明治42年10月26日、伊藤博文は暗殺された。ここではだれが、なんのために暗殺したかは問わないが、ひょっとしたら宗方小太郎日記にはそのヒントが隠されているやもしれない。安重根などにかまけているよりはその方が近道かもしれない。その日、宗方小太郎は淡々と日記をしたためた。いつも通りの日常を記すかのように。
『
十月二十六日
風雪,寒気頓に加ふ。
午前七時半結束。雪を踏で猟区に向ふ。適々井深の旧知支那の猟 夫王宝廷なる者馬に騎して来会,長七尺許の偉丈夫なり。湖上風大にして舟進まず。正午屯に帰りて 中食し,「トロ」 に乗じて奉天に帰り車站に小憩,馬車,鉄道に乗じて時報館の寓に帰る。時四時な り。三谷の信至る。
向野堅一来訪。猟装未だ脱せざるに報有り,曰く,昨日此地を発せる伊藤侯爵今 朝十時吟爾賓停車場に達し汽車を下り歓迎者の前を通過の際,洋装の一韓国人群衆中より五,六歩を 隔て伊藤公の右腹部を矩銃にて射撃し三弾を命中せしめて之を殪せり。随行の田中満鉄理事,森槐南,川上総領事傷を被けりと云ふ。
午後六時同文書院出身者,其他知人の招宴に奉天倶楽部に赴く。 余の招待と速水の送別とを兼る者なり。来会者三十八人。山田純,原口等斡旋尽力せり。九時半辞 帰。
是夜十二時四十分伊藤公の遺骸奉天駅を過ぎて南下せり。総督巡撫以下清国官憲,並に滞留中の 英国キッチナー元帥も亦邦人の在留者一同と之を奉天駅に送迎せり。
海軍に伊藤公の変を報ず。 満鉄附属地以外奉天の居留民は二千三百人にして戸数六百戸有り。奉天に於ける清国人口は十七万 にして戸数三万なりと云ふ。』
ウィキペディアに宗方のことが簡単に書いてある。それによると、1864~1923。熊本出身のジャーナリスト、大陸浪人、だそうである。佐々友房の濟々黌に学び、1893年3月大日本帝国海軍の嘱託となる。1898年11月に東亜同文会設立に参画。1907年時報(上海の新聞)の発行人となっている。
なお、上記日記中にある向野堅一は1968~1931。福岡県直方市出身の軍事探偵とwikiには書かれている。
その経歴から軍事探偵や東亜同文会関係者との交流は頷けようが、なぜにイギリスのキッチナー元帥が出てくるのか、たまたまいただけとは到底思えないが、その辺を含めて推理された方にはぜひその内容をご教授願いたいものである。(文責:吉田)