インドラネット

パソコンが壊れる度に全てが消えるデジタルデータ。このブログをクラウド代わりに活用させてもらいます。

江戸の教育はすごい

2018-03-21 13:14:51 | 日記

愛用しているデスクトップの調子がなんだか悪いです。

使用中に画面が暗くなり、シャットダウンすることが増えているようです。

ちょっとやばい感じです。

そこで、パソコンの古いデータを整理したり、バックアップをとる準備をしていたら

下に紹介する「ぼやきっくり」さんのブログコピーを見かけてしまいました。

何気なく読んでいたら、私いたく感動してしまい、思わず涙まで出てしまいました。

年のせいかちょっと涙腺が緩みぎみではありますが。。

なんだか、あんまり自分だけ感動するのももったいないから

皆さんにもその一部を紹介させてください。

ちなみにこの記事が紹介されていたのは、2007年です。

この「ぼやきくっくり」さんのブログは今も更新されているようなので、ぜひご覧になることをお勧めします。


 (ここから一部を抜粋して紹介します)

ファン・オーフルメール・フィッセル=オランダ人。1820年(文政3年)~1829年(文政12年)、長崎・出島のオランダ商館に勤務。ヤン・コック・ブロンホフ、フランツ・フォン・シーボルトの二人に仕え、江戸参府にも随行。

「日本風俗備考・1」より

 日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。

(中略)自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。

(中略)日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう。


エドゥアルト・スエンソン=デンマーク人。フランス海軍の一員として1866年(慶応2年)から翌年にかけて滞日。

「江戸幕末滞在記」より

 どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる。

 

メアリ・クロフォード・フレイザー=駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人。1889年(明治22年)に来日。

「英国公使夫人の見た明治日本」より
 1890年(明治23年)に鎌倉の海浜で見た網漁の様子の記述


 美しい眺めです。――青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網をのばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師たちのまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして食用にふさわしくとも市場に出すほど良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。……物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちにも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです。施し物の多少にかかわらず、感謝の言葉があっさり、しかもきちんと言われます。そしてたとえ施し物がなくとも、けっして不平を言ったり嘆いたりはしないのです。

トーマス・マン=ドイツ人。作家。アメリカに亡命。

1945年(昭和20年)4月12日にルーズベルト米大統領が急死、就任間もない鈴木貫太郎首相がアメリカ国民に弔意を表したことに対して

 ドイツではみな万歳、万歳と叫んでいるのに、日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だ。

オットー・カロン=ドイツ人。ボン大学教授

「天皇の真実」(河内正臣)より
 1950年(昭和25年)のカロンの言葉


 ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。

 ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。

 平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。

 しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。

(引用者注:昭和天皇の御巡幸は昭和21年から29年まで続き、沖縄をのぞく、全都道府県をまわられた。お立ち寄り箇所は1411カ所に及んだ)

 

(以上、転載終わり)

この記事では、まだまだ多くの「外国人から見た日本」が紹介されています。

江戸の教育を受けた日本人がいかに素晴らしかったかがわかります。

全国に5万とも7万とも言われた寺子屋で、

全国共通教科書である「童子教」や「初登山手習」、「往来物」を用いて読み書きを習い、

知識や倫理(人の道)を学んでいた江戸時代。

現代の文部省主導の教育と違って、

各地域、地域に合わせた教育がなされていた江戸時代。

「地方にこそ人材はいる」と言われた時代でした。

世界史上稀な政変となった明治維新を見ても、

「藩校」や「寺子屋」などでの教育がいかに正しいものだったかがわかります。

さらには、上に紹介したような感動を、

日本を訪れた多くの外国の人たちに与えることになったのだと思います。

 

我々は、もう一度この時代の教育に注目し、現在の教育のあり方を見直すべきときにきているのではないでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする