地名考その2です。
かなりローカルでマニアックな話題なので、
ほとんど意味がわからないかも・・・
今日は、もう開き直って徹底的に「徳之島の地名考」です。
ほんとはやらなくちゃいけないことがあるんだけど、
まるで中間・期末テスト前の中高生状態です
おいおい、お前の頭は大丈夫かい?
自制心というものがなくなっとるではないか。
(これ心の声です。)
無視します。
たぶん、昨日敬愛するH先生が亡くなられたことで、
少し動揺しているのかもしれません。
さて
だいぶ以前からのことなのですが、
「カナミ」、「カナマ」、「カンニ」は「彼見」が語源だと考えています。
と言っても誰にもわからないでしょうから
説明しますと、
これらは徳之島町の地名で、順番に
〇「金見」(灯台が建っていて、徳之島一の絶景ポイント)、
〇「金間」(金間崎といって、西郷隆盛が徳之島に島流しとなった時
最初に上陸した村が山(さん)村ですが、その港の入り口にあたる場所)、
〇「神之嶺」(カミノミネと呼びます。島口あるいは古名がカンニで
「カンニンウシシギャ伝承」が残されています。四方を見渡せる絶景の地)
となります。
(下は、金見の写真です。この先に奄美大島が見えます)
いずれも、大変見晴らしのよい場所です。
音も似ており、
「彼地」や「彼方」などと同じ語源の「カナ」に「見」が付いた言葉で間違いないと思います。
この地名は、不思議なことですが、
徳之島の東側にあたる徳之島町にのみに分布しています。
奄美、沖縄地方でよく知られている
「グスク」地名も徳之島町側に多く分布しています。
グスクとは概ね丘状の地形にあり、
村の防御施設や見張り所、狼煙台、
又はアジと呼ばれた村主の屋敷が置かれていたと考えられています。
中世日本では、盗賊、海賊のみならず
公家、大名ですら村を襲撃したり、「人さらい」をするのは当たり前でしたから、
各村々は、共同して自衛を図らねば生き残れませんでした。
盗賊たちは、時には「略奪」「放火」「虐殺」も行いました。
このため、多くの村に専用の「城(じょう)」があり、「見張り所」があり、
武装した賊の集団に襲われそうになると、
いっせいに家財を持って、老若男女が山城へと逃げ込み、防御を固めました。
そこには作場小屋のような仮住居が作られたといいます。
中には、避難が間に合わずに切り殺されたり、さらわれる人々もいました。
生け捕りされた人々は、「身代金」の要求に使われたり、
奴隷として安価に売買されました。
そのための市場もあちらこちらで普通に開かれていたようです。
規律の行き届いた今の日本からは、想像が付きません。
奄美の島々の場合、そのような武装集団は海上から現れました。
徳之島では、主に北東の方向から海賊は襲ってきたようです。
これは、グスクや「カナミ」地名が徳之島町側に多く見られることからわかります。
もっとも、「グスク」については港の数とも比例しているようで、
徳之島西部は断崖が発達していて近寄れず、
南部はサンゴ礁に阻まれて、
賊たちも大挙して襲うには近寄りがたかったのでしょう。
また、亀津村には意外なほどにグスクの数が少ないわけですが、
中世の頃から、数千の人口を抱えた大きな村であった可能性が高く、
いかに賊といえども、襲うには大きすぎたのだろうと思います。
1609年に琉球征伐に出向いた際に、亀津村の隣村秋徳で戦となったわけですが、
このときの薩摩藩の記録にも亀津村は「人過分に居り」と書かれていて、
既にたいへん大きな村だったようです。
琉球時代、薩摩時代を通じて
徳之島の支配役所が置かれたのは自然なことだったと思います。
たぶん遠い昔から、亀津村は徳之島の政治、経済などの中心地であったのでしょう。
このように考えると、
「グスク」が、決まって村の背後の高台にあり、
その多くが立てこもりやすい地形になっている理由がわかります。
また各村に2~4箇所のグスクがあることや、
狼煙台であったと思われるグスクが見られるのも当然でしょう。
なお、このようなグスクのいくつかは、
村の一番高い場所だったり、
泉があることが多いといった条件が揃っていたことから、
後に政治が安定してきた「ノロ(女性の宗教祭祀者)」の時代には、
拝み所へと変異していった可能性が高いと見ています。
この「村の城」を本土では、「ジョウ」と呼んだようです。
南西諸島一帯では、この城を「グスク、ウスク」と呼びます。
実は、未だに定義や語源がはっきりしていません。
後代、ノロの祭祀場になったケースも見られ、
また、文字通り支配者の住む城で、山城式の戦闘的構造であったり、
