(秋利神ダム:本文トハナンノカカワリモアリマセヌ)
私、最近不安なことがあります。
もしかすると、私は変なのかもしれません。
というのも
「浮気性」のようなのです。
これが男女関係だけではなく、車の好みだってそうです。
軽自動車も好きですし、スポーツ仕様の車も好きです。
貨物車タイプだって好きです。
全部、それぞれに良い特徴があって、
実際に乗ると気に入ってしまいます。
先ほど、「くるくる寿司」に行きましたが、
そこでも同じ寿司は2皿食べません。
必ず違うものにします。
「おいしい!」
と思っても、次は違うものを取ります。
他の料理でもそうです。
お気に入りの料理があっても、
やむを得ない事情のときでない限り、2回連続は食べません。
女性の好みもそうです。
いろいろと詭弁を弄して自分に弁解してみるのですが、
やはり不安が残ります。
やはり「いけないこと」なのではないだろうか、と。
たぶん「浮気性」な自分を楽しんでいるんです。
男性も女性も、いろんなタイプが好きなんです。
誤解を招きそうなので、断っておきますが、
ゲイとかオカマとかという意味ではありません。
基本的に「人間」が好きなんだと思います。
例えば男性の場合は、凝り性や変わり者が特に好きなようです。
話をすると実に面白い。
発想がユニークで、かつ物識りな人が多いです。
一方で、「知ったかぶり」をする人や「自慢」や「偉ぶる」人は
嫌いなので、すぐに離れるようにしています。
まあ、ほとんどの人はこういったタイプは嫌いでしょうけど。。
大体は、少し話をするとわかりますよね。
「あー、この人とは語り合えないな」と。
私、男性と話すときと同じように、女性とも話します。
じっと目を見ながら、
会話のキャッチボールを楽しみます。
じっと目を見るのは、
女性は、感情をこじらせるとややこしいので、
反応を観察するためです。
女性との会話は、基本的に「そうね」と同意するようにしていますが、
チャンスを観ては、からかいます。
そこで笑いが生まれれば、「よし!」と思います。
垣根が一つ取り外せたような気がして、そうせずにいられないのです。
そうやって反応を見て楽しみます。
生真面目な子、大変頭の回転のよい子、人生経験豊富な女性、
寡黙な人、おしゃべりで明るい人、研究者、などなど
いろんなタイプの人がいます。
そんな様々なタイプの女性を捕まえては、
仕事のこと、悩み事、人生観、男女(夫婦)関係、女性の本音
といったことを聞くのですが、
こちらが初めから胸襟を開くので
割合に皆スムーズに本音トークをしてくれます。
大いに笑い、時には感心したり、驚いたり、
その反応は本音ではないな、と感じたら、からかったりします。
女性との会話の場合、男性とは違った楽しさがあります。
独特の親密感とでもいいますか。
それだけに男と女ですから、
間違うとややこしいことになりかねませんので、
注意は必要です。
そのリスクはあるのですが、
人間と人間の間に垣根を作るのが嫌いなので、
とにかくいろんなタイプの女性との会話を楽しんでいます。
たまには「こりゃ、やばいかな」と思うこともありますが、
そこはそれ「自己責任」ということにしています。
幾度か覚悟が必要かな、と思ったこともありますが、
ま、幸い一度も「事故」は起きていません。
そういう感じで、どうも私には「好み」というものはないような気がします。
「この人と会話するのは、自分がさらけ出せて楽しいなあ」
と思う人には、どんどん気軽に話しかけます。
それで、相手が笑顔を見せてくれたら
それだけで、こちらも幸せな気分になります。
こんなことを女房に話したら、ひっぱたかれるかもしれません。
今のところ、女房には面白かった話はしますが、
他人を信用しないたちなので、他人に本音を見せるのを嫌いますので、
様子見程度の話で止めています。
夫婦というものは、一緒に暮らす関係上、
行きずりの会話のようなものができませんから、
実に難しい関係と言えます。
なぜ、他人同士のときには楽しく会話ができるのに
夫婦になるとそうはいかなくなるんでしょうね。
他人ではなくなるからでしょうか。
私みたいなタイプは、世の中そんなにはいないかもしれません。
