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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森110号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森110号■1997.6発行

表紙 「田沼あじさい」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

おぞねとしこのポエム…はまなす……3p
その他の情報…/猫バス34……4p
結婚(誕生)…山崎さん夫妻…5p
現代国語…じ……6p
知らんの5つの市/……紙……7p
JC・JOURNAL…OCR……8-9p
歴史講座第2回 ………10-13p
六月の森………14-18p
インフォメーション97………20-23
両毛神楽物語…10回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

新・こならの森から

 最近、小学校に行くようになった息子の宿題を見てやるのですが、彼に教わる事の方が多くてたまりません。また、「きねん」って、「そんけい」ってどういう意味? と、6歳の娘に質問されてとっさに回答できなくて困ります。小学国語字典や漢字事典を一緒に紐解いて、漢字の出来方が根本から理解出来『目からうろこ』の毎日。教えているのか、教わっているのか。授業料は誰に払えばいいのか………
 これはかの有名な『こども電話相談室』でも同じことが言えます。ある有名な回答者は、自分は何でも知っていると思って子どもの相談に向かったのだが、実は何にも知らないのだということが分かったと言っていました。
 「人はなんで死ななければいけないのか」これが、この番組の第1回目の放送に寄せられた質問だといいます。それから30数年、未だに明快な回答は出ていないそうです。そればかりか回答者自身が知りたいくらいだそうです。
 ソクラテスの時代も、現在のインドでの教えも誰かが何かを語るというのではなく、質問に答えるという形式だそうです。その普遍性が同番組を8000回以上も長続きさせました。


こならの森109号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森109号■1997.5発行

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「たちあおい」

■こならの森6月号■

おぞねとしこのポエム…水すまし……3p
その他の情報…/猫バス33……4p
結婚(誕生)…田代さん…5p
現代国語………6p
知らんの5つの市/……ペペローニ……7p
インターネット………8-13p
歴史講座第1回 上林遺跡………14-19p
インフォメーション97………20-23
JC・JOURNAL………24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

歴史講座第1回

 上林遺跡


 考古学というのはロマンがあっていいねと言われるのですが、確かに夢を追いかけるそんなところがあるかも知れません。しかしそれには原則というか基本そういうものが一応あるんです。

遺跡は土の中に埋まっている。

 考古学イコール穴掘りというふうにお考えだと思いますが、実は昔の人々の生活や歴史を中心にして研究するような歴史学的研究と、もう一つは骨とか、この近くで言うと葛生人とかいう化石のようなものを対象にして研究をする人類学的な考古学。大きく分けると二つある。私がやっているのは、その中の歴史的なものです。

遺跡とはなにか。

 一言で言うと、昔の人がいろいろな形で地表面にその土地を利用した跡が残される。つまり人々が過去に残した様々な土地
利用の後、それを遺跡という。
 佐野では分かっているところだけでも403カ所遺跡がある
と言われている。
黒土が埋まるようになったのは今から1万年前。もっと古い時代は赤土、火山灰が積もっていた。縄文人は、黒土のさらに下の層まで土を掘って竪穴式住居、あるいはお墓をつくった。
 人が土地に手を加えて、使用した後が土の変化などによって確認出来る、そうしたところを遺構という。それが集まると遺跡という。一つだけでも遺跡になります。
 佐野の歴史は、今まで1万5千年くらい前まで分かっていた。新都市の調査があって、2万5千年くらい前まで分かるようになった。どうして分かるのか。黒土でも土の色の違いもあるし、赤土でも土の色に微妙な変化がある。変化がでてくる。それがバームクーヘンみたいになってたまってくる。ですから、ある部分ではこれが何千年前だとかということが科学的に分かるようなものがある。一番てっとり早い方法は放射性炭素、C14、そういうもので年代を調べる。炭素の中には放射能を含んだものがある、それを植物なりが吸収します。それが炭になったりして、砂時計のようにだんだん減って来る。それと同じで半減期というものがあって、だいたい5千4百年くらいです。そのようにして、中の放射能の減り具合を調べると、だいたいこれは何年前だと分かる。そんなふうにして年代を調べる方法があります。
 もっと古い時代は、ガラスの中に含まれているウランの原子の減少を科学的に調べる。後は、地磁気の変化、北極とか南極、これは地球が出来てから今までずっと同じところにあった訳ではない。変化して行くんです。我々の一生のうちにはそんなに変化しない。何千万年のうちの地磁気の変化によって調べる。地球の歴史などはそういう方法によって調べているようです。
 新しい時代では、土器に模様がついていたりして、その模様の変化によって弥生式土器、縄文式土器とか言っている。

