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徳之島の地名考(その2)「カナン」と「アマミ」

2019-04-27 17:44:30 | 日記

地名考その2です。

かなりローカルでマニアックな話題なので、

ほとんど意味がわからないかも・・・

 

今日は、もう開き直って徹底的に「徳之島の地名考」です。

ほんとはやらなくちゃいけないことがあるんだけど、

まるで中間・期末テスト前の中高生状態です

おいおい、お前の頭は大丈夫かい?

自制心というものがなくなっとるではないか。

(これ心の声です。)

無視します。

たぶん、昨日敬愛するH先生が亡くなられたことで、

少し動揺しているのかもしれません。

 

 

 

 

さて

だいぶ以前からのことなのですが、

「カナミ」、「カナマ」、「カンニ」は「彼見」が語源だと考えています。

と言っても誰にもわからないでしょうから

説明しますと、

これらは徳之島町の地名で、順番に

〇「金見」(灯台が建っていて、徳之島一の絶景ポイント)、

〇「金間」(金間崎といって、西郷隆盛が徳之島に島流しとなった時

   最初に上陸した村が山(さん)村ですが、その港の入り口にあたる場所)、

〇「神之嶺」(カミノミネと呼びます。島口あるいは古名がカンニで

  「カンニンウシシギャ伝承」が残されています。四方を見渡せる絶景の地)

となります。

(下は、金見の写真です。この先に奄美大島が見えます)

いずれも、大変見晴らしのよい場所です。

音も似ており、

「彼地」や「彼方」などと同じ語源の「カナ」に「見」が付いた言葉で間違いないと思います。

この地名は、不思議なことですが、

徳之島の東側にあたる徳之島町にのみに分布しています。

奄美、沖縄地方でよく知られている

「グスク」地名も徳之島町側に多く分布しています。

 

グスクとは概ね丘状の地形にあり、

村の防御施設や見張り所、狼煙台、

又はアジと呼ばれた村主の屋敷が置かれていたと考えられています。

 

 

中世日本では、盗賊、海賊のみならず

公家、大名ですら村を襲撃したり、「人さらい」をするのは当たり前でしたから、

各村々は、共同して自衛を図らねば生き残れませんでした。

盗賊たちは、時には「略奪」「放火」「虐殺」も行いました。

このため、多くの村に専用の「城(じょう)」があり、「見張り所」があり、

武装した賊の集団に襲われそうになると、

いっせいに家財を持って、老若男女が山城へと逃げ込み、防御を固めました。

そこには作場小屋のような仮住居が作られたといいます。

中には、避難が間に合わずに切り殺されたり、さらわれる人々もいました。

生け捕りされた人々は、「身代金」の要求に使われたり、

奴隷として安価に売買されました。

そのための市場もあちらこちらで普通に開かれていたようです。

規律の行き届いた今の日本からは、想像が付きません。

 

 

奄美の島々の場合、そのような武装集団は海上から現れました。

徳之島では、主に北東の方向から海賊は襲ってきたようです。

これは、グスクや「カナミ」地名が徳之島町側に多く見られることからわかります。

 

もっとも、「グスク」については港の数とも比例しているようで、

徳之島西部は断崖が発達していて近寄れず、

南部はサンゴ礁に阻まれて、

賊たちも大挙して襲うには近寄りがたかったのでしょう。

また、亀津村には意外なほどにグスクの数が少ないわけですが、

中世の頃から、数千の人口を抱えた大きな村であった可能性が高く、

いかに賊といえども、襲うには大きすぎたのだろうと思います。

1609年に琉球征伐に出向いた際に、亀津村の隣村秋徳で戦となったわけですが、

このときの薩摩藩の記録にも亀津村は「人過分に居り」と書かれていて、

既にたいへん大きな村だったようです。

琉球時代、薩摩時代を通じて

徳之島の支配役所が置かれたのは自然なことだったと思います。

たぶん遠い昔から、亀津村は徳之島の政治、経済などの中心地であったのでしょう。

 

このように考えると、

「グスク」が、決まって村の背後の高台にあり、

その多くが立てこもりやすい地形になっている理由がわかります。

また各村に2~4箇所のグスクがあることや、

狼煙台であったと思われるグスクが見られるのも当然でしょう。

なお、このようなグスクのいくつかは、

村の一番高い場所だったり、

泉があることが多いといった条件が揃っていたことから、

後に政治が安定してきた「ノロ(女性の宗教祭祀者)」の時代には、

拝み所へと変異していった可能性が高いと見ています。

 

 

この「村の城」を本土では、「ジョウ」と呼んだようです。

南西諸島一帯では、この城を「グスク、ウスク」と呼びます。

実は、未だに定義や語源がはっきりしていません。

後代、ノロの祭祀場になったケースも見られ、

また、文字通り支配者の住む城で、山城式の戦闘的構造であったり、

物見場であったり、村人の避難所であったりと

多用な使われ方をしたことがその原因です。

それらすべてを「グスク」と称しているのです。

 

私は、「グスク」を「スク」は「シキ、キ」と同義で

「城」の古名であろうと考えています。

実際、福岡の「水城(みずき)」や大分の「臼杵(うすき)」

といった地名は全国に数多くみられます。

 

なお、厳密には

「城」と書いて「シキ」と呼ぶ場合は、石をめぐらした城を指し、

「キ」は柵をめぐらした城を言うようです。

いずれにしても、「グスク」は緊急時の防御や避難を目的としたもので、

そこに常住するものではありません。

村中が一致団結して、身の安全を図るための大事な施設ですから、

「御」の敬称をつけて、「ウスク、グスク」と呼んだのでしょう。

 

 

