インドラネット

パソコンが壊れる度に全てが消えるデジタルデータ。このブログをクラウド代わりに活用させてもらいます。

ツィッターはほどほどに

2019-09-29 22:00:03 | 日記

(亀津の街:本文とは何の脈絡もありません)

 

私最近、ツィッターをやっています。

何が良くて皆ツィッターをやっているのか、わからなくて

じゃあ自分でやってみようと思ったわけです。

(登録自体は、だいぶ昔にしてあったんですけどね)

 

最初、何が面白いのかさっぱりわかりませんでした。

ネットニュースを見るたびに、

「なんじゃそりゃ、どういうことじゃ」

なんてブツブツ言っていたのを

「ツィート」するわけですが、

トランプ大統領なんて、これで国民に直接メッセージを流しているし、

この拡散力は、ブログの宣伝にも効果がありそうだ。

それにニュースの備忘録的にも使えるかもね、

って感じてつぶやき始めたんです。

 

そしたら、ネットニュースとはまた違った情報が

そこには展開していることがわかって、

これがまた結構面白いんです。

ツィッター向けニュースに目を向けると、

そこには新鮮なニュースだけではなく、

いろんな人のいろんな反応が書き込まれていて、

そこから現在進行形とも言える

「時代の流れ」の変化を感じることができます。

しかも

「イヤ、それは違うぞ」、「おー、素晴らしい意見だ」

なんて思ったら、

つい私もツィートしてしまうわけです。

 

ここからが、またツィッターの面白いところで

即、様々な方からの反応が返ってきます。

ま、数は少ないんですが。。

すると、反応してくれた方のツィッターを覗いてみたくなります。

で、そこへ飛ぶ。

するとそこには別世界が広がっているわけです。

もう、こうなると止まりません。

そこのツィートの世界にしっかりと浸ってしまいます。

たちまち時間は過ぎていきます。

こりゃ、いかん

と思うのですが、中々ストップがききません。

 

そんなことをしていると、

不思議なことに、ブログに書きたいことがなくなるんです。

いつも、短いとはいえ、

その都度自分の主張をしてしまいますから

何も残らないんです。

それは、そうなんですが、

ツイッターは、いつでも自分が思った時点で書き込みができますので、

結構自己満足できます。

しかも、自分好みのニュース(レアで新鮮)がそこにある。

ネットニュースよりもリアルタイムな情報が氾濫している。

それに加えて、

ネットを立ち上げるとツィッターが最初に開く設定になってますので

どうしても多くの時間をそこに費やしてしまうことになります。

 

今日も夕食後、ツィッターで「通知」などを見ていたら

娘から、「お父さん何してんの」

って聞かれたので、

「ツィッター、これつい見ちゃうんだよね。おかげでブログが全然書けないよ。」

と言ったら

「あー、それ芸術家の人がよく言っているよ。ツイッターやると作品が描けなくなるんだって」

「エッ」

 

 

いやあ、合点、合点。

頭の中では、わかっていたんだけど

外部からの指摘って大事ですね。

ツィートは「ガス抜き」行為に間違いなく、

これをやる限りパワーは決して溜まらない。

このことをようやく自覚することができました。

 

 

そこで早速、私決めました。

「ツィッターは1日1回だけ。

帰宅後、夕食までの間のみとする。」

とね。

これでようやくクリエイティブな生活が送れる、

はず。。

 

 

さて、

この意志薄弱な男はどこまでこの決まりごとを守れるか、

・・・・・・・

こ、怖い。

自信がない。

もうすでにツィッターのタブに目が行っている。

早くタブを閉じるのだ。

なぜ、早く閉じないのだ。

 

プチィ。

せめて今日だけでも意志は通さないと。

私は、私をコントロールできなくなってしまうかもしれない。

やばい、やばいぞ。

こんな短期間でさえも中毒的症状が出かかっている。

それともこの症状は、「生活習慣病」の一種なのか。

 

 

 

皆さんは、大丈夫ですか。

「ツィッター」、コントロールできてますか。

「生活のすべて」になんかなっていませんか。

「ツィッター」はコントロールできるけど、「ライン」は駄目、

なんて人いませんか。

 

「過たるは及ばざるが如し」

 

何事もほどほどにしましょうね。

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密教の世界(その3)

2019-09-17 10:42:47 | 日記

久しぶりです。ブログ。

今回は、長々と相当に気を張り詰めて仕事してたので

いっぺんに二ツのことができない私の性格上、

ブログはあえて見ないようにしておりました。

昨日、ようやく仕事の一区切りがついて、ちょっとぼんやりしています。

ひたすら寝てやる、

今はそんな感じです。

 

