インドラネット

パソコンが壊れる度に全てが消えるデジタルデータ。このブログをクラウド代わりに活用させてもらいます。

「礼」

2019-10-19 13:44:25 | 日記

 

今日は「礼」について

ちと最近感じるものがあるので書いておきます。

「礼」などというと

とても高尚なことのように思うかもしれないですが、

これは私が日常経験する中で感じたことだから、

全く世俗的なものです。悪しからず。

 

 

私は、元来「礼」という言葉が嫌いで、

「形にこだわってどうするんだ。こんなもの格好つけのくそったれだ」

と思っていました。というか今も思っているかも。。

 

私が感じる人間の持つべきもっとも大事な態度は、

論語で言えば「仁」、

仏教的には「慈愛」

の心であると思っています。

そこには「分け隔て」る感覚はありませんし、

人間というものは

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、

「天の下に平等」

な存在であると確信しています。

 

社会にはさまざまな組織があります。

組織内には、ヒラにはヒラに課された仕事があり、

係長には係長の、課長には課長の、

社長や町長にはその役割があるわけです。

いずれの場合も一生懸命やらなければいけない。

言うなればその役職は、「業務分掌」としてのものです。

係や係長は事務に遺漏があってはならないし、

その分野のスペシャリストでなければならない。

課長は課内の事務が滞りなく進んでいるか、

トラブルは起きていないか、

職員がストレスに苦しんでいないか、

そんなことを観て全体をマネージメントする。

社長や町長は、細かな仕事など知らないし、できなくても良い。

各事業の大まかな進捗状況さえわかっていればそれで良い。

組織全体が明るく元気であるように心がけ、

社内にトラブルがあれば情報を共有してやり、

組織の長として折にふれ職員に声かけをする。

組織として将来あるべき姿を示すのも重要な仕事です。

 

よって組織の長は、

最も「人徳」が求められる職務であると言えます。

「決してエリート社員を社長に任じることがあってはいけない」

と言われるのもこのためです。

求められるのは全体をまとめる「徳」であって、

誰よりも仕事ができる、ことではないわけです。

このように仕事や役職に上下はなく、

単に任せられた仕事内容が違うだけのことです。

いずれの職務にしろ一生懸命やれば、それで合格点なわけで、

特段偉いわけでもないし、

ヒラだからと畏まりすぎる必要もない。

これを誤解して

「俺は管理職だから偉いのだ」

と思う「小人」が多いので困るわけです。

「どこが偉いのだ。その職分をしっかり果たしている顔か鏡をよっく見てみやがれ。」

と言いたくなってしまう。

 

さてと、ちょっと熱くなってしまいましたが、

然し、こういった人たちがいることも現実です。

私の場合、地位的にどんな偉い方であろうと、

どんなに貧しい生活をしていようと

「いろんなことに興味を持って、生き生きと暮らしている人」

であれば、一切の区別はありません。

一方で

「マウンティングしようとする人」

「人を利用しようとする人」

「上に媚、下を侮蔑する人」

は大っ嫌いです。

「そんな人いるの?」

と思った人は、それだけで十分恵まれていると思います。

悲しいことですが、意外なほどいるものです。

そんな人に会った時は、通常その場をすぐに立ち去るのですが、

そうできない場合は、

「そのひん曲がった根性を叩き直してやりたい」

と思いながら会話してしまうので、

冷たい目を向け、やや険が立ってしまいがちです。

 

それはそうとして、

社会の中には「自己に対する敬意」

を求めてくる者も少なからずいるわけで、

どうもこういった人たちと私は、人間関係がうまく行かないようです。

相手にとっても、その私の表情が気に食わないんだろうと思います。

価値観の相違といいますか、

「幸せ」の求め方が違うと言いますか、、

 

私の仕事の仕方は

「誰のためにやるのか」、

そして

「その目的を知り、最大限の効果を提供する」こと。

そこに関わる人たちの人間関係を円滑にし、

胸襟を開いて(オープンな環境で)、

共に造る感覚を大事にします。

それ以外のことは瑣末な問題に見えるのです。

 

ところが、私にとって

「小さな取るに足らない」ようなことでも、

拘られて困ることがままあります。

そんな時は謝った上ですぐに忘れるようにするんですが、

どうもそこに「不遜さ」があるらしいんです。

もっとも一番の「不遜さ」は、

普段から相手の役職に対する「礼儀」が

不足していることに問題があるようなのです。

ほとんどのいわゆる「偉い方」とは大変円滑に関係を保てるんですが、

どうも封建的といいますか、

「礼儀」を重視する方はやはりおられます。

どうも表情にそのような「不愉快さ」が表れる人はいますので、

「こりゃ、悪かったかな」

と時々思うわけです。

 

 孔子は

「人にして仁ならずんば礼を如何。人にして仁ならずんば楽を如何」

というように「仁」(博く人を愛し慈しむ心)を

人間としての最高の徳と見なしているにも関わらず、

一方で「礼」の重要性も説いています。

「礼」というのは「謙虚さを現す形」と理解していますが、

これが社会においては必要だと説いているのです。

 

この「礼」を

私、だいぶ疎かにしていたのかもしれません。

「己は無であり、他者あってこその己」

という意識が強く、

自らの欲や拘りからはだいぶ解放されましたが、

それだけではいけないようで、

不本意ながら、

「不遜」とか「軽視」「上から目線」と誤解されたのでは、

これまた無用の長物。

こんな誤解はないほうがよい。

 

 「不遜」という言葉が度々出てますが、

「奢れば即ち不遜」

というように「不遜」とは「贅沢をし傲慢になること」を指すようです。

私にはまるでそのような「不遜」な気持ちはまるでないつもりです。

が、

よっく自分を省みて見ると、どこかしらで

「何でそんな小さなことに拘るのか」、

「もしかして偉そうにしたいタイプ?」

なんて咄嗟に思っているかもしれません。

どうも世の中のすべてのトラブルは

人間関係から生まれますので、

これからはもっと謙虚に生きるよう、心がける必要がありそうです。

何せ組織の中にいて仕事を任されている以上、

これをやり遂げることが第一要件となります。

喧嘩するのは簡単ですが、

それでチングァラ(島口:ご破算)になっても困ります。

 

 「智に働けば角が立つ。

 情に竿さば流される。

 意地を通せば窮屈だ。

 兎角に人の世は住みにくい。」

いやまさにこの通り。こんなことを言うところを見ると

夏目漱石もだいぶ人間関係に苦しんだんでしょう。

それでも

「人や人んな(ちゅやちゅんな:人は人の中)」

でしか生きられませんから、

人間である以上「無人島の一人暮らし」をするわけにもいきません。

 

ここはひとつ「謙虚さ」も身につける必要がありそうです。

この歳になって、こんなことを言うのもお恥ずかしい限りではあります。

でもどうすればよいのやら。

 

演技派じゃないもの。

相手によっては「かしこまった顔」をしなくちゃいけません。

軽口なんかたたいちゃいけません。

でも、もう歳取ってくると誰を見てもつい軽口を言ってしまうんです。

よく若い人が

「年寄りの決め付け」

「年寄りの暴言」

なんてこと言いますが、すでにかなり仲間入りしています。

うーん。どうしよう。

 

 論語に

「子、大廟(たいびょう)に入りて事ごとに問う。或る人の曰く、孰(たれ)かすう人の子を礼を知ると謂うや。大廟に入りて事ごとに問う。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」

(孔子が周公の墓所に行った際に式の仕方について一つ一つ尋ねた。すると、『誰だあの田舎者が礼に詳しいといっていたやつは。何も知らないではないか』と陰口を言われた。孔子はこれを聞いて『このように慎むことも礼ですよ』と答えた。)

とあります。

普段から「仁」こそ最も大事といい続けた孔子ですが、

やはり人間関係には「礼」が大事なようです。

 「慎み深く人に接する」

実は、生まれてこの方こんな生き方をしたことがありません。

今からでもできるようになるんでしょうか。

 