実を言うと、

「スク」が「村」という意味であることだけは、はっきりしています。

朝鮮の「白村江(はくすきえ)」、

人名の「村主(すぐり)」、

といった音が残っていることからも証明できます。

古代の村が柵で囲まれることが多かったことから、

「城」を指す言葉へと変化したのでしょうか。

 

しかしながら「スク」は朝鮮や日本だけではなく、

ロシア語でも「ハバロフスク」とか「ノボシビルスク」のように

「村、町」の意味で使うようですから、

中央アジア、シベリア、東アジアにかけた

かなり広い範囲で使われていたようではありますが。。

 

なお、やはり広範囲で、

「キ」は、古くから「長官」あるいは「支配域」の意味としても使われており、

これは「城」から「城主」の意味へと、転化していった形なのかもしれません。

 

 

ところで、はじめの「カナン」地名にもどって、

これに個人的な新見解を加えます。

 島口に「アマ」「クマ」という言い方があり、

「アマ」は「彼方(あちら)」、「クマ」は「此方(こちら)」を意味します。

そこで連想されるのが、

未だに解明できていない「アマミ」地名です。

 「海見」(7世紀の文献に始めて登場した時は「海見嶋」と書かれていましたが、

714年には「奄美」と表記が変わりました)とあったり、

琉球国の始祖アマミクが光臨した地なので「アマミ」と呼ぶとか、

俗に雨が多いから「雨見」とか、

いろいろいわれています。

 

もっとも、アマミク説なら

「ミ」は通常「神」を指す(例えば「ワダツミ」=「海の神」)ので、

「天神」あるいは「雨神」と表記すべきとは思いますが。

あまりにも神がかり過ぎているようです。

地名としては、後世的で今ひとつの感があります。

むしろ、他の島名と同様に、

ずばり、「遠くを見る」あるいは「遠くから見える」意味の

「彼方見(あまみ)」と考えたほうがよいのではないでしょうか。

 

島名を決めるのは誰かと言いますと、

多くの場合、実は船乗り達なのだそうです。

海から見た島の印象を名前にするわけです。

例えば、徳之島は「トク」がもともとの名前です。

この「トク」は、「徳之島の地名考(その1)」

で紹介した「嶽」の意味で、

主峰井之川岳(645m)とアメキ嶽(533m)が

比較的、平らかな島に屹立している姿が

海上からは印象深かったのであろうと思います。

 

 「アマミ島」は「奄美大島」を指す言葉です。

沖縄島に次ぐとても大きな島で、

全体に4,5百mの高い山が連なっていて、

船乗りたちの重要な目印になったうえ、

深い入り江も多く、

この島沿いを通過する間は、遭難の危険から守られましたから、

その存在感と安心感は大きなものであったでしょう。

後代になると、

船乗りたちは「奄美嶋」を「大島」と呼ぶようになり、

「奄美」は「奄美諸島」を指す言葉に変化していきました。

 

 

ここまで話を進めておいて、こんなことを言うのもどうかと思いますが、

 「奄美」の語源を「彼方(あま)見(み)」とするには、

まだ説得力に欠けるようです。

本土でも「あなた」「こなた」と古くは言ったようですから

「彼」を「ア」と呼ぶことに問題はなく、

日本古語と方言の「アマ」「クマ」は一致します。

それでも漠然とした違和感が残るのも事実。

 

不思議なことに

徳之島にだけ、この「カナミ」地名が残っているのです。

もっとも、

島名は船乗りが決めるのであって、

地元の人間ではないですから、

大島に地名としての「カナミ」がなくても困るわけではないのですが。。

 

 

 

現時点では、

「遠くから見える島」と言う意味での「彼方見(あまみ)」を

当座、私の「奄美」地名考としておきます。

 「うんにゃ、そりゃ違う。私はこのように考える」

 といった何か他の案をお持ちの人は、

下のコメント欄で、ぜひお知らせくださいね。

                       


徳之島の地名考(その1)

2019-04-27 16:15:41 | 日記

なんだかなあ。

他の調べものをしていたら、

何故だか「徳之島の地名考」に走ってしまった。

ほんと、私の頭は「思いつき頭」

一貫性がなくて

あっちにいったり、こっちにいったり

トイレに行こうと思って、立ち上がったのに

気が付いたら洗い物をしている、

一事が万事、こんな調子。

これをぼけ老人と言わずして

何を言う、

って言う感じ。

気持ちまだ早いはずだ、

と自分を慰めつつ

「やばいかもしれない」

という不安を拭えない昨今であります。

 

ところで、今日の地名考は、

稲村公望先生の「続・黒潮文明論」に紹介されていた一こま

(思い出した。これをチラミしたから地名考が止まらなくなったのだ)

からスタートです。

続けざまもう一本行きます。

 

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徳之島の主峰となる山々には、「岳(ウデ、デー)」が使われている。

南から犬田布嶽(いんたぶだけ)、剥嶽(はげだけ)、ヨブサ嶽、井之川嶽(イノウデ)、母間嶽(ボマウデ)、アメキ嶽、剥嶽(はげだけ、上記とは別山)の7峰である。

美名田山(やま)等の他の山々の場合は、井之川岳、天城岳等と異なり、中世以降の新たにやってきた農耕民が付けた名前だろう。

(ごめんなさい。稲村先生。上記は、先生の文章を元に私があれこれと追加編集をしてしまい、元の姿をとどめなくなってしまいました。)

 

  登山家である古川純一『日本超古代地名解』(彩流社)は解説する。

  「沖縄本島の山は、岳が30で、山が4のみであるが、対馬では岳は7で、山が42となり、佐渡が島ではついに岳は0となり、山(やま)が41、山(さん)が6、峯が3になる。津軽半島ではまた岳が多くなる。

