなかったろう。中国軍には十代の少年兵が多かった。両陣地が大軍を引きつけ時を稼いだおかげで、ミートキーナの守備隊の一部(10人に1人ほどだが)を救出し、守備を固め全線で崩壊する危機を防ぐことが出来た。拉孟守備隊では陥落の直前に、中尉他の伝令が包囲を突破して司令部に報告したため、兵隊叩き上げの金光工兵少佐の元に団結して、最後まで果敢に戦った様子が分かる。騰越では身動きの出来ない重傷者三名が収容された他、一人も残らず戦死した。拉孟では兵は全員戦死し、従軍慰安婦の内日本人15名は自決し5名の韓国人は投降した。
 守備隊は陣地がしだいに縮小してゆく中、片手片目になった兵隊までが幽鬼の如く最後まで戦い続けた。夜になると陣地から這い出し敵の銃、弾丸、手りゅう弾を拾って戦った。日本軍航空隊は、一式戦隼などで両陣地に手榴弾等を空中より繰り返し投下したが、陣地が日に日に小さくなり投下した物資が敵の手に渡ることが多くなった。また撃墜される機も出てきた。パイロットは出撃したがったが、守備隊より無線が入る。「勇敢に補給をしてくれるのは感謝に耐えないが、これ以上航空機を危険に晒すのは忍びないので、飛来するのは止めにしていただきたい。」
 両陣地を多大な損害を出して攻め落とした中国軍の総司令官、蒋介石は部下に訓示を出した。「ミートキーナ、拉孟、騰越を死守している日本軍人精神は、東洋民族の誇りであることを学び、これを模範として我が国軍の名誉を失墜させないことを望む。」有名な蒋介石の逆感状である。感状とは殊勲をあげた部隊を表彰する司令部からのお墨付きだが、美辞麗句を書き連ねた血の通っていない文である。この勇者達には、敵からの偽りのない賛辞が相応しい。
 蒋介石という人物は毀誉褒貶の多い人物で、圧倒的に優秀な装備を持ちながら国共内戦で共産党軍に負けたこと、台湾進駐直後に大圧制を行ってしまい、本省人(元からの台湾住民)の恨みを買ったこと、この二つを取ってもどうかと思うが、日本人として自分は彼に感謝している。終戦間際に条約を破って火事場泥棒のように満州、北辺の島を侵し日本兵の捕虜をシベリアに連れ去ったソビエト軍に対し、十年以上も国土を侵略して家を焼き家族を殺したかもしれない日本軍の捕虜に対して、「恨みに対して恩をもって報いよ。」として一部の医療チームを除き無条件で日本に帰還させてくれた。
 この蒋介石の国民党軍(国府軍)が、金門島で対岸のアモイにいる中共軍と砲弾を撃ち合い、中共軍がついに台湾開放と称して金門島に続々と上陸してきた時、日本人の旧軍人(確か元少将)が国府軍の顧問として軍を指揮した。侵攻した中共軍が内陸に向かうと、海岸に停泊していた舟艇群を焼き払い、袋のネズミとなった中共上陸軍を包囲殲滅した。文字通り中共軍は全滅した。国府軍にとっては久方ぶりの大勝利で、戦意は一気に高揚しついに台湾防衛を果たした。蒋介石を救った日本の旧軍人がいて良かった。
 さてここまで陸軍を中心に話してきたが、開戦当初の真珠湾攻撃、あの時何故無防備の石油タンクを攻撃しなかったのか。攻撃目標の第一位は敵空母、これは良い。何しろ太平洋にアメリカの正規空母は、エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウンの三隻しかいなかったのだ。日本の六隻と相打ちになったとしても米軍ゼロ、日本軍三隻となり、広大な太平洋は日本の海になっていた。当時の航空機の性能とパイロットの技量をもってしたら、日本の空母が三隻沈められたとは考えにくい。真珠湾では取り逃がしたが、帝国海軍はもっと早く積極的に空母決戦を挑むべきだった。インド洋の作戦などは後回しで良かった。