もし、「慎み深く人に接する」私になれたとしても、

周囲の人たちから「気持ち悪い」と言われそうです。

 

 今、煩悶しています。 

 


人生論

2019-10-08 15:17:06 | 日記

今回のテーマは「人生論」です。

最近、ストレスを抱えて元気がなくなっている人を見かけます。

人間、「おぎゃー」と生まれたからには

くよくよ、すねすね、めそめそしながら生きてもつまらない。

そんなことのために生まれたんじゃないでしょ。

大いにやりたいことをやり、

「あー楽しかった」

と言って人生終わりたいものです。

 

今回は「人生論」。

大げさな題だけど

これは、備忘録として書くものだから、

「そりゃ違うんじゃない?」

と思っても、ご容赦のほどを

宜敷奉願上候(よろしくねがいあげたてまつりそうろう)

なのだ。

 

 

私、いつも思っていることがあります。

ちょっと下に並べてみます。

 

〇 世の中に難しいことなどそんなにあるもんじゃない。

あるとすれば「感情」だ。

ところが、この「感情」を発動させることに躊躇ない者がいる。

彼(女)らはその怖さがわかっていない。

何もかも打ち壊してしまうだけだが、感情の発動を立派なことだと思っているらしい。

そうなったら、ほっておくしかない。

感情から冷静さは生まれない。

 

〇人生のあらゆる場面で「普遍的」で「本質的」なものをイメージして

判断の基準とする。

 

〇「自分のために生きるのをやめよ」

 「名誉欲」や「恐怖心」、「怒り」、「苦しみ」といった

人生を台無しにする「感情」が生まれるのは、

「自分のために生きている」からである。

 

〇「誰かのせいにしているのではないか」

「誰かに何かをしてもらおうと思っているのではないか」

良い人生を歩みたかったら、

他者のために何ができるか、だけを考える。

これを習慣付ける。

 

〇「積極的に生きよ」

わずかでも消極的な考えが浮かびそうになったら、

「ショ」のところで考えをとめ、

「積極的な言葉」に置き換えること。

そして「仁」の心でもって「明るく」「朗らか」あろうとすること。

人生を最高に生きたかったら、これ以外はいらない。

 

〇無限にある「気」を取り込む。

それをしないでいたら抜け殻みたいになってしまう。

 

〇寝付く前の10分間のすごし方次第で、充実した人生が送れるかどうかが決まる。

「良い言葉」のシャワーを浴びて寝よう。

 

〇人にはそれぞれ役割がある。

天命かもしれないし、義務かもしれない。

そこで自分以外の人のために精一杯やる。

そこに自分の幸せや充実感がある。

 

〇人は「気(ブリル)」で動いている。

その「気」を取り込まないと体は動かない。

「気」の供給が止まるとたちまち体は活動を停止する。

ロボットは、電気が止まれば停止するだけで済むが、

人間は、体を構成する物質間の結合が解かれ、塵となる。

 

〇人間の体は、

宇宙空間のように素粒子とその空間だけでできていて、

まさにスッカスカ。

我々は、そのスッカスカの空間によって構成されている。

本当ならば、

人と人は、ぶつからずにすれ違うことも可能なはずだ。

ミクロの世界においては、

肉体とその周囲の空間との境目など、ないに等しい。

私と貴方の間には空気が存在しているが、

そこに境目はないはずだ。

ただ物質の集合密度がやや高いだけ。

でも、私たちは固体ごとに別の存在だと思っている。

とんだ勘違いをしているのではないだろうか。

 

〇個性は、素粒子集合体の構造に若干の違いがあって、そこから生じるもの。

考えは、環境や学習によって培われた経験をもとに作られるもの。

まさにAIそのもの。

AIも育った環境で、一つ一つがまるで違う考え方をするらしい。

人間もAIも電気が止まれば、それまでの存在。

人間もその電気をどこからか取り込んで生きている。

だから体からオーラが出ている。

このオーラが出なくなると死期が近いという。

逆に普段からちゃんと「気」を取り込んでいれば、寿命は全うできる。

 

〇「生きようとする意志」はどこから来る?

→それが「宇宙の本質」だから。「宇宙」は未来に向かってのみ常に前進しようとする。

 

〇この宇宙には「始まり」も「終わり」もない。

この大原則は、

時間軸としての「現在」・「過去」・「未来」が同時に存在することを意味する。

つまり、聖徳太子も平清盛も織田信長も自分のご先祖たちも、

実は「今」を今も生きている。

「今」同時に悩み、戦い、将来を描いている。

 このように考えると、

「私」は昭和35年に生まれて、これから何年後かに死ぬわけですが、

この時代を無限ループで、繰り返して生きることになるのだろう。

子供の頃、そんな気がしたことを思い出す。

ただし、固定された出来事を繰り返すのではなく、

その時その時の判断は、周囲の条件が変わることで変わるので、

人生そのものが今回とは全然違うものになる。

単なる無限ループではない。

 

人生を最高に味わうコツは、

「積極的に生き、

他者の笑顔を吾が幸せとし、

どんなことにも興味を持って生きる」

に限るわけだが、

この真理を再び捜し求めて、

またチルチルミチルの旅を始めることになるわけです。

いつ終わるの?

なんて野暮なことです。

今もそうであるように、

未来に予測はつかず、

人生は常に新鮮であり続けるのです。

 

 

宇宙に時間の概念はなく、光の速度も決まっておらず、

「あるとも、ないとも」わからない世界です。

もしかすると、人類はこの謎を追い続けるために

存在しているのかもしれません。

 

 

 

 

定年も近くなり、ボーっとすることも増えました。

というか、あまり悩み事がありません。

そのせいか、なんだか「心」の方は

年をとるごとに健康になってきたように思います。

もちろんそれだけ長く生きてきたということ。

人生を長い時間軸で見ることができるようになると、

人生観もだんだん単純化されてきます。

そんなに難しいものでもなさそうです。

要は明るく、積極的に生きるということ。

そんなことがわかってきます。

その分、年を重ねたせいで

肉体自体はあちらこちらと劣化が見られますけど。

 

まあ、それが動物の一生だからと、と割り切れるわけですが

できるだけ、生きてる間は存分に生を楽しみたい、と思います。

そのためにもそろそろ真面目に

「肉体の健康」についても考えてあげようかな。

 

運動は苦手なので、呼吸法とか・・

(甘い!)


ツィッターはほどほどに

2019-09-29 22:00:03 | 日記

(亀津の街:本文とは何の脈絡もありません)

 

私最近、ツィッターをやっています。

何が良くて皆ツィッターをやっているのか、わからなくて

じゃあ自分でやってみようと思ったわけです。

(登録自体は、だいぶ昔にしてあったんですけどね)

 

最初、何が面白いのかさっぱりわかりませんでした。

ネットニュースを見るたびに、

「なんじゃそりゃ、どういうことじゃ」

なんてブツブツ言っていたのを

「ツィート」するわけですが、

トランプ大統領なんて、これで国民に直接メッセージを流しているし、

この拡散力は、ブログの宣伝にも効果がありそうだ。

それにニュースの備忘録的にも使えるかもね、

って感じてつぶやき始めたんです。

 

そしたら、ネットニュースとはまた違った情報が

そこには展開していることがわかって、

これがまた結構面白いんです。

ツィッター向けニュースに目を向けると、

そこには新鮮なニュースだけではなく、

いろんな人のいろんな反応が書き込まれていて、

そこから現在進行形とも言える

「時代の流れ」の変化を感じることができます。

しかも

「イヤ、それは違うぞ」、「おー、素晴らしい意見だ」

なんて思ったら、

つい私もツィートしてしまうわけです。

 

ここからが、またツィッターの面白いところで

即、様々な方からの反応が返ってきます。

ま、数は少ないんですが。。

すると、反応してくれた方のツィッターを覗いてみたくなります。

で、そこへ飛ぶ。

するとそこには別世界が広がっているわけです。

もう、こうなると止まりません。

そこのツィートの世界にしっかりと浸ってしまいます。

たちまち時間は過ぎていきます。

こりゃ、いかん

と思うのですが、中々ストップがききません。

 