日本の中央部で後続の人種によって岳が消され山(やま)や山(さん)に変えられたのであり、岳が山より古いことを意味している。これは山と岳は日本に渡来した時期が異なっている証明である。

山の呼び方は、古い順に、峯(ね)、根(ね)、嶺(みね)、岳(だけ)、山(やま)、峯(みね)、山(さん)になる。古い峯(ね)、根は少ない。

先に『遠野物語』に関連して早池峰山のことを書いたが、ハヤチは疾風のことであるから、風の吹きすさぶ嶺(ね)の山(さん)という意味になる。「ね」は日光や草津、そして南アルプスの白根山の「ね」となって残っている。

細かい議論をすると、峯は尖った形状を指名しているが、岳はなだらかな傾斜地の連なり示しているのではないか。 

たとえば、錦江湾の入り口にある開聞岳の秀麗さが岳であり、高千穂の峯(みね)となると逆矛が立てられているかのように尖って屹立する山のことである。霧島山はアイヌ語で山のことをキリ、シリといい、シマとは石のことだから、火山岩の山を形容しているに違いない。

なるほど、日本国中に霧や桐の字を持つ山や峠がある。徳之島の松原集落では人間の後頭部の尖った部分を「みにしゅし」というが、「みに」は峯に繋がる。

一説に、岳は西アジアのウル語のダカンから来ているとあり、語源がベルシアにあるとも説く。」

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若干の疑問は残るものの、

人類の移動史、あるいはその集団ごとの文化史を考える上で、大変参考になる地名考である。

ただし、

上記「アイヌ語」は「古語」と言い換えなければなりません。

既に20年ほど前になりますが、

アイヌ人がオホーツクを渡って日本に来たのは、5世紀頃のことと判明しています。

この研究は、北海道大学が行い、DNA調査によって出した結論です。

なんと先住縄文人と交わった時期等まで推測できるようです。

つまり、純粋なアイヌ語は歌や伝承等に残るのみで、

今に残る言葉の多くは、

すでに在地日本で使われていた言葉であるということ。

無論、アイヌ特有の言語も残ったには違いありませんが、

アイヌ人が日本にやって来たとき、

在地の縄文人のほうが圧倒的に多いわけですから、

新参者のアイヌ人は、

在地住民の言葉を覚えないことには生活できなかったはずです。

後にアイヌ人は、夷人(えびす、毛深い人)として特殊扱いされたことで、

逆に独自の文化が残されることになり、

日本の古代語もそこに含まれる形で伝承された、と考えるべきでしょう。

 

日本語の多くがアイヌ語だと考える旧慣は、

本日ただいまより止めなければ、

言語学上、歴史学上の研究に大きな間違いを生じることになります。

 

 

なお、古川純一氏の本に

 「沖縄本島の山は、岳が30で、山が4のみであるが、対馬では岳は7で、山が42となり、佐渡が島ではついに岳は0となり、山(やま)が41、山(さん)が6、峯が3になる。津軽半島ではまた岳が多くなる。」

と紹介されています。

徳之島の場合はどうなのかというと

岳が7つ、山が12でした。

(参考地図は、明治13年作成「鹿児島縣下徳之島全圖」神戸大学付属図書館)

 

もちろんこれは主だった山だけで、

島内にはこのほかにもたくさんの小山があります。

ただし、それらはすべて「山(やま)」です。

 

 

ちなみにではありますが、古川氏の文中に

「徳之島の松原集落では人間の後頭部の尖った部分を「みにしゅし」という・・・」

ともありました。

そういえば、私も子供のころ、

絶壁頭を「サバ」

きれいな頭を「ミニ」

と言っていたけど、どうやらここから来ていたみたいですねエ。


本当に戦争に負けたのは米国だったのかもしれない

2019-04-14 14:45:24 | 日記

今、上島嘉郎氏のメールマガジンを読んでいて、とても感動しましたので、

転載します。

 

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〈十五日正午、おそれ多くも、玉音を拝し、御詔勅を賜わり、涙のとどまるを知らず、言い表わすべき適当な言葉を持ち合わせませぬ。 万事は御詔勅に尽きている。陛下は限りなき御仁慈を垂れたまいて、悪魔の毒手から赤子を救わせたもうたのである。(中略)戦争は消えたのであって、勝負は決していない。〉

 

〈原子爆弾は聞けば聞くほど恐ろしい破壊力である。毒ガスなどと比較すべき程度のものではない。広島のような使い方を続けられたら、無辜の日本人は大半、滅するであろう。(略) この兇暴なる悪魔の大虐殺が、日本民族絶滅のために連続使用されるとなれば、かりに戦局が日本に有利に進展しつつある場合たりとも、やはり戦争はやむのである。原子爆弾によって戦争は消えたのであって、勝負は事実の上において決していない。ただ日本が敗戦の形式を強要されたに過ぎないのである。(略)
戦争の旗印は正義人道である。米国は殊にこの点を強調してきた。正義人道の旗印を目標として争っておるところが戦場である。この旗印が撤去抹殺されたところは、もはや戦場ではなく、戦争は消えたのである。(略)
ダムダム弾や毒ガス程度のものさえ、戦争には禁ぜられている。国際条約により禁ぜられておる以上のものを、武器として研究することは既に条約違反であり、正義の放擲であり、人道の無視である。さらにこれを製造し、戦場に使用するは罪悪である。さらにさらに、これを無辜の市民に無警告に用うるにいたっては、人類の仇敵として一日も許すべきでない。米国がその肇国の国是たる正義人道をみずから放擲したのは、みずから敗けたりというべきである。〉(同)

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これは、出光興産の創業者出光佐三の言葉で、終戦2日後に社員に向かった述べたものです。

その上で、社員全員にこう述べています。

 

