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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 51号

2008-04-09 | 創刊~100号

       ■こならの森51号■1992.7発行

表紙/三毳山はれ

C・o・n・t・e・n・t・s

3… 結婚=津布久さん夫婦
4…13 特集「埋蔵金」
14…青春の断想・きれい瞬間
15-20情報
21…書評・絵本紹介
22…カラムコラム・街角の肖像
23 ミステリーワールド
24-27両毛五市 佐野市
28-29 インタビュー
30こならの森から~
31…協賛店MAP

………………………


【本文抜粋記事】


特集「埋蔵金」

■緊急特集@徳川埋蔵金■

●最近のテレビ、ギミアブレイクやその他の局が、埋蔵金について番組を作っているが、その辺の情報のうち大切と思えるものを拾って見ると……。
赤城は河川と交通路を上っていけ、地形の利点がある。また、地質てきにも火山灰で粘り気があり埋蔵に適している。
 上州にはたくさんの目撃談が残されている。宝360万両は四畳半くらいの大きさになる。
 元警察署長三枝茂三郎は、赤城山西麓を30年間も掘り続け、庚申塚の林立する百庚申のそばで、「『この山の中を訪ねよ』と刻まれた石を発見している。」
 また、キーワードとしては……「鳳凰は北へ飛んだ」「不動のものに気をつけろ」「すでにあるものを利用する」「江戸から東北、北東は鬼門にあたる」「徳川にとって東北は弱かった」「西南の方角は良かったものが悪くなる」
 [ 取材開始 ]
 突如として、強行取材を決行するのは、この発掘調査班の身の上だが、どうやら前回の企画は勇み足だったようだ。「庚申」というものにまどわされて、庚申信仰の総本山足尾の庚申山へいってしまったが、実はそこではなく、閑馬にある庚申山(こうしんやま)こそが、本命だったのだ。
 赤城は囮で、赤城と日光男体山のちょうど中間地点に位置する庚申山が宝の埋蔵場所だということは前回書いたし、現地にも行って見たが、どう考えてもこんな山奥まで宝を運んでくるとは考えにくい。というのが、現地調査での収穫で、帰りの車の中でえられた結論だったのだ。
[ かね・づかの謎とは ]
@佐野市には、「庚申塚」と書く町がある。どう読むのだろうか、「こうしんづか」と読むの
は、まあふつう。佐野に住みながらも、そんな町あるの? と言われてしまうのがオチだろう。だが、これがなんと、『かねづか』とよむのだ。『かね』とは、金のことだろか。
 その辺も興味深いし、他ではあまり聞かないのも事実で何か隠されていると思えてくる。
 また田沼には「亀」の字がつく名字がなぜ多いのか。亀とは兵法でいう宝の番人。それが守っている山という意味か。
 そして、閑馬の庚申山のすぐ奥にある集落は、「金原」というのだ。その近くの山の名前も金原山だ。この関連性は偶然とは思えない何かがあるに違いない。しかも、このまわりに、金とつく地名は他にはない。なにか、ここに「金」に関係するもの(埋蔵金)があったにちがいない。
 そして、庚申塔の分布も非常に多いと聞く(別図参照)。
 埋蔵を思い立ったのは伊井直弼だということはもう皆さんご存じだと思うが、その伊井直弼は安佐にも訪れているのだ。しかも、どのルートをとったかという詳細な地図まで残っているのだ。
 また、よいと思ったことは直ちに実行するタイプという。