そんなことをしていると、

不思議なことに、ブログに書きたいことがなくなるんです。

いつも、短いとはいえ、

その都度自分の主張をしてしまいますから

何も残らないんです。

それは、そうなんですが、

ツイッターは、いつでも自分が思った時点で書き込みができますので、

結構自己満足できます。

しかも、自分好みのニュース(レアで新鮮)がそこにある。

ネットニュースよりもリアルタイムな情報が氾濫している。

それに加えて、

ネットを立ち上げるとツィッターが最初に開く設定になってますので

どうしても多くの時間をそこに費やしてしまうことになります。

 

今日も夕食後、ツィッターで「通知」などを見ていたら

娘から、「お父さん何してんの」

って聞かれたので、

「ツィッター、これつい見ちゃうんだよね。おかげでブログが全然書けないよ。」

と言ったら

「あー、それ芸術家の人がよく言っているよ。ツイッターやると作品が描けなくなるんだって」

「エッ」

 

 

いやあ、合点、合点。

頭の中では、わかっていたんだけど

外部からの指摘って大事ですね。

ツィートは「ガス抜き」行為に間違いなく、

これをやる限りパワーは決して溜まらない。

このことをようやく自覚することができました。

 

 

そこで早速、私決めました。

「ツィッターは1日1回だけ。

帰宅後、夕食までの間のみとする。」

とね。

これでようやくクリエイティブな生活が送れる、

はず。。

 

 

さて、

この意志薄弱な男はどこまでこの決まりごとを守れるか、

・・・・・・・

こ、怖い。

自信がない。

もうすでにツィッターのタブに目が行っている。

早くタブを閉じるのだ。

なぜ、早く閉じないのだ。

 

プチィ。

せめて今日だけでも意志は通さないと。

私は、私をコントロールできなくなってしまうかもしれない。

やばい、やばいぞ。

こんな短期間でさえも中毒的症状が出かかっている。

それともこの症状は、「生活習慣病」の一種なのか。

 

 

 

皆さんは、大丈夫ですか。

「ツィッター」、コントロールできてますか。

「生活のすべて」になんかなっていませんか。

「ツィッター」はコントロールできるけど、「ライン」は駄目、

なんて人いませんか。

 

「過たるは及ばざるが如し」

 

何事もほどほどにしましょうね。


密教の世界(その3)

2019-09-17 10:42:47 | 日記

久しぶりです。ブログ。

今回は、長々と相当に気を張り詰めて仕事してたので

いっぺんに二ツのことができない私の性格上、

ブログはあえて見ないようにしておりました。

昨日、ようやく仕事の一区切りがついて、ちょっとぼんやりしています。

ひたすら寝てやる、

今はそんな感じです。

 

今の仕事は、中々に緊張感があって、これはこれで悪くはない。

「日々新境地を味わう」

そんな感じで楽しんでおります。

(もしかするとこれが一生で最後の充実体験かもしれませんしね)

 

ところで、前回「密教の世界(その2)」で

「人類全体の精神世界の構造」

という言葉が出てましたが、

これは意味深です。

つまり我々は「個」として生きているわけではない

ということだと思います。

「人類全体の精神世界」

いい言葉だと思います。

 

今日は、この続きです。

池口恵観ワールドをお楽しみください。

 

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平成29年12月11日東京高野山東京別院にて  430名参加

池口恵観「第4回密教特別講演会 神秘の要諦を学ぶ」

 

池口師は、

密教とその奥義である修法は、師資相承で伝えられ、誰もが習得できない、

という伝統について、

「密教とは、秘密の教えであり、

秘密とは、神仏の大いなる力を神仏に代わり使わせていただく、

ことを意味する。

誰もが使用を許されないのは、

悪人や悪霊に秘密の力を利用されれば、

世の中だけでなく、眼に見えない世界も揺らぎだすからである」

とした。

また

「密教では、

秘密瑜伽の修法を以って宇宙と一体となれば、

自らが存在しているその場がすべての中心となり、

そこから宇宙全体を動かせる、

という奥義がある。

その要諦は、

自分と言う個体とそれが発する波動を、

自分が宇宙そのものである、

という意識に変換させれば、

自分とそのエネルギーは、

宇宙と宇宙が発するエネルギーに合致する。

そのとき、宇宙の波動は自分自身のものとなり、

その波動を自在に操ることができる。

これが三密瑜伽のイメージである。

 

宇宙は万物を生み出すだけではなく、

絶えず創造活動を続けている母体であり、

癒す力と創造的なエネルギーで満たされている。

眼に見えない宇宙のエネルギーは遍満し、

互いのエネルギーの相互作用によって影響を及ぼし合う。

 

私たちの周囲に未知の物質エネルギーが偏在する

と言うことは、

世界中の科学者が指摘しているが、

現代科学では解明されていない未知のパワーは、

昔から風水では「気」と言われ、

密教では加持祈祷という神秘の力として利用され続けてきた。

古代から人類は未知の力をうまく『取り入れる』ことで、

健康や幸運、方策をもたらし、

諸々の良い効果を生じさせることができる、として活用してきた」

 

と、神秘の力の根底にあるエネルギーの存在をわかりやすく解説した。

 

「私たちは、日ごろの生活の中で、

誰かの言葉や行動が受動的に記録され、

自分自身に限界があると信じ込んでしまう傾向にあるが、

そのこと自体に気づいていないため、

自分自身の夢や前人未到のものに立ち向かおうとしても、

潜在意識に自分の限界がプログラムされ、

可能性の障害になっている。

だが、

実体験に即した成功哲学を潜在意識に刷り込ませて上書きし、

固定観念化された考え方そのものをシフトすることで、

奇跡的な力は発揮できる。

やり抜こうとする強い信念、

心が物質をコントロールする、

ということが神秘の力を生む鍵になる」

 

と解説し、会場では数多くの聴講者が熱心にメモをとる姿が見られた。

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池口先生は、日々の行を始め、

大変ハードなスケジュールの中で長い間活動してこられた方です。

毎月、主として弘法大師空海の書き残した「三教指帰」といった

難解な密教をわかりやすい表現で紹介し続けた『最友』の発行をはじめ、

数冊の本を発行され、講演やいくつもの大学で教鞭をとってこられました。

一方で信者からの相談会を定期的に開くとともに

世界各地での戦没者慰霊活動、

8000枚護摩行などの大イベントを100回以上も行うなど、

超人的な活躍をしてきました。

しかも大変な読書家でもあります。

人が一生という時間的制約の中でできる量を超えています。

 

そんな行者の言葉だけに、大変重みがあるわけです。

上記の講演録は、

いうなれば池口恵観先生の生涯をかけた到達点

としての「悟り」の世界といえるでしょう。

思えば、恵観哲学は、

中村天風先生の説いた世界

(宗教でもない、修養法でもない、健康法でもない、何物にもとらわれない教え)

とかなりダブります。

というか、どこからスタートしても「到達点」は同じということなのでしょう。

 

私たちにできることは、

深い苦しみや悲しみの中から「到達点」を知った哲人達が

人々にもその世界を知らせるべく著した本や言葉に少しでも触れること。

その「到達点」の感覚をわずかでも感じられたらラッキーですね。

なんだかおいしい果実だけいただくようで

反則気味ではありますが、、


密教の世界(その2)

2019-08-25 12:09:03 | 日記

今日は、前回に続き、「密教の世界」(その2)です。

とてもわかりやすく表現されていますが、それでも大変難解です。

というか、実感が難しい世界です。

でも

「あー、それそれ、その世界」

と同感することはできると思います。

私が「最友」から講演録の部分を書き写しておいたものです。

それではお読みください。

 

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平成29年11月13日東京高野山東京別院にて、400名余参加

池口恵観「第3回密教特別講演会 意識の世界に働きかける要諦」

 

