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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 77号

2008-04-18 | 創刊~100号
       ■こならの森77号■1994.9発行

C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森10月号■

おぞねとしこのポエム………………3p
その他の情報…歩こう会/猫バス……4p
結婚しました…磯 一宏さん&美幸さん………5p
6-7p 世界の料理
特集…地方議員が語る…2回…8-15p
協賛店マップ…………………………16-17p
JC・JOURNAL………………18-19p
知らんの5つの市…グランシェフ……
「ロッキンオン」…
インフォメーション94………………22-25p
海棠市子の辛口 映画評……………26p
書評・絵本紹介………………………27p
現代国語………28p
杜 @皇が占う今月の運勢…………29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】
サークル紹介
「佐野市歩こう会」
 会結成のなれそめは現在、副会長をしている田中秀夫さんが、一昨年の唐沢山への市民歩け歩け大会で現会長の遠藤さんと出会い、意気投合したことからという。また以前より、近隣の歩こう会に参加している人から、「佐野にはどうして歩こう会がないのだろう、ぜひ佐野でも歩こう会を作ったほうがいい」という話もあり、歩きながら会話が弾んでトントン拍子にことが進んだと言う。
 昨年の9月23日に第1回目の歩るこう会企画が「渡瀬渓谷を歩こう」ということで実施された。組織化はそれ以前にされていたが、この日から会が始動した。市民の関心は高く、予想以上に反響が大きかったと言う。
 歩こう会には、いろいろな階層の人が参加しており、女性が七割を占める。平均年齢は六十才くらい。もちろん年齢制限はなく、会則もゆるやかで、ともかく「楽しく歩こう」ということをモットーとしていると言う。当初は七〇名くらいでスタートしたが、現在は一七〇名ほど。行事を開催する毎に、口コミで参加者が増え、会の運営も大変とうれしい悲鳴を上げている。
 今年は4月に太平山ハイキング。5月には市民歩け歩け大会に参加。10月18日には、戦場ヶ原ハイキング(約7キロ)、また、初歩き・足利七福神めぐり(約10キロ)なども予定している。
 会長の遠藤康次さんは高校時代に山岳部に在籍しており、登山歴四〇年ほどのベテラン。六十才を過ぎた今でも肺活量は4620あるという。2キロ以内の用事は歩くことにしているそうだ。また、副会長の田中秀男さんは、以前大病をしたことがあり医者の勧めで歩くことを始めたそうだが、それ以来は病気知らずという。
 歩くことの効用は計り知れず、また器具を買わなくても、すみ好きなときに簡単にできて経済的という。初歩的な健康作りに持って来い。また、精神面でもリラックスできたり、気持ちよく張りがある生活ができるなど、健康面以外にも効用があるそうだ。


こならの森 76号

2008-04-18 | 創刊~100号
       ■こならの森76号■1994.8発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

おぞねとしこのポエム………………3p
その他の情報…ダック食堂……4p
結婚しました…須藤さん夫妻………5p
知らんの5つの市…グランシェフ………………6p
「ロッキンオン」…HEAVEN…9回………7p
特集…地方議員が語る……8-15p
協賛店マップ…………………………16-17p
JC・JOURNAL………………18-19p
インフォメーション94………………20-25p
情を糧にし東かな  (11回) 22-23p
海棠市子の辛口 映画評……………26p
書評・絵本紹介………………………27p
現代国語………28p
杜 @皇が占う今月の運勢…………29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】


特集…地方議員が語る…

第1回

大事なことは、市民自治

 栃木市市議会議員
 私はもともと音楽を聴いたり演劇を見たりということが好きで、その延長線上で今も文化活動をしている。
 町づくり基本は、楽しく活気のある町にしたいと思って携わること。大事なことは、その町の一人一人が主役である。堅い言葉で言えば市民自治。長年文化活動に携わって思うことは、時代がだんだん核家族となり、活動が個人とか家庭とか言う範囲に止まって、そこから社会に踏み出すという事がないという状況で、そこを突破するのが、文化活動、スポーツ活動、日常の社会的な地域の活動であると思います。そういう中で市民の一人一人が何らかの形で、地域の活動に参加する状況を作ることが、市民自治の基本的なステップではないか。
 栃木市に新しい文化会館ができたのをきっかけとして、与えられたものを観ると言うことだけでなく自分たちで観たいものを観る、という観点から市民の音楽鑑賞団体を作りました。それがきっかけになって、蔵の町音楽祭ということを市民と行政である文化会館の共催でやるという事になった。一応それなりの評価を得ております。
 私に求められている役割は、町づくりと言う面で、行政と市民を視野においた、コーディネイター、調整役の立場ではないだろうか。  

 宇都宮市市会議員
 初めて市議会議員に当選したのは今から二十三年前でした。当時の市民は議員に何を望むかというと、家の前の道にジャリしいてくれ、ジャリが入ったら舗装をしてほしい。井戸水がそろそろ汚染をしたので、水道を引いてくれしい。もちろんそれにも一所懸命取り組んだのですが、それだけでは物足りない。


行政は、大変ズルイ

 その頃、宇都宮市には自然保護運動というものや団体さえもなかったわけですが、そんな中に貴重なトンボと蝶の生息地があり、これを議会に取り上げた所、すぐさま宇都宮市の天然記念物の指定を受けた。
 これはおもしろい、こういう分野には多くの議員は手をつけていないということで、病み付きになりました。
 宇都宮市に新しい市庁舎が出来た時に、そこで音楽会をしたならば、もっと美術関係とか文化関係の費用が生きるのではないかと提案して、実施されているのが、先月で82回を数える、「市民ホールふれあいコンサート」です。これも提案から半年ぐらいで、市の方で取り上げてもらいました。ただ、行政というのは、大変ズルイわけでございまして、私は「シティホール・コンサート」ということで提案しました。しかし、それが実施にあたっては、そこにふれあいという言葉がつきました。
 議員の提案というのは、そのまま活かさないのが行政だというふうに思いました。
 それから、道路に愛称つけようと提案しました。
 行政の分化化ということを考えますと、先程のシティホールコンサートは、市の庁舎ですから、そこを管理する管財課が主催すれば正に、行政の分化化でありましたが、管財課はなるべくそういうことをやってもらいたくない。これは、教育委員会の文化課ではないかということで、文化課に押し付けております。逆に、道路愛称は、道路の維持管理をする道路維持課で、今までは道路を設計したり、維持管理をしていた職員が、道路に愛称をつけるという仕事をやりました。道路の歴史を調べ、住民の要望を取り入れながら、道作り一本できた技術屋さんが、文化に触れた。ということで、これこそ行政の分化化ではないのか。この二つの同じような事柄でも、行政の取り組み方には違いがあったと思います。


