旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

植村直巳さんに会った。

2015年09月11日 18時25分04秒 | エッセイ
植村直巳さんに会った。

 冒険家、植村直巳。彼の本は全部読んだ。彼がマッキンレーで遭難死する以前、特に北極圏の犬ぞり単独行の時は、マスコミがこぞって採り上げ一躍国民的ヒーローになっていた。そんな彼が未だそれほど有名では無かったころ、一度会ったことがある。
 その当時自分は25-6歳で、百貨店を廻って宝石を売り歩いていた。催事と称して年に1,2回、売り場の社員と一緒に外出して社員の顧客(身内とか親戚も多い。)を訪ねる。社員は「また催事か、もう売る所が無いよ。」と言いたいだろうが、デパート経営者としては本業以外で売り上げが上がるなら大歓迎。すると自分らセールスマンは敬遠されるかと思いきや、物珍しさもあって案外人気者になったりする。その時は仙台で、今は閉店したが頭に三が付く老舗デパートだった。自分は外国人の若者の買い物を手伝ったりして、売り場の人達と仲良くやっていた。
 打ち合わせを兼ねて店内を歩いていると、片隅で何やら催しものをやっている。コーナー入口の看板も見ずに入っていくと、何?時代がかった大きなソリやライフル銃、白熊の毛皮、パネルにした写真や説明文が通路になったコーナーの一面に展示されていて、デパートらしからぬ空間を作っている。しかし平日の午前中、誰も見ている人はいない。北極探検?植村直巳?その時は植村さんの探検が持てはやされる前で、自分は彼の事を名前もよく知らなかった。パネルを見ていると、顔色がやけに黒い小男が近づいて来る。スーツを着ているが、まるで借り物競争のように似合わない。何んと声を掛けられたのか覚えていないが、自分は慌てて口の中で生返事をして背を向けた。そう、その人が植村氏本人だったとはずっと後になってから気づいた。
 そうとは知らず、変な人に声を掛けられた時の反応を示してしまったのだ。あの色の黒さは尋常じゃあなかったし(雪焼け?凍傷?)、印象としては例えは悪いが、浮浪者がいやいや声を掛けてきたようだった。植村さんご本人も、こんな所で着慣れないスーツを着て、人の目に晒されるのは多分イヤだったでしょう。けれどもあの時の自分の反応は無かったな。植村さんとしては、わざわざ見に来てくれたんだから、自分の探検に興味があるに違いない。ちょっと話しをしてあげようか、と思ったんだろうな。そうとは知らない自分は逃げてしまった。植村さん傷ついたな、きっと。
 その後植村氏の本を一冊一冊読むにつけ、あの最悪の出会いを思い出した。別の時、別の場所で出会っていたなら違っただろうに。もう修正の可能性すら無いだけに、本当に残念。

ゆうえんちの話

2015年09月01日 19時07分05秒 | エッセイ
ゆうえんちの話

 三十代後半で転職をし、ひょんなことから遊園地とその乗り物の商売を始めた。面白かったが、その会社は今は無い。自分は貿易畑なので主に海外への各種売り込み、或いはライドの国内設置関連の仕事だった。入社して早々アメリカのジェットコースター(こう呼ぶのは日本だけ、英語ではローラーコースター)の専門誌の取材があり、東日本の主な遊園地を廻ってコースターに乗ることになった。太った(推定120kgs)編集長と二人で2.3日遊園地を廻って乗りまくった。
 アメリカにはローラーコースターのコアな大人のファンが多く、と言っても木製のコースターが人気なんだが、こうした雑誌が数誌発行されている。もっともこの月間誌は、編集長と奥さんの二人がメインで作っている。今回は頑張って海外特集という訳だ。当時自分がいた会社が造ったコースターを取材の半分以上に組み込んで予定をたてた。もちろんその雑誌では思い切り持ち上げてもらう。その手の雑誌はアメリカの遊園地関係者も見ているから、その特集号を持っていけば、北米の遊園地での商売がやりやすくなる。実際に数年後にラスベガスのホテルと大手遊園地で、我々の会社のアメリカ事務所がコースターの受注に成功した。数億から十数億の商売だ。
