今日は「礼」について
ちと最近感じるものがあるので書いておきます。
「礼」などというと
とても高尚なことのように思うかもしれないですが、
これは私が日常経験する中で感じたことだから、
全く世俗的なものです。悪しからず。
私は、元来「礼」という言葉が嫌いで、
「形にこだわってどうするんだ。こんなもの格好つけのくそったれだ」
と思っていました。というか今も思っているかも。。
私が感じる人間の持つべきもっとも大事な態度は、
論語で言えば「仁」、
仏教的には「慈愛」
の心であると思っています。
そこには「分け隔て」る感覚はありませんし、
人間というものは
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、
「天の下に平等」
な存在であると確信しています。
社会にはさまざまな組織があります。
組織内には、ヒラにはヒラに課された仕事があり、
係長には係長の、課長には課長の、
社長や町長にはその役割があるわけです。
いずれの場合も一生懸命やらなければいけない。
言うなればその役職は、「業務分掌」としてのものです。
係や係長は事務に遺漏があってはならないし、
その分野のスペシャリストでなければならない。
課長は課内の事務が滞りなく進んでいるか、
トラブルは起きていないか、
職員がストレスに苦しんでいないか、
そんなことを観て全体をマネージメントする。
社長や町長は、細かな仕事など知らないし、できなくても良い。
各事業の大まかな進捗状況さえわかっていればそれで良い。
組織全体が明るく元気であるように心がけ、
社内にトラブルがあれば情報を共有してやり、
組織の長として折にふれ職員に声かけをする。
組織として将来あるべき姿を示すのも重要な仕事です。
よって組織の長は、
最も「人徳」が求められる職務であると言えます。
「決してエリート社員を社長に任じることがあってはいけない」
と言われるのもこのためです。
求められるのは全体をまとめる「徳」であって、
誰よりも仕事ができる、ことではないわけです。
このように仕事や役職に上下はなく、
単に任せられた仕事内容が違うだけのことです。
いずれの職務にしろ一生懸命やれば、それで合格点なわけで、
特段偉いわけでもないし、
ヒラだからと畏まりすぎる必要もない。
これを誤解して
「俺は管理職だから偉いのだ」
と思う「小人」が多いので困るわけです。
「どこが偉いのだ。その職分をしっかり果たしている顔か鏡をよっく見てみやがれ。」
と言いたくなってしまう。
さてと、ちょっと熱くなってしまいましたが、
然し、こういった人たちがいることも現実です。
私の場合、地位的にどんな偉い方であろうと、
どんなに貧しい生活をしていようと
「いろんなことに興味を持って、生き生きと暮らしている人」
であれば、一切の区別はありません。
一方で
「マウンティングしようとする人」
「人を利用しようとする人」
「上に媚、下を侮蔑する人」
は大っ嫌いです。
「そんな人いるの?」
と思った人は、それだけで十分恵まれていると思います。
悲しいことですが、意外なほどいるものです。
そんな人に会った時は、通常その場をすぐに立ち去るのですが、
そうできない場合は、
「そのひん曲がった根性を叩き直してやりたい」
と思いながら会話してしまうので、
冷たい目を向け、やや険が立ってしまいがちです。
それはそうとして、
社会の中には「自己に対する敬意」
を求めてくる者も少なからずいるわけで、
どうもこういった人たちと私は、人間関係がうまく行かないようです。
相手にとっても、その私の表情が気に食わないんだろうと思います。
価値観の相違といいますか、
「幸せ」の求め方が違うと言いますか、、
私の仕事の仕方は
「誰のためにやるのか」、
そして
「その目的を知り、最大限の効果を提供する」こと。
そこに関わる人たちの人間関係を円滑にし、
胸襟を開いて(オープンな環境で)、
共に造る感覚を大事にします。
それ以外のことは瑣末な問題に見えるのです。
ところが、私にとって
「小さな取るに足らない」ようなことでも、