物見場であったり、村人の避難所であったりと
多用な使われ方をしたことがその原因です。
それらすべてを「グスク」と称しているのです。
私は、「グスク」を「スク」は「シキ、キ」と同義で
「城」の古名であろうと考えています。
実際、福岡の「水城(みずき)」や大分の「臼杵(うすき)」
といった地名は全国に数多くみられます。
なお、厳密には
「城」と書いて「シキ」と呼ぶ場合は、石をめぐらした城を指し、
「キ」は柵をめぐらした城を言うようです。
いずれにしても、「グスク」は緊急時の防御や避難を目的としたもので、
そこに常住するものではありません。
村中が一致団結して、身の安全を図るための大事な施設ですから、
「御」の敬称をつけて、「ウスク、グスク」と呼んだのでしょう。
実を言うと、
「スク」が「村」という意味であることだけは、はっきりしています。
朝鮮の「白村江(はくすきえ)」、
人名の「村主(すぐり)」、
といった音が残っていることからも証明できます。
古代の村が柵で囲まれることが多かったことから、
「城」を指す言葉へと変化したのでしょうか。
しかしながら「スク」は朝鮮や日本だけではなく、
ロシア語でも「ハバロフスク」とか「ノボシビルスク」のように
「村、町」の意味で使うようですから、
中央アジア、シベリア、東アジアにかけた
かなり広い範囲で使われていたようではありますが。。
なお、やはり広範囲で、
「キ」は、古くから「長官」あるいは「支配域」の意味としても使われており、
これは「城」から「城主」の意味へと、転化していった形なのかもしれません。
ところで、はじめの「カナン」地名にもどって、
これに個人的な新見解を加えます。
島口に「アマ」「クマ」という言い方があり、
「アマ」は「彼方(あちら)」、「クマ」は「此方(こちら)」を意味します。
そこで連想されるのが、
未だに解明できていない「アマミ」地名です。
「海見」(7世紀の文献に始めて登場した時は「海見嶋」と書かれていましたが、
714年には「奄美」と表記が変わりました)とあったり、
琉球国の始祖アマミクが光臨した地なので「アマミ」と呼ぶとか、
俗に雨が多いから「雨見」とか、
いろいろいわれています。
もっとも、アマミク説なら
「ミ」は通常「神」を指す(例えば「ワダツミ」=「海の神」)ので、
「天神」あるいは「雨神」と表記すべきとは思いますが。
あまりにも神がかり過ぎているようです。
地名としては、後世的で今ひとつの感があります。
むしろ、他の島名と同様に、
ずばり、「遠くを見る」あるいは「遠くから見える」意味の
「彼方見(あまみ)」と考えたほうがよいのではないでしょうか。
島名を決めるのは誰かと言いますと、
多くの場合、実は船乗り達なのだそうです。
海から見た島の印象を名前にするわけです。
例えば、徳之島は「トク」がもともとの名前です。
この「トク」は、「徳之島の地名考(その1)」
で紹介した「嶽」の意味で、
主峰井之川岳(645m)とアメキ嶽(533m)が
比較的、平らかな島に屹立している姿が
海上からは印象深かったのであろうと思います。
「アマミ島」は「奄美大島」を指す言葉です。
沖縄島に次ぐとても大きな島で、
全体に4,5百mの高い山が連なっていて、
船乗りたちの重要な目印になったうえ、
深い入り江も多く、
この島沿いを通過する間は、遭難の危険から守られましたから、
その存在感と安心感は大きなものであったでしょう。
後代になると、
船乗りたちは「奄美嶋」を「大島」と呼ぶようになり、
「奄美」は「奄美諸島」を指す言葉に変化していきました。
ここまで話を進めておいて、こんなことを言うのもどうかと思いますが、
「奄美」の語源を「彼方(あま)見(み)」とするには、
まだ説得力に欠けるようです。
本土でも「あなた」「こなた」と古くは言ったようですから
「彼」を「ア」と呼ぶことに問題はなく、
日本古語と方言の「アマ」「クマ」は一致します。
それでも漠然とした違和感が残るのも事実。
不思議なことに
徳之島にだけ、この「カナミ」地名が残っているのです。
もっとも、
島名は船乗りが決めるのであって、
地元の人間ではないですから、
大島に地名としての「カナミ」がなくても困るわけではないのですが。。
現時点では、
「遠くから見える島」と言う意味での「彼方見(あまみ)」を
当座、私の「奄美」地名考としておきます。
「うんにゃ、そりゃ違う。私はこのように考える」
といった何か他の案をお持ちの人は、
下のコメント欄で、ぜひお知らせくださいね。