 これ、前置きが長過ぎやしないかい。その時入社したての自分は、コースターなんてほんの子供の時以来だったんだ。最初のコースターは衝撃だった。このコースター、名前は確か〝ウルトラツイスター〟だったと思う。遠い昔に後楽園に設置されていたものだ。良いライドだが、複雑な構造なため故障が絶えなかったそうだ。そういう乗り物は、人気があっても経営者からは嫌われる。
 一部のテーマパークを除き、平日昼間の遊園地はどこも閑散としている。幼稚園の遠足はいるがコースターには乗らない。そのため直ぐに乗れたのだが、ちょっちょっと待って、心の準備が未だだって。このコースターは短いが優れもので、我がコースターベスト3に入る。デブ編集長と並んで座席につき、スペースシャトル用かと思うようなごっついハーネスをつけ、直ぐに発進。いきなり直角、90度で真上にガチガチ上がっていく。何するんだ。時間は正午近くで、体は重力で座席に押し付けられ、顔の真向かいに太陽があって眩しい。直ぐに天辺に到達し、やっと水平になったと思った途端に恐怖の85度の急降下、と言うより落下のイメージだ。これはすごい。こんな角度で降下するコースターは、その当時他には無かった。しかしキxタxが縮み上がる急降下はアッと言う間に終わり、スムーズにレールは続きスピードを上げて、今度は心臓を中心にぐるりと一回転、一瞬停止したかと思うとゆっくり後退しながら、やはり体の中心である心臓を核にしてぐるり後ろ向きで一回転。気がつくとホームに戻っていて終了。このぐるり、又ぐるりは今まで味わったことの無い体感で、何とも言えない爽快感、だが急降下を始めてからホームに戻るまでは一分位しかたっていないんじゃないかな。実に不思議な感覚で、もう一度味わいたくなるライドであったが、後にも先にもついにその一回しか乗るチャンスはなかった。
 そのコースターを皮切りに、色々なコースターに乗った。当時出来たばかりの、富士急ハイランドの〝FUJIYAMA〟(一時間以上並んで乗った。最高地点に登って行く間が、景色はよいが恐い。走り出したら大丈夫。)、立ち乗りコースター、宙返り2連続、足ブラブラのコースター(これは滅茶苦茶に振り回されて何が何だか分からなくなる。気持ちの良いものではない。)などである。やたらに横揺れして乗り心地の悪いもの、さして有名ではないがコースが長くて気持ちの良いもの、出来の良し悪しが自ずと分かる。これは男にしか分からないと思うが、一たん沈んでから軽くフッと浮く時に下腹部にウッという快感を一瞬覚える。いいもんだ。
 巻き上げ式のコースターでは、最初の大降下が一番の山場となり、後は重力の法則通り位置(高さ)エネルギーは徐々に低下していく(引力に負ける。)のだから、中盤、後半をどうまとめて客を飽きさせないか、設計者の腕の見せ所だ。まあ恐さだけで言えば、タワーの落下ものや、カーペット、大海賊船といったようなライドの方が恐いかもね。ただそれらは動きが単調で意外性に欠ける。コースターの風を切る爽快感はない。
 子供の頃、始めて乗ったコースターはおそらく横浜駅近くの反町公園にあった小さなものだ。遊園地ではない。よくあんな公園に造ったものだ。コースターの他には、トランポリンと釣堀くらいしか無かった。これを読んであーっと言って思い出した人がいたら、親近感をいだくね。一緒にお茶しませんか?それでその相当にちゃっちいコースターで忘れられない思い出は、隣に座った白人のおじさんが、恐怖に引きつった顔で手すりにしがみ付いて下を向き、天辺から落ち始めるとギャーと悲鳴を上げ続けた事である。そんなに恐いの?ならなんで乗るの?
