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閑話休題といったところですが。
私の父の戦友の方か、あるいはその子孫の方など見てくれたら、などと妄想しました。昭和13年2月14日から同年8月15日までの父の従軍手帳を時々見ております。錦州駅での記念スタンプ、長辛店駅での記念スタンプもはっきりと押されているのがわかります。2月23日には前年の7月に起きた芦溝橋事件の現場を詳しく見学し、警備隊の伍長に説明を受けたことも記されております。日記に「盧溝橋及永定河附近ノ戦跡見学ニ行ク・・・・此ノ附近ハ雨少ナク風多キタメ砂埃多ク一時三十分帰ル(長辛店駅)」と記されています。芦溝橋と下を流れる永定河、及び同周辺の地図を手書きもしております。父はきちんとした几帳面な性格でしたので、その地図もきれいなものです。4月の20日水曜日快晴と記され、済南皇軍休憩所の銘が入ったスタンプもありますね。まだまだ全部読みこなしているわけではありませんが、27歳の時の父の若々しかったであろう、もちろん私は生まれてはいませんが、景色が浮かんでくるような気がしています。父の戦友にかかわる方がいたらぜひあってお話を聞いてみたいな…と妄想した次第です。
そのころ白朗は38歳のはず。上海に行く1年くらい前でしょうか。(文責吉田)
奄美群島の与論島が原籍だった父は、鹿児島の45連隊に甲種合格で現役入隊。武漢・三鎮作戦に従軍。
亀井文夫監督の「戦ふ兵隊」に登場する前線指揮所の小隊長が、直属の上司だったと言っていました。
父は残念ながら、その映画に登場しませんでしたが、生前、ベトナム戦争は中国の戦場と同じだと言ったことが強く記憶に残っています。