■前回の京谷さんとのインタビューでは話の趣旨が埋蔵金の事ではなかったので紹介していないが、話の中では、埋蔵に関係するのではないのかと思われる事項も出て来ていたので、今回まとめて紹介してみたい。ただし京谷さん自身は、徳川埋蔵金に対しては否定的な見方をしているということは、残念ながら最初に断らなければいけない。
 …庚申塔の数だけでも田沼町で四〇〇〇を越えていますからね。田沼町史の中でも特に特長がある所です。とにかく閑馬では一つの山で、一〇〇〇を越えています。
■山というのはそんなに大きくない山ですか。
 そうですね。名前も庚申山(こうしんやま)です。石の標柱には、千体庚申山なんて書いてありますね。
■ よっぽどの何かがあったんですか。
■  あったんでしょうね。
 どういう信仰でそうなったかということは非常に難しいんですけれども。作られるのは、幕末期になって爆発的になった、ということはコレラ、そういうことも考えられるのかなと思いますね。
■ひとつ作るにもそれなりのお金がかかるわけですよね。
 そうですね、素人には彫れないですよ。また、その地域の人だけじゃなくって遠くのほうからも奉納に来ていますね。
■佐野は、家康公の眠る東照宮の真下に当たる訳ですよね。距離も江戸とちょうど半分で、昔の易学とか、方位学からすると、どうも気になる位置ですね。
 しかし、事実、家康の柩は佐野で一泊しています。それほど、佐野は重要視されたということなんですね。
 柩は川越から行田市、館林、佐野へ。元和三年(1617)の三月二八日に今の元三大師に一泊しました。その、一泊した所には東照宮が造られる訳ですから佐野の東照宮は日本でも古い時期に造られた東照宮なんですね。ですから、今の東照宮は幕府お抱えの棟梁が造った訳なんです。もちろん方位にもあたるわけですが、東照宮は江戸から見て真北にあたり、北極星は動かないということから、徳川の天下は動かない。また、日光から関東平野を見ているんだと。関東平野を見るということは、天下を見るということですからね。そこに、家康を祭って大権現としたわけです。
 柩の総責任者だったものの領地も佐野にあったんです。
[ さあ庚申山へ ]
 以上のことから、こならの森埋蔵金取材班は、前回参加出来なかった日立市在住で埋蔵金に対しては、独自の理論を展開する松本隆祐氏を同行しての編成隊で早々に取材活動を開始した。 まず、佐野元三大師にある東照宮へ向かってみた。ここでは、この東照宮がどの方向へ向いているかが問題だった。日光の方角かと思われたが、東を向いて建っていた。1829年幕命により造営されたとある。
 また、高橋町には、なんと埋蔵にかかわった小栗上野介の領地があるというのだ、それも群馬の権田村よりも多くの領地だという。
 高橋町にある渡良瀬川の土手に登って見たが、安佐のどこに埋蔵されているにせよ、小栗上野介の領地であったことからして、埋蔵金はこの当たりに荷揚げされたに違いない。
 高橋村の名主、人見宗平は小栗上野介の一周忌の夜に、首級を盗み出すことに成功し、権田村の東善寺に葬ったということだ。そんなことから雀神社には、小栗上野介親子の霊が祀られているそうだ。
 ただ不思議なことに付近の神社がみな南を向いて立っているにもかかわらず、この神社だけは東向きだった。これは、先に見て来た東照宮と同じではないか………。 そして、東照宮では眠り猫の彫られている裏に、雀の彫刻が彫ってあるという。そして、猫の彫刻とうのはだいたい目を開けているという。 眠っているのは東照宮だけだそうだ。それも、宝暦には、猫の記載がなく、雀の位置には三鵲があったそうだ。いつから、現在の位置になったのかは不明。だが、東照宮の彫刻はそれぞれに意味があり、重要な位置に置かれているという。また、富士山には左甚五郎作という粗彫りの眠り猫があるという。この位置関係はどうなのだろう。
[ 出流原町に残る埋蔵金伝説 ]