地球の誕生から人類が 出現するまで。

 46億年とか50億年とか言われている地球の歴史。そういう中で、人類が出現したのはたった500万年前。アウストラロピテクス(猿人)という人達が出現しました。そして180万年前まで続いた。その後は、ジャワ原人とか北京原人とか言われる人達がだいたい今から20万年前くらいまで住んでいたと言われている。猿人というのは、アフリカ大陸で見つかっている。そして、ジャワ原人とかはそれぞれ見つかった地名がついている。アフリカからジャワとか北京とかヨーロッパといったとところに人類が拡散した。あちこちに渡って行った。どういう理由かは分からないが、考えられるのは気候の変化です。
 だいたい110万年前くらいにアフリカの方からジャワの方に人が移って行ったのではないか。ジャワのスンダーランド、あの辺りは氷河期になると陸地になった。ですから、アフリカの方から陸地づたいに人が移り住んだ。
 最近の話ですと、宮城県の方に50~60万年前くらいには、人が住んでいたと考えられている。骨は見つかっていません。住んでいた人達の使っていた石器が見つかっている。地表面のそんなに深くない所から出ているので、本当かという人もいるようですが、火山灰の科学的な測定などから50年前くらいの  ものだと考えられる。
 今から20万~4万年前くらいまでの人はネアンデルタール人(旧人)という人達だった。
 4万~1万年前くらいまで、ホモサピエンスといわれる、クロマニヨン人という人達が出現する。
 500万年前までの気候の変化は分かりませんが、だいだい200万年前まではおおむね分かります。そして暖かい時代、寒い時代の変化があった。寒い時代は地球の中でも暖かい所へ人が集まって住むようになる。間氷期といわれる時には寒いところまで行った。
 佐野の上林遺跡というのは、ビュルム氷期と言われる、今から約7万~1万年前までの時代だった。どうして寒かったのか。平成5年でしたか冷夏の年がありました。フィリピンにあった火山が大噴火して、地球の気候が大きく変化した。火山灰が地球を覆ってしまえば、太陽の光は差し込まなくなってしまう。何年もそれが続けば、寒い時代となる、そんなふうに考えられる。
 ビュルム氷期の中でも、本当に寒い時と、ちょっと暖かい時があった。寒い時を亜氷期、暖かい時を亜間氷期といっています。 何万年前かの花粉が残っていて、それを分析するとその時にどんな植物が生えていたのか分かる。2万年前はヨモギだとかシダとかいう植物が生えていた。火山灰が降り積もったから、草や木は生えていないだろうと思うと、必ずしもそうではなかったようです。少しは低い木が多少生えていた。
 今から2万年前というのは、ビュルム氷期の中の3回目くらいに寒くなる時期で、一番寒くなった。この辺の気候は北海道の札幌と同じだった。年間の平均気温で言うと7~8度低かった。年間平均気温が1度違うと大変なんです。それが、7度も違うんです。したがって、そういう寒い時期ですから、氷河が地球のかなりの部分を覆いこみます。水が凍ってしまうわけだから、固まらない水は少なくなって海面が低下していた。ということは、陸地が広がって行く。そんなことで、中国と朝鮮半島日本が陸続きになります。

日本列島の植生

 関東地方の気候は、植生からいうと、冷温帯の針葉広葉樹林といわれる。今の北海道の方の植生ですね。東北地方だとか、中部山岳地方のこの時代の気候というのは亜寒帯針葉樹林。北海道の方までツンドラが広がっている、そんな状況になっていた。
主な火山帯の分布について。
 上林遺跡を掘って行くと、赤土が堆積しています。そこで確認できる火山灰で一番有名なのが、赤城・鹿沼軽石層、いわゆる鹿沼土といわれるものです。薄くしか堆積していません。3万1千年くらい前に赤城山が噴火したときの火山灰だと言われている。九州の姶良火山が2万5千年前くらいに大爆発をした。それで今は鹿児島湾となってい るカルデラ湖ができた。その火山灰は、仙台くらいまでの日本を覆っていますから全国展開です。
 上林遺跡からでた石器は、AT(姶良・丹沢火山灰)よりも下から出ている。そこで鹿沼土の下からも石器が出ないかと掘ってみたんです。でも出なかった。そこから出たら大変なことです。どうやって発表しようかな、遺跡を残せと言うことになったら大変だ。そんな事も考えていました(笑)。幸いというか、残念というかみつからなかった。栃木県ではあまり見つかっていないんです。鹿沼土の下からというのは………。

上林遺跡

 上林遺跡からはいろいろな石が出ています。一番簡単なものはチャートという種類で、この辺の山で取れる羊羮みたいな石で珪岩といっています。そういう石がたくさん出ています。それで石器を作っている。それから、だれが見てもすぐ分かるのは黒曜石、ガラスみたいな黒い透き通った石です。これも大きく分けると二つある。一つは、ガラスのようなもので割ると鋭い刃ができる。もう一つは中に気泡が入っていて中はぶつぶつになっている。その他には、流紋岩と言われているものも出ます。ただ、地質の専門家にこの石の名前を聞いたら、私たちが考えていた石とは違う名前をいわれた。凝灰岩です。凝灰岩というと大谷石です。大谷石ほどもろくはないのですが、溶結凝灰岩、そういう種類の石がたくさんあると言っていました。さてこの石がどこから取れるのか、この辺でも取れますが、石器になるような質の良い、キメの細かいものというのはあんまりない。そういうもの一番取れそうなところは、栃木市の国学院栃木へ向かって行く途中に、向山という小さな山があり、その山頂辺りに良質のチャートが取れます。さらに奥に星野遺跡がありますが、その奥の山からもやはり質のいいチャートが出ます。また、三毳山でも取れるという話もありますから、必ずしもそこから運んで来たものではないかも知れない。でも、栃木までは10キロあたり、星野までは数十キロ。歩いて行く、そして担いで来るんでしょうか。
 黒曜石で良く知られているのは栃木県の高原、あそこから取れるのは石は質の悪い、気泡をたくさん含んでいる石です。質のいい黒曜石は長野県です。和田峠とか、霧ヶ峰、麦草峠そんなところや伊豆です。戦後になって分かったのが箱根。みんな火山に関係している所です。どう考えたって100キロ以上は離れている。ちょっと聞いた話では足尾あたりでも黒曜石が取れるという。私も確信がないんですが。もし、足尾で取れたとすると、足尾まで行ったのか、あるいは渡良瀬川がこっちの方まで流れて来ている訳だから、足尾の山の奥から、川づたいに石が流れて来たのか。
 凝灰岩そういうものも足尾にはあると地質の先生から聞いております。頁岩(けつがん)、これはこちらの方にはあまりない。東北の方ですね。流紋岩という石も取れない。これを石器の材料にしているのは、県北から八溝にかけてです。真岡の磯山遺跡などはそうです。
 そういうふうにして石の原産地が各地にあります。この近辺から取れそうなのはチャートくらいなもので、後はどこから運んで来たのでしょうね。物々交換でしょうか。
 群馬県の岩宿遺跡では、ナイフ型石器や石斧が出てくる。これは、旧石器時代でも後期旧石器時代です。今から3万年前くらい。クロマニヨン人がいたころが、旧石器時代。ネアンデルタール人(旧人)がいた頃が中期旧石器時代、もっと古くジャワ原人が住んでいた時代が前期旧石器時代といっています。その中の、後期旧石器時代。 栃木県はどういうわけか、ナイフ型石器を持たない時代が何代か続きます。
 3万年から1万5千年くらいまでは、ナイフ型石器が占めるような時代です。一番下の方を加工したものや、小型の小さな石器がでてくる、その頃を槍先型尖頭器、槍の先になるようなそういう石器が出て来ます。上林遺跡も第一文化層というのはその時代です。第二とか、第三は、ナイフ型の一番古いものとか、局部磨製石器というものがでてきた時代です。もっと新しい時代になると細石器という幅が5ミリぐらい長さが2、3センチの薄い石器がたくさん出て来ます。骨とか、木かなどにはめ込む組み合わせ式の石器です。ちょっと歯がこぼれたりすると、こぼれた歯の部分だけ、取り替えがきく、スペアがきく。昔の人は頭がいい。そういうふうにして使っていた。この時代というのは、それと大きな槍とか、あるいは石刃と言われているものが見つかっています。