池口師は

「私たちの意識は、他の誰のものでもなく自分だけのものであり、

各自がじかに経験する現象である。

生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで私たちは意識を持ち続け、

それぞれが固有の存在である。

では、『意識』は進化するのか、死によって消滅するのか。」

と語りかけ、

死後の意識についての宗教的見地にとどまらず、

「意識とは何か」

「意識はホモ・サピエンスの時代から始まったのか」

「意識は進化するのか」

などの切り口から、インド古代伝統哲学であるヴェーダや脳神経外科の視点を例に挙げ、

古代の社会では、「意識」は他の人々の「意識」と結びつくこと、

現代医学における「意識」は別の人間の体に影響を及ぼすこと、

などを紹介し

「意識」と「見えない世界」との密接な関係について述べた。

さらに世界各地の古代文明を

習慣、建造物、工芸品などから詳細に観察すると、

全く接点のない様々な場所、異なる時代に生きた民族であっても、

すべての文明が情報を共有していたことがわかるとし、

理論的には説明しがたい

「人類全体の精神世界の構造」

についてもわかりやすく解説した。

また、伝統的な「密教の視点からの見えない世界」の捉え方を説いたうえで、

最先端科学の「量子力学における見えない世界」へのアプローチが

伝統的な密教の概念と一致するとして、

「量子力学では、宇宙のすべてのものの究極の構成要素は眼に見えない粒子であり、

宇宙のすべての存在は、たとえ何億光年離れた場所での些細な出来事であっても、

時間と空間の制約を受けずに影響しあっている」

と論じるが、これは仏教の縁起とも完全に一致すると述べ、

密教の「加持祈祷」の構造と原理についても現代科学になぞらえながら解説した。

 

当日は、真言宗徒以外にも多くの聴講者が訪れ、眼に見えない世界に働きかける方法や潜在意識の作用についての興味深い講演に熱心にメモをとる姿が見られた。

※ 途中、適当に改行を入れました。(インドラネット)

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量子力学で解説する「宇宙のすべての存在は、時間と空間の制約を受けない」

とはすごい研究ですね。

過去、現在、未来が同時混在する世界。

始まりもなければ終わりもない世界。

 

自分という固体に拘ることの無意味さを感じます。

 

恵観先生の話は、なんだか宗教というよりも、哲学の世界です。

「哲学」を「行」によって、「実感」まで持っていこうとしているように思えます。

以前、恵観先生は

「時間というものは、早くすることも遅くすることも可能」

とおっしゃってましたが、

だからこそ、超人的な活動が可能なのかもしれません。

十数年、恵観先生の活動をみていると、

一人の人間ができる量を超えていましたので、、

まさに「時間」のコントロールをした、ということかもしれません。

 

次回は、「第4回講演録」です。


密教の世界

2019-08-21 01:22:06 | 日記

密教、つまり真言密教のことですが

以前、鹿児島最福寺が出していた「最友」を、私よく読んでいました。

難解な密教の奥義を、わかりやすく説いてくれるので

大変勉強になりました。

 

「最友」で真言奥義を解説されていたのは

弘法大師空海以来の「百万枚護摩行者」である池口恵観大僧正で

徳之島にも来てくださったことがあります。

ラッキーなことに、直接お会いすることができました。

少しも偉そうな方ではないので、そのときは少し驚きました。

 

その少し前に別の宗派の大僧正と、ある懇親会で飲む機会があり、

少し話もさせていただきましたが、

その方は、どことなく威圧的で、かつ世俗的な印象があり、

「本当に坊さんかいな」

といささかがっかりしましたので

池口恵観大僧正はどうなのかな、と思っていましたが

お話を聞くと、飾らない、とても真面目な方のようでした。

今は、空海が入定される最後の日に彫刻したという「廿日大師」を本尊とする

高野山真言宗別格本山「清浄心院」という

お寺の住職となられましたので、「最友」も休刊(?)しているようです。

 

ところで、

この「最友」が休刊する少し前に

恵観先生の体感された

珍しい「悟り」の世界

について書かれた講演録が3,4回に分けて掲載されていました。

その内容は、私の感じていたものと、とても似ていて

「あ、間違ってはいなかったんだ」と大変心強く思いました。

もちろん、私などとは違って

恵観先生は、500年来の修験者の家系の者として、

一生を修行に明け暮れ、

しかも弘法大師空海以来、

1200年ぶりに「百万枚護摩行」を達成された

大行者ですから、

悟りに至った苦行の重み、体感された「悟り」の深さ

などなど全く及ぶものではありませんが、

講演で表現された宇宙の真理には、共感するものがありました。

下に、その「第2回」の講演録を紹介させていただきます。

(「第1回」分を見つけることができませんでした。残念。)

修験者の「悟り」です。

とても参考になると思います。

 

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平成29年10月12日東京高野山東京別院にて

池口恵観「第2回密教特別講演会 真言密教・祈りの秘鑰(ひやく)『眼に見えない世界を感じるために』」

 

 密教では、生と死はひとつの全体として捉えられ、「この世」と「あの世」は同時に存在し、そこでは死は新たな生の始まりに過ぎず、無意識が時間と空間を超越しているのと同じく、あの世も時間と言う概念はない。

 また、欲望も物質的条件も超越したエネルギーの波のようなその世界では、愛と知恵に満ち溢れ、感情のある現在・過去・未来の生命体の存在が微細な粒子となって集合し、巨大な一つの意識となって、雲のように連なっている。

 そこでは、一つの小さな粒子が人間であり、本来、私たち一人ひとりの意識であり、それが集合しつながった状態は、水は氷や水蒸気となって循環するように、人間の魂や意識といったものも水と同じく循環している。

 私たちの意識は大海の一滴であり、壮大な輪廻と言う循環を繰り返している。

 その中で生きる私たちが、純粋で素直な思で深く物事を認識し、すべてが変容していくと言うことに気づけば、自分の中の柔らかく、ふわふわとした何か、その何物にも打ち砕かれることも、変化させられることもない、本質的な存在に気づくことができる。

 (話は変わるが)アメリカを例に出せば、西洋医学だけに基づく医療が既に50%を切り、ハーバード大、コロンビア大など権威ある大学が「祈り」を研究の対象とし、その研究例は1200を超え、「精神神経免疫学」という新しい分野が開設され、古来より人間が続けてきた「祈り」が、最先端の研究分野になりつつある。

 密教が重んじてきた「祈り」の効果や、その作用が、現在科学的に解明されようとしている。

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なんだか、真言密教の宣伝みたいになってしまいましたが

宗派は関係なく、

結局、真剣に行に打ち込んだものにだけ見える何かがあるということなんでしょう。

日常生活のみで、特に修行をしているわけでもない人たちも

似たような感覚は感じることができると思いますが

気を失うような、厳しい行の中で感じた「悟り」は

より深く、「実感」する感覚なんだろうと思います。 

 

私流に解釈すれば、

〇 宇宙は一つの意識体で、我々はそれを個別に感じているゆえ、別物と思いがちだが、その意識は同一のもの

 

〇循環する意識が、たまたま人間と言う固体に宿っている状態、それが私

 

〇現在・過去・未来が同時に混在し、「気」として動いている。「祈り」はその「気」の動きと同調させる働きを持つ

 

〇逆に言うと、その「気」の動きから外れることで不協和音が起き、「苦しみ」は生まれる

 

ということでしょうか。

 

 

次回は、第3回講演録を紹介しますね。


岡目八目

2019-08-10 23:30:25 | 日記

前回ブログをアップしてから20日もたってしまった。

ちょっとまじめに仕事をしたら、

腰は痛くなるわ、バイオリズムはおかしくなるわ

やっぱり、年のせいかしらん。

その間に、とっても幻想的な写真が撮れたので

とりあえず、貼り付けときます。

向こうに見えるのは、「奄美大島」です。

 

 

さてと、

いろいろ書いておきたいことはあるけど、

今日は、「岡目八目」的生き方です。

 

