インドラネット

パソコンが壊れる度に全てが消えるデジタルデータ。このブログをクラウド代わりに活用させてもらいます。

夏はやっぱり

2018-07-31 22:19:30 | 日記

いやあ、

夏ですな。

頭も体もまったく言うことを聞きません。

体はひたすらダラーッとして、毎日眠気が取れませんし、

頭はボーっとして、何にも考えることができません。

条件反射的に生きてるだけです。

何とかしたい、と思って

風呂場で水を浴びたり、

スクワットをしたり、

逆に、ひたすら思う存分寝てみたり、

それでもだめなら、と

炭酸(ビールも)を飲んだり、

ひたすらあの本、この本と読書をしてみたり、

はたまた写本をしたり、と

いろいろやってみるのだけど

まるで効果なし。

あげく、便秘にまでなっちゃった。

囲碁も負け続けて、5段に落ちました。グスッ。

 

このままじゃまずい。

ブログも書けないし、

碁もどんどん弱くなる。

仕事だってまともに出来ない。

もうすぐボケ老人の仲間入りしそうだ。

 

そこで、私、仕事を抜け出して考えました。

タバコをプカ、プカしながら、考えました。

そしたら、「ン?」

 

「そうだ、エネルギーを宇宙から取り込むのだ。」

今までの私は、暑さにかまけてボーっとして、

「気」が抜けるばかりで、

新たに「気」を取り込むことを忘れていました。

そのことに気がついたのです。

これじゃあ、腑抜けみたいになってもしょうがないわけです。

 

とりあえず、

下っ腹に心持力を入れて、

頭のてっぺんから「気」が流れ込んでくるようなイメージを作ってみました。

(正式には、もっとちゃんとしたやり方があるようですが、、、)

 

そしたら、不思議ですね。

急に体中に元気がみなぎり始めました。

自然と、仕事の段取りも頭に浮かぶようになりました。

ようやく集中力が沸いてくる感じがあって、

帰宅後、試しに打ってみたネット囲碁でも勝利(ああ久しぶり)。

ブログもこうして書けている次第。

 

皆さんは大丈夫ですか。

夏は暑さで「気」が蒸発しがちです。

うっかりすると、

ただ生きてるだけ、みたいになってしまいます。

ここはひとつ、立ち止まって

(気持ちだけでも)座禅の一つも組んでみて、

周囲に有り余るほどある「気」を取り込んでみてはどうでしょうか。

宇宙のほとんどは「気」で出来ているようなものです。

これを利用しない手はありません。

いくらでも自分に取り入れていいわけです。

願わくば、体からオーラが放出されるくらい取り込めるといいんだけど。。

ま、

そこまでするには修験者のように厳しい修行が必要かもね。

でも、もしかすると

思いもつかないパワーを手に入れることが出来たりして、ね。。

 

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両班の両班による両班のための朝鮮

2018-07-19 01:58:17 | 日記

唐突ではありますが、

たまたま、ネットサーフィン中、下のブログを見つけましたので、

ぜひ皆さんにも読んでいただきたい、と思います。

https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12391220361.html

 

なぜ、朝鮮の人たちが日本に対していつも異常な反応をするのか、

背景となる歴史や文化を交えながら、わかりやすく、その本質をえぐり出しています。

知っている人は知っていますが、

多くの日本人がよく理解できていないようです。

そんな貴方は、

このブログを読むだけで、

朝鮮の日本への屈折した政治的反応、一部の過激派的反応がなぜ起こるのか

充分、理解できるようになると思います。

(韓流ドラマをいくら見たって、影響は受けても、理解は出来ませんよ。)

 

でも、これを読んだからといって

それで朝鮮の人たちを、蔑んだり、異常だといって排除するんじゃ、

蔑むほうも似たり寄ったり、ということです。

そうではなくて

まず、どういう文化的背景を持って育ってきた人たちなのかを知ること。

また、日本人と似ているからと言って、同じ民族かのように誤解しないようにすること。

かつ、どの国の人に対しても同じですが、一定の距離感を常に保つこと。

その上で、良いところは認めて受け入れ、

国と国、人と人として、付き合っていけばよいのだと思います。

 

このことは、支那人(特に華人)と付き合うときも同様です。

同じく、華人の文化的風土を知り、

それを批判、軽蔑するのではなく、

そういう文化が育まれた地理的、歴史的な経緯を学び

理解し、許容することが大事なのだと思います。

もちろん、その上でちゃんとお付き合いすをるのです。

 