機能が形態を決定する。

 石器はなにかをするために作られた訳です。例えば人を殺すため、動物を捕まえたり解体するため、そういう何らかの目的があった、その目的に併せて形が作られなければ、合理的な働きをしないでしょう。昔の人はそうしていた。逆に言うと、石器がそういうふうに変遷するということは、昔の人達は自分たちが生活して行くための対象物、獣であったり、木の実であったり、草であり、そういうものが変化して行った、と言うことが言える。
 3万年くらい前にあった石斧がその後使われなくなってしまう。2万年くらい前だと小型の石器になってしまう。1万2、3千年くらい前になると、組み合わせ式の石器が使われるようになる。気候の変化に伴って、動物や植物層が変化をします。それに合わせて人が生活して行くために獣を捕ったりするための道具を変化させていった。そんなことが分かる。

 やっと来ました上林遺跡。地表面から20センチくらいのところを掘るとローム層が出て来ます。一番最初のローム層の中には黄色軽石層がかすかにあります。1万3千年から、1万4千年前。この辺りから、第一文化層と言われる石器文化が見つかった訳です。第一文化層と言われる石器文化層は、尖頭器を中心とする文化です。岩宿遺跡を見つけた相沢さんが発見したのも尖頭器でした。赤土の中から、その岩宿と同じような作りをした尖頭器が見つかっている。
 岩宿遺跡もいくつか文化層がある。その中の上の方の石器文化と同じような作り方、見るとそっくり。そういう槍が見つかっている。
 岩宿の槍というのは、先が少し割られている。おもしろいことに、長野県でも岩宿でもこの上林でも同じ形なんです。
 赤土の中でも、よく見ると火山活動が活発だった時期は、本当の赤土なんです。火山活動がおさまって、木が生えたり、草が生えたりそういう時の火山灰というのは少し腐食土が入るから黒っぽくなっている。亜間氷期、そういう時が黒っぽい火山灰、赤土である。その黒っぽい火山灰の中から第三文化層の石器が見つかっている。その石器というのは、ナイフ型石器で第一文化層の石器というのは黒曜石や頁岩が中心となっている。第三文化層の石器は、質の良い黒曜石です。第一文化層は質の悪い黒曜石、それとチャートです。それが主流を占める。そして、第二文化層、第三文化層というのは一番東の越名沼に近い方からたくさん見つかっています。第一文化層というのはもっと奥まった方で見つかっている。
 いろいろな石が出ているが、あそこでは取れないような石が出ている。
 上林遺跡というのは佐野が新都市を造るということで発掘が始まった。東北自動車道と国道50号線、これからできる北関東自動車道、こういうふうな交通の要所に当たるところです。昔ですと東山道、あるいは日光例幣使街道、そういうふうな東北からみちのくへ行く途中の交通の要所に佐野はあります。そういう意味合いがあってあそこに新都市を造る訳です。交通の要所、物流の拠点です。それは、2万5千年前からそうだったわけです(笑)。
 上林遺跡の調査は、1月の末で終わりました。全部掘りました。遺跡の調査というのは、予算とか期間もありますが、いったん掘ってしまうということは、人々が残して行った歴史が消えて行くことだからできるだけきちんと調査をして記録に残さなければいけない、ということが私たちの基本的な考え方です。
 上林は赤土の中にある石を発見して行く作業でした。ですから、石を拾ってしまうと、その後には赤土しか残らない。遺跡を残しておけばそれにこしたことはない。確かにそれはそうです、でも、佐野市の新都市を作るための用地ということになっているので、遺跡を残すのと、佐野市の新都市を作って行くのとどっちが大切なのか、私は皆様に考えていただきたいと思う。 遺跡をそのまま残すと計画を変更しなくてはいけないし、費用が何千万もかかる。その金を出て来た石器の調査とかあるいは、石を見ただけでは理解できないこともあるので、状態なりを模型にするとか、説明板を作るとかそういうことの方に使った方が、一般の市民の方たちには喜ばれるかなと思います。そんなことを私個人としては考えています。
 どちらがいいのでしょうか。
 さらには石器の原料をどこから持って来たのか、それをはっきりとさせたい。原石を運んで来て、あそこで割って、石器を作っているんだ。ですから、割った石の残りかすを集めると元の原石になってしまう。大きな石の塊のあるところが抜けている。なぜ抜けているのか、石器として使ってしまったからです。ですから、使ってしまった石がどこかにあるはずです。越名の方かも知れない、堀米の方かもしれない、あるいはもっと遠く栃木の方かもしれない。そういうものが見つかるといいなと思っています。つまり、そこで石器を作った人、材料を運んだ人、それからその石器を家族のために近くの山へ行って鹿や猪を必死になって取った人の行動や生活の様子が分かる。勝手に想像できるんだからロマンでしょう。資料整理をこれからやるんですが、そういう中で分かるといいと思います。これから、いろいろなことが発見されるかもしれないと頭の隅にでもいれていただくとありがたいと思います。  