よく『正論』を読んで、愛国心が高まって熱くなる人たちがいます。

「正論」は立派なメディアで、日本にとって有益な存在ですが、

こういう人たちに「正論」は、むしろ危険なように思います。

 「シナも朝鮮も許せない!」、

「こんな奴らは日本から追い出せ!」、

「社会の悪だ」 と、単純にこうなりがちです。

 彼らは、自分で考えないから簡単に思い込むことができるし、

他人の意見や世間の風潮にあっさりとなびきます。

 戦前、新聞にあおられて

「自分たちは正義の戦争をしているのだ」

「鬼畜米英だ」

と、感情にまかせて行動したタイプと同じに思えます。

この考えが別に間違っているわけではないですが、

この手の人たちは、集団心理に落ち易く

思考が停止するから困るのです。

「極右」にも「極左」にもなり得る人たちです。

 

こういうタイプは、時代が変わると

米国が大得意のGHQ的情報戦略にコロリとやられてしまうことにもなります。

教科書に書かれたことを鵜呑みにし、

批判や疑問を受け付けず、

新聞やテレビ、権威あるものの言うことをそのまま信じる人たちです。

右から風が吹けば左になびき、左から風を送れば右になびく。

為政者からすると大変扱いやすい

従順な「庶民」なのです。

昔から「民は草。風が吹けばなびく」という格言があって、

今も為政者の常識です。

あなたもそうなってはいませんか。

 

我々庶民が気をつけること、一番大事にすべきことは「バランス」で、

常に自分をニュートラルにしておくことを心がけること。

感情のままに動かないこと。

「国家とは何か」、「国民とは何か」

をしっかりと理解しておくこと。

そうしないと右にも左にも簡単に洗脳されちゃいます。

いったん洗脳されたらもうだめです。

眼が覚めるまで(つまりすべてが終わるまで)、

何も見えなくなります。

価値観が単純化するために、結論が一目で見えるようになり、

注意する者を小バカにするようになります。

自分の頭で

「それは本当か。裏の目的があるのではないか。」

といった冷静な分析ができなくなるのです。

 

普段から一歩、渦中から離れ、

他人事のように

別の場所や上空から眺めなおしてみる癖が必要です。

これが、この情報戦争だらけの社会で、

右往左往しないで済むコツです。

現代のようにどんなに情報があふれていても、

その中にニセ情報がまぎれていても、

ぼんやりと眺めてみれば、「おやおや」と見えてくるものです。

大掛かりに仕掛けられている情報戦略の場合には、

もそっと高みから見なければわからないわけですが、

そんな時には、自分には見えなくても、ちゃんと分析のできる人はいるものです。

彼らの言葉に耳を傾けることさえできれば、

地に足を付けていられます。

 

情報氾濫のネット社会ですが、

耳を澄ますことさえできれば、

そのネットのおかげで

とても貴重な意見や、重要な情報を知ることができます。

数十年前なら本屋で探し求めるか、

直接、これはと思う先生に教えを受けない限り、

真実など知ることなどできませんでした。

 

もちろん大手マスコミや「電通」が支配していた時代でも、

その洗脳作戦に影響されず、

その危険性に警鐘を鳴らし続けた少数の知識人たちがいました。

実際はもっといたのでしょう。

然し、庶民にその情報が伝わることがなかった。

今や世界は「インドラの網」と同じ環境が現実の社会で張り巡らされ、

地球の裏側のことまで、手に取るようにわかる時代になりました。

これからはもう二度と、かつての「為政者の時代」はやってこないかもしれません。

「風」を吹かそうにも、

穴の開いた鞴で風を送るようなもので、

米国のような巨大国家やユダヤ人が支配するマスコミでさえ、

うまく庶民をコントロールすることができなくなりました。

「情報」や「分析」があちらこちらから漏れ伝わりますから。

 

彼らに残された手法としては、

10年以上の期間をかけて、組織力とお金を使い、徐々に情報量を増やし、

人々を「感化」させる方法のみが残されているといっていいでしょう。

為政者(ある目的を持った組織)側からすると、

非常に根気の要る長期計画になります。

しかも、どこかでばれたら終わりですし。

相統巧妙に、かつ謙虚に静かに、時には弱者の姿で、

粘り強く、神を信仰するかのごとく、強い意思をもって継続し続けることになります。

 

 

ところで、

「脳内爆発」という言葉があります。

一定期間同じテーマで勉強したり、

運動したりしていると、

突然何もかもが旨くできるようになることです。

脳内にバラバラに保存されていたデータが、

突然に連携を取り合えるようになる瞬間を指します。

これと同様に、インターネットの社会もこれだけ情報が飛び交うようになると、

「脳内爆発」と似た現象が起きる可能性が高い、と思います。

それがどのような形で出現するのかはわかりませんが、

その視点でこのネット社会を見つめておく必要があります。

AIも同様です。

人や国家による独裁者は現れにくくなりましたが、

代わりにインターネット網の発達が

ある種の「脳内爆発」を起こすような気がするのです。

 

 

話を戻します。

一番怖いのは「思い込み」です。

人間ですから「思い込み」はあってあたりまえですが、

これが一番「思考」を狭めます。

そこで少しリスキーですが、

ぜひ「投資」をやって見ることをお奨めします。

資産の1/5程度を「投資」に回してみるのです。

失敗しても、成功しても自己責任です。

でもとても勉強になると思います。

そこでわかることは、

失敗する原因の最大のものが自分の「欲」、

そしてそこから発生する「思い込み」だということです。

「上がるはずだ」、「下がるはずだ」というやつです。

社会的、政治的、経済的な諸条件や

過去のデータ推移などを検証はするのですが、

それが正しいわけではありません。

多分に「情緒的」であったり、

「気まぐれ」であったり、時には「故意」であったりするのが「市場」です。

10年以上かかるかも知れませんが、

そのうち、一切自分の「思い込み」を信じなくなります。

 

「投資」の世界で有名な言葉に

「まだは、もうなり。もうは、まだなり」という言葉があります。

これはまさにそのことを表しているように思います。

多くの人が「まだ、上がるだろう」とか「もう、下がるだろう」と言うときは、

その逆が起こる前触れ、と言う意味です。

「投資」の世界では、一切の「欲」から離れ、

シンプルに物事を見る努力が必要です。

 

 

こういった精神状態を端的に表した言葉が

「岡目八目」です。

仕事でも、投資の世界でも、普段の生活でも、

何か自分で判断が必要なときに必要となる、大事な考え方です。

いかにして、「自分」から離れた状態を保ち続けるか、

上等な生き方をしている人は、それができているんだと思います。

私など、わかっているのにすぐに気が緩むから、すぐに「自分」に捕まっちゃう。

人生はいつだって油断大敵玉手箱なのです。

10回のうち8、9回は、「自分」への拘りから離れて

冷静に「判断」や「行動」ができるのに、

どうしても1,2回はうまくいかない。

こういうときは、気が緩んでいるときで(今まさにそれ)、

すべてをオジャンにしてしまいます。

ああ、「俺」ってやつは懲りないなあ、と思うのです。


三峡ダムの異変

2019-07-21 22:01:00 | 日記

今日のニュースで一番気になったものが、これ

世界最大の中国・三峡ダムに決壊の噂 当局打消しに必死

どうやら世界最大のダムとして有名な「三峡ダム」に異変が起きているようです。

いったいどういうことになるのか。

ふと、長江から大変な数の死躰が東シナ海に流される、

そんなイメージがチラッと頭をよぎり、

あわててイメージを打ち消しました。

 

ところが、

偶然ではありますが、先ほど目を通した

本日の「宮崎正弘の国際ニュース」というメルマガにも

下記の書き込みがされていて、

些か気になりましたので紹介します。

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(読者の声2) 中国南部の洪水がすごいことになっています。 https://www.epochtimes.jp/p/2019/07/45034.html 習近平主席にとっては弱り目に祟り目、共産党王朝も寿命ですかね。   (PB生、千葉)


 (宮崎正弘のコメント)