 そして、いよいよ庚申山へ向かうことにした。途中に出流原町を通る。佐野市史によると、このあたりには古くから埋蔵金伝説が残っているというのだ。「朝日さす夕日輝く木の下に うるし千ばい 黄金億々」というような宝のありかをよんだ歌も残っているという。また、この地の領主井伊掃部守の乗馬が、後山にまぎれこんだとき、ひずめに朱をつけて帰ったのでこれを手掛かりに宝探しをしたという話が伝わる。 近年、研究家が黄金を埋蔵したと思われる石のカラトを発見、これをあけようとしたが、村人の反対で開けることが出来なかったというような話も古老から聞き出すころが出来たということだ。
 また、黄金埋蔵の井戸という伝説も残っているそうだ。
…この地方には、「黄金千ばい 朱千ばい 砥石で組んだ井戸がある」という、これをさがすのには、雪が降った時、雪の積もらない所を掘ればいいといわれている。
 ある時、この話を信じた里人が、試掘したところ何もなかったという。………
 そんな話をしているうちに、目指す庚申山へやって来ていた。 本当に忘れてしまいそうな小
さな山だった。しかし入り口から、山頂まではたくさんの庚申塔が並ぶ、それもしっかりした大きなものから、村人が自然石に彫り付けたようなものまで様々だが、数としては大変なものだ。それも、へんぴな山村の一部なのだからもっと驚く。
 やっとのことで、山頂までこれた。しかし山頂を、くまなく捜したにもかかわらず、亀岩や鶴岩といったことはもとより、何らの物証もえることが出来なかった。 中島氏は、「ここではないんじゃないかな。」という。せっかく、ここまで調査を進めて来たのだから、この山を発掘ポイントとしておきたかったが、何の手掛かりもないのでは仕方がない。再調査地点として保留し、やむなく下山した。
 そして、この山の奥にある金原に視点を移していった。そこで、取材班は、新たなる庚申塔群にターゲットを絞ってみることにした。
 地元の人に、この辺(金原)に亀岩とか、鶴岩といったところがないか、聞いてみたが分からないという返事だった。
 残念無念ながら、次の目的地、伊井直弼が佐野領視察に来たときに、宿泊したという家へ向かったのだった。その道すがら、須花庚申塔群へよってみた。そこをみて行くうちに、中島氏は「これはやはり金原の庚申塔群が怪しい」という。そこで、予定を変更して、もう一度、金原へ向かった。そして、その近くにある庚申塔群にいってみることにしたのだ。
 そこで、編集部は今まであまりみたことのなかった猿田彦を祭る石塔を発見するにいたった。そればかりか、亀の頭を表すかのような庚申塔も発見した。その指し示す方向はその小高い山の山頂地点だった。ここが、最重要地点だと思う。試しに山頂までいってみた。それは亀の頭を思い起こさせるような切り立ったものだった。言い換えれば、山全体が作為的に作られたような気がしてくる。何か不自然なのだ。この直感は外れているのだろうか。
[ 調査結果 ]
 足早な、今回の取材の後、取材班は佐野市立図書館によって各種の文献を検討しながら今後の発掘調査について話し合った。
 その結果、庚申信仰を拠点とした推理から察すると、閑馬の庚申山とその近くの金原、また栗木内(栗とは小栗上野介の栗、木とはつまり金、内はこの中という意味だろうか)庚申搭群のある小高い山。この三点を埋蔵地点と推察した。事実伊井直弼はこの地点をつぶさに視察しているし、この近辺には、目印になるかのようなピラミッドを思わせる山が庚申山を結んで両脇にそびえ立っている。 しかしながら、まだまだ実証が少なすぎ、本当に全財産をなげうってまで掘ってやろうと
いう意欲がわかないのも事実だった。
 現地調査が終わってしばらくしてから、発掘調査隊長の中島氏から一通のファックスが編集部へ舞い込んだ。小栗上野介が東照宮を栗山村、角門へ移したという事実を示す資料だった。しかしながらそれが示す小栗家と言う文字が、小栗上野介を指し示すかについては不明だ。しかし、小栗上野介の「栗」と栗山村の「栗」そして、田沼の閑馬の栗木内庚申搭群の「栗」この三つは無関係なのだろうか。