こならの森108号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森108号■1997.4発行

表紙 「ハルジオン群落」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

おぞねとしこのポエム…たんぽぽ……3p
その他の情報…/猫バス32……4p
結婚(誕生)…福本さん…5p
現代国語………6p
知らんの5つの市/……グルメ……7p
JC・JOURNAL…OCR……8-9p
唐沢………10-17p
インフォメーション97………18-23p
両毛神楽物語…10回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

書評・絵本紹介

源氏物語
      紫 式 部 著
      瀬戸内寂聴 訳
      講 談 社 刊
 「源氏物語」を知らない人は日本人なら恐らくいないでしょう。しかし、それにも関わらず内容まで詳しく知っている人はそれ程多くないと思われます。私も、作者が紫式部、主人公が光源氏、全体が五十四帖で構成されている恋愛物語である、くらいしか知りませんでした。
 今回、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子に続いて、「瀬戸内寂聴が十年の歳月をかけて現代語訳を完成させ、それが発刊される」と聞いて、第一刊を入手しました。この本によって源氏物語を少しは知る事になったのです。
 なるほど、今から千年も前にすごい物語が創られたものです。世界を見渡しても、当時はこれに匹敵するものが全くありません。それが、東洋の島国の一女性の手によって書かれたのには、まさに奇跡と言っても良いでしょう。「小説」などと言う手法が発達する以前のことなのですから全く驚きです。また、印刷技術がなかった時代のもので、これだけの長編が現代まで残っていたのには、驚きを通り越して信じられないくらいです。
 作者の瀬戸内は、雑誌・プレジデントのインタビューに答えて次ぎのように語っています。「結局、紫式部が書きたかったのは光源氏ではなく、実は女性たちではなかったか。光源氏は物語の狂言回しで、本当に書かれているのは女性、光源氏の恋人たち、つまり『女性』ではなかったか・・・・・」。この事を、少しは学生時代に源氏物語を読んだことのある妻に言ったら、「まったくその通りだと思う」と言っていました。
 私は、「科学技術が発達しても、人間そのものは案外変わらないな」と言う思いを強くしました。ですから、あと千年経っても人間はほとんど変わらないかも知れません。皆さんも、円地文子以来二十三年ぶりの現代語訳です、この機会に世界の古典を読んでみませんか。 


こならの森107号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森107号■1997.3発行

表紙 「さくら=アップ」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■

おぞねとしこのポエム…ふきのとう……3p
その他の情報…/猫バス31……4p
結婚…栗島さん夫妻…5p
現代国語………6p
知らんの5つの市/…………7p
JC・JOURNAL………8-9p
春桜の名所………10-17p
インフォメーション97………18-23p
両毛神楽物語…9回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

新・こならの森から

 最近長男がゴミ問題の本を借りて来た。小学生向の分かりやすい
表現だったので、たかをくくってなにげなしに読み進んでいったが、これはあなどれないぞと、半分まで来て本気になってしまった。
 この本でも住民エゴがとりさだされていた。そして昔はごみがゴミではなかったと調べ上げていた。読み進むうちに良く書いてある、全くだと感心する。
 話は進んで、海側と山側の二つの候補地の対立、なすりあいとそれに苦慮する町側の対応・説明会。コンクリート壁や絶対に破れないというシートに対する安全神話の完璧なる崩壊。ゴミを出しながら、ゴミを捨てる場所を造らせないという矛盾。それはそうだろう、で最後の結論は………なんと海側と山側の対立を越え、どちらとも造っていいよというものだった。それでジ・エンド。紙面の都合なのだろうか、それともある種の圧力に屈したのかそれ以上はヨメなかった。
 住民の意志なしに行政はない。どこに歯止めがあるのか、これでは造っては捨て、造っては捨てでキリがない。
 ある三大新聞の社説に、製造者はその最後までを見届ける勇気があってほしい、といった旨の文章を載せていた。賢い消費者であれば、循環しないもの、最低でも(一回限りのリサイクルではあっても)そうされない商品は買わないつもりで日々心得ている。しかし、そのほとんどが選択の余地なしにゴミとなってしまう。そして自家焼却すればダイオキシンが発生する。
 こんな例がある。ゴミの収集を3分別から7分別に変えたらゴミの量はどう変化したのか。実際には減ったというのだ。意識が変わるという事は大きい。



