インドラネット

パソコンが壊れる度に全てが消えるデジタルデータ。このブログをクラウド代わりに活用させてもらいます。

今後の経済を米国の立場で分析してみた

2018-02-25 17:23:04 | 日記

「米ボストン地区連銀ローゼングレン総裁は、FRBが将来的に債券買い入れ策を実施する必
要性が出てくる可能性はあると指摘。米国の生産性と労働力の伸びが低迷して
いることで、当面は実質的に金利は低水準となるとの見方も示した。」

 

トランプ減税により、米財政が年後半にかけて大幅な赤字を出しそうだ。
米債権が人気をなくし、昨年末以降、金利がぐんと上昇した。
一方で、減税政策を歓迎した株式市場は26400ドル余りまで上昇。

しかし、金利上昇に不安感が広がり、2月に2500ドルもの暴落、
一部の投資家は、金利上昇中の国債に走った。

そのような中で、さらに米政府は、年内に1兆数千億ドルの新規債権を入札にかけねばならず、
投資家たちに「急速に増え続ける赤字財政」への疑念が広がり始めている。
このため、国債金利は上昇し、「ドル高」となり、結果的に国際収支は悪化する。

このままだと貿易赤字が、今以上に増大していくことは間違いない。
弱いアメリカ → 金利上昇 → ドル高 → 赤字の増大 → 弱いアメリカ
という、「負のサイクル」が始まったと見てもよいかもしれない。

 

ところが今年10月には米国中間選挙が迫っている。
共和党としては、あまりに国際収支、政府債権の「双子の赤字」が増大したのでは、戦えない。
このためには、どうしてもドル安が必要だ。
ドル高のままは、輸入の増大を引き起こしてしまう。

では、どうするか。

まず、「金利の上昇」を止めねばならない。
しかし、財政赤字から国債の発行額は過去最高になるのは確実。金利上昇圧力は強いものがある。

ということは、ただ一つ。
発行額以上の「国債購入」を行うしかない。
それができるのは、やはりFRB。そして日本。

FRBは、計画的に保有債権の放出を続けているが、いったんこれをやめねばならない。
だが議長は新任のパウエル氏。
経済学が専門ではない新議長ということで、就任式の直後に株価大暴落という洗礼を浴びせられた。
大方、故意だろう。
この議長さん、これに懲りたのか
「半期に一度の金融政策報告で、国内経済の底堅さを踏まえ、
段階的な追加利上げが正当化されるとの認識を示した。
パウエル議長が来週、上下両院の委員会で証言を行う」(2/23)
という。

議長就任以降、経済環境がどんどん変わってきているのに。
完全に周囲の助言者たちに馬鹿にされているように見える。
「専門家でもないくせに議長職を受けおって。その無能ぶりを皆の前に晒すがいい」
ということかもしれない。

このままだと、パウエル議長は前議長の流れを受け、金融引き締めの方針を堅持ということになる。
つまり、政策金利を今年も3,4回引き上げ、併せてFRBが保有する債権類の放出を続けるということ。
「負の連鎖」に油を注ぐようなもの。
国債のダブつき(=金利上昇)→ ドル高 → 輸入の増加(=国際収支の悪化⇒普通ならここでドル安)→ 米債権金利の上昇 → ドル高
となる。
これに「双子の赤字」のもう一方である財政収支の悪化が加わる。

いったん、パウエル新議長に恥をかかせておいて、次回FOMCで「専門家」としての意見を出すつもりなのだろう。
次回FOMCでは、ポートフォリオの縮小を一時停止するなどの「方向変換の気配」を出すのではないだろうか。

これにより、かつての日米摩擦で使用したやり方(ドル安=急激な円高=輸出の急減)の成功体験を
今度は米支摩擦にも適用してくるはずで、アメリカはこの点単純であるからわかりやすい。

今回も対支那貿易赤字対策として、「ドル安誘導」は必ず行ってくる。
通常は為替市場への各国協調介入なんだが、支那の場合はどうなんだろう。

その余波として、「円高」となることが想定されるが、
米国は国債を消化しなければいけないから、日本にその購入を要求してくるだろう。

米国債を購入するということは、「円売り、ドル買い」である。
このため、極端な円高にはなりにくいだろう。(でも円高には違いない。)

ただし、支那も米国債の購入しようとするだろうが、これに対する米政府の対策はどのようなものになるのか、わからない。

 

さて、トランプの過激な法人税減税政策のために、暗雲がせまる米国。これからいったいどうなるのでしょうか。

 