●もう一つのポイント 「何故東照宮なのか」
 また、東照宮にもスポットをあてて見ることにもした。
 それは紛れもなく東照宮イコール徳川家康であるからだ。 そして、佐野の東照宮が東を向いて立っていること、小栗上野介の領地であり、その霊を祭るという高橋町の雀神社が同じく東向きであることから、その方向に視点を向けて見た。
 全国各地に散らばる五〇〇社ともいわれる東照宮の分布をみると、さすがに赤城山や榛名山にはたくさんの東照宮がちらばる。これだけをとっても、宝が埋まっていることを裏付けられないわけではないかなと思えてしまうほどだ。
■家康は宇宙神の化現  [ 家康の遺言 ] 「遺体を久能山に納め、葬礼を増上寺(江戸)に申し付け、いはいを三河の大樹寺に立てて、一周忌を過ぎて後に日光山に小さき堂をたて勧請せよ、関八州の鎮守とならん」
 また、日光東照宮の文庫長が東照宮創建に対する新説を90年5月13日付けの朝日新聞に発表している。
 その記事によると、生前一度も家康は日光を訪れていないというが、この辺のことを進言したのは、時のブレーンだった、天海だという。
 家康生誕の地岡崎、そしてそのさらに西には京都(家康の本地仏とされる鳳来寺)があり、この線を東に移動して行くと久能山に行き着き、この三点が一直線に並ぶ。これは単なる偶然ではない。
 古代遺跡などの配列から考えられる「太陽の道」にヒントをえて、太陽が東に昇るように、家康が神として再生するために、東に葬らなければならなかった。そこで、久能山が選ばれたというのだ。
 また、久能山-富士山-世良田(徳川家発祥の地)も一直線にならび、その延長線上には日光が位置する。久能山でお参りすることは、その背後に控える霊峰・富士(不死)山を参拝し、またそのさらに奥にある日光までも参拝することになるというのだ。 また日光は江戸からみて真北にもあたる、そういった立地条件にあるからこそ東照宮がその地に選ばれたと言うことだ。  そして、さらに驚いたことには、久能山東照宮の本殿は南南西の方を向いているというのだ。位置ばかりでなく、社殿の方向まで日光を意識している。また、地図上でもぴったりと一致する。これは、壮大な意味付けがなされている結果に他ならない。そう思うと、いても立ってもいられない。本家本元東照宮の久能山へ強行取材を思いつくまま決行してしまった。
[ 久能山-東照宮を結ぶもの ]
 梅雨の晴れ間をねらって東名高速をひたすら西へとかっ飛んでいったのだった。今回は、万が一に備えて、(雪道でスタックすることはもうないだろうと思えるが)屈強な4WD車(ロケバス)をチャーターしての重装備で取材に向かった。いよいよ取材も本格的になったと思いながらも、八門遁甲の軍学(さんざん惑わせておいて全財産を使い果たさせ破滅に追い込む)にまんまとはまってしまったことにこの時気づく人はだれもいなかった。
 苦悩(久能)山での強行軍取材の模様は次回で………。
 次回第3弾は、「宝は安佐に」の確証を、遠くは久能山の実地取材を踏まえてじっくり検証していきたいと思います。そして、宝が埋まっている地点(佐野地区内)を確定して行きますのでどうぞご期待ください。
 また、こならの森では、読者からの情報をお待ちしています。古くから伝わる埋蔵金伝説、亀岩、鶴岩、またそのかっこうをした奇岩がある、などどんなささいなことでも結構です(謝礼は[山分け]ということで…)。 また、一緒に埋蔵金を探してみませんか。ご連絡お待ちしています。
■参考文献
佐野市史 田沼町史 わが町さんぽ(京谷博次・著) 東照宮再発見(高藤春俊・著) 徳川家康公(全国東照宮連合会・編)ウータン(89年5月号) 360(92年4月号)★