拘られて困ることがままあります。
そんな時は謝った上ですぐに忘れるようにするんですが、
どうもそこに「不遜さ」があるらしいんです。
もっとも一番の「不遜さ」は、
普段から相手の役職に対する「礼儀」が
不足していることに問題があるようなのです。
ほとんどのいわゆる「偉い方」とは大変円滑に関係を保てるんですが、
どうも封建的といいますか、
「礼儀」を重視する方はやはりおられます。
どうも表情にそのような「不愉快さ」が表れる人はいますので、
「こりゃ、悪かったかな」
と時々思うわけです。
孔子は
「人にして仁ならずんば礼を如何。人にして仁ならずんば楽を如何」
というように「仁」(博く人を愛し慈しむ心)を
人間としての最高の徳と見なしているにも関わらず、
一方で「礼」の重要性も説いています。
「礼」というのは「謙虚さを現す形」と理解していますが、
これが社会においては必要だと説いているのです。
この「礼」を
私、だいぶ疎かにしていたのかもしれません。
「己は無であり、他者あってこその己」
という意識が強く、
自らの欲や拘りからはだいぶ解放されましたが、
それだけではいけないようで、
不本意ながら、
「不遜」とか「軽視」「上から目線」と誤解されたのでは、
これまた無用の長物。
こんな誤解はないほうがよい。
「不遜」という言葉が度々出てますが、
「奢れば即ち不遜」
というように「不遜」とは「贅沢をし傲慢になること」を指すようです。
私にはまるでそのような「不遜」な気持ちはまるでないつもりです。
が、
よっく自分を省みて見ると、どこかしらで
「何でそんな小さなことに拘るのか」、
「もしかして偉そうにしたいタイプ?」
なんて咄嗟に思っているかもしれません。
どうも世の中のすべてのトラブルは
人間関係から生まれますので、
これからはもっと謙虚に生きるよう、心がける必要がありそうです。
何せ組織の中にいて仕事を任されている以上、
これをやり遂げることが第一要件となります。
喧嘩するのは簡単ですが、
それでチングァラ(島口:ご破算)になっても困ります。
「智に働けば角が立つ。
情に竿さば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。」
いやまさにこの通り。こんなことを言うところを見ると
夏目漱石もだいぶ人間関係に苦しんだんでしょう。
それでも
「人や人んな(ちゅやちゅんな:人は人の中)」
でしか生きられませんから、
人間である以上「無人島の一人暮らし」をするわけにもいきません。
ここはひとつ「謙虚さ」も身につける必要がありそうです。
この歳になって、こんなことを言うのもお恥ずかしい限りではあります。
でもどうすればよいのやら。
演技派じゃないもの。
相手によっては「かしこまった顔」をしなくちゃいけません。
軽口なんかたたいちゃいけません。
でも、もう歳取ってくると誰を見てもつい軽口を言ってしまうんです。
よく若い人が
「年寄りの決め付け」
「年寄りの暴言」
なんてこと言いますが、すでにかなり仲間入りしています。
うーん。どうしよう。
論語に
「子、大廟(たいびょう)に入りて事ごとに問う。或る人の曰く、孰(たれ)かすう人の子を礼を知ると謂うや。大廟に入りて事ごとに問う。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」
(孔子が周公の墓所に行った際に式の仕方について一つ一つ尋ねた。すると、『誰だあの田舎者が礼に詳しいといっていたやつは。何も知らないではないか』と陰口を言われた。孔子はこれを聞いて『このように慎むことも礼ですよ』と答えた。)
とあります。
普段から「仁」こそ最も大事といい続けた孔子ですが、
やはり人間関係には「礼」が大事なようです。
「慎み深く人に接する」
実は、生まれてこの方こんな生き方をしたことがありません。
今からでもできるようになるんでしょうか。
もし、「慎み深く人に接する」私になれたとしても、
周囲の人たちから「気持ち悪い」と言われそうです。
今、煩悶しています。