 子供の頃は、遊園地よりも手軽に行けるデパートの屋上の方が面白かった。デパ地下ならぬデパ上か。昭和三十年代の後半から四十年代にかけて、デパートの大食堂はかなり魅力的だったし、屋上の賑わいはすごかったんだ。催しが新聞の広告で出ていた。ターゲットは親子連れなので、スリルよりはファンタジー、かなり大型のライドが立体的に設置されたミニ遊園地化していた。またそれだけではなくて、ミニ動物園でもあった。屋上にプールまで作って、買った餌(アジとか)を手に持つと、アシカが飛び上がってパクリとか、ライオンの赤ちゃんが触れる、とか工夫を凝らしてライバル百貨店と競合していた。
 遊園地と言えば、遠足とかを別にすれば何と言っても夏の多摩川園(とっくに廃園になった。)の大お化け屋敷。夏になるとでっかい広告が新聞の折込で届く。すると何故か我が家は、おっ行かなきゃとなる。えっまた今年も行くの?恐怖の日々がここから始まる。多摩川園の特設お化け屋敷は半端でなく恐いんだ。夜の遊園地は照明がキラキラして美しく、人が集まりこれから何かが始まりそうなワクワク感に溢れている。これは楽しくて大好きなのだが、問題はお化け屋敷だ。
 ただのお化け屋敷ではない。体育館を2つ3つ併せたような巨大空間を使う、夏限定の特設大お化け屋敷なんだ。入る前からすでに滅茶苦茶恐かったが、何年も行った割には中の事はよく覚えていない。父親の背中にしがみつき、目をギュっと閉じていたのだ。一度だけ片目を開けた時、大仏ほどもある巨大な仁王のような張りぼてがライトアップされているのが目に入り、慌てて目を閉じた。スリルライドでもそうだが、男の方が恐怖感が強いように思う。女はキャーキャー騒ぐ割にはケロっとしている。これは想像力の差だと思いたい。
 この多摩川園では大学の時、合コンで知り合った女の子とデートをしたが、閑散としていて何だか貸切状態だった。それはそれで寂しくて盛り上がらない。その後閉園になったが、最終日を前にして大変な人出で、これなら続けられるんじゃないかと思ったほどだったそうだ。遊園地には人それぞれの思い出が詰まっているので、思い入れが深い所だったんだね。けれどもこれからの子供たちには、その思い入れは継承しないんじゃないかな。
 無くなってしまった遊園地の思い出をあと二つ残しておきたい。横浜のドリームランド、ここの〝ジャングルクルーズ〟は、出来た当時は実に画期的なものだった。洗面器を引っくり返したような帽子に半そで半ズボン、全てカーキ色の正統な探検服を着た兄ちゃんが、ユーモアたっぷりに船に乗り合わせたお客さんを誘導する。船は水の中のレールに従って同じ道をたどっているんだろうが、水路は曲がりくねり、人口の草木で巧みに視線を遮っている。動物たちや土人(差別用語じゃないのか)が次々に現れ、最後に水の中からカバ(?)がザバっと出てくる所がクライマックス。20年後くらいに東京ディズニーランドが出来るまで、このようにお客さんと直にやり取りをするアトラクションは他に無かった。特にお母さんたちから大好評だった。
 しかし時は流れ、最後の頃にここの潜水艦のアトラクションに乗った時は、海に模した池の水はドロドロに濁っていて1m先しか見えず、窓には藻がこびりついていて緑のすりガラスとなり、水中の魚は極く近くのものだけが、白けた張りぼてとなってヌっと現れた。まるで水中お化け屋敷と化していた。痛々しくて見ていられない。従業員の方は高齢化していた。
