久しぶりにUFO問題から離れて、
「人間って何なんだ」って話
でも、これも何だかUFOの問題と似てるねえ。
モーターはいつかは壊れます。
人の肉体も同じです。
体を形作っている原子同士の結びつきが、だんだん弱まって、
星々がいつかは必ず崩壊するように、
バラバラに散って、元の塵に戻ってしまいます。
ある意識を持った一つの存在だったはずの物体は、
バラバラになって、
何の意識も存在しなかった、元の状態にリセットされます。
つまり、「生命体」というものは
原子が集合することによって
初めて、意識というもの(錯覚)を生じることになります。
いったいこれはどういうことなんでしょう。
原子の集合体たる生命体は、集合することで、なぜか他の集合体を意識することになります。
相対的自我ってやつが生じるわけです。
相手がいない一人ぼっちの世界なら、多分感じることの出来ない「自我意識」です。
でも、物質が集まって自我意識が生じたとしても、
それだけであって、それ以上のものになり得るわけではありません。
「自我」や「個性」だけではない、
何か高尚で尊重されるべき存在というには、大事な何かが足りない。
その原子の集合体は、
生命を維持すべく食べ、眠り、子供を作り、育てます。
こうして、生命体は「永遠の命」を得たような満足感を得ることが出来ます。
そして、次をつなぐという最重要課題を終えたら、その構成体は消えてしまいます。
次へつなぐという行為は、生きとし生けるもの達すべてにとって、
その存在価値をかけた最高命題です。
だけども、そのことが特別に高尚な何かであるとも思えません。
それだけだと、他の動物たちと人間とにそれほどの違いはなさそうですが、
人間は、どうもそれだけでは満足がいかない生命体のようです。
人間には、他の生物たちにはない、面白い機能が備わっています。
それは、哲学すること。
普段からいろんなところに疑問を生じるわけですが、
中でも重要な課題となるのが
「生きる」ことの意味です。
考えることが嫌いな人でさえ
「死」が自分に必ず訪れることを、生きてる間気にします。
さらには
「僕って何」
と考えるのです。
そして思索するうちに
宇宙そのものを理解する必要性を感じます。
過去や未来や死後、といった時間や空間を意識します。
この世の中は、目に見えるものだけでは理解しがたい、
それ以上の世界があるような予感を持ちます。
これは、いったいどういうことなのでしょう。
「生きるためには、自己とは何かを知らなければならない。
そんな命題を、生まれつき我々は与えられている。」
あるいは仏教で言う
「悉皆成仏」(生きとし生けるものは、生きているうちに本質を知ることが出来る。だからあきらめちゃいけない)
そんな感じです。
人間の脳ミソ自体は、コンピュータとかわりません。
(AIが脳ミソの構造をコピーしただけだけど)
そこに、肉体の持つ欲望が加わっているだけです。
そこからは「感情」「欲望」というものが生まれ、
やっかいな存在となります。
その点、人間はコンピュータに劣ります。
一方で、「慈愛」や「感動」という尊い感覚も存在します。
これはコンピュータには、将来にわたって理解することは出来ない分野です。
これこそが「人間」と「コンピューター」を隔する唯一の違いでもあります。
この点においてコンピューターに人間が勝るといえます。
(残念ながら、私の好きな囲碁の世界では、通用しませんが。。。)
この「慈愛」のような絶対的感覚は、
もしかすると、他の動物たちも感じているかもしれませんが、
自覚することは出来ないんじゃないかな、
と思います。
人間も、意識的にこの問題を考えたり、
先人に学んだりしなければ、
気付くことは出来ませんから。。。
ただ、「人間って何だ」という疑問は、人間ならみんな一度は考えることです。
宇宙には、振動というか波動が満ち満ちています。
というか、
宇宙全体が、実はこの波動だけで成り立っているような気もします。
見えるもの全ては、波長の長さの違いによって、それぞれの物体として認知されますし
触って分かる物質(と感じるもの)も、
集合した原子の振動によって、物質のような形や手触りをもたらすだけです。
音も光もすべて波動です。
宇宙の目に見えるもの、目に見えないもの、
ありとあらゆる物が波動なんだろうと思います。
「私心」「私欲」から離れ、
おだやかな気持ちを整えることで
この波と共振しやすくなり、
本物や本質的なものに触れたときに素直に「感動」を覚え、
「慈愛」(広くいつくしむ心)が生じるんだろうと感じています。
これこそが「絶対的感覚」なのだと思っています。
「対極の存在」を持たない感覚です。
肉体から生じた「愛憎」や「優劣」、「苦楽」といった枝葉末節的感覚とは違ったものです。
もっとも、手っ取り早くこの感覚を味わいたかったら
優れた音楽に触れてみるとよいかもしれません。
そこには調和があり、
これに触れると肉体と宇宙の波動が共振しやすくなります。
名曲を聞いていたら、「ゾクゾク」した感覚から鳥肌が立った、なんて経験は誰にでもあるはずです。
昔、孔子が
「子、齊にいまして、韶樂(しょうがく)を聞く。三月、肉の味を知らず。いわく、図らざりき。楽(がく)を為すことのここに至らんとは」
「詩に興り、礼に立ちて、楽に成る」
と、音楽がかもし出す世界こそ、自分が求める最高の境地として称えています。
孔子は、どんなに言葉で弟子たちに伝えようとしてもうまくいかなかったことが、
音楽によって表現されたことに、驚きを禁じえなかったのです。
また、音楽のほか、身近な経験として、
一人では生きられない無力な存在なのに、
「無垢」に一生懸命生きようとしている、
あるいは
能力がはっきり劣ることが分かっていても、
自分にできる精一杯のことを、あきらめずに努力し続けている
そんな存在を知ったとき、など
生命の震えを覚えたことがあると思います。
宇宙の波動とはそんな「無垢」で美しい波長なのです。
それが絶対的感覚というものなんです。
それを感じること。
決して抗ったり、「我侭」だったり、「我欲」「自利」に拘ったりすることがないようにし、
どうしてもそれに振り回さそうになったときは、思考を停止しましょう。
いつも波動を感じよう、と意識すること。
日常の生活で垢にまみれになったまま寝るのではなく、
毎晩、寝る前に必ず心の垢を洗い流すこと。
そうしていると、絶対的感覚とはどういうものかを理解し、
受け入れ安くなるはずです。
人の心は、日常の人間関係の中ですぐに汚れます。
どんなに修行を続けている立派な人だって、同じ人間です。
とても弱く、周囲からの影響を簡単に受けてしまいます。
それだからこそ、一日1回は心のシャワーを浴びる習慣を身につける必要があるのです。
私のようにまるで反省の出来ない人間にとって、毎日の心のシャワーは欠かせません。
今回も、自分への再確認と再意識のために書いてみました。
この謙虚な気持ちも、あと1時間も持たないとは思います。
でもそのときは、また、心にシャワーを浴びれば良いのです。
どうしても自分に厳しくなれないけれど、
「それでいいのだ。」(バカボン)