こならの森106号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森106号■1997.2発行

表紙 「大平=すいせん」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

おぞねとしこのポエム…きんかん……3p
その他の情報…/猫バス30……4p
結婚(誕生)…藤山さん夫妻
トピックス…石川雅之さん……6p
知らんの5つの市/パレット…………7p
JC・JOURNAL…NPOとは…………8-9p
唐沢山………10-17p
インフォメーション97………18-23p
両毛神楽物語…8回……24p
現代国語………25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

トピックス

 こならの森71号(1994年3月1日発行)のインタビューで紹介した、石川雅之さん(二十四才)が三年ぶりに帰国し、編集室にも立ち寄ってくれた。便りの無いのは良い便り、というが、3年前にインタビューをした時点では、ロンドンですでにレコードビューという予定で、早ければ年内(94年)にもデビューという手はずであった。しかし、現実にロンドンへ行ってみるとトラブルが発生しレコーデングできず。結局一年間はプロデビューできなかったそうだ。そういった苦労もあったが、現在ではレコード会社三社と契約し、CDやレコードを出すまでになっている。(日本では今CDが全盛だが、イギリスではDJがもてはやされ、店頭ではレコードと半々であるという。)
 最初に、自分のレコードが店頭に並んだときは、言い表せないものがあったという。そして町で偶然に自分のレコードを持っている人と遭遇したときには感激してしまった。また、目指すジャンルの音楽ではないが、4人組のバンドにキーボードとして参加し、ライブ演奏も行っている。人間関係の幅や音楽的な感性が広がったともいう。今後がますます楽しみになった。

石川雅之さん
1972年(昭和47年)佐野市生まれ。シンセサイザーを学ぶ為、横山敏章氏に師事。東京で音楽括動後、1992年に渡英。1997年ベルギーのCRAMMED DSCS社と『TAO』名義でアルバム契約。同年4月コンピレーションアルバム(MISCELLANE OUS)発売。同年11月TAO 12インチシングル(JINNEP)発売。1996年 VIRGIN社のコンピレーションアルバム(MACRO DUB INFECTION)にTAO名義で参加。1997年2月 TAO アルバム(ESOTFERIC RED)発売予定。1996年イギリスのSCHTUMM PRODUCTIOHS社とULTRA―VERT名義でアルバム契約。同年10月コンピレーションアルバム(BROWSER)発売 DJの人達の評価を得る。
1997年春 ULTRA―VERT アルバム発売予定。1996年キーボーディストとして加入した日英混合5人編成のインディロック、バンド(SATELLITE)イギリスのFXU社とバンド契約。同年 3月SATEELLITE CDシングル(VIA EP)発売。
同年 10月SATEELLITE 7インチ シングル(YEAH YEAH YEAH)発売。
ロンドンを中心にコンサート公演を続けている。
 「『タオ』。我々にほ〃Rogor〃として知られている彼は、全ての手法において不思議で、魅力的で、卓越した美しい作品5曲を作り上げ、その中心には神聖な東洋の影響が見られる。」
(現地でのプロモーション・パンフより転載)


こならの森105号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森105号■1997.1発行

表紙 「三毳夜景高速」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

おぞねとしこのポエム…ゆずりは……3p
富嶽百景…写真構成…4-7p
その他の情報…/猫バス29
結婚(誕生)…荒居さん夫妻
JC・JOURNAL………10-11p
特集/変革期の経営哲学…2……12-21p
インフォメーション95………22-23p
海棠市子の映画評……………24p
書評・絵本紹介………………25p
現代国語………26p
知らんの5つの市/…HERO………27
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

特集/変革期の経営哲学…2

@出席者@ 
 佐野市…………三福工業株式会社  代表取締役社長 三井福次郎
 足利市…………株式会社足利モール 代表取締役社長 山本  昭
 館林市…………株式会社館林うどん 代表取締役社長 小暮 高史
 大田市…………株式会社古川製作所 代表取締役社長 古川 隆司
 桐生市…株式会社トヨダプロダクツ 代表取締役社長 山口 正夫

『価格破壊』について

足利 価格破壊の捕らえ方なんですけれども、一つは一般的に言うと今まで100円だったものが90円、70円となる。ダイエーさんが打ち出したもので、消費者が踊ったのではないかと思います。
 バブルの崩壊期、あの当時は土地を見ても分かるのですが、それこそ北海道の原野で、将来に渡って土地として浮上しない所も買った、一方の企業ではアメリカへ行って土地を買った。アメリカに土地を買っても実際には日本に持って来れないんですね。ですから実際に価値のある物は破壊されなかっと考えています。現状は、消費者としても安いからといって買い物に行きますか、安いからというのは、何かの基準がありまして、それと比べて安い。実際に皆さん安いものを一斉に持つとそれに対する嫌気といいますか、やはり今浮上して来ているのがブランド志向。やはり人と違った物、安心して買える物、という志向に変わって来ていると思います。 価格破壊、価格破壊といわれるほどに皆さん方はちょっと違った、人と違ったものを、先ん出たものを欲しいというのがニーズではないか。
 これで、価格破壊というのは一旦沈静化して、より個性のあるブランド志向になって行くと考えています。それに合わせて我々ショッピングセンターも増床、増築しまして、よりお客様のニーズにあった店づくりをしていこうと考えています。
 今後どのように競争に勝っていくかということですが、基本的には我々は小規模集団でありますので、大手さんのように大量に仕入れて、大量に販売するというシステムではありません。また、買う側にも、例えばスカイラークがガーストになったときに、一時的にはお客様が流れて行ったと、しかし、ガーストのシステムの中で満足なされたお客様はいないんじゃないかと思います。どういう状況になりましても、われわれがやるべき道筋をきちんと押さえて行けば、消費者ニーズがどう変化しても対応できるのではないかと思っています。それが競争に打ち勝つ原点ではないかと思います。抽象的で申し訳ありません。