欧米人やインド人、中東人、アフリカ人、

どの国の人たちと付き合うときにも同じです。

いずれも日本人ではない、のですから、

その国の言葉や文化を、まるごと敬意を込めて受け入れて、

お互いの良いところを認め合うようにしたいものです。

 

 

世界に、人種としては「男」と「女」の2種類のしかいません。

その関係の難しさを思うと(妻を持つ人には分かるよね?)、

外国人と付き合うことなど

「NO PROBLEM」

ですよね。

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もう寝る時間です

2018-07-16 00:35:36 | 日記

昨日は仕事だったけど

今日はお休み。

 

職場から今日中に読むつもりで持ってきた本も

まったく手付かずのまま一日過ぎちゃった。

 

人間、怠け者なのは本能みたいなものだから

当初の計画通り行かないのも

当然と言っちゃ、当然。

 

かの福沢諭吉先生だって

・・・世間で事を企てている人の言葉を聞くに、「一生のうちに」だとか、あるいは「十年以内にはこれを成す」という者はもっとも多い。「三年のうちに」「一年のうちに」という者はやや少なくなり、「一月のうちに」「今日計画して、今まさにやる」という者は、ほとんどいない。「十年前に計画していたことは、もうすでにやり終わったよ」というような者にいたっては、未だにお目にかかったことがない。

と言っているぐらいだからね。

 

よく世の中には

「俺は三日坊主だから、何にも出来ない」

と自分を苛める者がいるが、

そりゃ、貴方だけじゃない。全員だ。安心しなさい。

「三日坊主」大いに結構。

それが、普通。

だから気にしなくていいの。

ぜんぜん、懲りずに、またやればいいだけの話。

何度でも「三日坊主」すればいいじゃないの。

 

そんな考えだから、

私、今日一日が目標どおり行かなかったからといって

ちっとも後悔なんかしません。

とことん自分を許しちゃいます。

 

その代わり、こう考えるようにしています。

 

ゴロゴロしたいときは、積極的にゴロゴロします。

面白そうな本が目に入ったら、積極的にそのために時間を使います。

囲碁が打ちたいな、と思ったら、躊躇なく支那や朝鮮の人たちを相手にネット対局をします。

食べたいものがあったら、後先考えず食べます。

眠たくなったら、何にも考えず、積極的に「寝よ。」と言って寝ます。

 

何をするにしても、

「自分がそうしたいからそうするんだ」

という考え方だけを大事にするようにしています。

 

「積極的」、「ポジティブ」

明るくて、いい言葉です。

なんだか、心も体も元気になれそうです。

私みたいな怠け者でも元気になれるんです。

今、このブログを読んでる、

私よりよっぽど律儀なあなた。

いつも、自分がやりたいな、と、ふと思ったことを、

大優先してやるように心掛けていけば

ほんと、いつだって健康で元気でいられると思いますよ。

ただし、仕事中は避けましょうね。

 

 

それでは、今日もお休み前に、天風先生の言葉を読みます。

------------------

《  ありがたい 》

あなたがた、なかなか有難がらないね。当たり前だと思ってる。

この間、淡路島に行っていたんだが、朝、宿の女中が

「まぁ、もったいない。先生。お客様がそんな、お床なんか畳んで」

「冗談こけ。ゆうべ一晩、ゆっくり休ませてくれたこの布団に、お礼を言っているところだ。」

気が変になったと思ってる。私が布団を畳んで、ありがとうございました、と言うものだからね。

宿賃出したからには、この布団敷いたり畳んだりするのは、当たり前だけれども、

私のように長い間、軍事探偵をしていて、

森の中や林の中をもって何も掛けずに、何も敷かずに寝ていた経験を持っている人間からみるってぇと、

現在の生活は本当に有難いですよ。

それをあなた方は、有難いとは思わないんだから。

金をやって使っている人間がするのは当たり前だ。

礼を言うどころか、働き方が悪ければ、すぐに叱り付けるだろ。

まあ、ともかくも、もう少し、気持ちの中をおおらかなものにしなさい。

---------------------

では、おやすみなさい。

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「時間」って意味あるの?