こならの森 50号

2008-04-09 | 創刊~100号

       ■こならの森50号■1992.6発行

C・o・n・t・e・n・t・s

3… 結婚=坂上さん夫妻
4…9 特集「50号」
10-13世界の料理 「スリランカ」
14-15p情報コーナー
16…モータースポーツ
17…青春の断想・きれい瞬間
18…映画情報/本10
19…書評・絵本紹介
20-21情報
22…カラムコラム・街角の肖像
23 オープン「絵夢」
  ミステリーワールド
24-26=インタビュー「京谷博次さん」
27-29p=MTBツーリングレポート
30…こならの森から~
31…協賛店MAP


【本文抜粋記事】

こならの森50号の思い出
 なんとなく本人も気がつかないうちに50号となってしまった。そこで今回は、その50冊の軌跡を追ってみたい。


1 記念すべき創刊号。
 とにかく何がなんだが分からないうちに、始まった手探り状態のタウン誌づくり。キリがいいところで4月創刊、と思って来たのだが、慣れない状況下で遅れに遅れ、5月創刊ということに………。表紙は、ヘアータイムMの看板娘だった、飯塚さん。創刊号にもかかわらず、地味な色使いだった。

2 モノトーンの渋さを表したかったのだが、またしても地味な表紙となってしまった。表紙にご登場願ったのは、この月の特集「結婚について考える」にふさわしい、結婚式の記念すべき写真。 
 この当時から、いまの国際化を見越した各国語講座とも言うべき、タイ語-日本語-英語教室は、今でも好評を博している。
3 今までのイメージを一新、表紙の色使いも斬新?。各地方紙に紹介されたこともあってか、売上も急上昇かな。

4 この時表紙に登場願った、未婚女性3名は、こならの森発刊後にすぐに結婚がきまってしまったた。このころから、こならの森に登場すると、すぐに結婚が決まるというジンクスが読者の中で、ささやかれるようになった、とか。

5 少々疲れも出て来たのか、夏バテなのか、内容があまりなかっなと反省。だが、浴衣美人はこならの森が一番だと、評価をもらう。

6 ちょっと硬めに、国際交流を研究。しかし、突っ込みが甘かったのか、他紙の特集の素地(アイディア提供)にしかならなかったようだ。

7 エアロビックスのいきいきした女性を、表紙に載せたのだが、回りの評判は今一だったように思う。そのためか、内容もイマイチだった。しかし、今葛生でも話題の、産業廃棄物処理場問題に鋭いメスを入れた硬派の記事は、社会派「こならの森」を印象づけた。が、以来売上は愕然と落ち込んでしまう。

8 佐野市内のパーティ、新年会情報は、時節を反映し、それなりの反響を得る。

9 新年ということもあり、表紙のデザインを変えてみる。また、ちょっと見ただけでは分からないが、表紙の写真もモノクロのダブルトーンから、二色分解となり、色の幅が広がった。内容も、当時盛んに開催された「食」をテーマとした博覧会をモチーフに、下野の食を考えてみた。また、今回から、ヒストリートリップと題して、田中正造の軌跡をこならの森流に追ってみた。新シリーズとしては地域の有名・無名を問わず芸術家を紹介する「若き芸術家の世界」企画がスタートする。

10 二十歳のポートレートと題して成人式を特集。しかし、それが今の議論の下地になっていたとは全く思ってもいなかった。

11 当時話題となっていた、二カ国語を話すバイリンガールを特集。田中正造の連載もあちこちで、評価を得る。

12 今月の特集はバイリンガールの2回目。そのためか、読者の関心も今一つだったように思う。内容は、佳境に迫り円熟味を帯びたのだったが、世界各地のトイレの話題が内容に会わなかったのか、売上も今一つ伸びず。

13 1周年記念号。今号より、表紙も2色分解とし、版形も一回り大きくする。表紙も紙質も多少よくした。若き芸術家は田沼町の尾花さん。看板娘の誌上コンテストも開催した。

14 葛生の工業山神祭の花火のアップ写真をあしらった、大胆な表紙。特集は、お見合いについてだった。また、芭蕉が奥の細道に旅立って三〇〇年という事もあって、「芭蕉・もうひとつの細道」と題して、佐野市内に残る芭蕉の句碑を追ってみた。

15 今回から、新たなシリーズとして、地域社会を考えると題して、佐野の著名人にインタビューを試みる。第一回は、佐野商工会議所専務理事である小林正作さん。いらい、各界の代表者にインタビューをし、好評シリーズとなる。