変わり者のうちでしょうね。
本人としてはあんまり自覚症状はありませんが。。
私の人生哲学(ちと大げさかな)は
「人生は大いに楽しむべし」です。
何と言っても命は短いです。
オギャー、と生まれて死ぬまで、
私たちは、何をする為に生まれたのでしょうね。
「人生観」「真理」「哲学」「悟り」
こういったことを求めることができるのは人間だけです。
他の動物たちには与えられていない。
私たちは、苦しみ、病み、悩み、老い、死への怖れ
そんなことのために生きているわけではありません。
生まれるのは一度きり、死ぬのも一度きり、
人間という肉体を授かり、その肉体を使って、短いながらも生きることができる。
そして大いにその生を活かす。
それだけ。
では、どうすれば生を活かすことができるか。
それには、「自他の区別」をなくすこと。
そのためにすべき第一は、自分へのこだわりをなくすこと。
すべての苦しみ、怒り、病気(先天性等自然のものを除く)
といった不調和は、ほとんどが自己へのこだわりや我が侭が原因です。
「自分」にこだわり続ける限り、
宇宙全体の波動と自分の小宇宙との調和は不可能です。
古来から良い生き方をしたかったら
「公を最大とし、私を最小とする」
ことと言われています。
「自利利他」
ともいいます。
「自利」がなくなれば、あとは他者の利があるのみです。
当然、他者と自分との境も漠然としたものとなります。
すると楽しいと感じたかったら、他者を楽しませるに限るわけです。
実は、そこにこそ本物の幸せがあるように思います。
もっとも、相手が「我利我利」ではこの気持ちを味わうことができません。
ですから、そのような相手は避けるようにします。
「我利我利」の方の顔を見てみてください。
苦しそうで、不満だらけな顔をしているでしょう?
残念ながら多くの場合、「我利我利」に凝り固まった人には、
「利他」といった考え方は理解できないように思います。
できるだけ近寄らないほうが良いでしょう。
また、数は少ないですが、
なんでも他人のせい、社会のせいにする「ひねくれ者」もいます。
いわゆる「人でなし」もいます。
そういった人たちも相手にしないことです。
私たちの身体自体が「宇宙」です。
夜空に星々が瞬いている広大な空間も「宇宙」です。
同じものです。
あるのは波動と調和だけではないでしょうか。
そこに不協和音を起こすのが私たちの「欲」です。
「虚」と「実」もないかもしれません。
あるいは「時」も不確かです。
「過去」はあるようであり、無いようであり、
「未来」もあるようであり、無いようでもある。
唯一、車窓の風景のように「今」だけが存在している。
しかし、それは虹のようにつかみどころがない。
そういう感覚です。
私自身は、「過去も現在も未来も同時にある」と考えています。
亡くなったご先祖たちは、みなそれぞれの時代を私の今と同時進行で生きている、
そんな気がするのです。
私の過去だってそうです。20歳のときの私は、今20歳を生きている。
そう思います。
自分の欲から離れると、そこには明るい世界が広がっています。
周囲を暗くしていたのも自分だったと気づきます。
あるままに観て、受け止める。
それ以上、そこに自分のフィルターを入れない。
そうすれば、無用な怒りや怖れ、悩みといったものは生まれません。
ただただ、元気よく、明るく、ポジティブに生きればいい。
周囲の人たちから暗い影を取り払い、すべて明るい気で満たすことができれば、
最高の人生と言える。
そのように思います。
それとこれとテーマの「浮気性」が何の関係があると言うのじゃ!
と怒られそうですが、
上の人生観が強まるにつれて、「浮気性」的症状が強まってきているのは事実のようで、、、
いったい、これはどう考えればよいのやら。。
人生観としては、正しいと思うのですが、現実の行動がどうも問題があるようです。
困ったものです。
途中で、内容ががらりと変わったにもかかわらず、ここまで読んでくれた貴方。すごいです。
ついでに、下のバナーまで押してくれたら、と欲張るのは「我利我利亡者」と呼ばれても仕方がないかもしれません。
お口直しに「亀津の海」を御覧ください。