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本当の自分を生かす方法

2018-02-24 02:22:06 | 日記

今日のテーマは「本当の自分を生かす方法」

普段、いろんなところでいろんな人を見ていると

自分の脳みそが考え付いた小さな拘りのために、

気をもんだり、腐ったり、弱気になったり、怒ったり、

そんな人たちがたくさんいる。

話を聞いていると、それはそれは小さな拘りが原因であったり、

自分の保身から出る問題であったり、

自分の思うままにならないことが原因であったりするのだが、

当の本人たちにとっては、解決しがたい問題であるかのように

深刻な表情をしていたりする。

そんな人たちも、たぶん他人が同じような悩みを抱えていたら、

「アホらし」と思うんじゃないかな。

でも、自分のことになると右往左往してしまう。

 

そんな小さな問題に、

振り回されないで生活できるようになる方法がある。

うまくいかないときもあるが、私が心がけていることなので書いてみる。

 

普段から、ちょっとでも「よくない考え」が頭に浮かんだら、

その都度消して、プラスの言葉に置き換える。

これを気がつくたびに繰り返す。

これは癖だから、癖を直すのだと思うことにしている。

そのうちに悪い考え方を余りしなくなる。

まず、

「マイナス思考からは何も生み出されることはない」

このことを、早く自覚する必要がある。

マイナス思考の元になる、「迷い」や「妬み」や「苦しみ」、「怒り」は、

自分の「欲」(もっとほしいと欲張る気持ち)に大本の原因がある。

それがために他者と比較してしまい、

自分を責めたり、他人をうらやんだりする。

そんなことをしても何の解決ももたらさない。

人はそれぞれの特性を持つ。

「個々の特性」は比較の対象にはならないし、無理に比較しても意味はない。

プラス思考に他者は関係ない。

自分の「欲」に取り付かれることがないよう、

ひたすら自分を自分の「欲」から解放する努力を積み重ねることに尽きる。

 

「人は何をするために生きるのか」

「人が生きる中で何を大事にするべきか」

一瞬でも「できない」とか「嫌い」とか「自分はだめなやつだ」とかいう考えが浮かんだときは、

すぐに消す。邪魔だから。

「いや、やればできるさ」、

「まあ、あいつにもいいところがある。そこは評価しよう」、

「自分にしかできないことがあるはずだ」

というように「思考」を置き換える。

 

人は本来は何も感情を生み出さない。

近年AI(人工知能)の研究が進んでわかってきたことだ。

「あいつ気にくわねえ」とか「何であんなものの言い方をするのだろう」とか

自分の脳で言葉にするから「腹が立つ」のだ。

その思考(言語にする作業)の癖が、

人の感情を作り、性格を作り、最後には人生を決めてしまう

また、この感情がいったん湧くと、これに連鎖反応して次々と悪態を吐き始める。

そして、勝手に怒りだす。

この感情は、周囲のものたちにも影響を与え、悪い感情を伝播させてしまう。

挙句、険悪な人間関係を作り出す。

 

結局、その人間関係は自分が作り出したことだ。

 

誰のせいでもない。

これをやめよう。

他人を変えるわけじゃないんだから、できるはずだ。

悪い言葉を吐けば、その「言葉の波動」は当分そこにとどまるという。

「言霊」ともいう。

めったに悪い言葉は口にしないのがよい。

自分や周囲に不愉快な思いをさせるだけだ。

 

「そんなことは言われなくてもわかってる」

と、今、思わなかった?

でも普段、自分や他人を批判する「思考癖」を消すようにしておかないと、

当然のこととして、何かの拍子に口から滑り出ることになる。

その度に、周囲との距離感は広がっていく。

 

やめるんだ、そんな保身的な考え方。

何一ついいことがない。

そこから抜け出さないと、せっかくの短い人生が無駄になってしまう。

一生を、鬱々、クヨクヨ、めそめそ、人の顔色を伺うような生き方で終わってしまう。

俺はいやだね。そんな一生。

いずれ、ぱったり死ぬんだ。それまでしか生きられない。

こればっかりは、生きとし生けるものすべてに例外はない。

ならば、十分に充実した一生を送りたい。

そのためには、ちっちゃな「自分」に振り回されて生きるのはご免だ。

 