2018-07-13 21:10:10 | 日記

現在も過去も未来も同時にある。

 

ふと、そんな気がするときがあります。

 

今、同時平行的に、(我々から見ると)歴史上の人物も存在し、

それぞれが命を懸けて、必死に智謀をめぐらしている。

そんな予感がするのです。

 

空間こそ違うものの、実はこの瞬間も

西郷さんは日本国のあるべき姿を考えていて、

佐藤一斉は「人の道」を人々に説き、

信長は新しい世を作ろうと野望に燃え、

後醍醐天皇は政争に頭を悩まし、

清盛は平家の子々孫々の繁栄を願い、

天智天皇は国家の維持に苦しみ、

聖徳太子は国家建設に腐心している。

卑弥呼は自分の霊力の衰えを恐怖し、

縄文人は、明日の生活が恙無く送れることを神に祈っている。

あるいは、今、

同時代を安倍総理が河野外務大臣が、

はたまたトランプ大統領が、習近平国家主席が、

それぞれの欲やそれぞれが持つ国家のあるべき姿を求め、

野望、敵対勢力、疑心暗鬼から来る人間不信といったものと格闘している。

そして、「私」という存在も今あって、

何やら日々の人間関係に振り回されながら、

生きている。

もちろん、10年前の「私」も

現在進行形で頑張っているし、

未来の私も、今、前向きに生きようと頑張っている(多分)。

 

そしてその時、その時、同時代を共に生きた者たちも

同時代を共有するものとして存在している。

 

我々、つい

眼に見えるものだけを唯一無二の世界だと捉えてしまいがちだが、

そうではなくて、

始まりも終わりもない大宇宙という空間に、

現在も過去も未来も共に、今、存在しているのではないだろうか。

そして、

その時、その場所で良い未来を夢見ながら、

積極的に生きようと頑張っている。

 

いつか、人は死ぬが、

始まりがいつだったかわからないように、

終わりもいつのことだか自分にはわからない。

 

 

ただ、我々の願いはただひとつだけ。

何もしない、後悔だらけの人生は送るまい。

せっかくもらった身体だ。

これを思う存分活用して、

やりたいことはやった、充分に楽しませてもらった、

と思える人生を送りたい、

ということ。

 

すべては、今も存在する。

宇宙に始まりも終わりも無いように、

魂(と人は言う)はどこからか来るわけではなく、

どこかに行くわけでもない。

時間は進み続けるが、

すべての時間は同時にまた進んでいる。

そして同時にある。

ただ、その時間空間でポジティブに生きようと心がけることが

その他の時間空間にも影響しそうな、、

 

そんな感じがする。

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心にシャワーを(その2)

2018-07-12 01:21:56 | 日記

いつも気悩み事が絶えないんだけど、

困ったな、

と思っている人、多いと思います。

 

私もなかなかうまくいきません。

まあ、自分のことで気に病むということは、ほぼ無いんですけど。

周囲の人達を観察していると

色々あやしい顔つきをしている人が多いようです。

なんだか物言いたげです。

どうやら不満もありそうです。

いったいどんな問題があるのだろう?

と推測はしてみるのですが

わかりません。

ので、

そこで私は気にするのを止めます。

 

私は、いつも周囲に流れる空気の状態を気にしています。

ここはとても澱んで、空気の流れが悪いな、と感じると

この悪い空気を、明るい「言葉」で消し去るべく心がけています。

なんとなく「御祓い」をするような感覚です。

周囲から重く濁った悪い気を祓い、

透明で爽やかな気に置きかえる感じです。

 

そうすると、濁った澱みの中で閉じこもっていた、いろんなものが動き出します。

気の流れも良くなって、時間が動き出すような感じです。

人々の表情も明るくなり、

自由闊達な意見が飛び出すようになります。

流れる水が汚れないように

透明な空気の中では「邪気」は生じません。

 

でも、いつもうまくいくわけでもありません。

人の心は弱いもの。

そして簡単に何かに固執してしまいます。

その結果、苦しみ、怒り、あせり、消極性などが生じます。

毎日、毎日生じます。

だって根っこが変わってないんだもの。

だから、毎日、心にシャワーが必要なんです。

 

今日も中村天風の言葉を読んでみたいと思います。

----------------

  肉体を自分だと思って人生に生きると、そらもう、人が気づかない、恐ろしい影響が余儀なく我々の命の上に働きかける。それは何だというと、肉体を自分だと思って生きて行くと、命の生きる力が衰えてくるんですよ。だから、まず何をおいても、第一に肉体を自己と思うような勘違いは厳格に訂正しなきゃいけませんよ。

