前回は、松岡静雄氏の言語学者としての見識が突出していることをお伝えしたので、今回は、『ミクロネシア民族誌』(松岡静雄:著、岩波書店:1943年刊)という本の巻末に載っている彼の経歴をご紹介しましょう。
なお、この本は、1927年に出版されたものを松岡氏の没後に再刻出版したものです。
それによると、彼は、明治11年(西暦1878年)に松岡操氏の七男として兵庫県に誕生したのですが、松岡家は、代々医学と儒学を専門とする家系で、三男の井上通泰氏は眼科医にして歌人であり、しかも柔道七段の文武両道で、六男の柳田国男氏は文化勲章を受章した民俗学者、八男の松岡映丘氏は日本画家という、有名な秀才ぞろいの一家だったそうです。
【松岡静雄氏の兄弟】
静雄氏もやはり幼少期から聡明で、5歳にして史記(司馬遷が編纂した歴史書)を白文(オリジナルの漢文)で読むことができる神童だったため、小学校には行かずに独学で漢学を修めたそうです。
松岡家は、明治19年に茨城県に、明治22年には千葉県に引っ越して、静雄氏は13歳のときに東京の私立中学校に入学したのですが、授業のレベルが低すぎて2か月で退学し、京都に移住して武芸を修めるとともに、自ら漢学塾を開いて謝礼を得たり、古書を筆写する仕事で生計を立てたそうです。
その後、明治27年に日清戦争が起こり、海軍兵学校が生徒の臨時募集を行なったので、静雄氏はこれに応募して合格し、17歳で入学、19歳で首席で卒業した後、海軍に入隊して大佐まで昇進しました。
しかし、性格が豪放で酒量が過ぎたことから病気になり、本人にも思うところがあって、大正7年・40歳頃には海軍を退いたようです。
引退後は、欧州およびインド南洋関係の好転をはかるため、日蘭(らん=オランダ)通交調査会を起こして、当時インドネシアを植民地として支配していたオランダとの親善に尽くし、『蘭和辞典』(大正10年刊)を出版するなどしてオランダ女王から勲章を授与されたそうです。
しかし、大正13年・46歳のときに脳溢血で倒れ、一切の事業から身を引いて療養することとなり、その後は心機一転して学問に打ち込み、言語学者・民族学者として昭和11年に58歳で亡くなるまで、11年間に40冊あまりの本を書き上げたそうです。
彼の代表作は、『紀記論究』(全14巻)や『万葉集論究』(全3巻)、『日本古語大辞典』などで、これらはどれも普通の学者なら一生をかけて取り組まなければ完成しないものだと思われますが、それを短期間のうちに次々と仕上げていったことは驚嘆に値します。
また、病床にあっても心境はますます円熟して人間としての向上が目ざましく、人には誠実に接し、特に地元の百姓や漁師が来れば喜んで時間をさき、学生たちを教え導くことをこよなく楽しんだそうです。
そして、晩年には自分の死期を悟り、亡くなる三日前には子どもたちのために写真撮影を命じ、死の直前には、あと数分の命であることを家人に告げて静かに息を引き取ったそうですから、彼の人生は最初から最後まで凡人をはるかに超越した高みにあったようです。
次回からは、再び「古代の日本語」をご紹介していきます。
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