実際、

「自分」への拘りを無くすことができれば、どれほど自由に生きれるか。

どれほど人生の楽しさを感じることができるか、わかったもんじゃない。

そして、今まで見えてなかった、自分以外のいろんなものが、たくさん見えてくるようになる。

全部、「自分」という意識が邪魔をしている。

大事に懐に抱えて暮らしている人が多いようだが、

そんなものは捨てちまえ。

毒でしかない。

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「自分」なんて捨てちゃえ

2018-02-18 02:09:40 | 日記

今日のテーマは、

「自分」なんて捨てちゃえ

です。

自分の人生を最高に生きたかったら、「自分」への拘りは捨てなくっちゃいけません。

なんだか相反することを言ってるみたいだけど

自意識として感じる「自分」と、絶対的な意識は別物です。

たとえば、自意識から発する「愛」という感覚があります。

これと絶対的な意識として感じる「慈愛」は別物である、ということです。

もう少しわかりやすく言うと、「愛」の対極には「憎」があります。

これは同一の感情から発するもので、「可愛さあまって憎さ百倍」となることもあります。

しかし、「慈愛」は「いつくしむ心」を指し、そこには対極の語が存在しません。

これが絶対的意識です。

ほかにも名曲や名演奏を聴いたときに、「感動して鳥肌が立つ」ということがありますが、

これも絶対的なものです。

 

一方で、「自分はこう考えた」というときの「自分」は肉体の自分が考えたものです。

「塵」が集まって形を成しただけの肉体が、ある条件に対して反応しただけのことです。

「理性の力は恒に批判の上にのみ働く固有作用がある。」という言葉あります。

大概、「自分が考えること」には批判的、感情的なものが多いように思います。

それを本質の「自分の思考」だと錯覚してはいけないのです。

だいたい、この考えに振り回されると良いことはないものです。


今日は、ピョンチャンオリンピックでスケートの羽生選手が「金」、宇野選手が「銀」メダルを取るという快挙がありました。

しかも羽生選手の金メダルは、

冬のオリンピック史上、ちょうど千個目の金メダルであったとのこと。

なんという偶然。なんという強運の持ち主なんでしょう。

でも「引き寄せの法則」から見れば、当然の帰結なのかもしれません。

羽生選手の演技や発言からは、そこに「私心」のかけらも感じられません。

彼は、オリンピックでベストを尽くすためには、今何ができるか、

しか考えてこなかったようです。

常にまっすぐ前だけを見る圧倒的なまでの「積極思考」。

「怪我をした過去は今の自分に関係ない。今の状態で、目標のために今何ができるか。」

それだけを考える。

普通の人間だったら、

「また痛めたらどうしよう。」と消極的になったり、

「もう間に合わない。無理だ。」とあせったり、

「でもせっかく今まで練習してきたのに、残念だ。悔しい。」とクヨクヨしたり、

「なんでこんなことに。なんて運が悪いんだ。ああ腹が立つ。」ってな感じで、

いろんな感情が交錯して、練習に身が入らなくなるんじゃないでしょうか。

 

ところが、羽生選手の場合はどうか。

オリンピックまでの3ヶ月間のうち2ヶ月は怪我が治らないため練習ができず、

わずか1ヶ月の間、しかも無理のできない状態での練習をこなして出場してきたのです。

たぶん、フリーの演技を通しで練習するなど、一度もできなかったのではないかと思います。

それでも、いざオリンピックの舞台に立つと、

3ヶ月前に大怪我をしたばかりの選手とは思わせない演技を見せました。

その様子は、このオリンピックの舞台に立てていることへの感謝の気持ちでいっぱいのようでした。

二人三脚で苦労を共にしたコーチ、全てのスタッフ、応援してくれる仲間たち、観客、

あるいは、世界中で自分の演技を楽しみにしている人たちのために、最高の演技をしようとしているようでした。

同時に、羽生選手自身とそれを見守るすべての人たちの「気」が一体となっている、

そんな感じを受けました。


浅田真央選手もそうでしたが、彼ら超一流の演技者たちからは「私心」が感じられない、

という特徴があるように思います。

逆に言うと「私心」、

たとえば、自己顕示欲、勝利へのこだわり、ライバルへの闘争心といった

「自分」が発する欲から離れられない者は、

「一流」にはなれても「超一流」にはなれないということです。

それは観客と演技者の間に境が存在していることを意味します。

「いい演技だった」

とは、感心されても、

観客と演技者が一体となったり、視聴者の共感を得ることはできないのです。

実際のところ、どんなに頑張ったって、

自分のためだけに頑張る努力では、大した結果は残せないはずです。

 

大相撲で例えれば、大関にはなれても横綱にはなれないケースです。

上位がいる大関までは、失うものもない挑戦者として戦うだけなので、大一番にも体が動きます。

ところが、あと一つ勝てば横綱、というプレッシャーを受けたときに、

自分の為にがんばる人は、体が動かなくなるのです。

もちろん、若いときなど「勢い」だけで一気に横綱に上る人はいます。

ただ、そういう横綱は「名横綱」にはなれないはずです。

誰の為に私は相撲をとるのか。

そのために、どのような相撲を取ることを心がけるべきか、

そういう発想ができるようになるには、「自分(私心)」を捨て去る努力が絶対に必要です。

ともに苦労してきた仲間や後援会の人たち、

応援し続けてくれたファンの人たちのために戦ってこそ、結果は出せるものです。

恒に「本当の自分」を殺しているのは、

「自分」という自我意識なのです。

これが全ての「害悪の根源」です。

 