館林 価格破壊というのは、内外価格の是正ということで、海外で売っているものと日本で売っているものが同じ商品でありながら海外の方が安いとか、同じような商品でありながら極端に違うとか、だから日本の物価が高いとかいわれます。我々の商品で言いますと、そんなに海外にはありませんし、日本独自のものですから、ここまで価格破壊がくる分野ではないんじゃないかと思います。価格の弾力性といったことから見た時に、安くて多く売れる商品、消費される商品であればいいんでしょうけれども、安くしても消費量は同じなんです。メーカーの利益率は減りますし、それから流通も減ります。言葉は悪いかも知れませんけれども、良い品を安くということは、建前です、本当を言えば良い品を高く売りたい、その高く売った分をそれぞれの所で分配したいという側面があるのも事実ですので、あまり価格破壊といってしまうと、みんなの取り分が減ってしまう。
 それと、安くしても多く売れるという物はいいけれども、安くしても高くしてもある一定以上売れない物は、安くする必要はないんじゃないかなと思います。

太田 製造部門が競争しようという側面はあると思いますが、基本的な考え方は先程の3人の方がおっしゃったことと同じです。ウチの会社のことを言えば、自動車とか弱電というのは、特に下請けですね。毎年、コストダウンということが言われている訳です。それもすでに限界来ている訳ですね。私共は2部門あって、部品の方は海外へ出るといった手を打たなければ生き残れない。1千万の機械を500万で造りなさいと言うときに、今までと同じ造り方ですと、絶対にできない訳ですね。どうしようかといいますと、自分のところで設計製作というものですから、機械を買うのではなくて、機能を買う訳だから発想の転換をして500万で出来るような機械を設計しなさいといいます。そういう面では採算的にはいい。ただ、1千万の機械を300万でやってくれといっても、いくら知恵を出しても、出せない物はもう貰わないと、会社は小さいのですけれども、取引先は50社くらいあります。ですから、安いところは受けないと、500万でも出来る仕事は受けるという形でやっています。

桐生 これはニーズとウオンッツの差かなと思います。ニーズの物でしたら、例えば中国へ行って来ましたけれども、かなり通常消費されるような物は、中国でも同じようなものだ。我々が日本で同じものを造っても………、ウオンッツ、欲しくなるようなものを造っていかなければいけないのかなと思います。マーケットが小さいかも知れませんけれども、シルクの産地では、ローエンドものでなく、ハイエンドのものを追いかける。中国でも他が追いかけて来ているそうですけれども、とりあえずこれで行く。それで、ニッチの部分が拡大されて来てしまったときには、もう一回やり直してもと言っておりました。
 事務機の業界でも同じ大きさの物であれば、2分の1で出来ないかと言われます。そういうときに商社の皆さんにこういう話をします。2分の1の価格で同じような物は出来ます。しかし多分我々がやって儲からない物は、商社の方がやっても儲からない。同じ大きさの物を2分の1価格でやる。だいたい仕入れ価格は同じですから、上代が100だとしますと、35くらいです。一万円の物でも3500円、5千円の物でも同じ35%ですから、実際2分の1の物を造ったら、商社の方がやっていけないですね。儲からない。我々は何とかやっていける、利益を出すことは可能かも知れませんが、実際にそれでお宅はやっていけるんですか、と言う話をしますとふっと気が付く部分がある訳です。
 ただ単に安いものを追いかけるのでしたら、日本で物を造らずに海外で造ればそれで十分だ。我々が日本で物を造る以上は、マーケットが小さくなって、多品種小ロット化が進むのではないかと思います。やはりそれだけ付加価値の高いものにしていかないと、これは勝てないと感じます。


こならの森104号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森104号■1996.12発行

表紙 「三毳岩舟の蔵」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

その他の情報…/猫バス28……4p
結婚…荒居さん夫妻…5p
両毛神楽物語…7回……6p
知らんの5つの市/…HERO………7
JC・JOURNAL………8-9p
特集/変革期の経営哲学………10-19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24p
書評・絵本紹介………………25p
現代国語………26p
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

特集/変革期の経営哲学

 三福工業(株) 代表取締役 三井福次郎さん

人間が物をつくり、人間が金をつくり、
人間が情報を収集し、そして人間が人をつくります。

      (略)

 私共はスポンジが得意ですから、その部門を使いまして工場を造りました。2年前、ドイツで大きな展示会がありました。ゴム、樹脂関係の世界的な展示会です。そこにたまたま住友商事さんのブースがあり、三福さん何か出してくれ、ということで、私共のゴムの発泡体を出して貰いました。そうしましたら、ものすごい勢いで海外からの引き合いがありました。何故か、たまたまヨーロッパで、アメリカでもですが、フッ素ゴムの発泡体を造っているメーカーが一つもない。どこでもあると思っていたんです。慌てたのは私共の技術屋です。今どうやって、量産化しようかということをやっている。ですから、探せば技術は自分の会社などでもある。それをどう利用していくか、今後の課題だと思いますし、また佐野という場所からでもそういうふうに広めることが出来ると、自信を持ったわけであります。 最期に一言だけ言わせて貰うと、今後ということで、今流行ですと海外展開、海外に工場を出さないかとか、どういうふうにグローバル化を進めるかという話があるわけですが、一つだけ言えることは何をやるにしても人が大切です。海外に工場を出しても、それについて行ってくれる人がいなければ成り立ちません。ですから私共の会社が海外に工場を持って行くには、よっぽどしっかりした現地パートナー、あるいは日本のパートナーと組まなければいけない。私共が出来るのは工場の中の管理でマネージメントが出来るわけではありません。ですからマネージメントをやっていただけるような会社と組みながら、出すということが一つの条件となる。
 いづれにしても地域ナンバーワン、あるいは小さなマーケットでもいいから、一つでもいいからナンバーワンを誇れる商品、製品を出すということが私の夢であります。
 これを3つも4つも持つということが生き残りの一つの策であります。
 ですから、今後も私のやり方としましては、どんな小さな隙間かも知れませんが、そこで頑張らなければならない。 そういうふうにしながら、やっていくのが常套手段かなと思い今日までやっております。簡単でございますが、そろそろ時間でございますので、言い尽くせない部分がありますけれども、質疑の時間にでもご質問くださればありがたいと思います。