民百姓は分からない方が 都合が良い

 それから議会用語に非常に難しい言葉が使われていた。文語調であり、二重三重のくどい言い回しが使われている。 
 言葉というものが法律用語や行政用語などにしろ、一般市民には分からない方がいいという明治時代からの名残が、まだ今日の私たちの周辺にもある。明治時代には一部のエリートだけが分かっていれば、いわゆる民百姓は分からない方が都合が良かったのかもしれない。ですが現在の一般市民は学歴も高くなり、情報量も多くもっている、そういう市民の前で、一部の人しか分からない言葉を使うということがいかに問題であるかということを感じることが出来ました。
 文化とはこういう時代になって、やはり美しさとか感性とか遊び心といったことが求められている時代になって来たのではないか。

 コメンテイターから
 感性とかいう訳の分からないことを言っていては票にならないのではないか。

文化は票になる

 宇都宮市市議会議員
 昨年、文化の町づくり大会が宇都宮で開かれパネラーとして出席しました。そのときキーワードは何かと聞かれ「文化は票になる」とあえていわせて頂きました。
 皆さん驚いていました。文化ばっかりやっていては、一部始終やらなければ票にはなりませんけれども、文化に理解があるというイメージをもっていた方が絶対に有利です。文化が票になるかどうかは、直接はわかりませんけれども、その候補者のイメージとして非常に悪くはないのではないか。

 足利市市議会議員
 議会と、市民側に立った議員、行政とのかかわり、この3つをうまく結んで行くのが理想。
 特に私の住んでいる地域は、足利市の北部にあり、議員になったとたんに北関東自動車道という大きな道路計画が持ち上がっていた。そして、その沿線300ヘクタールの開発をしよう、ということでした。その中で特に考えたのは、沿線開発をすることが文化なのか、地域開発なのか。
 この地域には、道路もありますし、川もあります。そして、そういう中に生活の基盤がある。それがやがて絵にかいたすばらしい開発地域になる。しかし、この地域の人は全く想像していないんですね。それをいかに説得させるか、この地域の皆さんに理解して頂いて、足利の20万都市構想の中にどういう役立てが出来るか、ということを盛んに勉強をさせて頂いた訳であります。
 特に、そのときに気づいたのが、同じ高さの中で、議員は皆さんとの話を政策として打ち出し、議会を通して皆さんの税金の有効利用を図る。これが主たる考えでございます。私もリズム感の中で人生を送ることが、楽しく後世に伝えて行く地域の文化づくりではないかと思っています。

 南河内町議会議員
 文化といいます二つの側面があると思います。一つは伝統的な文化を継承する。もう一つは新しい文化を創造する。
 来年の10月に栃木県で国民文化祭があり、南河内でもシンポジュームが開催されます。そのテーマが「古代の地方文化」。趣旨は、「本来地方は中央からのさまざまな影響を受けて変化しつつも、それぞれ地方独自の文化を創造し後世に伝えて来た。中央と地方が明確に区別され始めた律令時代という原点に立ち、文化、特に仏教文化が東国に及ぼした影響を検証し、これからの地方文化の創造とその未来を考える」ということで、予定しています。
 実際に、薬師寺というのはかなり前に消失して、現存していない。「創業は易すく、守成は難し」つまり作るのは難しくないけれども守って行くのは大変だ。
 実際に伝統的な文化を継承するというのは、非常に難しい側面がある。そこで、私も議員の一人として、そういったことに、どういったかかわりが持てるのかというと、いわば接着剤として機能出来るのではないか。
 いろいろな新しい文化創造があると思います。人材育成、地域間の交流、イメージ作り、イベントの開催、地場産業の育成いろいろあると思う。そういった中で二点ほど重要なことがある。住民参加をいかに促すのか。新しいことを始めるときには必ず批判とか困難にぶつかる。そ
れをいかに乗り越えて行くか。 一点目の住民参加をいかに促すか。住民の文化活動あるいは
地域おこし、あるいは地域間の交流にもっと参加出来るようにする。これもジョイントといいますか接着剤とし機能出来るのではないか。
 また、批判や困難、こういったものは、新しいことを始める前には必ずつきまとうことです。 私は、議員として政策提言をしている方だと思う。ただ、そう言った場合に、非常に高い評価を頂く反面、批判とか反対とか困難にぶつかる場合が非常に多いんですね。
 例え話なんですが、ある町の真ん中に川が流れ、その川に一本だけ橋を架けることが出来る予算が付いた。さて、どこに橋を架けようか。真ん中を取って中流あたりに架けると、上流と下流の住民が、反対する。
 では、上から順々に作っていったらどうだろうか。それでも、やっぱり真ん中や下流の人達が反対する。
 その時に、どこからも批判や反対や困難が出て来ないようにする唯一の方法がある。それはどこにも橋を架けなければ、どこからも批判も反対も不満も出て来ない。そういう例え話があります。
 しかし、果たしてそれで地域おこしや文化の創造という事が出来るのかどうか。やはり議員という立場で伸べさせて頂ければ反対や批判や不満があってもそれが全体の利益になるならば、あえてそれを、やり通すべきではないか。というふうに感じております。

心の糧になるものが文化

 コーディネイター
 今日は文化の見える地方議員が大いに語るということですが、文化という言葉そのものが、どうも我々もきちんと意識していないような気がします。それぞれの皆様も文化という事についてはこだわりをもっておられるのではないかと思いますので、一言づつお願いいたします。

 栃木市市議会議員
 心の糧になるものが文化ではないか。心の糧を求めて表現するものが文化ではないか。別の言葉で言えば、もっと人間的な事と言ってもいいと思います。例えば町づくりでの文化の視点では、市民自治とか、縦割行政を克服する相互間の視点、あるいは個性化の視点、経済効率に対抗する人間的心の視点、変革、そういうものを総合したものが、文化の視点かなと思います。

 宇都宮市市議会議員 「衣食足りて礼節を知る」という諺がありますが、今の日本人は「衣食が足り過ぎて礼節を忘れている」。私たちがある程度、経済的にも世界で最も豊かな国と言われてくると、やはり賢く楽しく豊かに生きようという願いが出てくる。それを満たすものが、文化ではないかと思います。

 文化の町づくりという観点からいえば、かつては市町村行政の市民に対する最大のサービスは、道路を舗装することであり、水道を引いたり下水道を完備すること、あるいは学校作ることだった。けれども現在は、それらがほとんど整って、これからは、公民館、美術館を建てたり、大型の商業施設を作るという一歩進んだ物に目標が変わって来ている。基礎的な都市機能から、次元の高い本質的な都市機能に変わってくるのが文化的な町づくりだと思います。それは使う人によって、どうにでもなるという事でありますから、これからはソフト面での重要性が出てくると思います。
 もう少しお互いに豊かに生きよう、ということを手助けするのが、文化行政の在り方ではないか。