 またよく言われることだが、真珠湾では一度空母に戻った第一次と第二次攻撃隊の残存機を併せて、第三次攻撃を行うべきだった。空母〝飛龍〟艦長、山口多聞は、再攻撃の準備完了、と報告し航空隊もこぞって進言したのにも関わらず、南雲司令は採用しなかった。もっとも奇襲に成功した割には米軍の地上からの反撃は激しく、帰還した攻撃機の中に損傷が激しくて次の出撃が出来ないものが予想外に多かったのは事実だ。だが第三次攻撃隊が出撃していたら、膨大な石油タンク群が無傷で残っていたことに気が付いた可能性は高い。何しろ港内、基地上空は炎上する戦艦、航空基地、海上に流れ出た重油に引火した煙が充満して視界が利かなくなっていたのだから。陸上の獲物に目が向くのは自然だ。
 元々第二目標は戦艦ではなく、石油タンクにすべきだった。この石油の備蓄を失えば、米艦隊は向こう数ヶ月間作戦行動が出来なくなっていた。数発の250kgs爆弾の投下でタンクは次々に延焼爆発したことだろう。大量の石油の備蓄を、米本土から前線基地ハワイに運びなおすのは容易なことではない。タンクを再設置するのにも時間がかかる。そもそも日本は石油が断たれるのが恐ろしくて戦争に踏み切ったのに。旧式戦艦など数隻沈めるよりも遥かに大きな損害だった。現にこの時沈めた戦艦はその後サルベージされて戦線復帰したものもあるし、討ちもらした戦艦も大した活躍はしていない。戦艦対戦艦の決戦など無かったのだ。日本軍は真珠湾で使える特殊な浅深度の魚雷まで開発、使用したのに、近代戦争に於いて最も重要な燃料を見落とすとは、お粗末過ぎる。戦略眼を持った軍人は一人もいなかったのか。
 ドイツを昼夜爆撃する英米軍は、攻撃目標としてボールベアリングの工場を重点的に狙った。航空機、戦車、潜水艦の組み立て工場は防備が厚い。防空戦闘機隊の重点防備の対象だし、ドイツの誇る88mm高射砲がびっしりと待ち構えている。ベアリング工場は当初それほどの防御がなされていなかった。ところがベアリングが無いと、戦車、航空機、大砲、機関銃全ての生産が止まる。これが戦略である。日本軍にはそれが欠け、暗号は解読され作戦が筒抜けだった。戦争中は敵性語を禁ずるとして、外来語を変な日本語に置き換えた。コップを水飲みと言って、それで戦争に勝てるのか。一方米軍は大勢の仕官、兵に日本語を速成で学習させた。その時の日本語の学習法が、今でも語学教育方式の一つとして残っている。
 しかし日本軍も打つ手もなく終戦を迎えた訳ではない。海底空母イ401、大型潜水艦に航空機〝晴嵐〟三機を搭載したもの、は米軍の艦隊基地ウルシー環礁の沖で、僚艦のイ400を待っていた。8月15日のことである。イ400は結局消息を絶ったが、会合していたら6機の晴嵐によるレーダーで補足した途端の特攻攻撃によって、ウルシー環礁は火の海と化していた。8月16日に中止命令が出てイ401は帰還した。
 沖縄では双発爆撃機に兵を乗せ、敵占領下の空港に強行着陸する〝義烈空挺隊〟が出撃した。12機中4機は引き返し、7機まで撃墜されたが1機の着陸に成功した。その爆撃機から飛び出した空挺兵が空港の中で暴れまわり、敵機26機を破壊した。またB29の出撃基地となっているサイパン、テニアンの基地に空挺部隊が一式陸攻30機で着陸して飛び出し、駐機しているB29を片端から破壊する作戦がたてられた。一度作戦のために一式陸攻を集めたが爆撃で地上撃破されたため、もう一度集めなおし8月17日か18日に決行する予定だった。空挺隊とはパラシュート降下兵で、開戦直後に数回活躍しただけのエリート部隊だ。日本軍としては珍しく国産の短機関銃を装備し、トイレの詰まりを直すゴムの半球のような吸着具を付けた棒爆雷を持っていた。このゴムをB29の翼に押し付けて吸着し、紐を引くと起爆装置が働き、数秒後に上方に向かって爆薬が炸裂する。短時間に多くのB29を破壊する工夫が成されていた。同時に高性能爆撃機、銀河36機による(燃料は片道でギリギリだった。)銃爆撃を行う。自分が子供の時に自民党政権で、園田直という外相がいた。自民党は嫌いだが、この人物には好感が持てた。彼は空挺隊の大尉で、その作戦に参加する隊長の一人だった。