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〈私はこの際、店員諸君に、三つのことを申し上げます。

  一、愚痴をやめよ。

  二、世界無比の三千年の歴史を見直せ。

  三、そして今から建設にかかれ。

  愚痴は泣き声である。亡国の声である。婦女子の言であり、断じて男子のとらざるところである。ただ昨日までの敵の長所を研究し、とり入れ、己れの短所を猛省し、すべてをしっかりと肝の中にたたみこんで、大国民の態度を失うな。  三千年の歴史を見直して、その偉大なる積極的国民性と、広大無限の包容力と、恐るべき咀嚼力とを強く信じ、安心して悠容迫らず、堂々として再建設に進まねばならぬ。〉 (『出光五十年史』、木本正次『出光佐三語録』ほか)

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米国は、沖縄戦で甚大な被害を受け、軍内には厭戦気分が広がり、日本との戦争に疑問を呈するものが増えていました。

実際、ニミッツ提督をはじめとする軍や米国内に日本との講和を模索する動きが始まっていました。

余談ですが、激戦地ペリリュウにニミッツ提督の石碑があり、

そこには

 「諸国から訪れる旅人達よ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心を持って戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」

とあるそうです。自国兵でさえ消耗品と考えるマッカーサーとは、大違いの本物の軍人です。

ニミッツ提督が太平洋方面軍ではっきりとしたトップだったらよかったのにと思います。

 

ところが、それをマッカーサー(米国内でも未だに悪評高い)が、戦争続行を強行したわけです。

硫黄島の無駄な総攻撃、フィリッピンマニラへの住民の命を無視した猛爆撃。あげく沖縄戦での敵味方の被害を顧みない消耗戦。

ただただ、開戦当初、フィリピンから日本軍に追い出されたという個人的恨みだけで戦争を継続し、

部下たちでさえ、その指揮には付いていけないと、嘆かせた男。

 

そんな男に対日戦の一翼を任せたルーズベルト大統領

(後に、フーバー元大統領から「彼は気が狂っていた」と言われた)

共産主義の防波堤となって、ソ連の南進を押さえ、

米国に協力し、かつ国際ルールを守って行動する日本を

敵と見誤り、

というより故意に敵と定め、

共産主義のシンパ達が集まった政権幹部とルーズベルトが、

日本への経済封鎖(それ自体が戦闘行為)やさまざまな嫌がらせの限りを尽くし

なぜ、米国がここまで日本を敵対視するのか、

まるで理解できないままに

「日米決戦やむなし」を東条首相に決断させることになったわけです。

 

米国との国力の差は国、軍ともに圧倒的との分析が出ており、

はじめれば100%負ける、

とわかっていました。

それでも戦争をするしか、手段が残されていなかった。

後にあの大ばか者マッカーサーでさえ、

「私が日本の立場だったら、戦争と言う手段しかなかっただろう」

と言っている。

いかに米国に日本が追い詰められていたかが、わかるだろう。

石油の8割を輸入していたほど、米国を信じていたのだから。

 

 

それでも小国(経済的に見ても今の日本の比ではない)日本は、踏ん張りました。

なぜ、米国と戦わねばならないのだ、と思いながらも、、

大国アメリカに勝てるとは思っていないから、

最初から防御戦です。

ともかく米国の太平洋艦隊の主力基地ハワイをたたき、

日本周辺の防御を固め、

全面戦争にならないよう、気をつけました。

ですから、十分に米国本土を攻めることも可能だったのに

それはしませんでした。

とにかく強い打撃を与え、日本と戦うことに益がないことを気づかせ、

すばやく講和すること。

この無意味な戦争を終わらせ、

かつ日本が敗戦せずに済む方法

「早期の講和」、これしかなかったわけです。

ところが日本はミッドウェーで思わぬ大敗北を喫してしまい、構想が壊れます。

 

これをきっかけとして、態勢を立て直した米国の大攻勢が始まりました。

ところが、意外に日本軍は強く、思うように進軍できません。

パラオの人たち(だったと思うが)

「身体も小さいのに、本当に日本軍は強かった。」

と今でも語り伝えているそうです。

米国は、各地で日本軍の粘り強い抵抗や反撃に合い、

被害が拡大していきました。

戦争を早く終わらせようとあせる米国は、

焼夷弾を使った日本本土への無差別爆撃を行います。

焦土作戦です。女子供といえども誰彼かまわず焼き殺そうというのです。

 

それでもなかなか負けない日本。

さらには、住民を巻き込んだ沖縄戦における3ヶ月あまりの激戦。

そのあまりに粘り強い抵抗に、気が狂ってしまう兵士が続出し、

これ以上対日戦を続行することに不安を覚え、停戦を考え始めた米国

 

ところが、ソ連共産党に後ろから操られている米国は

ついに人類禁断の兵器「原子爆弾」を2度も使用したのでした。

たとえ、敗戦国になろうとも使ってはいけない兵器です。

米国は、人類そのものを敵に回すかのような行為を行ったのです。

 

 

出光佐三が言っています。

再度、掲載します。

〈 ダムダム弾や毒ガス程度のものさえ、戦争には禁ぜられている。国際条約により禁ぜられておる以上のものを、武器として研究することは既に条約違反であり、正義の放擲であり、人道の無視である。さらにこれを製造し、戦場に使用するは罪悪である。さらにさらに、これを無辜の市民に無警告に用うるにいたっては、人類の仇敵として一日も許すべきでない。米国がその肇国の国是たる正義人道をみずから放擲したのは、みずから敗けたりというべきである。〉

 

 

結局、冷静に振り返ってみれば、

あの戦争で本当に負けたのは、米国だったのです。

今は、米国はこの点から眼を背けようとしていますが、

いつまでもできることではありません。

原爆を使用したことは、

後々、歴史を経るごとに

米国の汚点として、

米国民の心に広がっていくでしょう。

 