 足利市市議会議員
 私は文化は「人と人の出会い」だと思う。人と人の出会いをまず中心に考えて、その中で一つのことが起きる、ということは同一の夢やロマンをお互いに大いに語り合いながら、いかに次の時代に繋げていける説得力があるか。それが私の基本です。 一般的に市街地には下水道が完備されていても、地域の文化を継承している山間地域には下水の処理施設が無い。これからの夢とロマンを語ろうとしているときに、そういうものが不均衡である。それもやはり是正しなければいけない。私もそういう環境に住んでいるが、単純に言ってそういう一つの政策の展開を行うと同時に地域の皆様と一緒に守る文化と、新しい文化との密着は市民と一体となった    動きが一番いい。
 地域には素晴らしいものがある。私は「温故知新」ということを大きな看板として掲げています。地域はお年寄りを大切にし、それと同時に新しいものも知ってほしい。これは個人の宣伝のようになってしまうのですが、そういう地域づくりをしよう思っています。

 南河内町議会議員

今、普通文化と言いますと、どうしても中央から発信されるテレビや雑誌とか、あるいは新聞とかいうマスメディアによる画一化された〃文化〃というのがすぐ浮かぶのですが、例えば昨日、金日成主席が亡くなったということは、昨日のうちにほとんどの日本人が知っている。ですから、昔と違って、そういった文化とか情報というのが日本は画一化して即座に駆け巡る。
 一方で、日本人全体の文化に対する関心とか、その平均化、質を高めるということでは、役に立っていると思うんですけれども、何か日本人が同じような価値観での文化を共有している。例えば大体どこの町に行っても駅前は同じ造りですし、町並みもそれほど遜色が無い。ですから、そういった一方的に中央から発信される画一的な文化だけでは無くて、それぞれの町や市や地域で、それぞれの地域にあった文化を創造して行く、あるいは作り出して行く。ということが大切ではないかと思っています。

 コーディネイター
 文化ということで今お聞きしたのですが、最終的には皆さんおっしゃっていることは同じかなと思います。その過程としてはニアンスの違いがあるのかなと思います。
 皆さんのお話をお聞きしていますと、住民の生活そのものの中からそれぞれの文化が築き上げられる、というような気がします。そういうレベルの中で、文化を考えたときに、それでは町づくりの本質とはどういうものか、と言うことになるかと思います。そういうことを踏まえて、今やられてることが本当に文化的な町づくりなのかどうか、その辺りをお話願います。

官民一体となってやる

 栃木市市議会議員
 蔵の町音楽祭がつづいている要因の一つは栃木市の中に文化活動を担う活動家の蓄積、ストックがあった。蔵の町という個性的で歴史的な町であった。それから、相談相手として非常に、専門家に恵まれていた。例えば、オリジナル楽器を個人で演奏したリーダーたち、楽器の製作者、音楽評論家、専門家という人達と、身近に拘わりが持てた。
 しかし、ここで一番強調したいのは、これを官民一体でやったということです。
 実行委員会の主役はまさに市民の側であり、文化会館が事務局で、館長が事務局長という立場です。よく「行政は町づくりの事務局」であるべきだという話があるわけですが、まさにその通りにこの音楽祭が続いている。

 コーディネイター
 町づくり運動の中では、共同の関係が大切なんだ、共に働くそれが非常に大切だといいます。そうすれば市民一人一人が主役になる、といったニアンスなんでしょうか。

 栃木市市議会議員
 個人の役割と行政の役割というものは違うと思いますね。いろいろ発想して、変えていくというのは市民のかたがたが得意な訳ですが、それを持続的にあるいは市全体の中でどういうようにしていくかということは、行政の方が得意だという感じがします。そういうことで、お互いに対等な立場で、物を言いながら一つのことをともにまとめていく。協力して共に働くということがあると思います。
 地域で活動するにあたって、行政の役割とか、住民の役割とかを分かち合うということが、官民一体の力だと感知しております。

 コーディネイター
 地域の中でいろいろな活動をされていると思いますが、そういったところでの町づくりの視点といったものは、いかがでしょうか。

 宇都宮市市議会議員
 生活基盤がある程度整って、文化的な要求が増えて来たということは、国際化の進展、もう一つは女性の社会進出と言うことが言えるのではないかと思います。もちろん情報化時代ですから、先程言いましたように世界中のあらゆる情報が即座に入る。国際化が進んで、外国人とひざを交えて接することによって、生活文化がどうなのかということを見直すきっかけともなって来た。また、男性に比べて女性の方が感性がより豊かですし、文化関係の、簡単に言えば催し物などに参加する機会、熱意というものもだいぶ高い訳であります。
 その町の文化の集積が高くなれば高くなるほど、企業誘致も有利になり、町の発展のためにも文化の集積がこれからも欠かせない。以前から、都市間の競争ということが言われております。福祉での競争はいろいろな問題が伴いますが、文化の競争においては、それによって町が発展していく時代が必ずくるだろう。
 今は文化の集積をいかに積み上げていくかという事が町づくりの上で重要ではないかと思っています。


こならの森 75号

2008-04-18 | 創刊~100号
       ■こならの森75号■1994.7発行

C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム………………3
その他の情報…屋台村……4
結婚しました…猪熊さん………5
知らんの5つの市…………………6
「ロッキンオンこなら」……………7
ポラーノ村構想………8-11p
インタビュー・………12-15p
協賛店マップ…………………………16-17p
JC・JOURNAL………………18-19p
ミステリータウン…20-21p
インフォメーション94………………22-25p
海棠市子の辛口 映画評……………26p
書評・絵本紹介………………………27p
現代国語………28p
杜 @皇が占う今月の運勢…………29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

ミステリータウン

 ドアの向こう側、つまりアウトドア。当たり前だが、今回は今ブームのOUTDOORを検証しようというのではない。もちろんこの企画のミステリーはアウトドア(野外)にある事が多いのだが………。
 (ミステリーにふさわしい?)ある茶房の白髪の店主との会話の中で「日本人の考え方には、ドアの向こう側イコール開かれた世界という観念があるが、もしかしたらそれは飢餓の世界かも知れない。日本人はそのもの居場所、どこにいるのかという事が分かっていないのではないのか」といわれ、はっと思いつき、ドアのその向こう側へとすすんでみたのが今回の企画。ただ、何故かは知らないが精彩を欠きその真髄にまで踏み込めなかったのは非常に残念なことだった。
 それはともかく、この町は古くからの歴史があり、市内にはあちこちに、城跡や城郭跡などの遺構が残されているが、ここもその一つだと言う。史料によれば掘り跡もあるという。これは、もしかしてと前々から思っ
ていたのだが、予想に反して思ったようなミステリーを発見できなかった。確かに小さな堀があったが、ドブの臭いがそれ以上先に進ませない。ただ幸いなのが、アジサイがきれいに咲く写真のような一角に出くわしたということだろう(実はここは城跡の一部であった所)。今回の場合、ドアの向こう側というのは『梅雨明け』の事だったのだろう。しかし、こんな様子(大スランプ)では当分〃梅雨〃は明けそうにない。