16 輝けるベストセラーともなった、安佐の滝を見に行くという特集。大変な取材の苦労が実を結んだ記念すべき作品。だが、これに味を占め同じような企画を何回か試みて読者にそっぽを向かれてしまう、という苦い失敗も経験した教訓とも言うべき号だった。

17 表紙は、2色刷りの傑作とも言える作品。いまだかって、2色印刷でこれだけきれいな印刷を見たことがないと思えるほどの出来栄え。だれもが、4色刷だと思って信じて疑わなかった。それにも、まして、いい特集内容。題して「ネーミング文化論」。

18 こうした、いい作品ができた後は、スランプが襲ってくるもので、今号の内容は悲惨の一言、そのためが売上も散々だった、と記憶する。

19 今回の特集は、その後、長期の連載になるとは思いもよらなかった、その当時としてはブームに乗りかけていた、MTB(マウンテン・バイク)による峠道の走破記録で、記念すべき第一回「塩坂峠をゆく」だった。

20 こなら語録は、地域社会を考える総集編だった。
表紙は鈍い西日がちょうど斜めに差し込んだときの、影澤医院。

21 今号は、記念すべき九〇年代に突入する年。そこで、老若男女90人(日)、90年を語ってもらった。ミニ特集は、地域社会を考える新春スペシャル。

22 90年代は健康の時代。そこで健康対談を企画した。ミニ特集は、世紀末を考えると題して環境問題等をあつかう。

23 地域社会というものを安佐地区の飲食業界の代表者10名の方からうかがった。若き芸術家の世界第6回は、スピンナーの山崎任一さん。

24 こならの森が総力を結集して編集した、渡良瀬遊水池の特集。JICC出版発行の「田舎暮らしの本」にも掲載され、日本全国からの反響があっが、開発の波を止めるというところまではいかなかった。

25 一冊全部「みかも山」とも言うべき特集。編集者自身があらためて、その自然のすばらしさに感嘆する。

26 身近かな自然探究シリーズその2。唐沢山。またしても、驚かされることばかりだったが、みかも山の後だったのかイマイチ盛り上がらなかった。地域社会を考えるは、和光産業代表取締役山野井武夫さん。

27 佐野市の駅南にスポットをあてたQ&Aを企画して見た。表紙は、相生町の石川薬局前にある、アジサイの花ごしに見た、旧50号の風景。苦労して場所を探した割りには、出来栄えはまあまあといったところ。

28 表紙はブルーを基調とした、佐野藤岡インターチェンジの夜景を、三毳山山頂から撮影。また、特集も安佐地区の名勝風景を編集した労作だったが、一般読者の目はシビアだった………残念。また機会があれば、特集したい。

29 雑誌の特集企画というのは、何が当たるのか分からないものだと、つくづく思い知らされた一冊。もちろん手を抜いて取材した訳ではなく、きちんとしたものに仕上がったと思っていたが、予想していたより多くの反響があり、ベスト10でも8位にランクされた。佐野にはまだまだ再発見すべきところがたくさんあることを痛感するし、それにスポットライトをあてて欲しいと望む人が多い事に気づかされた。

30 今回から、新シリーズとして町案内をスタートさせる。記念すべき第一回。前々から思っていた、町中の「巨大迷路」。まちそのものが、迷路だという人もいるが、この一角はまさしく迷路そのものだった。もっと反響があってもよかったと思ったが、メインの特集が、暗い、ク・サ・イ、(もちろん「クサイ」は「臭い」の意味ではない)カッコ悪いの(本来なら3Kというより30K、つまり小汚い、感心ない、関係ない、金だけ出す、感じない、寄付だけ取る、勝手にやってる、ケッタルイ、健康的でない、感心は示すが全くその実情をしらず何もしない………などおよそ、一般社会生活を送る人間によっては関係ない社会のできごとなのだ)3Kを代表する「ボランティア(社会性イコール人間性)」だったために不発に終わった。だから、ぜひとももう一度取り上げて見たい企画といえる。

31 表紙が、前号に引き続き、今号も同じような色使いだったためか、どうも暗いイメージを引きずってしまったようだ。しかし、走ってマイタウンというタイトルは受けると思ったのだが………。