 そして向ヶ丘遊園地、ここも歴史が長かったから、自身の子供時代と親になってから子供を連れて来た人も多かったことだろう。ここの目玉はボート型のライドに乗って、最後にちょっとした滝を滑り落ちる〝ウォータースライダー〟だ。これは楽しい。全体的に小さな子供向けの遊園地で、隣接して立派なバラ園があった。晴れた日、お弁当を持って一日過ごすのが良いね。園は高台にあり、いつも草花がきれいだった。自分はここで一ヶ月間研修をした。宇宙船の形をした乗り物に二人で座り、回転しながらアップダウンする(赤いレバーによって自分で操作してアップダウン出来る。)アトラクションのオペレーターとして過ごしたのだ。混んできて連続して運転すると、空調のタンクがパワーダウンしてライドが高く上がらなくなる。全くしょーもないライドだったが、乗った人はそんなことにはお構いなく喜んでいたので、こちらも楽しかった。そういえば隣のダークライド、も車両が詰まってよく故障していたな。設備に金をかけないから、だましだましの営業になっちまう。それはちょうど桜が咲き、やがて散り葉桜になっていく時期だった。
 ここにも遊園地をこよなく愛するオペレーターが大勢働いていた。何年も支給されないのでボロボロになった制服のジャンパーを繕って着ていたバイト長、今は何をしているんだろう。園の食堂の裏手は竹やぶで、春は竹の子が取れるので、竹の子ご飯の定食を出していたけど、あれは美味しかった。ここも閉園が決まると、今まで何んで来てくれなかったの?という程の来客で、最後の一ヶ月、一週間は応援を呼ぶほど大忙しだったそうだ。
 遊園地といえば、終戦後いち早く多摩川園が開園した時は、押し寄せるお客さんで悲鳴を上げたそうだ。そうやって平和を噛み締めていたんだね。親は子供が喜んでいる顔を見れば、それだけで幸せになる。さてその頃できたアトラクションの中に、〝ビックリハウス〟がある。変な顔を模った小屋みたいなアトラクションだ。あーあれか、と思い当たる人もいるんじゃないかな。昔からの大きな遊園地には大てい在るからね。
 ブランコみたいな座席に座ると、それが部屋の中で右に左にゆれ動く。その揺れが大きくなってついに360度、というのは真っ赤な嘘。揺れと同調させて実は部屋(壁、天井)の方を回転させているのだが、うまく出来ていて自分が回っているように錯覚する。上の子(男)が小さい時、一人に行くといってこのビックリハウスに入ったが、出てきたら顔面蒼白で足がフラついていたのが可笑しかった。
遊園地では始業前に試運転を行い、異常の有無を確認するが、このビックリハウスの試運転を二回連続して行うと慣れたオペレーターでもきつい。三連続したら確実に気分が悪くなる。人間の知覚、修正の能力の限界に達するのだ。爽快感はゼロだが実によく出来たアトラクションだ。
あと観覧車のこと、遊園地での日々、様々な子供・お客さん、施設側の人々(オペレーター、受付、設備、園芸、社員、園長)、催事、あの事件やこの出来事、話し出したらきりが無い。最後に小さなエピソードを挟んで筆を置くことにする。
聴覚、音の3Dホラーのアトラクションがあったんだ。西洋館風の薄暗い応接間で、大きなテーブルを挟んで客が向かい合わせに座り、大きなヘッドホンを耳に当てる。そこから出てくる音が遠くに近くに、右から左に気味悪く流れる。部屋の隅にある西洋のよろいが背後を横切ったり、ハサミのシャキンという音が耳元で聞こえ、子供の幽霊のケタタマシイ笑い声が頭の直ぐ上で湧き上がる。まあ十分程のアトラクションなんだが、客が混み合ってくるとメイド服を着たオペレーターが、次の回を待っているお客さん(Max8人位)に物語の前振りを行う。一日中繰り返し行うので、オペレーターもいい加減疲れて事務的にやりがちだ。ところが或る日、そのアトラクションのある一角がキャーキャーと異様に盛り上がっていた。
 園では自前のエンターテイナーを持っていた。ジャグリングや寸劇、照明、音響、雑務を担当するが長期のアルバイトだ。その研修で来ていた女の子が、そのメイド服を着けてボソボソと前振りを行っていた。その演技があまりに真に迫っていて、セリフだけでお客さんはゾクゾクして笑いながら悲鳴をあげていたんだ。こりゃーすごい、プロだ。以前劇団にいた女性だった。割と地味なアトラクションが恐怖の坩堝と化していた。
 時給850円かそこらのバイトの子に、通常そこまでのレベルを求めるわけにはいかないが、人間って面白いな、こんなことも出来るんだってその時思った。