こならの森 74号

2008-04-18 | 創刊~100号

       ■こならの森74号■1994.7発行

C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森7月号■

おぞねとしこのポエム………………3
知らんの5つの市………………… 4
結婚しました…猪熊さん………  5
ドライブガイド………      6-11p
若き芸術家の世界………     12-15p
協賛店マップ…………………………16-17p
ミステリータウン       …18-19
JC・JOURNAL………………20-21p
インフォメーション94………………22-25p
海棠市子の辛口 映画評…………… 26
書評・絵本紹介………………………27
「ロッキンオンこなら」……………28
杜 @皇が占う今月の運勢 …………29
新・こならの森から…………………30

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【本文抜粋記事】


ドライブガイド
●名無村(ななむら)。
 地図を見ていて偶然この名前を見つけた。今回の目的地は、藤岡市の「火と土の里」だったが、「名無村」という名前は観光名所以上に、郷愁を誘った。何がある訳ではないのだろうに…。 長野県に「鬼無里(きなさ)」という名前の村がある。以前、その名前に引かれて行ってみたいと思ったことがあったが、そう思った時には都合で行けなかった。それからしばらくして、やっと行けるようになったのだけれど、見つけたときの最初の感動があまりに大きかったためだろうか、(その感動が冷めないうちに行っていればまた違っていたのかもしれない)がっかりまではいかなかったが、失望したことを覚えている。今回はどうだろう。


 佐野を出発して、藤岡市の土と火の里、名無村、甘楽町というのはちょっと、日帰りコースとしては無理かと最初考えた。しかし、思ったよりも近かったのはうれしい発見。11時半頃に佐野を出発したのに、昼食休憩を挟んでも二時間ほどで土と火の里に到着することができた。
 ただ残念なことには、サービス精神と商売っ化がないということ。これは過剰だといやになるが、こうも何もないのも拍子抜けさせられつらい。観光地、行楽地と思って来たが、たんなる生涯学習センターのごときもの、といえないこともない。ともあれ、陶芸なり、ガラス細工なり、なにかやってみよう、体験しようと思っている人にとっては好都合のところのようだ(工芸〃体験〃公園というのだから当たり前。設備も充実しているし、講師陣もそれなりに揃っているようです。)遠くから人を呼ぶ施設というより、地元の人向けというところだろうか。

 目的地までは、標識もしっかりしていて迷うことはなかったが(土と火の里の直接の案内板はあまりないのでご用心)、思ったより藤岡市内からは遠かった。それもそのはず、地形的に言えば田沼町か葛生町を横に寝せたような感じで、藤岡市街からの距離は、田沼市街から蓬山ログビレッジくらいの感じだ(実際にはもっと近い距離)。
 道も狭く曲がりくねっていた。そして、まだまだ先だろうと思っていたその矢先に、突然現れる。ここまでの距離は約100キロほど。
 これか25キロほどの山道が大変な道程となった。道なりに走ったつもりなのに道を間違えてしまう。分かりにくいので注意が必要だ。名無村へ行く予定がない人は、土と火の里で引き返した方がいいだろう。
 ただ名無村もさることながら、峠を越えてから少し行って見えてくる、段々畑と山の中腹まで続く民家の風景は絶景なので、これを見るためにだけも行ってみてほしい。
 またここは、こいのぼりの里とも言われており、季節になると谷間をたくさんのこいのぼりが埋めつくす。これも見ごたえがある。
 しかし道が狭く、交通量は少ないが対向車が来るとすれ違えなくなる所もある。
 甘楽町へは、軽井沢や長野方面へ向かう時の裏道のともなっており、利用した事がある人もいると思うが、なかなか奥が深い観光地でもある。今回は時間的に長い間の散策は無理だったが、また機会があればゆっくりと紹介して見たい城下町だ。小さな大物といった場所。名水百選百選に選ばれている水の流れもすてきだし、今に残る城下の町並みは圧巻。
 ここから国道50号へ抜けて帰ろうと計画したが、これが間違いの元。渋滞へと巻き込まれてしまい、前橋を過ぎるまでにだいぶ時間を取られた。この道はやめたほうが良いようだ。事実、甘楽から直接元来た藤岡市街まで向かった方が、30キロ近くも距離を短縮できる。佐野のに着いたこ頃はもうすっかり日が暮れていた。

《今回の全走行距離224キロ》(佐野一甘楽町一藤岡市一国道354号一佐野コースの場合約195キロ)
佐野一藤岡市76キロ
佐野一土と火の里90キロ
佐野一甘楽町113キロ@展示室


こならの森 73号

2008-04-18 | 創刊~100号
■こならの森73号■1994.4発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■
おぞねとしこのポエム………………3
今月の 浅生さん/新鮮ニュース………4
結婚しました…………………………5
知らんの5つの市…………………6
「ロッキンオンこなら」……………7
ミステリータウン…8-13p
12-13p「情け 8」
JC・JOURNAL………………14-15p
協賛店マップ…………………………16-17p
栃木蔵の町………18-19p
インフォメーション94………………20-25p
     現代国語辞典……………20-21p
海棠市子の辛口 映画評……………26
書評・絵本紹介………………………27
「こならの森流・マスメディア論」28
杜 @皇が占う今月の運勢…………29
新・こならの森から…………………30