その歴史の見直しの動きのひとつが

オバマ元大統領の広島での献花だと言えます。

どう眼をそらそうとしたところで

米国のやったことは、「人類の仇敵」行動として

人類史上に残り続けるのです。

 

 

最後に、もう一つ

マッカーサーとGHQによって解釈を捻じ曲げられた

「八紘一宇」

という言葉があります。

この言葉も見直しておく必要があります。

本来の意味は

「万民の幸福を求め、他国からの支配を開放し、日本は開放下においた国々の人々と兄妹のように睦み合い、共存共栄を目指す。 それが『八紘一宇』、日本の理想である。」

 

皆さんも身に覚えがあるでしょう。

世界平和を願う気持ち

世界中で内戦などで苦しんでいる人たち、

貧しくて、教育をまともに受けられない子供たち

の存在を知ったときに感じる

「なんとか助けられないものだろうか。皆が共に幸せになれないものだろうか」

という感覚。

それが、本来の「八紘一宇」なのだと思います。

これは日本人独特の文化なのです。


日本を中心に考える外国との付き合い方

2019-04-11 00:55:48 | 日記

外国人労働者、外国人留学生、外国人旅行客、

尖閣・竹島問題、北方四島問題、慰安婦問題、等々

日本人は、ようやく「日本と外国との付き合い方」

について考える機会が増えたようです

 

中でも朝鮮、中国に対するこれまでの関係に

ようやく違和感を感じ始めたところ、

といった感じ

「内向きになった国家、国民は衰亡する」

というから 外を向くことは大いに良い事です

というわけで

今日は、少しばかり国際文化と日本との関わりについて考えてみよう、と思います

日本というコミュニティを国際社会において健全に保つために

長くなりますけど、よろしくお付き合いください

 

 

朝鮮人はどうかしている、

反日だの、徴用工の提訴だの

中国人も信用ができない、

南シナ海をほしいままにしたり、

技術や著作権はコピーしたり盗んでしまえばいい、 と思っている

どうやら多くの日本人がそこまでは感じ始めているようです。

でも、本当の姿はそんな生易しいものじゃありません

 

 

例えば

朝鮮人の価値観には 「恩」という概念がない

下記のMAG2NEWSを読んでみるとわかりやすいでしょう

https://www.mag2.com/p/news/392175

 

朝鮮の文化として

「お金を貸したら、借りたほうが優位に立つ」

という考え方がある。

借りたほうは、返さない

返して欲しければ、

「お金を返してください」 とひざまずくことを要求する

立場が逆なのです

「えっ?」 日本人には理解できない価値観

日本人なら、

 「大変なら援助もいといませんよ どうぞこれをお使いください」

と自分の生活を切り詰めてでも、困っている人を助けようとするでしょう?

 

でも朝鮮では、そんなことをすると

「にやり」として、態度が豹変する

貸し手に対し、見下した嫌味たっぷりな態度を取り始め

さらには、

「もっとよこせ」、「なぜよこさないのか。前はくれたじゃないか」

と「権利」として強く要求し始めることになります

そういう文化なのだから、どうにもならないのです

彼らにとっては、当たり前のことをしているだけなのですから

 

朝鮮人にお金を貸した者は、

そういう扱いを受けることを知った上で貸さねばなりません

「迷惑料」といった感じで盗られるのです

 

また、朝鮮、なかでも南朝鮮は、

形式的儒教国家(仏教はないに等しい)です。

儒教の心は学ばない。

身分の上下、年齢の老若といった決まりごとばかり厳しい。

「老人の自殺率世界一」

 

若者は年配者を前にすると、酒の飲み方一つに気を使わねばなりません

でも、心の中では年寄りを軽蔑しきっている

年寄りは年寄りで、若者に敬意を求め、強制する

ひどいのは、親子の中にも裏切りが横行することです

子供は親を捨てて逃げようとし、 親は子供に扶養の義務を求める

最近では契約書まで交わすと言う 親子ですら信頼関係がない

 

そんなことだから、

韓国人の70%強が

「もし生まれ変わるなら、韓国では生まれたくない」

と答えている

 

自国が息苦しいと感じるなら、

なぜ自ら変わろうとしない。なぜ変えようとしない。

と思うのは日本人の感覚

 

儒教の型ばかりを学んで、

心を学ばない(いや学ぶ素養がない)文化の貧しさ

儒教は「知識」として披露するものであって、

「道徳」として学ぶことが出来ない

儒教の「見た目」だけ、「形」だけを大事にする人たち

 

1千数百年前に入った仏教も根付くことができず、

(その点は支那と同じ)

結局日本にその拠点を移しました。

仏教は、諸行無常を教え、治国平天下を願い、

人を助けることが自他の幸せを招く、と訓えた

もう、そんな昔でさえ

朝鮮半島ではこれを受け入れる素地がありませんでした

 

李氏朝鮮時代の700年

この朝鮮人の朝鮮人らしさは更に根深いものとなりました

我々日本人は、地勢学上、永遠に隣国であり続ける朝鮮の人々と、

隣人として付き合い続けなければならなりません

だから、相手をよく知っておくことです

日本人と見た目や言葉が似ているからと、同族意識を持ってはいけないのです

常に警戒心を持ち続けて、付き合う必要があります

 

中国古典に『菜根譚(さいこんたん)』という名著があります

このなかに

「権勢や利益、豪華な生活やきらびやかな装飾類に関心がない人は、たしかに清潔である。しかしこうしたものに関心を持ちながらも、それにどっぷりと浸からない生き方ができる人こそ、実はもっとも清廉潔白な人だと言える。