 九州飛行機にて速成で開発されていた局地戦闘機〝震電〟は試作が完了していた。プロペラが座席の後ろにあり、時速700kmを超え30ミリ機関砲4門を機首に揃えた震電が迎撃に舞い上がっていたら、B29はバタバタと撃墜されていた可能性がある。
 いずれにしてもあの大戦が終わって70年が過ぎた。今の日本人は当時の日本兵とはまるで別人種のように違う。自衛隊員の中には昆虫が嫌いと、セミから逃げ回る奴がいる。もし当時の日本人に会いたければ、ペルーなどに行って日系移民の三世、四世に会うと良いかもしれない。但し彼は日本語が分からない可能性が高い。平和は良いが、誇りを失ってはいけない。と思うのだが---
 加害者としての日本を忘れてはいけない、とは思う。戦争に限ってみても、世に言う南京の大虐殺、シンガポール占領直後の華人の大量殺害、中国、朝鮮の成人男性を労工狩りと称して日本に強制連行し、囚人の如く扱ったこと。看護婦の募集とだまして戦地に連れて行き慰安婦にされた朝鮮の少女。殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くせ、所謂三光作戦。戦争は恨みを千年に残す。戦争捕虜の取り扱いもしかり。旧満州での捕虜の人体実験、バターン死の行進、泰緬鉄道建設での英軍捕虜の犠牲の多さ。逆に敗戦後捕虜となった日本兵を合法的に見えて手ひどく扱った英軍。報復の連鎖は止まない。
 太平洋戦争の戦場は広い。真珠湾、シドニー、マダガスカル島で湾に侵入した特殊潜航艇の乗組員達、マダガスカルでは英戦艦を沈めている。ドイツとの連絡のため数ヶ月をかけ、アフリカを回ってドイツ占領下のフランスまで行き後一歩、湾の入り口で連合国の航空機に沈められたイ号潜水艦の乗組員。空母を撃沈するなど、赫々たる戦果をあげながら不徹底な使われ方をし、最後にはほとんどが沈められた潜水艦の乗組員。太平洋の孤島で北辺のアッツ島で玉砕した兵士たち。名も無く戦史にも残らず、太平洋に沈んでいった数多くの商船の乗組員たち。磨り減るような使い方をされ、激戦の末に海に消えていった駆逐艦の乗組員。8月15日を過ぎてから侵攻してきたソビエト軍と激戦を交えた樺太、占守島の守備隊。ラバウルの航空隊。新型機の開発のため事故死した、多くのテストパイロット。ニューギニア、ペリリュー、ガダルカナル、フィリピン、サイパン、硫黄島、沖縄、ビルマ、中国。軍に見捨てられた満蒙開拓団。そして特別攻撃隊、沖縄の菊水作戦で戦死した3,000名の特攻機に乗った若者、特攻機の進路を切り開くための制空隊の戦闘機パイロット、桜花とそれを運んだ一式陸攻、回天、震洋。特攻を拒絶して通常攻撃を続けた芙蓉部隊。捷号作戦で囮となって沈んで行った西村艦隊、志摩艦隊と小沢機動艦隊、戦艦武蔵。四隻の高速戦艦。ニューギニアで前線の友軍に米を届ける途中、背中に負う食糧には手をつけずに餓死した高砂義勇兵。米軍の非情な焼夷弾爆撃で焼け死んだ幾十万の人々、そして二発の原爆。天皇の為などではなく、戦友、家族、誇りの為に死んでいった幾多の兵士、民間人。海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍。会いたい人がいたでしょう。食べたいものがあったでしょう。言いたいことがたくさんあるでしょう。戦争の時代を生きるのはつらいね。しかしかくも激しく勇敢に戦った軍は歴史の上でも珍しい。日本は70年平和を通し、直接戦争はしていません。どうか安らかにお眠り下さい。私たちはあなた方を誇りに思います。