複数のメディアが懸念を伝えていますが、世界一の三峡ダム、

すでに重みに堪えかねて変形しており、また亀裂が数千箇所。

決壊は時間の問題ではないかと懸念されています。

三峡ダムの決壊はすでに十年も前から指摘されていますが、下流域の被害は甚大、

花園堤防を蒋介石が爆破して逃げたときに60万から百万人が溺死し、

進軍をやめて日本軍が救援にあたりました。

国民党は、爆破を日本軍がやったと宣伝していました。

ゾッとするような悲劇がおこる可能性が高まっています。

拙著でも紹介したことがありますが、中国人学者がシミュレーションをした

『上海沈没』という本を思い出しました。

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長江周辺では、すでに大雨による洪水が起きているということです。

恐ろしいことが起こるかもしれません。

ダムが決壊すれば、一気に長江流域の町を襲い

河口域に広がる上海にまで甚大な被害を及ぼししかねません。

 

近年のシナ内陸部において頻発する地震も

この三峡ダムを建設したことによるのではないか

と盛んに指摘されています。

それを裏付けるような記事が

ウィキペディアにあります。

どうも地盤に問題がある地域のようです。

 

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「地質が脆い場所に作られたダムに貯水を行うと、ダム湖斜面や周辺の地盤への水の浸透と強大な水圧により、地滑りやがけ崩れが発生することがある。

三峡ダムでは2008年末時点で132カ所で合計約2億立方メートルのがけ崩れが発生していたために、当局は水位を満水の175mにすることなく172.5メートルで打ち切り、約2,000人を緊急避難させている。

その後、三峡ダム区地質災害防止作業指導事務室チームが調査を行った結果、5,386カ所で地滑りやがけ崩れなどの問題が発生するおそれがあることが判明した。

重慶市内の雲陽県涼水井地区では、2009年3月以降、川岸の430メートル、400万立方メートルにわたる土砂が崩落し、長江の主要航路に土砂が流れこむ恐れがあるとして厳重監視対象地域になっている。

同地区に近い村では、地盤の変動で民家が徐々に引き裂かれながら移動するなどの被害も出ている」

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とあります。

かなり脆弱な地盤の上に作られたダムのようです。

これは、習近平政権が総力を挙げて対策に当たらないと

共産党政権による共産党のための「中華人民共和国」は、

ダム崩壊とともに崩壊するかもしれませんね。

 

それにしても、上にPBさんの

「弱り目に祟り目」という表現がありましたが

確実に「斜陽期」に入った中華人民共和国にとって

これはまさに致命傷になりかねない大問題(しかも喫緊の)です。

下流域には、いくつもの大都市が控えています。

中でも上海は2000万都市。

シナ経済の心臓部ともいえる地区でもあります。

 

最終的に三峡ダムは、

貯水規模を半分以下に縮小して生き残りを図るか、

あるいは解体するしかないのでしょう。

ようやく掴んだ「国家の繁栄」と「国民の命」を守るために。

 

 

そもそも「自然」を相手に人間が好き勝手なことをするから

こんなことになるんです。

「人間」と「自然」とは共生するのが理想です。

「大規模開発」するのではなく、利用させてもらう。

山林のように、自然に任せてほったらかすよりも

人間が適当に木を切り、牧を採り、生活道路を作ったほうが

多種多様の生き物たちが暮らしやすくなるといいます。

田ん圃だってそうです。

共に暮らす。お互いにお互いを活用しあう関係。

そういう態度を大事にすれば、

お互いに最大の恵みを受けることになるんです。

そしてそれこそが、災害にも強い環境を創り出すのです。

 

 

今日のマスコミは参議院選挙のことばかり放送しているんでしょうが

それどころではない事件が世界では進行中です。

災害大国日本としても、

シナ共産党との国防、外交、経済の問題は抜きにして

長江水害問題、三峡ダム緊急補強問題には

積極的にかかわるべきだと思います。


歴史の研究スタイル

2019-07-13 13:32:22 | 日記

今日も長くなっちゃった。

ほんと毎回、まるで関連性のない話題ばかり。

いつも

「ハッ!」としては行動し、

しばらくすると、

ぜんぜん違うことに熱中しいている。

何の計画性もない人生ではありますが

積極的で、楽しく、生きればそれでよし。

自分で選んだ生き方だもの。

 

普段ちゃらんぽらんなのに、文字にすると大真面目になる。

この豹変振りも自分で楽しんでます。

もし、ちょっとだけなら読んでみようかな、

と思う人は

ちょっとだけ読んでみてね。

 

 

《文献史学的研究スタイル以外を軽蔑する傾向に対する批判》

 

徳之島の記録を例にとると、よく税の収奪という点が注目される。

極端な表現によると8公2民であったと。

確かに文献史料のみを見ていくとそのようなことになる。

ところが、

そこには藩の目こぼし分や、地元役人の目こぼし分が反映されていない。

なぜかその面への視点がすっぽり抜け落ちて

誰も気が付かない。

どうも光の当て方に問題があるような気がする。

 

徳之島の場合(サトウキビ政策が進んだ1800年代に限るが)、

島役人による藩への献上額は異常とも言えるものがあった。

これらは、いったいどこから得た収入であったのだろうか。

一方、一般農民は黒砂糖を舐めただけで罪に問われた、

と明治大正の記録には書かれている。

ところが実際は、各家々にある程度の量は保管が許されており、

これは『仲為日記』(島役人の日誌)の記録にさりげなく出ているからわかるが、

当時問題とはなっていない。

 

また、島民はよく焼酎も飲んでいたようだ。

ノロの祭事はもちろんのこと、

永良部に代官として赴任途中の侍が残した日記に

湾屋(わんや・藩の指定港)の下っ端役人が、

夜な夜な酔っ払ってほら貝を吹くので、

眠れないじゃないか、と地元の役所に苦情を申し立てた。

朝、当の代官が呼び出して問い詰めるが

「記憶にありません」と突っぱねられて、大した注意もできなかった、

ということである。

 

8公2民の重税では、このようなことは不可能である。

では、彼らはどこからそのような余剰砂唐を手に入れていたのか、

というと、「隠し田」ないし「隠し畑」と表現される

税の対象とはなっていない田畑が相当量あったのである。

 

それを証明するには、

藩政時代の黒糖収穫高と明治12年の竿次帳によるデータを比較すればよい。

収穫高に対して税(8公2民)をかけた時代と

土地に対する税(固定資産税方式)に変えた明治以降の税方式では、

なんら耕作スタイルや品種が変わったわけではないのに、

田畑の面積が2倍前後に急拡大している。

当然、収穫高も倍増したはずである。

 

今すぐにデータを詳らかにすることはできないものの、

面倒な作業にはなるが、データ提示することは可能である。

つまり、これらの田畑は藩政時代は藩から「目こぼし」されていたのである。

だから、最大8公2民(これは、その後の会計上のからくりも加えた最大税額である)

とも言われる税負担にも耐え、

かつ島役人の膨大な蓄財も可能だったのである。

 

先ほど紹介した『仲為日記』を書いた仲為という人は、

惣横目(島役人の上から2番目の地位)をしていたが、

日記からもわかるように極めて実直な人物で、

人々からも慕われていたようだ。

西郷隆盛の世話をし、西郷家とはずっと家族ぐるみの付き合いをした間柄であった。

その仲為ですら、地元で道普請や川筋工事などを行ったうえ、

藩へ10万斤もの黒糖を献上している。

仲為は、不正などとは縁のない人物であったようだが、

その彼ですらそれほどの蓄財ができた。

まして出世蓄財に眼のない役人など、どれほどの財を持っていたのだろうか。

たとえば、

1820年ごろの公共工事ブームのときは、

島役人が競って自腹を切り、

橋をかけたり、大規模な川筋変更を行ったり、道路拡張工事を行った。

彼らは、その功績を藩に申請して、

「郷士格」(侍に順ずる)を一代ないし永代で認められるのである。

 