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【本文抜粋記事】


「こならの森流・マスメディア論」
 前回に述べたように、戦後間もなくの頃は、国民の経済の落差により、知識欲及び学力にもかなりの落差があった。メディアの方から、無差別に与える術しかなかったのだ。しかし、すべての人間が一定の水準に達し、さらに情報に専門性が求められるようになった今、受け手側が情報の種類を自由に選択できるシステムを作る事が、現代の〃平等〃の真意である。その意味でもやはり、受け手の方から、必要な時にメディアに出向き、情報を入手するというのは得策である。
 では、具体的に予想されるマスメディアの形態を掲げてみよう。
 まず、受け手の数は五万人から十万人が良い市場(しじょう)である。それ以上では供給が薄くなり、新聞・テレビ・雑誌と同じ落ち度が発生する。それ以下では運営が難しいし、マスの意味が成り立たない。またメディア間の極端な競争は情報の真実性を損なう恐れがある。社名は…、例えば「こならマスコミュニケーションメディアシステム」。東京に本社が、筑波に研究所がある。ここは佐野駅前分所。所長は、三年前まである大学の教授職についていて、「個人が作る社会情勢と、個人が受ける社会情勢による影響」という講義を得意としていた。本社に能力を見込まれたのと、本人が仕事に魅力を感じたので、職を退きメディアになった。佐野分所は、三階建ての小さなビルで、定員五十名程の教室のような部屋が二つ、一般家庭にあるような、応接セットのソファーがある部屋が三つ。そして、どこかの医院の診察室のような部屋がひとつあり、一階は事務所になっている。メディアが六人、それぞれが一つずつ部屋を担当して、料金により、大部屋の質問形式と、小人数制のディスカッション形式と、マントゥマンのカウンセリング形式が選べる。
 所長談「十人十色と言うが、情報の需要は人によって実に様々だ。政治情報、教育情報、医学情報、経済情報、芸能情報…。かなり専門的なところまで要求される。ある、元警察官は、定年後興味を抱いた、犯行動機のあいまいな一つの事件を七年間、無実の罪で逮捕、留置された人が釈放されるまでの情報を追い続けたという。新聞・雑誌・テレビが、ニュースとして取り上げたのは、長くて事件発生後半年と解決の時だけである。また、当社のメディアシステムを使うのは興味目的の他に、生活に役立てる為のデータとして、という人もいる。こまめに利用して時代の流れを読み、ヒット商品を作ることに成功し、大会社を築いた人などは良い例だ。このような好循環があると、自分がメディアになったことに喜びを感じる。」
 今年は、テレビ電話の普及に伴い、こならマスコミュニケーションメディアシステムでは、会員制の情報提供を開始する。だが、そうなると、テレビ電話その物がメディアになる懸念も残される。
 *参考企業 英会話NOVA 帝国データバンク APP通信
 こならの森流現代マスメディア論では、「こならマスコミュニケーションメディアシステム佐野駅前分所」が、あらゆる緻密なデータの基に、十年後には現実のものとなると予測するが、来年のことを話すと鬼も笑うそうだから、けして、あてにしてはならない。
 初夏から真夏へ移るこの季節の、日ざしと風を形にしたようなカクテルを2種類ご紹介します。
 他の鳥の鳴き声をマネるメキシコの鳥、モッキンバードから名を取った「モッキンバ―ド」。メキシコ産だけあって、べースとなるのは竜舌蘭を原料とした蒸留酒テキーラです。テキーラ2・ペパーミント1・ライムジュース1をシェイクし、カクテルグラスに注ぎます。ペパーミントの新緑のような風味と色合いか独特の爽やかなカクテルです。
 「ミモザ」はフランスの上流階級で古くから愛されてきた、黄色い小花のように明るくかわいらしいカクテルです。グラスにオレンジジュース(できれば搾りたて)を1/3入れ、残りの2/3を冷えたシャンパン(お好みですが、辛口のほうがすっきりとして、オレンジ自体の甘みを楽しめます)で満たします。どちらも女性にも飲みやすいカクテルですので、お連れの方にお薦めしてみてはいかがでしょうか。


こならの森 72号

2008-04-18 | 創刊~100号

■こならの森72号■1994.4発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■
おぞねとしこのポエム………………3
結婚しました…………………………4
見知らんの5つの市…………………5
インタビュー・国分潔さん ………6
ミステリータウン       …12
協賛店マップ…………………………16
JC・JOURNAL………………18
インフォメーション94………………20
こならの森4月の情報………………22
海棠市子の辛口 映画評 ……………24
書評・絵本紹介………………………25
カクテル・ミニガイド      …26
「ロッキンオンこなら」……………27
「こならの森流・マスメディア論」28
杜 @皇が占う今月の運勢 …………29
新・こならの森から…………………30