こならの森103号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森103号■1996.11発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■1996.11

おぞねとしこのポエム…まつかさ……3p
その他の情報…/猫バス27……4p
結婚…須永さん夫妻…5p
両毛神楽物語………6p
知らんの5つの市/…7
JC・JOURNAL………8-9p
特集/踏切………10-17p
インフォメーション95………18-23p
海棠市子の映画評……………24p
書評・絵本紹介………………25p
現代国語………26p
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

特集/踏切のある風景
踏切にどんなイメージをお持ちですか?
 踏切というと、どんなイメージを持ちますか。テレビなどでは、JRの踏切事故撲滅キャンぺーンが繰り返し流れています。ですから、そんな怖いイメージもあるでしょうか。
 またあるシンガーソングライターの歌詞のように、踏切の向こうに君がいて……でしょうか。本当にこの歌は一瞬一瞬を切り取った写真のような感覚があります。
 そこで人々を二つに分け、ある一定期間遮断する踏切にス
ポットを当ててみました。よく似たものに、横断歩道があります。あまりにも有名すぎてしまって多くの亜流がドラマで作られました。道から流れて来るのは、電車にも劣らない猛スピードと、巨大な車体。同じような状況なのに、車に飛び込んで自殺する人はあまりいないような気もします。
 暗くなるのでやめます。今回は夢のある企画だと思っています。
 暗いと言えば夜の踏切だったらブルートレインや銀河鉄道の通過を待ちますね。真っ暗な闇の中で通り過ぎる何かを待つ、轟音をたてて通過していく列車、分かってはいてもその一時はスリリングな一時であるに違いありません。
 一度列車の旅を経験するとその流れのゆったりとしたところに感動し強く記憶に残ります。車での旅はどんなにラグジュアリーな車であってもカーブやブレーキといったことは避けられません。スムーズな流れが延々続くということはまれです。ぼんやり窓の風景を感傷的になって眺めていたり、読み切れなかった本を読破したり、はたまたうっとりと惰眠を貪ったり、そうしたことができないでしょう。特に景色が単調だったりすると、その傾向は強くなります。そんな旅情的な列車の旅ですが、一つだけその流れを乱すものがあります。そうあの踏切の警報ですね。ドップラー効果とあいまって非常に耳障りです。高原列車ならまだいいが、いや高架線となって踏切などない都市部の方が、かえっていいくらいですか。
 安佐でも列車と道路の整備が後手後手に回っているのでやたらと踏切が多いものです。
 100メートルに一つはあるのではないかと思ってしまいます。交通の流れと列車の流れはいつも対峙します。いつになく渋滞している道をやっとのこと抜けたと思ったら、踏切に遮断されたりすると、今日はツイてないな@ と思います。それに安佐では、単線も多くすれ違いの場合は、駅のすぐ近くの踏切は一時開かずの踏切状態となります。それにそういう時間帯は道路も渋滞する時間帯でもあります。一つ踏切を遠回りした方が早いのではないかと思うほど、イライラがつのります。
 路線日本一は
, ところで日本で一番線路が密集しているのは上野駅から西日暮里の間と聞きます。10線路、複線だから20の線路がひしめきます。確か記憶が正しければ、山の手線、京浜東北線、東北線(宇都宮線)、東北本線、上信越線、上信越本線、高崎線、京成線、常磐線、寝台列車専用線、以上の10だと思います。もしここに踏切があったとしたら、たぶん日中に渡ることは不可能でしょう。どこかの線路に必ず電車が走っているはずですからね。
 ここまでは、電車や列車といったことから、踏切を捕らえて来ましたが、視点を変えて陸橋の上から遠くの踏切をウオッチング。
 秋も深まり肌寒くなった夕方。仕事も終わり早く帰って暖かい部屋で、暖かい食べ物を食べたい。と思っているのだろうか分からないが、自転車に乗った人や、歩きの人がじっと踏切の前で電車の通過を待っています。しかし、なかなか電車はやって来ません。
車ならヒーターも効くし、音楽だって………。これで雨でも降って来たら泣きっ面に蜂といったところです。
 早く帰りたい、その思いがいっそう募ります。その一時を止めてしまう何とも憎っくきもの、遮断機とはよく言ったものです。しかし、その思いが強いほど、帰って来たときの感動が二倍にもなるものでしょうか、非常におおげさですが。では、踏切は必要悪か?
 などと勝手なことを考え始めたくなります。
 そうしたこととは別に、踏切を風景の一部として捕らえみましょう。やっと今回の本題に入れそうです。何げなく通り過ぎて来た、またイライラさせられて来たものが、違った表情をもってきます。歩ってどこかへ行くということがめっきりすくなって来た昨今、歩行者専用踏切といったものや、自転車位までしか通れない程の幅の踏切、はまたまもう使われなくなって閉鎖された本当の開かずの踏切。など興味は尽きません。