ところが

「『自分』を捨てたら自分が無くなっちゃうんじゃないの。それじゃ只の抜け殻じゃん。生ける屍になるんじゃない?」

と錯覚している人がほとんどじゃないかな、と思います。

「自分」に拘ることが人生を散々なものにしている、

このことに気がついていない。

 

よっく考えてみてね。

人間の抱える問題のほとんどの原因が、

「人間関係」から生じていることは、よく知られていることです。

自分の身の回りで起きることを振り返ってみるとよくわかるんじゃないでしょうか。

全てのトラブルは

「自分」が「周囲から自分の身を守ろう」

と、そう考えたから起こったことばかりでしょう?

他人を批判したり、怒ったり、ねたんだり、弱気になってマイナス思考をしたり、ね。

結局のところ、

自我意識を捨て去ることに成功した者だけが、

人生の本当の意味や喜びを知ることができるのです。

「本当の自分」は、自意識を無くし、鎧兜を脱ぎ去ることができたときに、現れ出てきます。

多くの人は、

本当の自分を「自意識」という偽者の自分によって、封じ込めてしまったまま一生を終わるのです。

これにいつ気が付くか、

早いほうがいいに決まっているけど、生きてる間に気が付けば、

「安心立命」の境地に至れる、と思いますよ。

 

ただし、

眠欲、食欲、色欲は別だから、これまで悪とみなすことがないよう気をつけましょう。

これを失おうと努力したら、心身が壊れてしまう。

あくまでも、ほとんどの人たちの人生を台無しにしてしまう

最大の敵は、「自意識」なのです。

そんなものからは、さっさと開放されましょう。

人間は、元来自分の為にのみ生きるようにはできていないのです。

そんなことをしたら、その人は不幸せな人生を歩むだけです。

 

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「時」って何?

2018-02-10 14:46:12 | 日記

今、写本を1時間ほどしてみたところ。

いや~、ほんと、きちんと継続することの難しいこと。

「後悔先に立たず」とは人類永遠のテーマ。

特に私なんか、何度やっても懲りません。

また新たな気持ちでやってしまいます。

「『学習』ってことがあんたはできないのかね。」と自虐することしばしば。

とはいえ、過去は過去。どうにもなりません。

そこで今日のテーマは

「『時』って何だろう?」です。

たまには、青年時代の時のように、こんなことをぼんやり考えてみるのも良いようです。

 

人は、未来にのみ歩める。

「今」は瞬時にして「過去」になる。

そして人は「過去」へ遡ることができない。

まるで車窓の風景のように「今」が過ぎていく。

過ぎた過去を取り戻したい、と逆向きの電車に乗り換えたところで、

もうその時の自分ではないし、見える景色も違う。


時は過ぎてしまうと、自分が経験したことでさえも自分の時間ではなくなる。

何の関わりを持つこともできない。

感傷的になることはできるが、それは只のイメージでしかない。

実体はすでにそこにはない。

それどころか、「今」というこの一瞬すら感じることはできない。

 

結局、我々が実感できる「現在」は、未来にしか存在しないようだ。

これからやるべきことを考えたり、

様々に未来を想定しては、その対応策を準備する。

この未来への対策や計画を練っているときは、

旅の計画などのようにワクワクしたり

会議や事業準備をするときのように緊張感を感じたりする。

その時は、未来でありながらリアルなものを感じることができる。

 

ところが本番になってみると、

実際、その中のいくつかのパターンや

想定外のパターンが現実に起こるのだが、

その時は「今」だと思うまもなく、

瞬間的に私から離れ、過去のものとなる。

そうして、すでにその時は「なかった」かのようである。

そこにはもはや自分にとって何の意味も価値もない。

そして「次は何?」、「その為に、今何をすればいい?」

と、また考えることで、生きている実感を得ていくのである。

 

「光陰矢のごとし」という。

人は未来にしか生きることはできない。

だが、未来も有限だ。

私の人生も、そうこうするうちに、光のごとく瞬く間に過ぎてしまう。

虹のように捉えどころのない「時」

でも生きている間だけしか感じることのできない「時」

この不思議な「時」を意識してみると、自分の人生も愛おしくなってくる。

 

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