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【本文抜粋記事】


インタビュー
国分潔さん

@写真集を出版したきっかけは………
カタクリをどう考えているかということがはじめにあると思います。どうして話題になるの
か。…それは昔からの自然風景、原風景がそっくり残っていてカタクリが咲いているから。日本古来の自然がそっくり残っているのが三毳山です。たかだか二四〇ヘクタールの山なんですが、幸いゴルフ場もできなかったし、多少土砂が取られていますが特別な開発もなく、極端ないいかたをしますと万葉時代からの光景がそっくり残っている。それを大事にしたいというのがそもそもの発端です。普通の山は植林されていますね。でも三毳山は薪炭林です。雑木林の里山なんですね。この辺の人達が薪を取り、まだ炭焼きの跡がたくさんありますが、炭を焼いた。農家の生活と、農業生産に直結した山が里山です。そのため毎年、自分の生活のために下草を刈ってきた。また草を刈ってそれを牛や馬に踏ませて、堆肥にした。木の葉をさらってそれを田圃に入れた。ですから山をきれいにするためではなく、結果として山がきれいになっていた。
そういう山だった。
それから、一五年から二〇年ごとに雑木を切って、薪とした。そういう風景が日本の原風景だった。
そうやって人が山に手を入れることによってカタクリも残って来たんです。カタクリが一番嫌うのは、こんな小さなものですから、手入れがなく荒れて辺りがぼさぼさになってしまうことです。ですから人が入らないようになると、カタクリも絶えてしまう。
そういう「原風景」を残したい、という願いが大きいですね。ですから写真集には、副題として「いつまでも残したい自然の宝庫」とつけているんです。
ほとんど今の日本人はそんな事は忘れている。ですが身近なところに、昔から日本にあった自然が残っていて、すばらしい花がさいている。これは生活文化遺産でもある。もう一度見直してみて欲しい。
カタクリは大体が雪国のものなんですが、太平洋側にもある。太平洋側は里山に多い。というのは、きれいにしているからなんですね。雪国に多いというのは、雪が溶けた後はローラーで押したようになっていますから競争するような植物がない。傾斜地などでは、雪がきれいにする。そういうところにカタクリが生える。
@撮った写真の点数は………
そうですね、一五〇種くらいですか。
@三毳山全体では何種類くらいあるのですか。
全体では五〇〇種類といっていいですね。植物学的に価値があるものもありますが、やはり、きれいな花で訴えるのが一番効率がいい。「そんないい花があるのか」という花を紹介した方がいいんです。そいう意味できれいな花を中心に紹介しています。花は二〇〇種とみていいと思いますね。
@山全体を歩かれたわけですか。 そうです。自分の庭のようですね。二四〇ヘクタールですが、かなり広いですよ。まだまだ、見逃しているものがたくさんあります。
@写真撮影は大変だったのですか。
どんなに暗くても、どんなに雨が降っていてもそのときでないと撮れないというものがあります。きれいな花だけを撮っていくのではなくて、花が咲くものは全部撮っていこうというのですから大変でした。自然にあるものを直に記録していくということですから、雨のときにもぶつかる。
@珍しいものというのはどういったものですか。
カタクリは珍しいですよね。それから、アズマイチゲ、イチリンソウ、ニリンソウ、ヤマトリカブトなどです。
@低い山なのに種類が豊富であると聞いたのですが。
低い山だからというよりも昔からあったものが残っていた、珍しいものがあるのではなくて、「今でも残っている」そう表現した方がいいと思いますね。
@気に入っている好きな場所などは………
カタクリはここだけではなくて、三毳山には四カ所ありますが、この北斜面が一番いいのではないのでしょうか。入場者も初は二、三万人くらいでした。それが今は一二、三万人くらい来ますね。
今年は寒かったせいもあってカタクリの開花も遅れているんですね。見ごろは三月の二五日頃から、四月三日くらいです。例年三月二五日以降です。二七日の日曜日から次の日曜日まで、それが一番いいのではないでしょうか。
@白いカタクリもあるそうですね。
数万本にひとつくらいの確率で咲きます。カタクリはだいたい百万本あるといわれています。正確には、百万本花が咲くということです。株だとどのくらいになるか。
@一年おきに花をつけるそうですが。
そういわれていますが、定説ではないですね。一年毎に咲くものもある、二、三年続けて咲いて休むものもあります。不規則なんですね。人によっては、だいたい一年毎に咲いていると見ている人もいますし、そうじゃない見方もあります。
@本数は少しずつ増えているわけですか。
そうですね。種子で増えて行く訳です。しかも自家受粉でなく、昆虫などによる他家受粉なんですね。種が落ちでそれが花を咲かせるまでに七年から、八年かかる。
@寿命は何年ですか。
一五年から二〇年くらいですが、はっきりした学説はないようですね。
@あまり研究されていない。
そうですね、カタクリの研究などでは飯が食えませんでしたからね。これからは分かりませんけれども………。
@写真集を作るにあたって、写真家からのアドバイスを受けたということですね。
こう撮ったらいい、ああ撮ったらという指導を受けました。また一緒に写真を撮りにも行きました。そして、いろいろ指導
しますから、写真集を出しませんか。という事だった。下手くそな写真集をだしたってだれも見向きもしないからといったのですが………。
@思い立ってから出版までどのくらいかかったのですか。
去年の一月頃からですね。それから撮り直そうということでした。
@写真歴はどのくらいですか。 写真は四〇年やっていますが、植物写真は五、六年ですね。
@一番苦労したことはなんですか。
やはり自分の腕の未熟ということですよ(笑)。全部自然光で撮りましたが、なかなか思ったような写真が撮れない。咲く時期、咲く時期をねらって撮りますから、天候などは選んでいられません。一シーズンで一〇〇種類以上を撮るというのはやはり大変ですよ。そればかりやっている訳には行きませんからね。 今日撮らないといけない、しかし天候が悪い。明日には台風が来るから無くなってしまうかもしれない。写真家がいい写真を撮るのとは違って、ここにある植物を、(全部はとても撮れませんけれども)撮れるものはどうしても撮りたい。ですから条件は厳しくなる。必ずしもいい写真ばかりではない。それで苦労したんですね。だめかもしれないけれども、もう一回あたりを探してみよう、そして「ああいいものがあった」といって写真を撮るわけですね。この三毳山に咲く花をなるべく多く収録したい、というのが一番つらいですよね。追われるということですね。向こうは待ってくれませんからね。
一応写真になったものが並んでいるだけで、写真にならないものもたくさんありました。自分で気にいってないものですが、その植物に対しては申しわけないですね。
@写真集の反響は………
植物に関しては、興味のある人とそうでない人とありますからね。でも本当に興味があってここに訪れてくる人もいます。観光地に観光客として花を見にやってくる人は、植物の関心と同じで自然を大切にしたいということは全然考えていません。だから、接触できる人にはここの自然の話をしています。「里山として、きれいにしてきたから、昔からの自然がそっくり残っている、だからカタクリも残っているんです。」ということ話します。
カタクリで特に大事なことは、関東地区のものは北東方面の斜面に生えるということ。星野もそうです。春咲く花ですから、暖かい南側にと思うのですがそうではない。
そして土は粘土質なんです。だいたいどこへ行ってもそうですね。ということは、カタクリは乾くことを非常に嫌う植物なんです。乾燥を嫌うから北側で水があるところに咲いている。そしていくらか石灰岩質、アルカリを好むようですね。 カタクリの話だけをしていたら五時間や六時間では終わりませんね。
@今後は、県南大規模公園もできますね。
もう工事をやっています。南側の方ですね、ここは北の端ですから。
@ここではカタクリだけではなくて一年を通して野草が楽しめるということですね。
カタクリの後は、イチリンソウ、ニリンソウが咲いていきます。今年は早いかも知れませんね。夏は薮蚊がいたりして大変でから、もっと涼しいところへいった方が楽しい(笑)。だけど、その時期その時期にも花が咲いている。よそが咲かない春の頃の花が一番いいのではないでしょうか。尾瀬とかそういった所は六月になってからですからね。ですが身近な所でもあるという事でここでは紹介しています。
カタクリは一年のうちの十カ月の間は土の中で休眠している。地上に出てくるのは三月、四月です。今はお日様が出ますが、雑木の葉が茂って来ればお日様が当たらなくなって、でんぷんが作れませんから、姿を消してしまう。自分の一年間の仕事を春の短い間に終えてしまうんです。それで『春の儚い命』と通称いっている。そういうふうにカタクリを見ていくと、また可憐さが浮かび上がって来ます。
朝は花が開かないで、日中だんだん温度が高くなっていくと全開して反っくり返る。夕方になるとまた元に戻る、そういうことを一週間くらいやっています。雨の日は開きません。ですから、カタクリを見に来て、どこのカタクリは大きかった、どこどこのは小さかったというのですが、それは何時頃みたのかと聞くんです。午後三時頃見たら小さく見える。ですから時間によってはなんとも言えません。
@ホタルブクロ、リンドウなどもあるわけですね。
非常に少ないです。秋になってヤマトリカブトが咲くとこの里の花も最後なんですね。
@のうさぎなどの小動物も生息しているのですか。 のうさぎはいます。それから、イタチがいる、雪の中に残っている足跡の形からたぬきもいるようです。きつねはちょ
っと確認できていません。
@オオタカも生息していると聞きましたが。
今年は確認していませんが、オオタカもいますよ。飛び回りますからね。もうオオタカの大きな巣ができているかもしれません。三毳山にひとつあるかないかですけどね。
@ワンセットの自然がそっくり揃っているということですか。 オオタカがいるということは、それ以外の食物連鎖がある。ピラミット形式の自然があるということで、非常に貴重なんです。ですから口先だけで、自然自然といっていますが、「では一体自然というのはなんなんですか」と問いたくなるわけですよ。 年間二〇〇日以上は出掛けています。近くでは渡良瀬遊水池にもいきます。写真を撮るというよりも観察しているんです。
三毳山にはたくさんの溜め池がある、降った雨がゆっくりと下に流れて来てそこに水をためてかんがい用水とした、この山全体が貯水場でもあり重要な山でもある。それから神社があり、信仰の対象でもある。そのように山というのはその付近の人の生活と深いかかわりがあります。「三毳山なんて」あるいは「あんな山」といいますけれども、そういうわけではないんです。
今は化学肥料もあるし山に頼らなくてもすむ。それで、ほったらかしでなんの値打ちもない山となっている。しかし本当は昔の人が大切に育て、これによって生活を支えて来た重要な山だったんです。
私たちはまだそういうことが分かりますが、これからの人達にはそういうことを、だれが教えるんですか。私たちはそういう生活をして来ました。ですが、これからの若い人たちにはだれも教えてくれる人がない。私たちまでは自然とかかわってきましたが、これからは自然とかかわらなくても生きていけるわけですからね。
@どうもありがとうございました。