  今まではお腹が痛かったりなんかすると、「ああ、私が痛い」と、こう思っていただろ。「私が痛い」という思い方を、今度は天風式にこういう風に考える。お腹が痛いときにだね、第三者のお腹が痛いと同じような気分になってごらん。自分以外の人のお腹が痛いのと同じように、「今、俺の命を生かすために使う、道具である肉体の腹のところが痛いんだ。私が痛いんじゃない。私が生きるために必要な道具のお腹が痛い。」と思えばいいんだよ。

  今までは、洋服にほころびが出来ると、あなた方自身にほころびが出来たように思っただろ。ブラウスの背中のところに穴が開いたとしたら、「あっ、背中に穴が開いちゃった。」と思う。そうじゃない。それは着ていうる洋服に穴が開いたんだから、繕えばいい。

  というふうに、肉体も客観的に考える余裕を持たなきゃいけないのよ。

----------------

囲碁用語に

「岡目八目」という言葉があります。

自分の目で碁盤を見るのではなくて、

横で見ている観客の目で碁盤を見なさい。

そしたら見えないものが見えてくるよ。

という意味です。

ほんと、「自分」にさえ固執しなければ

「本物の自分」、「自由自在な自分」になれるんだけどねえ。

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あ、これこれ、このUFO

2018-07-09 11:04:03 | 日記

今日は、久しぶりの休日。

チロッとマイブログを覗いたら、

「徳之島暇人」さんから

「写真使っていいよ。」のコメントあり。

 

ついに「インドラネット」、見てくれたんですね~。

ありがとうございます。

 

早速、貼り付けさせてもらいます。

この写真からすると、UFOがいるのは「亀徳新港」上空くらいかしら。

さすがに徳之島暇人さん。普段から上等なカメラを持って歩いてるだけのことはある。

こんな写真、私のカメラやスマホじゃとても撮れません。

 

 

私が見たやつは、まさにこのタイプ。

こいつが雲の中から3/1ほど姿を現していて

この円の縁のところが上下2段の窓になっていて、そこから強烈なオレンジ色のライティングを、

左から右へ、ババッ、バババッ、という感じて瞬かせていました。

 

ねえ、でかいでしょ。

写真で撮るとなんとなくぼんやりしてますが、

これ、実際、肉眼で見るとかなりくっきり見えます。

 

 

でも、このUFO

なんで徳之島にやってくるんでしょう。

なんの御用があるんでしょう。

気になりますね。

 

そういえば、2,3年前、

徳之島の上空で爆音と振動が2度ほど連続して起きたことがあります。

奄美大島から与論島にかけて、2~300kmの広範囲にわたって

この音と振動を感じた事件でした。

「隕石」がどこかに落ちたか、「シナか北朝鮮からのロケット」が爆発したのではないかと

当時、地元ではちょっとした話題になったわけですが

結局、原因不明のまま立ち消えてしまいました。

 

今にして思えば、

このUFOの出現時期と何か関係があったのではないか、

との疑念もわいてきます。

 

みなさん、

北朝鮮の核ミサイル問題、シナの横暴と軍拡、異常気象と

大変なこのご時勢ではありますが、

ちょっと、空を見上げて

宇宙人が今地球で何をしようとしているか、

そんなことにも注意することが必要のようです。

 

しばらくは、私、この夏の夜空から目が離せそうにありません。

 

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UFO続報

2018-07-07 19:17:00 | 日記

いました。

 

私以外にも見た人が。

 

彼は 「徳之島暇人」っていうブログをやっています。

私が見た海上のほうではなく、反対の山側で見たそうです。

なんと、大きなUFOの近くに小さな光がチョロチョロしていたという話まで一緒でした。

 

「そりゃあ、おんなじ奴ジャン!」

「そいつは、海上で姿を消して、どこに行ったかと思っていたが、山側に回っていたのか。」

と話が弾んだ。

で、彼、

私からUFOの形状についてあれこれ聴いたと思ったら、

「もしかすると、こんな奴じゃなかった?」

と見せてくれた写真が

町の上空にデデーンと佇むデカイUFOの姿

徳之島で撮った写真だという(確かそういったと思うが、本人に再確認しないと自信はない)。

「あれ?なんで??僕が見たのはこれだけど?なんでこんな写真があるの?」

夜の町の上空にずいぶんはっきりと巨大なUFOが写っている。

気色悪!