  また、人を陥れたりだましたりする策略や、駆け引きのたぐいを知らない人は、たしかに賢明である。しかし、こうした権謀術数を知りながらも、それを使わない生き方ができる人こそ、実はもっと賢明である」

という名文があります

日本人が朝鮮人(世界中の人々や国々といってよい)と付き合うときは

上の言葉をしっかりと心に刻む必要があるのです。

 (もちろん世界中のどの国と付き合うときも)

日本人は日本人らしくあればよい

他国が権謀術策を多用するからといって、

我々もやろうとするのは愚の骨頂です。

それでは、我々が嫌う隣国の人々となんら同じになってしまいます。

 

 

さて、もう一つの隣国である支那はどうでしょう。

支那人といっても多種多様だから一概にひとくくりにするのは問題だが

特に中華人といわれる人々を指します。

彼らは「中華思想」を心の底から信望している

中華皇帝のもとに世界中をひざまずかせる

そして

「我々が世界の『中国』としての栄光を受ける」

という考え方です。

 ※「中国」とはある国家の中心国を指す言葉で、日本にも「中国地方」がある。かつては、日本も大和政権の周辺支配域に対して「中国」と呼ばせた時代もあった。

 

この世界覇権思想は、支那人には止めがたいものがあって、

習金平のように組織のトップとしての地位では満足できず、

終身制という実質の皇帝を目指すのは、支那人として当たり前の感覚です。

しかし、この思想によって支配された弱小国の末路は悲惨なものだ。

すべて中華人のものなのだから

 

チベット国への侵略と殺戮と圧制、

ウイグルは、歴史上幾度か支那に支配を受けた過去はあるものの

本来別国(突厥という)ですが、

共産党政権によって支配を受け、「新疆ウイグル自治区」となりました。

共産党は、このウイグル人のいくつもの町を

「原爆の実験場」に使って消し去ったり、

今も百万を越える人々を「再教育施設」に収容するなど

弾圧と根絶やしを続けています。

 

ある支那人が数年前、北海道を旅しながら、

「これがすべて私たちのものになるの」

と言ったそうですが、

いずれは世界中のすべての地を「私たちのもの」としたいのです。

ネット上で見ることができますが、

「中華人民共和国人民解放軍 謹製」の

「2020年 中華人民共和国予定図」

には日本はなく、

名古屋以西が「東海省」、

静岡以北が「倭人 日本自治区」となっています。

この地図は、個人の作成した地図ではない。公的なものです。

 

我々日本人は、どれだけ支那人の本性を知っているでしょうか。

彼らは、単独では人格者だったり、人のよい人物かもしれないが

集団となったときに豹変するから、気をつけて付き合わねばなりません。

 

 

その外の国々、たとえばアメリカは?ロシアは?ヨーロッパの国々は?中東、インドは?

みんな日本人からすると違和感だらけでしょう。

簡単に言えば、

アメリカはいたって真っ当。

単に国益のみ。

世界の覇者として今後も存在し続けることだけを考えています。

特に「世界基軸通貨ドル」は、彼らにとって「打ち出の小槌」

これを失うくらいなら、世界を巻き添えに死んでも本望でしょうね。

最近、これを狙って支那が着々と手を打っていることにようやく気が付いたわけです

このタブーに触れた支那は

昨年からアメリカに徹底した嫌がらせと圧力を受け始めました

たぶん、習政権が崩壊するまで続けるでしょう。

アメリカと言う国は、

自由主義国家という理念を掲げ、世界の覇者として、

また世界で一番富裕な国として存続し続けること。

それだけです。

すべての外交、国策の根本政策はこれが動機となってます。

日本もそれをわかった上で、これからも米国との外交は続けなければなりません

 

 

ロシアはどうでしょう。

この国は、実は相当に汚いことをします。

まず悪いことに伝統的に「被害者妄想」に取り付かれているのです。

常に他国を疑っている

勝手な「被害妄想」により、ロシアが他国に襲われるという恐怖心を無くせない

だから発想の基本として、

まず外国勢力から自国を守ろう、と考えるわけです。

 

外国からすれば、ロシアは軍事大国だから、

手を出すどころか恐怖心すらおぼえるのですが

この大国は、

「恐怖症」という厄介な持病をもっているものだから手に負えない

どの国とも仲良くはなれない

どの国も自分たちと同じように悪いことを考えている、と考える

他国を信用しないから、常に警戒的で攻撃的になる。

他国から襲われないという「安心」を得るためにチャンスがあったら攻める

得られる土地は得る

できるだけ国境を遠ざけようとする

すべて「防御」のために行っていることです。

 

伝統的にロシアという国は、

「ロシアが外国と交渉をするとその協議は必ず破綻する」

ようになっています。

というのも交渉というものは妥協の産物ですが、

ロシアの交渉の癖として、

他国が妥協を目指して譲歩したときに、

一層深刻な顔をして「もっとよこせ」というわけです。

「そうでなければこの協定は結べない」、と。

誤って、相手国が更なる譲歩を見せたときは、

 「それでは協定は結べない」とクレームを言う国です。

更に悪いことに、「脅し」をさらに加えながら一層有利な協定を結ぼうとします。

 

 

 「日ソ不可侵条約」があっさり裏切られたように、

まったく苦労して作られた条約でさえ、あっさり反故にします。

前の大戦でも、

ポツダム宣言を受け入れて、終戦となり、

協定に基づいて日本が武器を放棄すると同時に、

国際法を無視して満州やカムチャッカやアリューシャン列島に攻め込んできた国です。

あげく

 「これは戦争で勝利して手に入れた土地だ。なぜ日本の固有の領土などと言うのだ」

と平気で怒ることのできる国。

 