こならの森 71号

2008-04-18 | 創刊~100号

       ■こならの森71号■1994.3発行

C・o・n・t・e・n・t・s


■こならの森4月号■

@目 次@
おぞねとしこのポエム………………3
結婚しました……………………
見知らんの5つの市…………………5
インタビュー・石川雅之さん………6
ミステリータウン「ぞうのボタン」…10
JC・JOURNAL………………14
協賛店マップ…………………………16
インフォメーション94………………18
お得な情報コーナー…………………20
こならの森3月の情報………………22
海棠市子の辛口 映画評……………24
書評・絵本紹介………………………25
新シリーズ カクテル・ミニガイド…26
「ロッキンオンこなら」……………27
「こならの森流・マスメディア論」28
杜 @皇が占う今月の運勢…………29
新・こならの森から…………………30

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【本文抜粋記事】

インタビュー・石川雅之さん

石川雅之さん 佐野市並木町在住、2月26日から渡英。昨年の暮れイギリスにて音楽プロデューサーに見いだされ、環境音楽アーチストとして年内にイギリスでレコードデビュー予定。
 小学校は佐野、中学は足利、高校は埼玉、音楽教育はロンドンとそれぞれ違った環境の中で育ったという21才。


@そもそものきっかけはなんですか。
 昨年の暮れ、デモテープを持ってイギリスに行ったときに、あるレコード会社の人にそのデモテープが気に入られたんです。それで、なるべく早くイギリスへ帰って来てほしいという状況です。
@それはどんな経過からですか。 始めはデモテープをたくさん持って行って、レコード会社に送ったんですが、ほとんどはゴミ箱行きなんですね。でも、あきらめずに直接レコード会社を回りました。その内の一つに、実は小さなレコード屋さんだったのですが、それを知らないでレコード会社だと思って入って行ったんです。そうしたら店のマスターが(うちは)レコード会社ではないが、レコード会社の人はよく知っているからということで、デモテープを聞かせてくれという、とにかく彼に聞かせてみたら気に入ってくれて、これだったらレコード会社に紹介するよ、ということになったんです。
@すごくラッキーだったんですね。ジャンル的にいうと、何に属するのですか。
 イギリスでは、「アンビィエントミュージック」というんです。日本で環境音楽とかいうと、まじめな音楽という印象がありますが歌謡曲の一環といったものなんですね。普通の若い人達が、今のはやりの曲を聞く感じで聞いています。もともとはダンスミュージックなんです。デスコで踊り疲れた人が、そのあとにそれを聞いてリラックスするというのが始まりです。
 イギリスではムーブメントというか、爆発的な流行で、すごく新しいんです。もともとアンビィエントミュージックというジャンルはあったのですが、それがメジャーな方になってくるというのは今が一番です。
 レコード会社というのは複雑で、そのレコード会社でもいろいろな意見の人がいるわけです。例えば、レコードを出すというときにも、一人に対して何千万もかかるわけです。そうすると、会社の方としてはどうしてもよほどの信用がない限りは見知ぬ人に、それだけのお金を出せないですから、いざ契約しましょうというところまでいくには、何人もの承諾を取らなければいけない。最初に気に入ってくれた人は良かったのですが、他の人が返事をしなかったものですから、結局その話はなくなってしまったのです。ですが、その一番最初に気に入ってくれた人がもともと自分で新しくレコード会社を開くという計画を立てていたそうです。他のレコード会社も回ってみようと思うんですが、最終的にはそこに落ち着くと思います。
 もともとはパソコンに興味があって、音楽にすごく興味があったというわけではないんです。そのうちにコンピューターサウンドというものに興味を持ってきて、それから、だんだんとこういう方向へいったんです。シンセサイザーはコンピューターとなじみが深いですからね。
@音楽をやるにはイギリスあたりが一番いい訳ですか。
 こういうジャンルをやる場合はそうですね。それから、レコード会社の数が違いますし、必ずしも大きな会社からじゃなければだめだという訳ではないんですね。小さい会社でも市場がある。日本ですと、自主製作という形になってしまいますよね。そうすると、お店の方でも置いてくれません。記念に作るということはありますが、商売ということになると大きな会社からでないと無理です。そうすると、自分ではこれでいいと思ってもなかなかデビューまではいかない。
@間口が狭いということですね。 そうです。でも日本の歌謡曲みたいなものをイギリスに持っていったとしても無理です。こういう音楽だから良かったということです。
@好きなアーチストは………。
 坂本竜一が一番好きですね。
@今後のスケジュールは。
 2月の26日にイギリスに渡ります。早ければ、今年中にレコードを出したいと思います。
@それは、イギリスの各レコード店に並ぶわけですね。
 そうですね。ヒットチャートというのがありますが、向こうはメジャー系とマイナー系に別れている。だから、いくらでもデビューする機会があるんです。僕は、マイナー系でデビューしますが、チャートが上がったとしますと今度はメジャー系に移籍ということになります。日本だと、大きなレコード会社から出ても、売れないともうその人は使ってもらえません。一度見放されるともうだめです。イギリスでは、メジャーで失敗しても一段下げて、マイナーで調整してもう一度出直すという人が多いんです。ですから普通の人達も音楽に対する捕らえ方が違うんです。
@ミュージシャンという職業が市民権を得ている。
 日本でミュージシャンというと大きな夢といった職業という感じがありますが、イギリスだと、普通に面接を受けて就職をするという感じでできます。レコードを出さなくてもいいのだったら、パブとかレストランとかいくらでも受け入れる所があります。
@伝統的に音楽人口が多いわけですか。
 国はすごく小さいのですが、やはりビートルズとかローリングストーンズが出ただけのことはあります。昔からビジネスとしての音楽があり、フィールドがあります。ですから、ビジネスとして捉えるならイギリスはより才能を発揮できるところだと言えます。
@住むところはどこですか。
 ロンドンのノッティングヒルというところです。トレンディな町で、日本で言うと渋谷や原宿といったところでしょうか。ミュージシャンがたくさん住んでいるエリアもあります。夏になると、大きな音楽のフェスティバルが二日間通しで開かれたりします。
一昨年ホームスティしていたところが、たまたまその町だったんですね。今回もまた、そこにホームスティします。
@一月いくらくらいなんですか。 日本円にして、二食付きで六万円くらいですね。
@安いんだか、高いんだか分かりませんが。
 日本と比べたら安いでしょうね。ロンドンの中心街まで十分くらいで出られますから。
@ロンドンへ行ってみようというきっかけは何かある訳ですか、友達の紹介とか。
