私が四十歳頃に、自分の趣味のことを綴ったものに名前をつけようと思い、どうせ
なら自分で作った言葉にしようと考えに考えたつもりだったのが、夢を追い続ける
人を意味する『夢追人』この言葉は私の自作なのか否かを疑う余地はなく、当然自
作として思い込んできたが、最近になってどうも怪しいのではと思うようになった。
タイトルはさて置き、その冊子はワープロで作成したものだから、紙に印刷したもの
が一冊残っているだけで、このまま廃れさせるのは勿体ないと一念発起しワードで
作り直しを始めた。魚釣り、狩猟、アマチュア無線を纏めたもので全て実録ものだ。
当時から自然と接することが好きだったから、今ハンドルネームにしている『自然爺』
の礎となるものは成長過程、真っただ中といった頃のものだ。一日、一ページのペ
ースで再入力しているものを、日々の活動と共にブログで紹介することにした。時間
の都合のつく方は、ご覧頂きたい。
はじめに
『趣味は何ですか』と問われ『無趣味です』と答える人でも、本当は何か趣味を持っ
ているが人様に『これこれで・・・』と説明するのはおこがましいからだろう。
この四十年間、生きてきた吾輩は趣味として、何一つ極めたものは無いが、興味を持
ったものには、その時その時でかなりのパワーを費やしてきた。『芸のためなら女房も
泣かす・・』と歌にあるような厳しさがないから其々の趣味が中途半端だったのだろう。
でも、それはそれで良いではないか。趣味の範疇はとても広い。外にあっては自然界
のこと、家にあっては工作に関することで、手芸のようなものやICを使った電子機器の
工作と、言ってしまえば興さえ湧けば何でもいい。流れは、やはり父のそれと似ている
かもしれないと思い始めた。確たる根拠がある訳ではない。私の最近のルーツをみる
限り『芸のためなら・・・』のスタイルは祖父にあるようで、どうもしっくりこない。祖母は
『芸のためなら・・・』と粋がる人に尽くさせられっ放しだっただけのようだし、母は『そげ
なことばっかいして、ほんに』と理解を示すタイプではない。消去法で正当に判断して
みると私の分析は正しいと思う。
さて、私たち大人が子供たちにどんな夢を与えてあげることが出来るのだろうか。生活
場所によって自然と接する機会の多少はあるにしても、子供に自然を感じさせることの
必要性すら考えなくなっているのでは益々、子供に夢を与えることはできなくなる。ハイ
テク技術の粋を集めた遊びは子供を熱中させ虜にしてしまい確かに子供を喜ばすこと
はできるが、この子供たちが大きくなった時に、それを幼き日の夢として語れるだろうか。
こんなこと、老婆心かもしれないと思う。
昔の幼子たちよ、思い返してごらん。
自然の思い出は何にも優る。
よき玩具であり、感性を育てる教師であったと思えるはずだ。
子供たちよ、父母にせがみなさい。
自然は何処にあるの、見ることは出来ないの?・・・・と。
今でも、鼻の周りを黒くした子どものように、何か目新しいものは無いか眼をぎらつかせ
夢を追い続ける中年の生き様がここにある。