「せめて四島だけでも」→「だめだ」

「では二島だけでも」→「ふざけるな。米国との同盟を解除したら考えてやる」

 ・・・そんな国です。 条件は、譲歩すればするだけ、厳しくなる。

そして条約違反をして手に入れた土地は、絶対に手放さない。

力づくで来いという。

そもそもロシアに国境域は存在しません。

今ある支配地が国家領域なのです。

だから手に入れても手に入れても、自国の隣には外国が存在します。

攻められるという恐怖心は、どの国よりも強いから、

さらに安心を得るために他国を侵し続ける。。

でも、国民の半分近くが当のロシアから出たい、と思っているのは皮肉なことだけど。

 

 

では、ヨーロッパの国々はどうでしょう。

例えばイギリス

未だに貴族が存在し、王政のもと「身分社会」が見事に生き残っている国

未だに封建時代の名残を残す国

基本的に差別社会だから、

底辺で暮らす人たちは、屈辱的な生活に甘んじなければいけません。

だからアイリッシュをはじめ、

底辺に暮らす人々は世界中に飛び出していきました。

スコットランドは何かと言えば「独立」を叫び、

数年前にもほとんど独立しかけたほどです。

あの小さいブリテン島に、少しも一体感がない。

封建時代の国単位に分かれている。

国民も支配者階級と被支配者階級に分かれている国。

優越と軽蔑の国。

 

自分たちは、差別から逃れて外国に出たくせに、

外国では「白人至上主義者」として他人種を2級市民以下、

あるいは、そもそも人間とは見なさないという文化が残っています。

 

また騎士道(貴族階級のみ)を標榜するイギリスですが、

聞得はいいが彼らはエリートによる智的階級を形成し、

無学で無道徳な庶民とは別格であろうとしているだけです。

イギリスのヒースロー空港は昔から盗人の集まりで有名で、

庶民のモラル感のなさには辟易する。これでまともな国家といえるのでしょうか。

 

 

フランスはどうでしょう。

フランスという国はエリートのための国です。

パリ〇〇大学といって、エリート養成大学が決まっていて、

そこを出たもの(まるで支那の「科挙制度」だ)は、

エリートとして国家を動かす権利を持つ

庶民はそれに従わねばなりません。

このような官僚国家は、

当たり前だが硬直化し、庶民の活力が失われます。

エリートと庶民の間には明らかな階層が存在します。

我々は優秀なのだ。

国民は、我々の指導のもとに従順でありさえすればよいのだ

 

こんな国だから、かつてナチスドイツがフランスに攻め入ったとき、

わずか1ヶ月で抵抗を止めざるを得なかったのもわかるような気がします。

国と国民に一体感がないのです。

イギリス同様、庶民のモラル感のなさは、

みなさんパリを訪れたことのある人たちは知っているでしょう。

町中スリだらけです。

然も彼らの多くは平日、警察官だといいます。

だからスリの被害届を出しても決して見つかることはありません。

 

我々は「文化国家フランス」「芸術の国フランス」というイメージを持ちがちですが、

実際には「恥」、「国家としての品格」そんなものはない。

それっぽい「歴史」を持っているに過ぎません。

私自身、パリのカフェテラスで受けた差別待遇は、新鮮な体験でした。

客に平気で汚れたカップに水を入れて出したり、

白人の若いウエイターが

「ちっ、何で東洋人が白人の店に入ってくるんだよ」という顔つきをしていたのは、

思い出しても胸糞が悪くなるくらいですが、

「おー、これがかの有名な白人の差別思想というやつか」

という不思議な感覚になったのを覚えています。

 

思えば、その前に3,4日滞在したスイスでは、

そういった客人に対する態度は、全く見られず、

国民の教養の高さ、外国人に対する文化的スマートさ、

そこで感じた暖かさとは雲泥の差でした。

してみるとスイスという国は実に教育の行き届いた国でした。

 

 

さてさて、その隣国のドイツはどうか

マイスターを大事にする職人の国。

几帳面。真面目で手抜きをしない国民性。

独立性の強い州が集合して出来ている国

自然も豊かに残されている、歴史を大事にする国

なんだか申し分ない国のようです。

 

この国がなぜか日本人嫌いなのです。

ずっと昔からなぜか支那とは仲がよく、

100年前にはドイツ領も支那に持っていました。

これを日本に取られたという恨みがまだ残っているのでしょうか。

よくわかりません。

私も学生時代にドイツ文学を学んでいたこともあって、

ドイツには親近感も強く持っているのですが。。

ほんとによくわからない国です。

かつて日独伊三国同盟まで結んだこともある間柄ですが、

実はそうしながらも、ドイツは支那に援助を欠かさなかった、

と言う事実があります。

 

ドイツという国は、お高いフランスや我が侭なイギリスが嫌いで、

いつかはヨーロッパの盟主になりたい(いや盟主だ)という野望を持ち、

でも2回の世界大戦ではなぜかいずれも敗戦し、

その屈折した感覚は独特といえるかもしれません。

負けるはずのない戦争を2度も負けたのだから

 

現在は、とりあえず経済力でヨーロッパの盟主となっています。

だがこれだけでは何か物足りなそうにしています。

 

ところで、ドイツ銀行が破綻寸前ですが、

あれほどの巨大銀行が何をしているかというと

危険なギリシャ国債に手を出したり、

金儲けのためならモラル感のない投資を平気で行って、

そのつけが回ってきているようです。

勤勉、真面目な国民性からは想像が付かない金儲け主義。

 

ドイツの弱点を強いて挙げるとすると、

「三方よし」といった商賣感覚の不足でしょうか。

 金儲けができるとなったら、長期的視点などどうでもよいように見える

「自国中心主義」

これは、どの国も同じで国家としては普通かもしれませんが

この国は、友好国を作ろうとしない

自立心が強すぎるのか、常に単独で生きようとする

自分は優秀だと思っているし、立派だと思っている 一方、

他国はだらしがなく、信用もできないと思っている

人間関係で言えば 近くにいると迷惑な存在かもしれない

他国と協調できない性質の国

 