私が見たやつは、3分の2は雲に隠れていた。

でも、もし雲が無かったとしたら、こんな感じの円盤形だろう、と想像はしていたんだが。。

まさか写真に撮られていたなんて。

 

ところで、1年ほど前にも、

私が見たのと同じ場所に、同型のUFOが出現したことがあるそうだ。

そのときは、そこの港で夜釣りをしていた方(名前を言っていたが忘れてしまった)が、

余りの驚きに、免許証もケータイも海に落として逃げ帰ってきたらしい。

結局その人は、島では直に免許証の再交付が出来ないため、奄美大島に行かねばならなかったそうだ。

 

それだけではない。

ここ徳之島では、各所でUFOが出現しているとのこと。

一番多いのは、島の南端にある7、8千年もの歴史を誇る面縄(おもなわ)という村らしい。

しかも、ほとんど写真で見せてくれたタイプと同型のUFOであるそうだ。

なんだかとっても地球的なタイプのUFOだけに、

「これ、もしかしたら地球製じゃない?」

「時空を飛び越えてきた未来の地球人とか。」

「実は米軍だったりして。」

なんていいながら、みんなで大いにワクワク話が盛り上がった。

 

ちなみに、別の方(学校の先生)から聞いたのだが、

奄美諸島でよくUFOが現れるのが、喜界島なのだそうだ。

島の中でも、以前から特によくUFOが現れる場所があり、

島の人たちで、特別に50m四方くらいのUFO専用ポートまで作ったことがある、

とのこと。

今もあるのかな~。機会があったら喜界島の人に聞いてみよう。

 

私、最近までUFOなんて、半ば眉につばつけて聞いていたのですが、

こんなに当たり前に近くにいたなんて、

驚きました。

ちなみに、私が見せてもらった巨大UFOの写真ですが、

もし転載OKをもらえたら、リンク貼らせてもらいたいと思ってます。

そのときは、またこのブログに寄ってみてください。

 

これからは、ベランダでのわびしい蛍族暮らしも、ずいぶん楽しめそうです。

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絶対的なものってなんだ

2018-07-03 18:26:48 | 日記

久しぶりにUFO問題から離れて、

「人間って何なんだ」って話

でも、これも何だかUFOの問題と似てるねえ。

 

 

モーターはいつかは壊れます。

人の肉体も同じです。

体を形作っている原子同士の結びつきが、だんだん弱まって、

星々がいつかは必ず崩壊するように、

バラバラに散って、元の塵に戻ってしまいます。

 

ある意識を持った一つの存在だったはずの物体は、

バラバラになって、

何の意識も存在しなかった、元の状態にリセットされます。

つまり、「生命体」というものは

原子が集合することによって

初めて、意識というもの(錯覚)を生じることになります。

いったいこれはどういうことなんでしょう。

 

原子の集合体たる生命体は、集合することで、なぜか他の集合体を意識することになります。

相対的自我ってやつが生じるわけです。

相手がいない一人ぼっちの世界なら、多分感じることの出来ない「自我意識」です。

でも、物質が集まって自我意識が生じたとしても、

それだけであって、それ以上のものになり得るわけではありません。

「自我」や「個性」だけではない、

何か高尚で尊重されるべき存在というには、大事な何かが足りない。

その原子の集合体は、

生命を維持すべく食べ、眠り、子供を作り、育てます。

こうして、生命体は「永遠の命」を得たような満足感を得ることが出来ます。

 

そして、次をつなぐという最重要課題を終えたら、その構成体は消えてしまいます。

次へつなぐという行為は、生きとし生けるもの達すべてにとって、

その存在価値をかけた最高命題です。

だけども、そのことが特別に高尚な何かであるとも思えません。

それだけだと、他の動物たちと人間とにそれほどの違いはなさそうですが、

人間は、どうもそれだけでは満足がいかない生命体のようです。

 

人間には、他の生物たちにはない、面白い機能が備わっています。

それは、哲学すること。

普段からいろんなところに疑問を生じるわけですが、

中でも重要な課題となるのが

「生きる」ことの意味です。

考えることが嫌いな人でさえ

「死」が自分に必ず訪れることを、生きてる間気にします。

さらには

「僕って何」

と考えるのです。

 

そして思索するうちに

宇宙そのものを理解する必要性を感じます。

過去や未来や死後、といった時間や空間を意識します。

この世の中は、目に見えるものだけでは理解しがたい、

それ以上の世界があるような予感を持ちます。

 

これは、いったいどういうことなのでしょう。

 

「生きるためには、自己とは何かを知らなければならない。

そんな命題を、生まれつき我々は与えられている。」

あるいは仏教で言う

「悉皆成仏」(生きとし生けるものは、生きているうちに本質を知ることが出来る。だからあきらめちゃいけない)

そんな感じです。

 

