80年前我が家は江戸川松川に住んでいました。
昭和20年3月9日から10日にかけての大空襲は怖ろしかったです。
家の縁の下の防空壕にいた私は起こされて寝ぼけ眼で外を見たら
大きな火の塊が飛んでいました。父と姉が火を消していましたが
もう駄目だ逃げようと父はリヤカーに摘んだ荷物を、次姉は自転車に
荷物を載せました、私は前日に防空壕に入るとき足を傷めてしまい
母に背負われました。すぐ上の姉は隣の三人の子の真ん中の良子ちゃんを
負んぶしました。隣の達のお父さんは出征しています。
我が家6人総勢10人で避難しました。
神社の境内にある防空壕にみんなで入っていましたが、熱くなってきました。
外に出て近くの橋を渡って吃驚!向こうからみんながこちらに向かってきます。
沢山の人です。怖かったのは馬がぱかぱか行ったり来たりして怖かったです。
そのまま人のながれのまま川下に逃げました。
橋がありました。みんなの流れで橋を渡りました。欄干が燃えていました。
橋を渡りました。土地の警防団の人が、学校に案内してくれました。
私たちが渡り終わった後、橋は燃え落ちたそうです。
そこが船堀とわかった母は従姉が嫁いた家を思い出し警防団の人に話し
おじさんが迎えに来てくれました。
総勢10人がおせわになりました。
隣おばさんと三人の子サダオちゃん、良子ちゃん、トシ坊は房総のおじさんの
実家に行きました。どうしているでしょう。可愛い子達でした。
我が家は焼け残った家を借りて住みました。そこで今度は艦載機という
怖い飛行機に狙われました。
夜、父がリヤカーに荷物を積んで焼け跡に避難しました。
飛行機から油のような物が投下されて、何だろうと思いました。
山の手の空襲だったそうです。
そして夏になり、戦争は負けで終わりました。
父が息子二人はどうなるんだと、心配していました。
長兄はニューギニアサンサポールで戦死、次兄は横須賀から復員。
それからの食糧難は凄まじいものでした。父とは母は苦労しました。
みんな辛い思いをしました。
いまも戦争で食べ物がなくて苦労している人がたくさんいます。
日本も何時かそんな時がくるかも知れないです。
しっかリ心構えをしないと土地も水も取られてしまいます。
それでもこうして時代を経て会話ができることを、本当に嬉しく有り難く思います。
映画やドラマで見る光景も悲惨なものですが
どこかに作り物の色があり
・・・・だからこそ、戦争に負けた日本の惨状を
絵空事の様に思う人が増えていくのでしょう
戦争の悲惨さを教える傍らで
それはすべて日本が悪かったからだと吹き込む・・
そうして
九条が自分たちを守ってくれると言い切るのです。
そのお花畑志向が世界に通用するなら
ウクライナとロシアの戦争もあり得なかったのにと思い至ることは、決してないんですね・・