してみるとこの国は ビジネスの相手としては、真面目だし、裏切らないから付き合えるが

国同士の友好関係は築けない国

といったところでしょうか。

 

 

このほか中東、インドといった特殊でややこしく、

付き合うには、相当に覚悟のいる地域が残っていますが

ちと疲れました。

 

 

みなさんも国際比較文化的な眼で、もっと世界中の国々を観察しましょう。

実に多種多様。

日本と価値観を共有できる国がいかに少ないか、

それを知らないと日本は孤立するかもしれません。

地球は何せ小さい。

お互いの癖をよく知った上で、仲良く付き合っていくしかないのです。

決して他国を見下したり、批判するのではなく、

あまり深い付き合いをしないほうがよい相手とは、それなりに

友達になれそうな国とは、よく助け合って

十分に各国の歴史や文化を熟知した上で

常にポジティブな国際関係を日本は作っていくことです


人間

2019-04-08 00:11:07 | 日記

いろいろ書きたいことは頭の中を駆け巡るのだけど

書くとなると、

そこまで旨くまとめられなくて

そのうちに

もう少し構想がまとまってから

書こうと

思っているうちにまた時が過ぎてしまう

 

そんなことしていたら

めったに何も書けるものではない

備忘録なのだから

思いつくままに書き残せばよいのに

何やってんだろう

なんだか自嘲しちゃうな

 

というわけで

今日は

「人間」の不思議さを書き残しておこう

 

 

実に不思議なことなのだが

人間は、受胎して

赤ちゃんとして誕生するまでの10ヶ月間で

地球に生物が生まれてから人間になるまでの

「進化の過程」

を一通りなぞる。

昔、教科書か何かで習った覚えがあるが

そのときは、なんだか不気味な違和感を覚えただけだった

 

ただここからわかることは

ひとつひとつ丁寧に数億年分の

「進化の過程」をなぞらなければ

赤ちゃんとして誕生できない、

ということ

 

実は、誕生した後も

引き続き、3歳くらいまでかけて

今度は「人類」としての進化もなぞることになる

 

・立ち上がる

・言葉を覚える

・意思疎通を図る

・自分と言う意識を持つ

 

 

さらにその後、

様々な人間関係を通じて

「ホモサピエンス」としての進化を続け、

 その過程で「自我」意識に苦しむことになる。

「私とは何か」

「何のために生きるか」

「私は死んでどこに行くのか」

「なぜ私はここにいるのか」

「宇宙とは何か」

「人間は何を目指すべきか」

「時間とは何か」

「愛とは」

「幸せとは」

「この空虚感は何か」

「なぜ財宝を欲しがるのか」

「なぜ他者より優越的であろうとするのか」

・・・・・

 

 

人類が過去1万年にわたって悩み、苦しみ、疑問を感じたように

同じ課題を抱えながら生きていく。

こうして初めて「現代人」まで到達する

ただひたすら人生のほとんどをかけて「人類史」をなぞり続けることになる。

 

 

さて、そんな人生も終わる頃になってようやく

人々はその課題に対する答えを見出す。

(中には答えを見出せないままの人たちもいるが)

そうなった時になって初めて

これまでの「人類史」になかった

短いが、新しい「人類の未来」を生きることになる

ようやくなぞるだけではない人生が始まる

 

 

このように人間の「人生」を捉えなおすと

感慨深いものがある。

人間の一生は、そのほとんどを過去をなぞって生きている

すると

「悟り」を得てからの我々の生き方が

これからの「人類の未来」ということになる

そう思えば、いい加減な生き方は出来ない

「仏の境地で日々を生きる」

この喜びを自ら味わうと共に、人々と分かち合わねばならない。

 

 

人類は、過去を一つ一つ丁寧になぞるように繰り返すしか

「人間」に到達できないようになっている

途中をすっ飛ばすと「人間」ではなくなる。

だから、楽に「人間」になることはできない。

苦しいとき、悲しいときにしっかりと自分と向き合わねばならない。

お酒や薬に逃げたくもなるのはわかるが、

それでは決して

「悩みや苦しみのない境地」を味わうことはできない

ということだ。

 

 

我々は

なんだかんだと悩みや苦しみは尽きないようにできている。

その答えを見つけることは、

人間にだけに与えられた「使命」なのだから、

向き合って、この難問に答えを出すしかない

人間はそのために生きている、のかもしれない。

 

 

何者かによって

我々にはこのような哲学的課題が与えられている、

そんな感じがするときがある。

「まだわからないのか」

と言われているような気もするし、

「所詮、人間には無理かな」

とあきらめ気味のようにも感じられる。

人類がその心安らかな境地を共有できるようになったとき、

その時、人類は最終目標に到達することになる、とも思うし

その時が、この宇宙の何かの節目になるような気もする。

 

 

ありとあらゆる地上の生き物のうち、人間のみに与えられた課題。

「我とは何ぞや」

この答えを見つけない限り、

逃げても救いはないのだ

考えるまい、として酒、女、賭け事(遊び)に全身ひたろうとも

ずっと満たされない思いを感じ

何か大きな不満を抱きながら

辛苦と共に死なねばならない

 

ならば

解決するしかない

ありとあらゆる不安、苦しみ、怒り、恐れ

それらが生まれる根源を見つけるしかない

 

 

 

たぶん、きっと見つかるんだと思うよ

案外あっさりと

そんなに難しいはずはないのだから

真実は極めてシンプルなもの

何か見落としているだけなんです

当たり前すぎて