人間の脳ミソ自体は、コンピュータとかわりません。

(AIが脳ミソの構造をコピーしただけだけど)

そこに、肉体の持つ欲望が加わっているだけです。

そこからは「感情」「欲望」というものが生まれ、

やっかいな存在となります。

その点、人間はコンピュータに劣ります。

 

一方で、「慈愛」や「感動」という尊い感覚も存在します。

これはコンピュータには、将来にわたって理解することは出来ない分野です。

これこそが「人間」と「コンピューター」を隔する唯一の違いでもあります。

この点においてコンピューターに人間が勝るといえます。

(残念ながら、私の好きな囲碁の世界では、通用しませんが。。。)

この「慈愛」のような絶対的感覚は、

もしかすると、他の動物たちも感じているかもしれませんが、

自覚することは出来ないんじゃないかな、

と思います。

人間も、意識的にこの問題を考えたり、

先人に学んだりしなければ、

気付くことは出来ませんから。。。

ただ、「人間って何だ」という疑問は、人間ならみんな一度は考えることです。

 

宇宙には、振動というか波動が満ち満ちています。

というか、

宇宙全体が、実はこの波動だけで成り立っているような気もします。

見えるもの全ては、波長の長さの違いによって、それぞれの物体として認知されますし

触って分かる物質(と感じるもの)も、

集合した原子の振動によって、物質のような形や手触りをもたらすだけです。

 

音も光もすべて波動です。

宇宙の目に見えるもの、目に見えないもの、

ありとあらゆる物が波動なんだろうと思います。

 

「私心」「私欲」から離れ、

おだやかな気持ちを整えることで

この波と共振しやすくなり、

本物や本質的なものに触れたときに素直に「感動」を覚え、

「慈愛」(広くいつくしむ心)が生じるんだろうと感じています。

これこそが「絶対的感覚」なのだと思っています。

「対極の存在」を持たない感覚です。

肉体から生じた「愛憎」や「優劣」、「苦楽」といった枝葉末節的感覚とは違ったものです。

 

もっとも、手っ取り早くこの感覚を味わいたかったら

優れた音楽に触れてみるとよいかもしれません。

そこには調和があり、

これに触れると肉体と宇宙の波動が共振しやすくなります。

名曲を聞いていたら、「ゾクゾク」した感覚から鳥肌が立った、なんて経験は誰にでもあるはずです。

昔、孔子が

「子、齊にいまして、韶樂(しょうがく)を聞く。三月、肉の味を知らず。いわく、図らざりき。楽(がく)を為すことのここに至らんとは」

「詩に興り、礼に立ちて、楽に成る」

と、音楽がかもし出す世界こそ、自分が求める最高の境地として称えています。

孔子は、どんなに言葉で弟子たちに伝えようとしてもうまくいかなかったことが、

音楽によって表現されたことに、驚きを禁じえなかったのです。

 

また、音楽のほか、身近な経験として、

一人では生きられない無力な存在なのに、

「無垢」に一生懸命生きようとしている、

あるいは

能力がはっきり劣ることが分かっていても、

自分にできる精一杯のことを、あきらめずに努力し続けている

そんな存在を知ったとき、など

生命の震えを覚えたことがあると思います。

 

 

宇宙の波動とはそんな「無垢」で美しい波長なのです。

それが絶対的感覚というものなんです。

それを感じること。

決して抗ったり、「我侭」だったり、「我欲」「自利」に拘ったりすることがないようにし、

どうしてもそれに振り回さそうになったときは、思考を停止しましょう。

いつも波動を感じよう、と意識すること。

日常の生活で垢にまみれになったまま寝るのではなく、

毎晩、寝る前に必ず心の垢を洗い流すこと。

そうしていると、絶対的感覚とはどういうものかを理解し、

受け入れ安くなるはずです。

 

人の心は、日常の人間関係の中ですぐに汚れます。

どんなに修行を続けている立派な人だって、同じ人間です。

とても弱く、周囲からの影響を簡単に受けてしまいます。

それだからこそ、一日1回は心のシャワーを浴びる習慣を身につける必要があるのです。

 

 

私のようにまるで反省の出来ない人間にとって、毎日の心のシャワーは欠かせません。

今回も、自分への再確認と再意識のために書いてみました。

この謙虚な気持ちも、あと1時間も持たないとは思います。

でもそのときは、また、心にシャワーを浴びれば良いのです。

どうしても自分に厳しくなれないけれど、

「それでいいのだ。」(バカボン)

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