今の仕事は、中々に緊張感があって、これはこれで悪くはない。

「日々新境地を味わう」

そんな感じで楽しんでおります。

(もしかするとこれが一生で最後の充実体験かもしれませんしね)

 

ところで、前回「密教の世界(その2)」で

「人類全体の精神世界の構造」

という言葉が出てましたが、

これは意味深です。

つまり我々は「個」として生きているわけではない

ということだと思います。

「人類全体の精神世界」

いい言葉だと思います。

 

今日は、この続きです。

池口恵観ワールドをお楽しみください。

 

-------------------

平成29年12月11日東京高野山東京別院にて  430名参加

池口恵観「第4回密教特別講演会 神秘の要諦を学ぶ」

 

池口師は、

密教とその奥義である修法は、師資相承で伝えられ、誰もが習得できない、

という伝統について、

「密教とは、秘密の教えであり、

秘密とは、神仏の大いなる力を神仏に代わり使わせていただく、

ことを意味する。

誰もが使用を許されないのは、

悪人や悪霊に秘密の力を利用されれば、

世の中だけでなく、眼に見えない世界も揺らぎだすからである」

とした。

また

「密教では、

秘密瑜伽の修法を以って宇宙と一体となれば、

自らが存在しているその場がすべての中心となり、

そこから宇宙全体を動かせる、

という奥義がある。

その要諦は、

自分と言う個体とそれが発する波動を、

自分が宇宙そのものである、

という意識に変換させれば、

自分とそのエネルギーは、

宇宙と宇宙が発するエネルギーに合致する。

そのとき、宇宙の波動は自分自身のものとなり、

その波動を自在に操ることができる。

これが三密瑜伽のイメージである。

 

宇宙は万物を生み出すだけではなく、

絶えず創造活動を続けている母体であり、

癒す力と創造的なエネルギーで満たされている。

眼に見えない宇宙のエネルギーは遍満し、

互いのエネルギーの相互作用によって影響を及ぼし合う。

 

私たちの周囲に未知の物質エネルギーが偏在する

と言うことは、

世界中の科学者が指摘しているが、

現代科学では解明されていない未知のパワーは、

昔から風水では「気」と言われ、

密教では加持祈祷という神秘の力として利用され続けてきた。

古代から人類は未知の力をうまく『取り入れる』ことで、

健康や幸運、方策をもたらし、

諸々の良い効果を生じさせることができる、として活用してきた」

 

と、神秘の力の根底にあるエネルギーの存在をわかりやすく解説した。

 

「私たちは、日ごろの生活の中で、

誰かの言葉や行動が受動的に記録され、

自分自身に限界があると信じ込んでしまう傾向にあるが、

そのこと自体に気づいていないため、

自分自身の夢や前人未到のものに立ち向かおうとしても、

潜在意識に自分の限界がプログラムされ、

可能性の障害になっている。

だが、

実体験に即した成功哲学を潜在意識に刷り込ませて上書きし、

固定観念化された考え方そのものをシフトすることで、

奇跡的な力は発揮できる。

やり抜こうとする強い信念、

心が物質をコントロールする、

ということが神秘の力を生む鍵になる」

 

と解説し、会場では数多くの聴講者が熱心にメモをとる姿が見られた。

-------------------------

 

池口先生は、日々の行を始め、

大変ハードなスケジュールの中で長い間活動してこられた方です。

毎月、主として弘法大師空海の書き残した「三教指帰」といった

難解な密教をわかりやすい表現で紹介し続けた『最友』の発行をはじめ、

数冊の本を発行され、講演やいくつもの大学で教鞭をとってこられました。

一方で信者からの相談会を定期的に開くとともに

世界各地での戦没者慰霊活動、

8000枚護摩行などの大イベントを100回以上も行うなど、

超人的な活躍をしてきました。

しかも大変な読書家でもあります。

人が一生という時間的制約の中でできる量を超えています。

 

そんな行者の言葉だけに、大変重みがあるわけです。

上記の講演録は、

いうなれば池口恵観先生の生涯をかけた到達点

としての「悟り」の世界といえるでしょう。

思えば、恵観哲学は、

中村天風先生の説いた世界

(宗教でもない、修養法でもない、健康法でもない、何物にもとらわれない教え)

とかなりダブります。

というか、どこからスタートしても「到達点」は同じということなのでしょう。

 

私たちにできることは、

深い苦しみや悲しみの中から「到達点」を知った哲人達が

人々にもその世界を知らせるべく著した本や言葉に少しでも触れること。

その「到達点」の感覚をわずかでも感じられたらラッキーですね。

なんだかおいしい果実だけいただくようで

反則気味ではありますが、、

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