さて、これだけの事実がありながら、

不思議なことに「封建の極北」島津領治下の徳之島では、

農民は疲弊し、百姓による一切の抵抗は許されなかった、

武士は「切り捨て御免」の世界であった、という常識がまかり通っている。

このような誤解はどこから生まれるのか、

というに「公文書」ばかりを基礎史料としているから、

こういうことになるのである。

 

「公文書」は確かに多く残されている。

そしてそこに書かれていることは「命令調」で、

言うことを聞かなければ「断罪に処す」と書いてあるから、

まともに見れば「封建社会」を表す模範的例文集である。

もちろん通達する側は、

形式的通達であって、実情は別であることは百も承知している。

文書主義の研究者たちは、これをそのまま受け取る癖があって、

それを論拠にする。

そのために先のような「常識」が生まれるのである。

 

「人」に対する解釈が足りないからそういうことになる。

命令する役人としての立場に置かれた「人」の心理、

あるいはそれを拝受する立場の「人」。

 

「人」は耐えるばかりなどできない。

「生き残る」ためなら何だってする。家族がいるのだから。

彼等をむざむざ餓死させるくらいなら「死んだほうがまし」であろう。

これはいつの時代でも同じである。

どうにもならないとなったら、

生まれた土地など捨てて姿を隠すか、他の島へ逃げ去るか、

徒党を組んでお上に命を賭けて抵抗するか、

何らかの抵抗を行うのである。

そんなことになっては、支配するものからすると大問題である。

「上に策があれば下にも策がある」のである。

 

「人」の心理を読まずに「机上の空論」をするから見落とすのである。

自分自身がその状況におかれたらどうするか、考えてみればよい。

「おかしい」ことにいくつも気が付くはずだ。

あるいは「なぜ?」という疑問がわくはずだ。

藩の事情、お上の事情ばかり考えるから見落としが出る。

「お達し」を協議決定した「人」の心理や

作文した「人」が誰なのか、だって影響する。

 

そもそも藩がなぜそれほど強い「お達し」をするのか。

むろん、様々な島の裏事情(からくり)を知っているからである。

派遣された役人と島役人が馴れ合いになるのを防ぐため、

賄賂が横行し、不正が見受けられるため、

あるいは島役人が島民に高利貸しを行い、

借金を返せない者を質に取っていることを。

あるいは黒糖の製造に手抜きを行っていることを。

また、あるいは税の対象となるべき田畑の面積が半分ほどしかないことを。

 

とはいえ、

彼らは、文章の上では強烈な脅しをかけるものの、

現実には島を支配しているものは島役人であることも知っている。

「藩からの命令である。違反するものは厳罰に処すから、そのつもりでおれ!」

と怖い顔をして新任代官はお達しを述べるが、

「ははー!」

と神妙な顔をして引き下がる島役人にそれ以上の追求はできない。

大体、様々な折をみて、

5人しか来ない派遣役人一同へ

島役人たちからお祝いの品々が届けられれば、

それでも「たたっ斬るぞ!」と言える代官などいない。

ただただ、折り目正しくあることを心がけ、

島民に「範を垂れ」てみせることくらいしかできないのだ。

 

「人」である。

いつの時代であろうとも、今と変わらぬ「人」が政治を行い、

商工を行い、農業を行っている。

よく

「文献史学には、これまで民衆の立場からの検証が抜け落ちていた」

という反省が聞かれる。

しかし、これでは支配者、被支配者の2視点から見た単純思考に陥ってしまう。

そのような「部分」に眼をやるから見えなくなる。

すべての歴史は「人」が創るのである。

支配層が、被支配層がなどといった分別は無意味である。

この「人」は、時と場所が変われば逆転した立場になり得る。

 

歴史をやるものは、

一切の史観や政治的イデオロギー、

後世的解釈を入れてはいけないのは、当然である。

(まして、後出しジャンケンなど許されるものではない)

自分をまっさらにして、

その時代に自らも身をおかねば何も見えない。

一切のフィルターを排除しなければ行けない。

 

まして、支配層がある一定の目的(意図)を持って書かせた文献を

絶対のごとく崇拝するのは、以ての外である。

必ず、文献とは別の複数の違った視点からの検証が欠かせない。

例えば、

気象(生死にかかわる)、

宗教(太陽、火、水、石といった自然崇拝)や文化、

出自(伝統や習慣を同じくする)、

人口推移、言語(方言)、

外交(海外からの影響・世界の動き)、

地形学(地域の特性に地形が与える影響は絶大である)、

交通手段、自然(水の確保・災害)・・・

いろいろ考え付く限りに当たってみる必要がある。

 

それは「人」が生き残るために何が必要だったのか、

なぜそういう行動をとったのかを知るためである。

 

こうしてみると、

先史から始まる「歴史」を研究しようと思うものは、

先にあげた分野とは別に、

普段から心理学や哲学、宗教学、民俗学的視点の涵養が必要になりそうだ。

 

 

「人」は「動物」という生物の一種類でしかない。

すべての史跡、記録はその動物たる「人」の生きた証である。

生まれ、生き残りをかけて生き、子孫を繋ぎ、死ぬ。

これは生きとし生ける地球上の全生物が行う

「生物たるものの大共通項」である。

「本能中の本能」である。

これを必ずやベースに置き、

すべての研究は行われるべきである。

よく大学の論文などに、

実につまらない瑣末な問題にこだわって「研究」しているものが見受けられる。

それ以上、研究の応用が効きそうにもない、単なる言葉遊びのような。

まあ読み飛ばせば良い事だけど、

そんなことに有能な頭脳と人生を無駄に使っているのを見ると、

もったいないことに思う。

 

 

以上のことは、以前から心の中で思ってはいたが、

文字にはしていなかったので一度書いておこうと思った次第です。

たまに自分のブログをいくつか読んでみることがあるんですが、

自分で書いたことも忘れ、

「う~ん、なるほど。」と感心したりすることがあって、

最近「呆け」てきたのではないかと不安になることがあります。

自分の「後学」ためにも書き残しておかないとね。  


米国がイランを攻撃する理由

2019-07-08 17:40:06 | 日記

あー、久しぶりのブログアップ。

いやあ、しばらく真面目に仕事してましたからね。

ちょっと一息といったところ。

それなのに本日のブログは国際政治。

本当は、心の問題について書くつもりだったんだけど、、

 

 

北野幸伯先生のメルマガに次のことが書いてありました。

一部だけ抜粋します。

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★イラン情勢がかなりヤバくなってきました

 

(前略)

IAEAは、イランが合意を順守していることを認めた。

それで2016年1月、対イラン制裁が解除されたのです。

はっきりいって、「イラン核合意」は、オバマさんの

「偉大な成果」といえるものです。

イランは核兵器をつくることができない。

しかし、原油を輸出することができるようになり、経済的 に楽になった。

それに、合意を守っているかぎり、アメリカからの攻撃を 恐れることもない。

皆ハッピーだったのです。

ところがトランプさんは2018年5月、「イラン核合意から の離脱」を宣言。

なぜ、こんなことをしたのでしょうか?