こならの森 102号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森102号■1996.10発行

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「藁屋ねの家」

■こならの森11月号■

おぞねとしこのポエム…ききょう……3p
その他の情報…/猫バス26……4p
結婚…越沼さん夫妻…5p
両毛神楽物語………6p
知らんの5つの市/…7
JC・JOURNAL………8-9p
特集/飛駒を行く………10-17p
インフォメーション95………18-23p
海棠市子の映画評……………24p
書評・絵本紹介………………25p
現代国語………26p
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

特集/飛駒を行く
 佐野市の中心から25キロ。それなのに軽井沢にきたのかと思ってしまうほどの風景が続く。その中に、瀟洒な洋風の建物やログハウス、また伝統的な養蚕農家の面影を残す越屋根の大家、また井伊直弼縁の旧家など、新旧入り交じった複雑な文化が交錯している。そのエキゾチックな雰囲気がこの町の魅力でもある。
 また陶芸家や芸術家が好んで住居を構えるなど引き付ける何かがそこにはある。そう思って訪ねてみたのが今回の旅のきっかけだ。
 道筋にはかつて徳川埋蔵金に関連がると疑われた?庚申山もあり、黄金ロマンのある人も無い人も一度よってみるとおもしろいと思う。何しろ一千基もの庚申塔が小さな山に所狭しと並んでいるのだから………。また、ここから根本山を通って足尾までのルートがあったともいう。この辺も興味深い。
 また、田沼というと蓬山ログビレッジなどの沢が一般的で、飛駒は今一つ忘れ去られたような印象を受ける。その俗化していない?ところがまたいいという向きもあるが、根古屋森林公園を訪れた日には、どこの観光地へやって来たのかと思うほどの混雑。バーベキューをする人や、ソバを食べに来たというひとなどさすがの広い駐車場も一杯になる程だった。根古屋森林公園では、バンガローなども充実していて、自然を満喫したキャンプが楽しめる。
 そうした近代的な施設とは対照的に、その昔は養蚕が盛んだったのだろうか、屋根の上に煙り抜きの屋根がある伝統的な家を見ることもできる。しかもこの地方のものは、群馬県でよく見かけるような、同じものが二つ並んでいるタイプのものだった。佐野市内で見かけるものは一つだけのものが多い。どこかその地方によって流行があるのか、それとも気候条件等からの必然なのかは分からないが、地理的に佐野へ出るよりも桐生方面へ出る方が近いくらいだから、そちら方面の交流が盛んだったのかも知れない。家を建てた大工も桐生方面からやって来た人なのだろうか。
 もともと、明治四年の廃藩置県後、明治二十一年までは桐生も飛駒も同じ一つの県だった訳だから当たり前と言えば、当たり前なのかもしれないが。
 また、最近は昭和43年に長い歴史に終止符を打った、飛駒和紙が復活され体験学習館も根古屋森林公園内に新設されている。隣には、これまた名物の自粉を使ったソバを食べさせる、根古屋亭もありゆっくり楽しく遊べる。
 紙すきは見ているととっても簡単そうに見えるが、やはり長年のカンとコツがいることだろう。
 実演は、はがきセットが600円(送料別)でできる。また、色とりどりの和紙や、小物、便せん、名刺用紙などの展示ショップのあり、工夫次第ではランプシェードなど他方面での利用が考えられる。
 根古屋のもっと先まで足を延ばしてみる。これといった観光スポットはない。その先は行き止まりとなっているが、道の片隅に野仏がそっと迎えてくれていたりして心和む、そんな風景もいい。ちょうどお彼岸時、彼岸花・マンジュシャゲが咲き誇り、黄金色の稲との配色が素晴らしかった。マンジュシャゲはその昔食用にされていたということだが、その根には毒がありそのためか忌み嫌われたりもしている花でもある。しかし、よく見てみると何とも可憐な花である。マンジュシャゲという名前も極楽に咲くと言われている花であるから無理も無い。沖縄では、ハイビスカスがこのマンジュシャゲのような花だと聞く。赤という色はそうした色なのだろう。
 田沼市街を過ぎてから、飛駒までは交差する大きな道路が無いために、これといった信号機が無い。終点まで一本道で、スイスイ行ける。渋滞なく目的地まで到達できるということは、ちょっとしたドライブが好きな人にとってはこたえられないに違いない。 しかし途中には新興住宅街が出来てしまって、いささかうんざりする面もある。足利へも須花坂トンネルをくぐればすぐに行くことができるし、東京へのアクセスを考えると、かえって佐野市内に住むのよりもいいかもしれない。自然も満喫できるし、空気もうまい。そんなためか東京方面から、セカンドハウス的に使用している人の流れもあるという。それに滅茶苦茶に地価が安い。
 今回は、道筋にある一つの小さな沢、梅園へも行って見た。飛駒に住む人から、猿や熊が出没しているという情報を聞いていたが、この沢に入って改めて『熊出没注意』の看板を目にするとドキッとする。最近はやたらにこう書かれたステッカーが車などに出没しているが、リアリティにおいてはこれの比ではない。
 曲がりくねった沢を行き、V字型になった地形を無駄なく使った谷津田が続く、こんなところまで稲を植えつづけて来た日本人にとって米というのは特別な穀物だったのであろう。日本の原風景とでもいう光景がそこにある。