32 古代史の宝庫「赤見町」にスポットをあて、古墳群を中心にレポートしてみた、歴史探検企画。新しい発見はなかったが、赤見町そのものを再認識した。

33 渡良瀬遊水池の自然を特集してから、一年あまり。だが、その間に関東の@釧路湿原@といわれた、この遊水池は大きく変貌した。建設省関東地方建設局利根川上流工事事務所の電話取材を含め、多大な編集努力の末発行にこぎつけたもの。もっと、身近にある大自然を自分の目で見つめて欲しいと、願った。

34 一般読者にはまだ、あまりなじみがないようだが、車社会からの脱却を少なからずも暗示したエコロジカルなマウンテン・バイクツーリングは今になって徐々に市民権を得て来たようだ。

35 もうひとつの散歩道と題して企画した、ミニ・再発見の旅。その町内に住んでいる人からさえも、ここは「いったいどこなんですか?」と質問を受けたほどの、傑作。

36 安佐とその近辺の、有名な
「木」を見つめてみた。そうすることによって、見えてくるものはこの地方の自然とのかかわりや、歴史の重みというものだった。
 また、エコロジストでありネイチャリストでもある慶応大学の物理学者、藤田祐幸さんの、佐野市城北地区公民館における講演録も見逃せない企画だった。

37 「こならの森のここが嫌い」と、題打って特集したが、その企画そのものが、ダメ。と、言われてしまっった50号中最大の、駄作。言い訳が許されるならば、「ここ十年来ひいたこともない悪性の風邪に蝕まれ、月のうち半分は編集に裂けなかったというこの状況を分かってください。」とのこと。

38 今ほど、「埋蔵金」なるものが脚光を浴びなかったころの、宝探し企画。数々の確証を得ながらも、宝を掘りあてるまで行かなかった、継続審議中の企画。しかしながら、宝があるならば間違いなくここだという@まと@えており、今後が楽しみな企画の一つだ。

39 編集者本人が多大な力を入れても、その真意をくみ取ってもらえないということは大いにあるもので、この企画もその一つのようだった。

40 佐野のここがだめは、あちこちで反響をえた。善良な佐野市民にとっては耐え難い暴言だったに違いない。
本特集の双体道祖神を巡る旅は、なかなか好評だった。

41 近年まれにみる、低評価の特集。他の、企画もその影響を受けたのか受難のものになったようで、残念だった。表紙は、今は亡き三毳山に所狭しと咲き乱れるコスモスの花。

42 今回は、まちおこしと、町で見かけた不思議なことの二本立て企画。しかし、どれも的を射なかったのか、思ったよりも反響は無かった。

43 前回の無反響をあざ笑うかのように巻き起こった、田中正造旋風。この月の3日が、田中正造の誕生日である事もあってか、今までに無い反響があった。

44 亡国の構図の投げかけた波紋。町中の不思議。MTBツーリング・飛駒をゆく。と、ジャブを決めたが、これと言った決め手がなかったのか、相対的には不評に終わる。

45 女性問題を取り上げた、今までにない特集で、それなりの反響を期待したが、皆無だった。その辺は、編集努力が足りなかったのかも、と思えるが、同時にこの地域の関心度というものもうかがえた。

46 今号から加わった新シリーズ、世界の料理。国際化を背景に、それなりの評価を得る。若き芸術家の世界は、栃本の福田学さん。

47 今話題の、徳川埋蔵金にこならの森流の解釈を加えた企画。この後も、幾多かの波紋をえ、企画はまだまだ続く。

48 現代若者の意識は一体どこに。栃木県の青年意識調査にみる、青年あるいは青春の実像にせまる。世界の料理は、北アフリカ・チュニジアの料理を紹介。

49 「佐野発・ミニテレビ局」と題して、佐野ケーブルテレビを特集。これからの、メディアの中心的存在になると、期待され最も注目を受けているケーブルテレビを徹底取材。その実像に迫る。

50 祝 創刊50号