 

イランはIAEAの査察を認めており、合意の下で核兵器製 造は不可能です。

考えられる理由は二つあります。

一つは、イランがイスラエルの脅威であること。

オバマさんは、決して「親イスラエル」ではありません でした。

しかし、トランプさんは、ネタニヤフさんの親友。

イヴァンカさんの夫クシュナーさんは、ユダヤ人。

それでイヴァンカさんもユダヤ教徒になっている。

つまり、イランからイスラエルを守るために、核合意離脱した可能性がある。

 

もう一つは、「ドル基軸通貨体制防衛」。

イランは、ドル以外(たとえば中国には人民元で)の通貨で原油を売っています。

2000年、イラクのフセインは、原油の決済通貨をドルか らユーロにかえた。

それでアメリカに殺された。

アメリカが反イランなのは、これが原因なのかもしれな い。

(後略)

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私、イラン情勢の根本にイスラエルの安全保障がある、とばかり考えていました。

それはそれで確かなのでしょうが、

考えてみれば、北野先生がおっしゃっているように、

イランが原油の決済を元でやっているのであれば、

それを中華人民共和国と行っているのであれば、

イランは触れてはいけないものに触れてしまっています。

 

米国は国際基軸通貨「ドル」を持っています。

これは米国が「ハイ、一万ドル。」と紙に書いて、

一万ドル分の商品を手に入れることができるということです。

紙とインクがある限りいくらでも書くことができます。

昔、部活で先輩がメモ紙に千円と書いて後輩に渡し、

「これで酒を買ってこい」と無理を言われた、と聞いたことがあります。

本当にお店に持っていった後輩もいたようです。

もちろんお店は取り合わない。しこたま怒られるだけです。

ところが米国はこれをやっています。

しかも怒られるどころか、逆にみんなから欲しがられます。

 

これまでいったいいくら米ドルを発行したか知りませんが、

第二次世界大戦後、

米国は、いくらでもお金を刷ることが出来る

「打ち出の小槌」

を手に入れました。

この「打ち出の小槌」を武器に、世界の支配者となったわけです。

たまには王者の風格で心優しいアメリカを演じて見せたり、

多くの場合は、力(金、軍事力)にものを言わせてきました。

 

強者が弱者をいじめる快感。

 

軽蔑すべき行為ですが、

この不道徳者は「三省」などという言葉は知りませんから、

自分に「徳」がないことに気が付くことはありません。

 

さて、この米国のパワーの源泉が「国際基軸通貨を手にしたことによる」

と気が付いた者たちが、そっと反発してみたり、欲しがったりします。

当たり前のことですが、これを守るときの米国は恐ろしい。

米国に抗しようとするもの、基軸通貨に色目を出すものを決して許しません。

経済力をつけた国は、当然、自国通貨を外国との決済に使いたくなります。

そのときは、米国の了解のもと、一定限度

(米国の利害に抵触しない程度)

使うことはできます。

「ODAによる円借款」なんてこれに似たものでしょうが、

国際通貨の地位を狙うには程遠過ぎます。

 

経済力をつけた国は、世界に流通する自国通貨の割合を増やしたいものです。

少しでも比率を高め、世界第2位の地位につけておけば、

米国に何か(内乱とか)起きたとき、取って代わるチャンスが訪れるかもしれません。

 

しかしイランのやっていることは、ちょっと意味合いが違います。

もちろん「ドル建てをやめたら、わかっているな」との米国からの脅しもあったはずです。

それでも原油の取引に中華人民共和国の「元」を使っています。

米国が、「支那はかわいい後進国」と思い込んでいたうちは

まだ大目に見ていた部分もあったかもしれません。

でも、今は急激な経済成長とともに欲望をむき出しにして、

隙あらば米国を飲み込む勢いです

こんなことを許せば、基軸通貨「ドル」が揺らぎかねません。

多くの国は、「面従腹背」しているだけで、本音は米国嫌い(AIIB加盟のときはすごかった)でしょうから、

坂道を転がり落ちるように、アメリカは王者の地位を失うこともありえます。

それだけに本気なのです。

イランのやっていることは、まるで

「さあ、何かやってみなさいよ、アメリカさん」

と喧嘩を売っているのと等しいようにも思えます。

 

ご存知のように中華人民共和国は、

米国と現在「覇権戦争」の真っ最中です。

何せこの国は、急激に成長した経済力と人口パワー(世界人口の1/6を占める)で

「元」を世界の基軸通貨にしようと着々と布石を打ってきました。

少し前、シナでは「米国の時代は終わった」、そんな言葉も出ていました。

 

米国もあせっているのでしょう。

米ソ冷戦時代以来の開催となる「現在の危機に対する委員会」を開催し、

「支那共産党を敵と見なす」

との決定を最近行ったそうです。

日本を敵国視して、シナを甘やかせているうちに、

気が付いたらすぐ自分の足元まで迫っていて、歯をむき出していた。

「この野郎!飼い主に牙をむく気か!」

米国は、ようやく今頃になって、敵国を見間違えていたことに気づいたわけです。

阿呆です。

昔から米国の外交は、最低レベルとの国際的評価がありました。

自分の言うことを聞かせるばかりで、相手国がどう思っているかなんて気にかけない。

1強時代が長いからそんなことになるのです。

 

今、米国は総力を上げて中華人民共和国をつぶしにかかっています。

経済、人権、軍事上の圧力を強め、

いくつかの国にそのための共同歩調をとらせています。

 

そんな大変なときに、米国はイランにも軍事攻撃を仕掛けようとしています。

戦線を広げることが危険なことぐらい、米国だってわかっているはずなのに、

何をしているのだろう。

今日まで不思議でしょうがありませんでした。

イランは中東における反イスラエル国の筆頭とはいえ、

現時点では、それほどイスラエルが追い詰められているとも思えませんし。

 

そうしたら何のことはない。

「イランは、中華人民共和国と元建てで原油を取引している」というではありませんか。

北野先生が書かれているように

「2000年、イラクのフセインは、原油の決済通貨をドルからユーロにかえた。それでアメリカに殺された。」

この二の舞をイランは犯しているということです。

リンカーンやケネディでさえも

「政府紙幣」を銀行券とは別に発行しようとして殺された(私はそう確信している)くらいですから、

「タブー中のタブー」に触れたことになります。

自国の大統領ですら殺害するのです。

ましてや、外国の一つや二つ、何の躊躇があるでしょう。

 

つまり、米支覇権戦争とイランは、そこでリンクしているわけです。

もっとも、リビアのカダフィ氏のように反イスラエル

(オイルメジャーも敵に回したから、それだけでもないが)

の元締めとして睨まれて、殺されたケースもありますから、

イランの場合は、二重のリスクをしょっていることになります。

ただで済むはずがないのです。

フセインもカダフィも、核兵器を持っていない(持たない)ことが確認されたとたん

殺されました。

イランは、まだ核兵器を保有していません。

 

イランは、わかっているのでしょうか。

わかっていてこれだけのリスクを背負っているとすると、相当な度胸です。

お隣のイラクが、大統領ともども消されたのを間近で見ていながら、です。

その後も、イスラエルに敵対していたシリアが、

イスラエルと米国に操られたISに危なく国を奪われるところまで行きました。

 

米国は、世界の世論を味方につけ損ねた(「やらせ」が皆にばれた)ために、

シリアのアサド政権の追放には、結局失敗したけれど、

あれは、イスラエル嫌いのオバマ大統領の時代だったから出来たのであって、

共和党政権となった今は違います。

 

米国の「やらせ」に、もはや世界が付いて来るものか、

とイランが高をくくっているとしたら危険です。

トランプ大統領が、たとえ「武力戦争」に乗り気でなくても、

何かのきっかけを作ってでも、戦争を仕掛ける可能性は十分にあります。

特にボルトン氏のグループは危険で、何をしでかすかわかりません。

 

ちょっと、しばらくは中東の様子から眼を離してはいけないようです。

日本は、未だに中東からの原油にエネルギー資源を頼っています。

恐ろしいことです。

 

 

とはいえ私は、原発「絶対反対派」でもあるので、

原油が入らない=原発再稼動、とはなりません。

しかし、自然エネルギーも

地熱発電なら活用し甲斐があると思いますが、

それ以外はあまり期待しがたい。

 

しかし、超有望なエネルギーとして

ほぼ既に出来上がった技術があります。

藻から原油を生み出す

「藻バイオ」プラントです。

弱点は、原油よりコストが高いこと。

しかし、日本の田ん圃の数パーセントを使えば、

すべての国内エネルギーが賄える、と書いてあったのを読んだことがあります。

共同開発していたIHIとモルガンの説明では、

「1バーレル100ドルなら採算が取れる」と言っていたはずです。

すぐに生産を開始して、

いざと言うときのために、国が補助金を出してでも

一定量を確保すべきでしょう。

 

 

 

今日は、米国がなぜイランとシナ2国同時に戦おうとするのか、

とても疑問だったのが、

少しだけ謎が解けたような気がして

ついつい長文になりました。

ここまで読んだ人がいたら

すごいんですけど。

 

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