 始めは海外でやりたいなんて思っていなかったんですが、東京に出て生活しているときに、もともと洋楽ばかりしか聞いていませんでしたから、やはり「自分の目で見たい」というのがきっかけになったと思います。 昔から、音楽の仕事をしたいという考えはあったんですが、そんなことは夢の話じゃないかということでずっと押さえていたんですが、高校に通って受験勉強していて、親も大学へいくだろうと考えている訳ですね。でも、やはりどうしてもミュージシャンの夢を捨て切れなくて………。自分の性格から人と同じではいやだということがあったんです。高校は進学校でしたから、みんなは大学へ四年間通って卒業して行く、ですがそれがいやだったんです。
 でも親は大学へ行かせるためにいろいろ世話をしてくれたので、悪いなという思いもあった。その時に、たまたま雑誌を見ていたらロンドンの音楽学校の案内が出ていました。日本の音楽学校というのは初めから考えていませんでした。そこは英語を勉強しながら英語で音楽レッスンをうけるということでした。もともと英語は好きでしたので、もし音楽の方がだめだとしても、英語がマスターできればそれを使った仕事が見つかると言って親を納得させました。
 でも始めは心配でした。もし向こうへ行って、すぐ帰って来てしまうようなことにでもなったら、日本にいて大学へ行った方が良かったと後悔するんじゃないかとかね。でも、向こうは自分にあっていたというか、楽しくのびのびできた。そういう環境があったんでしょう。
 イギリスの人は他人に関与しない。まったく個人主義なんですね。日本だったら、「そんなのやめちゃってまじめに働けよ」なんておせっかいに言いますけれど、向こうだと「ああ、そう」という程度です。
@その学校には日本人は来てましたか。
 けっこう多かったですね。観光交じりで来ている人もいました。でも、親しかった人の中にはもうレコードを出したという人もいます。
 音楽学校の方は、個人レッスンとなりました。レッスンもイギリス人を対象にしたものです。そういう英語ではなします。日本だとプロを引退したような人が先生として教えるという感じですが、そこでは現役のミュージシャンばかりですね。
 日本とだいぶ違う教え方でしたね。日本だと、どうしてもスタイルを重視しますが、むこうでは個性というか、感覚・フィーリングを大事にする教育ですからね。自由に弾かせる。強制するような雰囲気ではなく、もっとのびのびとしている。
@渡英したら結果が出るまでは帰って来ないという感じですか。そうです。レコードを出して初めてスタート地点に立ったという感じです。それからの自分がどう評価されるかですからね。将来は日本の方にまでビジネスを広げたいですね。
@そうしてはたから見た、佐野というのはどういった印象ですか。将来性とか。
 将来性では回りの町にひけを取っていますよね。でもケーブルテレビなどはメディアとしては可能性と応用性があると思いますし、駅前なども直している。僕自身としては、こういう山にかこまれた町の方がリラックスしますね。もし日本に住むとしたらもちろん佐野ですよ。東京よりは、佐野ですよね。
 向こうで何か手ごたえがあれば、なにも向こうにいる必要はないですからね。佐野にいてイギリスへ送ればすむことですからね。
@自然と対話しながら作った方がいいものができる?
 東京にいたときは、どうも落ち着かなかったですね。気持ち的に圧迫感がありました。
@東京と比較してロンドンはどうですか。
 代々木公園のような、本当にここは公園なのかと思えるような公園がいっぱいありました。リスとかがいたりね。向こうの人はかなり自然を大切にしています。
 日本だと、土地は個人の持ち物であって、売り買いしますよね。でも、イギリスは全部ロイヤルファミリーのものという感じで、勝手に土地を買い占めたりできない見たいです。各人の家に庭がない分、みんなのための公園というものがたくさんある。ロンドンのどこにいても家から十分も歩けば大きな公園に行けます。
@曲づくりはいつやるのですか。 ほとんど夜ですね。どうしても日中は他のことが気になってしまう。夜だとシーンとしていますからね。たまにふとメロディーが浮かんだときに、メモをする。あるいは、パソコンに直接入力する。もちろん譜面も書きます。でも、たいがいは直接入力です。今では、譜面を書かない人が多いですね。
@なんだかワープロと作家の関係みたいですね。
 それと同じです。
@そのほうが、イメージが湧き安いわけですか。
 というか、後から編集はしやすい。結局パソコンを使って入力するわけですからね。
 曲は、一つ完成するまでに一、二週間かかります。昨年のデモテープでは六曲作ったわけですが二カ月くらいかかりました。
@イメージというのはふと湧くものですか。
 作ろうと思って作ったときはあまりいいものはできないですね。たとえ人がいいと言ってくれても自分では気に入らないというのがあります。かといってただいるだけで浮かぶものでもない。本を読んでいたりすると、ふとなにか浮かんだりします。
@わりと読書も好きな方なんですか。
 そうですね。テレビはあまり好きじゃないし、後は映画ですね。コマーシャルな映画ではなく、その感想文として曲ができるという感じです。
@向こうではCDが主流なんですか。
 まだまだレコードが健在で、CDと半々くらいです。少しずつCDになりつつありますけれど、デスコのDJが使うのはやはりレコードですからね。
 僕がやっているようなものはスタジオを使わないとできないというようなものではない。ジャズとかクラッシュックといった、生のものだとステージにしないとお客さんは楽しめないですけれど、僕がやっているものは映像だとかビデオと一緒にやるものですからね。
@これを聞く年齢層はどういった人達ですか。
 幅は広いですね。小学生から聞きます。でも大半は大学生くらいの踊りに行きたい年齢の人たちですね。
@日本の歌謡曲のようなものは、イギリスにはあるのですか。
 ありますけれども日本ほどは大きくないですね。日本は歌謡曲と演歌という大きな柱があるでしょう。ところがむこうは完全に細分化されています。そしてそれぞれのジャンルが同じくらい支持を得ている。クラッシュック、ジャズ、ブルース、クラブ系のダンスミュージックとあり、どれをやっているから優れているとか、どれがだめとかということではない。
@生活の中に音楽が入って来ているという感じですか。
 完全にそうですね。生活の一部的です。日本ですと、レストランに入っても居酒屋に入っても音楽はかかっていますが、イギリスのパブでは生もあり、その店それぞれの個性がでています。ブルースならブルースを専門にしているパブもあるわけです。それもビール一本頼めば、後は何時間いようとおかまいなしなんです。日本だとそういうところは高いですよね。音楽の質というか、楽しみ方が違う。音楽は必需品というか、生活そ
のもの。まるで、日本人が仕事から帰って来てテレビをみる、あるいはドライブにいくとか、スキーだとか、カラオケボックス、そういう感覚で音楽を聴いている。ゴルフに行く代わりにレストランに行って音楽を聞く、というような楽しみ方をするんです。逆に言えば日本の人達のように、金をかける楽しみ方よりももっと気軽にお金のかからない楽しみ方をしている。それで、十分満足できればいい。
@どうもありがとうございました。